最新の追加
常陸国・鹿島城(吉岡城)
■城の種別
平山城
■築城者
鹿島政幹
■築城年
養和元年(1181年)
■主な遺構
土塁
鹿島城址記念碑
鹿島神宮駅から線路沿いに西に進むと、すぐに51号線に突き当たる。途中にJリーグ鹿島アントラーズのエンブレムをデザインしたマンホールがある。「アントラー」とは鹿の枝角のことで、鹿島神宮の鹿に因んでいる。左折してすぐの交差点を右折して西へ進む。すぐの突き当りに鹿島城山公園入口がある。案内標識などは設置されていない。道なりに進み、コンクリート丸太の階段を登る。登り切ったところに、休憩所 / 門 がある。車道を右折すると、本丸跡に案内板がある。
[交通]JR鹿島線 / 鹿島臨海鉄道・鹿島神宮駅-(徒歩5分)-鹿島城山公園入口
鹿島市マンホール
養和元年(1181年)鹿島政幹によって築城されたと云われている。以降、鹿島氏の居城となった。鹿島氏は常陸平氏・大掾氏の一族で、鹿島惣大行事職を世襲した。鹿島惣大行事職とは、鹿島神宮の神領内の治安と仕置を執行する社家のこと。
天正19年(1591年)佐竹義宣は、鹿島郡 / 行方郡 の常陸大掾氏一族を中心とする「南方三十三館」と称された諸侯を太田城に招き謀殺する。鹿島晴房も謀殺され、鹿島城は兵を差し向けられ落城する。佐竹義宣は鹿島城に陣屋を置いたと云われている。
慶長7年(1602年)佐竹義宣が出羽国秋田に転封になる。旧家臣は幕府に嘆願、下総国に落ち延びていた子孫は鹿島惣大行事職として存続することになった。
鹿島城山公園門 鹿島城本丸跡眺望
鹿島城は鹿島神宮の西側に位置、本丸跡は鹿島城山公園になっている。広大な本丸跡の周囲に低い土塁が巡っており、遊歩道になっている。二の丸跡は本丸跡の南側に位置、茨城県立鹿島高等学校がある。さらに南側の51号線と18号線が交差するあたりに、鹿島城の大手門があったと云われている。鹿島城の東端は、現在の鹿島神宮二の鳥居の辺りまであったと云われている。鹿島神宮の表参道である大町通りは往時の鹿島城内であり、流鏑馬が行なわれていた。鹿島城には三重の水掘があったと言われているが、江戸時代に埋められた。
鹿島城本丸跡
常陸国・太田城(佐竹城 / 舞鶴城 / 青龍城)
■城の種別
平山城
■築城者
藤原通延
■築城年
天仁2年(1109年)
■主な遺構
土塁
本郭土塁
常陸太田駅前交差点から293号線を北西へ進む。すぐの山下町交差点から右方向へ直進すると、すぐ右手に平安時代創建の梅龍院が始まりの梅照院がある。明和4年(1767年)現地に移転した。天保14年(1843年)廃寺となり、天満宮は若宮八幡宮に移された。梅照院は明治時代に入り再興された。
梅照院
若宮八幡宮 天満宮 御神木のケヤキ
梅照院から5分ほどの分岐を左へ進む。さらに5分ほどすると、常陸太田郵便局のある内堀町交差点に突き当たる。左折して西へ、すぐに道なりに曲がり北西へ進む。すぐ右手に若宮八幡宮がある。内堀町から若宮八幡宮一帯は、太田城二の郭のあったところ。応永年間(1394年〜1427年)佐竹義仁が鎌倉・鶴岡八幡宮から勧請して太田城内に創建したのが始まりで、佐竹氏の祈願所であった。宝永5年(1708年)現地に移転する。境内に天保14年(1843年)廃寺となった梅照院から移された天満宮がある。参道の両脇には、6本のケヤキが立ち並んでいる。鳥居を潜った右手にあるケヤキは、根回り14.05m / 目通り8.35m / 高さ約3m / 枝張り約25m / 樹齢およそ500年 の御神木。
若宮八幡宮から北西へ進むと、すぐ右手に大田小学校がある。太田小学校一帯は、太田城本郭のあったところ。大田小学校角を右折、さらに左折して北へ進むと校門がある。玄関前に舞鶴城跡碑があり、校内に入ることなく撮影はできる。
天仁2年(1109年)藤原秀郷の子孫・藤原通延が築城したのが始まりと云われている。長承2年(1133年)佐竹昌義は藤原通盛を服属させ、太田城に入り規模を拡大した。戦国最末期、佐竹義宣は水戸に本拠を移した。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後、慶長7年(1602年)常陸54万石から出羽久保田18万石へ減封された。慶長7年(1602年)廃城となった。
[交通]JR水郡線・常陸太田駅-(徒歩/約15分)-若宮八幡宮
舞鶴城跡碑
常陸国・西山荘
馬頭観音 馬頭観音 馬力神
若宮八幡宮から北西へ進んだところの大田小学校角まで戻り、293号線を北へ進む。すぐの宮本町交差点を左折する。太田中入口交差点を過ぎた辺りから西山荘までは、詩碑などの石塔がところどころにある。宮本町交差点から5分足らずの西山荘入口交差点から左へ進む。三角地帯の小公園南側に、馬頭観音 / 馬頭観音 / 昭和10年(1935年)造立の馬力神 が並んでいる。馬力神とは初めての遭遇。
突上門 守護宅 西山御殿
西山荘入口交差点から5分足らずのところに西山荘駐車場があり、小路を直進すると料金所がある。料金所から突上門を潜ると、右手の高台に守護宅 / 登り切ると正面に西山御殿 がある。西山御殿は元禄3年(1690年)に建てられ、隠居した徳川光圀が元禄4年(1691年)から元禄13年(1700年)に亡くなるまで過ごしたところ。徳川光圀はここで歴史書・大日本史を編纂した。文化14年(1817年)に焼失、文政2年(1819年)水戸徳川家8代藩主・徳川齊脩によって規模を小さくして再建された。往時の守護宅が復元され、徳川光圀ゆかりの品などを展示している。

突上門は古い資料に「竹を編んで上から掛け、竹ざおをもってこれを支え、夜は降ろして扉とする質素なもの」とある。どの様な門なのか期待していたが、史実に反する門であった。西山御殿は「茅葺平屋建てで内部は粗壁のままの質素なもので、華美を嫌った徳川光圀を伝えるものとなっている。」と紹介されている。あまりの新しさに料金所に戻ると、倒壊して最近建て直したとのこと。古びた感じにできる手法も用いていない。徳川光国時代の西山荘を再現したのであれば納得する。現西山御殿は大名の隠居所としては質素かも知れないが、庶民からは贅沢に見える。この建物を見るのに、800円(2015年12月)は高過ぎる。公益財団法人・徳川ミュージアムのホームページに、現西山御殿の経緯記載はない。解っていれば訪れる必要もなく、WEBで見られる古い画像で充分だった。また西山荘跡には地図もなく、道がどの様に続いているか聞くために料金所に戻っている。

常陸国・山方城(御城)
■城の種別
山城
■築城者
山方盛利
■築城年
応永15年(1408年)
■主な遺構
土塁
■主な再建造物
模儀櫓
模儀櫓
JR水郡線・山方宿駅前の道を北へ進む。水郡線と118号線の間を通る南郷街道は、棚倉街道の脇往還。宿場町を僅かに偲ばせる町並みが続く。118号線と合流する五差路の岩井橋交差点を左折して、29号線を南西へ進む。水郡線を潜ると、すぐ右手に標識があり右折する。さらに標識があり右折して坂を登ると、山方城がある。途中に南郷街道の標識がある。岩井橋交差点から模儀櫓が見え、118号線の左側に細い急坂がある。その気になって進むと、118号線のトンネルの上を通り旧道に下ってしまう。応永15年(1408年)上杉一族の山方盛利が常陸に下向、砦を築いたと云われている。慶長7年(1602年)佐竹氏は秋田に移封となり、山方城は廃城となる。
[交通]JR水郡線・山方宿駅-(徒歩/約25分)-御城展望台
常陸国・笠間城(桂城)
■城の種別
山城
■築城者
塩谷時朝
■築城年
元久2年(1205年)
■主な遺構
石垣 / 土塁 / 空堀 / 井戸
本丸八幡台にあった八幡櫓が市内の真浄寺に / 城門2棟が市内の民家に 移築され現存する。
笠間城址碑
笠間稲荷神社鳥居 笠間稲荷神社 楼門 笠間稲荷神社拝殿
JR水戸線・笠間駅より311号線を北へ、高橋町交差点を右折する。白雉2年(651年)創建の笠間稲荷神社前を通り、突き当たりを右折する。次の交差点を左折、変則十字路を左折すると佐白山麓公園がある。
[交通]JR水戸線・笠間駅-(徒歩40分)-佐白山麓公園-(徒歩20分)-笠間城天守曲輪
登城道 二の丸跡 登城道
天守曲輪石垣 佐志能神社
鎌倉時代に正福寺と徳蔵寺の勢力争いがあり、元久2年(1205年)劣勢であった正福寺は下野国守護・宇都宮頼綱に援軍を求める。派遣された宇都宮一族の塩谷時朝は元久2年(1205年)佐白山山麓に築城、徳蔵寺の僧兵を討った。正福寺の僧兵が敵対する様になり、正福寺も滅ぼした。塩谷時朝は笠間氏を名乗り、承久元年(1219年)佐白頂上に笠間城を築城した。5代・笠間泰朝は南朝に属し、北朝の佐竹義春の攻撃を受けるが撃退している。天正18年(1590年)小田原征伐のとき、18代・笠間綱家は宗家・宇都宮氏に逆らい攻められ滅亡した。宇都宮氏の支配するところとなり、文禄元年(1592年)宇都宮国綱の家臣・玉生勝昌が城主となる。文禄4年(1595年)玉生範昌は岡本城に移る。慶長3年(1598年)蒲生郷成が3万石で封じられ笠間城に入城、現在の城域に整備した。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後、蒲生郷成は除封される。慶長6年(1601年)松平康重が3万石で入封、慶長13年(1608年)丹波国篠山藩5万石に移封する。小笠原氏 / 松平(戸田)氏 / 永井氏 / 浅野氏 / 井上氏 / 本庄氏 / 再び井上氏 と目まぐるしく替わり、永享4年(1747年)牧野貞通が8万石で入封して明治の廃藩まで続く。
明治6年(1873年)廃城令により建物は取り壊された。佐白山山頂の天守曲輪に、延長5年(927年)延喜式神名帳に記載されている佐志能神社がある。明治5年(1873年)旧地に遷宮され、天守の用材が社殿に使用された。裏手の築地塀は、天守の瓦を使用していると云われている。
時鐘楼 治功神社 大石内蔵助像
下屋敷跡曲輪に、時鐘楼 / 明治13年(1880年)創建の治功神社 / 大石内蔵助像 / 昭和28年(1953年)造立の笠間満洲分村懐古之碑 などがある。浅野長矩(内匠頭)の曽祖父・浅野長重は元和8年(1622年)常陸国笠間藩に移封、日動美術館の手前に大石邸があった。
笠間満洲分村懐古之碑
本丸八幡台上にあった八幡台櫓が慶長元年(1596年)創建の真浄寺に移築され現存している。
真浄寺本堂 八幡櫓
常陸国・真壁城
■城の種別
平城
■築城者
多気長幹
■築城年
承安2年(1172年)
■主な遺構
土塁 / 掘割
城門が楽法寺(雨引観音)に移築され現存する。
城址碑
筑波山の北約3.5kmに真壁城がある。かつては常磐線・土浦駅とJR水戸線・岩瀬駅を結んでいた筑波鉄道があったが、昭和62年(1987年)に廃止になっている。知人と車で訪問している。
多気直幹の四男・多気長幹が真壁郡に入って真壁氏を名乗り、承安2年(1172年)築城したと云われている。多気氏は常陸平氏の嫡流・大掾(だいじょう)氏を祖とする一族。大掾氏は、鎌倉時代〜応永26年(1419年)水戸城を攻め落とされた頃まで常陸国に勢力を持っていた。応永30年(1423年)真壁慶幹のとき、小栗満重の乱で足利持氏によって落城する。後に真壁慶幹の従兄弟・真壁朝幹が復権、城主となる。慶長7年(1602年)佐竹氏の秋田転封のとき、家臣団に組み入れられていた真壁氏も出羽国角館へ移り真壁城は空城となった。慶長11年(1606年)浅野長政が隠居料として真壁藩5万石で入封する。慶長16年(1611年)浅野長重が跡を継いだ。元和8年(1622年)浅野長重は加増され、真壁を含む5万3500石の常陸国笠間藩となる。笠間城が居城となり、真壁城は廃城となった。
本丸跡に旧真壁町立体育館 / 本丸北側に稲荷神社 がある。41号線の西側が真壁町の中心で古い町並みが残る。真壁石は硬質で緻密な黒雲母花崗岩で、墓石にも古くから使用されている。
稲荷神社

楽法寺仁王門

楽法寺本堂(観音堂)

楽法寺黒門
用明天皇2年(587年)創建の楽法寺(雨引観音)黒門は、真壁城から移築された城門(薬医門)である。
常陸国・逆井さかさい城(飯沼城)
■城の種別
平城(水城)
■築城者
小山常宗
■築城年
享徳年間(1452年〜1455年)
■遺構
土塁 / 水堀 / 空堀 / 井戸
■主な再建造物
二層物見櫓 / 平櫓 / 井楼矢倉 / 櫓門 / 主殿
二層物見櫓
JR東北本線・古河駅の南東約15km / 関東鉄道常総線・宋道駅の西約10km に逆井城がある。バスは乗り継ぎとなり便も悪いため、知人と車で訪問している。
城地 主殿 井楼矢倉
築城時は南北30km / 東西1km の飯沼を自然の外堀とした水城であった。享徳年間(1452年〜1455年)下野国小山城主・小山義政の五男・小山常宗が築城、逆井氏を名乗ったと云われている。古河公方方であった逆井常宗の孫・逆井常繁は、天文5年(1536年)小田原北条氏方の大道寺盛昌の攻撃を受け落城して逆井氏は滅亡した。天正5年(1577年)玉縄城主・北条氏繁によって新たに築城されることとなった。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐後に廃城となる。主殿は、文禄3年(1594年)築城の潮来市・堀之内大台城の主殿遺構を参考に復元したものである。
主殿前には下総国・関宿(せきやど)城の城門と云われる薬医門 / 天正16年(1588年)建立の岩井市・大安寺観音堂 が移築されている。
薬医門 大安寺観音堂
常陸国・府中ふちゅう城→府中陣屋
■城の種別
平城→陣屋
■築城者
府中城:大掾詮国 / 陣屋:松平頼隆
■築城年
府中城:正平年間(1346年〜1369年)
陣屋:元禄13年(1700年)
■主な遺構
陣屋:陣屋門
陣屋門
JR常磐線・石岡駅から西へ、5分ほどの国府3丁目交差点を左折して南へ進む。すぐの交差点を右折して土橋通りを西へ進む。すぐすぐ右手に応安7年(1374年)創建の照光寺がある。常陸府中藩主・松平家墓所がある。幕末の天狗党の乱の折には田丸稲之右衛門一派の宿舎となる。江戸時代に照光寺学寮と称して寺子屋教育を行っていた。明治6年(1873年)石岡小学校創設の際には,校舎として使用された。
照光寺
すぐの突き当りの石岡民族資料館前に、文政11年(1828年)建立の陣屋門がある。石岡民族資料館西側の石岡小学校を中心とする辺りは、古代には常陸国の国衙(こくが)があったところである。常陸国・国府が置かれたところであったことから、府中と呼ばれていた。
正平年間(1346年〜1369年)には、大掾詮国によって府中城が築かれたが、天正18年(1590年)佐竹義宣によって落城する。大掾清幹が自刃、廃城となる。
慶長7年(1602年)出羽国の豪族であった六郷政乗は関ヶ原の戦いで東軍に与して武功を挙げ、常陸国府中に1万石を与えられて府中藩を立藩した。元和9年(1623年)出羽本荘藩へ移封となる。皆川広照が入封するが正保2年(1645年)皆川成郷が死去、嗣子が無かったため断絶し改易となる。しばらく府中藩は廃藩となっていた。元禄13年(1700年)常陸水戸藩初代藩主・徳川頼房の五男・松平頼隆は、常陸府中藩を立藩する。府中松平家は江戸定府だったため、陣屋が置かれていた。明治2年(1869年)の版籍奉還で石岡藩と改称するまで、常陸府中藩と名乗っていた。
陣屋門は、往時には水戸街道と接する土橋通り正面にあった。明治維新後は石岡小学校校門として用いられ、昭和44年(1969年)に石岡小学校敷地内に移された。さらに平成26年(2014年)に現在地に移築された。
[交通]JR常磐線・石岡駅-(徒歩/約10分)-陣屋門
常陸国・水戸城(馬場城 / 水府城)
■城の種別
平山城
■築城者
馬場資幹
■築城年
建久年間(1190年〜1198年)
■主な遺構
薬医門 / 藩校・弘道館(重文)/ 土塁 / 空堀
薬医門
水戸中央郵便局風景印 三の丸空堀
JR常磐線・水戸駅北口より50号線を北西へ進む。5分ほどの中央郵便局交差点の北東側に、水戸中央郵便局がある。風景印は、偕楽園好文亭 / 梅の木 の図柄になっている。中央郵便局交差点を右折して118号線を北へ進むと、右手に三の丸空堀が続く。
[交通]JR常磐線・水戸駅-(徒歩10分)-三の丸空堀
平安時代末期の建久年間(1190年〜1198年)に、馬場資幹によって築城されたと云われている。応永23年(1416年)上杉禅秀の乱で、足利幕府側についた江戸通房が城主となり以後7代(約170年間)続いた。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐のとき、江戸重通は北条氏側に加担する。佐竹義重・義宣父子は豊臣秀吉軍に参陣したため、常陸国54万石を与えられ居城を太田城から水戸城に本拠を移した。佐竹義宣は慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで曖昧な態度であったため、慶長7年(1602年)出羽国秋田に移封となる。徳川家康は五男・武田信吉を15万石で水戸に入封させるが、慶長8年(1603年)嗣子無く没する。替わって十男・徳川頼宣を20万石で入封させた。
北部を流れる那珂川と南部に広がっていた千波湖を天然の堀としていた。本丸の西側に二の丸が配され、さらに西に三の丸が配され、それぞれが空堀で仕切られていた。石垣がなく、土塁と空堀の城だった。天守は築かれず、3重5階建ての御三階櫓があった。明治4年(1871年)廃城後も残った御三階櫓は、昭和20年(1945年)に焼失した。本丸跡に薬医門 / 三の丸跡に藩校・弘道館(重文)が現存している。
土塁 孔子廟 井戸
学生警鐘 八卦堂 鹿島神社
三の丸空堀沿いに北へ進み、突き当りを右折する。すぐ右手に弘道館公園がある。安政4年(1857年)に建立された孔子廟 / 学生警鐘 / 八卦堂 があり、奥に安政4年(1857年)創建の鹿島神社がある。孔子廟は昭和20年(1945年)に焼失、昭和28年(1953年)再建されたもの。門が閉ざされ、入ることはできない。学生警鐘は、弘道館内に時刻を知らせるものとして利用されていた。銅板葺きの八卦堂は、弘道館記を刻んだ石碑を納めた覆堂である。昭和20年(1945年)に焼失、昭和28年(1953年)に再建された。鹿島神社の社殿は昭和20年(1945年)に焼失、昭和49年(1974年)伊勢神宮遷宮のときに旧殿が譲渡され翌年に移築された。
弘道館正門
弘道館(庭園側) 弘道館(玄関側)
孔子廟から東へ進むと、天保12年(1841年)水戸藩9代藩主・徳川斉昭よって開設された弘道館(有料施設)の正門がある。弘道館の正庁(学校御殿) / 至善堂 / 本瓦葺四脚門の正門 は、重文。
井戸
弘道館に設置されているスタンプ。和暦は昭和と平成の区別が付かないことがある。平成18年(2006年)と平成29年(2017年)に押印。
大手橋(復元大手門竣工前) 復元大手門 筑波大教育学部付属小・幼稚園門
弘道館のある三の丸と二の丸の空堀に架かる大手橋を越えると、令和2年(2020年)竣工の復元大手門がある。
復元大手門を潜り南東へ進む。二の丸にある学校の校門や塀は、往時を偲ばせる様になっている。水戸市立第二中学校門の先にあるシイの木は戦国時代から自生していたと云われ、樹齢400年と推定されている。北東側からの坂は杉山坂で、復元された杉山門がある。
水戸市立第二中学校門

茨城県立水戸第三高等学校門
シイの木 杉山門
二の丸と本丸間にある空堀は、谷と言った方が良いほど深い。明治30年(1897年)水戸駅〜久慈川駅間を開業した太田鉄道が始まりのJR水郡線の線路が敷かれている。キハE130系が通過する。
二の丸と本丸間の空堀
空堀に架かる本城橋を越えると本丸跡で、県立水戸第一高等学校の敷地に薬医門がある。安土桃山時代末期、佐竹氏の時代に建立の本丸橋詰門と推定されている。明治20年(1887年)頃と昭和19年(1944年)に水戸市内で移築された。八幡町・祇園寺で戦災を免れ、昭和56年(1981年)に移築復元された。往時は茅葺きであったが、銅板葺きに変更されている。
薬医門
県立水戸第一高等学校から本城橋を渡り二の丸跡に戻る。空堀沿いに南西へ下ると、51号線に突き当たる手前に復元された柵町坂下門がある。
柵町坂下門
千波湖
JR常磐線・水戸駅南口より南へ進む。すぐの駅前中央交差点を右折して、西へ進む。5分ほどの交差点の北西側に千波湖がある。水戸城の南部に広がっていた千波湖は、天然の堀となっていた。
偕楽園
偕楽園 好文亭
千波湖の北西側に、天保4年(1833年)水戸藩9代藩主・徳川斉昭が造営した偕楽園がある。領民と偕(とも)に楽しむ場にしたいと、偕楽園と名付けられた。本園部分だけで、100種3000本の梅が植えられている。金沢・兼六園 / 岡山・後楽園 とともに日本三名園であるが、好文亭以外は無料施設になっている。好文亭は、梅の異名・好文木に由来している。
常陸国・土浦城(亀城)
■城の種別
平城
■築城者
若泉三郎
■築城年
永享年間(1429年〜1441年)
■主な遺構
太鼓櫓門 / 霞門 / 旧前川口門
■主な再建造物
東櫓 / 西櫓
太鼓櫓門
霞門 旧前川口門 本丸水堀
東櫓 西櫓 聖徳大師堂
土浦駅西口から北側の通りを北西に道なりに進む。20分ほどすると左手に亀城公園が見えてくる。土浦は幾度も水害に遭っているが、土浦城は水没することはなかった。水に浮かぶ亀の甲羅の様に見えたことから、亀城(きじょう)とも呼ばれていた。本丸と二の丸の一部が亀城公園となっている。
永享年間(1429年〜1441年)に若泉三郎よって築城されたが、天慶年間(937〜946年)平将門が砦を築いたのが始まりとも云われている。戦国時代の永正13年(1516年)若泉五郎左衛門は、小田氏部将・菅谷勝貞によって城は奪われる。天正11年(1583年)小田氏治のとき、佐竹氏の軍門に降る。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐のとき、北条氏と結んだために小田氏と菅谷氏は滅亡した。天正18年(1590年)関東に入封した徳川家康は、次男・結城秀康に与えられ支城となる。慶長5年(1600年)関ケ原の戦いの後、結城秀康は越前国・北ノ庄に移封となる。藤井松平家・松平信一が入封、元和3年(1617年)松平信吉が上野国・高崎に移封する。西尾氏〜朽木氏と代わり、寛文9年(1669年)土屋数直が入封する。土屋氏は天和2年(1682年)政直のとき、駿河国・田中に移封する。大河内松平家・松平信興が5年後の貞享4年(1687年)に大坂城代に転ずると、土屋政直が再び入封する。その後は常陸国で水戸藩に次いだ領地を支配、土屋氏が約200年間世襲して明治維新に至った。
江戸時代に増改築された二重の堀で守る平城であった。天守は作られなかった。明暦2年(1656年)に改築されたと云われている太鼓櫓門 / 霞門 / 移築された旧前川口門 が現存する。東櫓は平成10年(1998年)に復元された。西櫓は昭和25年(1950年)のキティ台風で破損、解体保存されていたものを平成に入ってから復原された。城内に聖徳大師堂などがある。
[交通]JR常磐線・土浦駅-(徒歩/約20分)-亀城公園