最新の追加

豊後国・森陣屋(久留島陣屋)

■城の種別
陣屋
■築城者
来島康親
■築城年
慶長6年(1601年)
■主な遺構
石垣 / 栖鳳楼 / 門 / 庭園
栖鳳楼
JR久大本線・豊後森駅の北13kmほどのところにある。事前に玖珠町観光協会にメールで問い合わせ、「まちなか循環バス」を教えていただく。西回り / 東回り とも、午前2便 / 午後2便 運行されている。合わせて1日8便が運行されている(2018年12月現在)。豊後森駅駅前から「まちなか循環バス」に乗車、わらべの館前バス停で下車する。わらべの館の石段を登ると三島公園がある。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍に与した村上水軍・来島康親は、慶長6年(1601年)伊予国来島から豊後国森14000石へと移封になった。弘安年間(1278年〜1288年)に築城された角牟礼城が存在したが、森藩は城主の格式を有さなかった。角牟礼城は廃城され、山麓に陣屋が置かれた。来島氏は2代・道春のとき、姓を久留島氏に改めている。
旧久留島氏庭園 御長坂 石垣

三島公園奥の旧久留島氏庭園があるところに、陣屋の御殿があった。旧久留島氏庭園から右方向に進むと、御長坂と呼ばれる石畳の参道がある。登り切った左手に栖鳳楼(せいほうろう) / 右手に伊予大三島・大山祇神社を勧請した末広神社がある。栖鳳楼は天保8年(1837年)8代・久留島通嘉のとき、末広神社の改築の名目で建てられた楼閣形式の茶屋。陣屋や神社周辺を城郭風に改修、天守の代用として建てられたと云われている。平成12年(2000年)から3年を掛けて往時の姿に修築復元された。

末広神社
三島公園西側から南に進むと、城下町の名残りがある。町並みの東側を通る387号線沿いに森郵便局がある。風景印は、角理山 / 三島公園の童話碑 / わらべの館 の図柄になっている。
町並み 森郵便局風景印
森郵便局から南に進むとY字路交差点があり、越えたところにある森二葉町バス停は、「まちなか循環バス」西回り / 東回り とも利用し易い。
JR久大本線・豊後森駅から678号線を南東に進む。5分足らずの左手に、玖珠郵便局がある。風景印は、鯉のぼり / 童話碑 / 伐株山 の図柄になっている。
豊後森駅 玖珠郵便局風景印
29612号 / 扇型機関庫
転車台 / 扇型機関庫 1994年〜1996年頃撮影の扇型機関庫
玖珠郵便局手前を右折すると、豊後森機関庫公園がある。豊後森機関庫は昭和9年(1934年)に竣工、昭和46年(1971年)豊後森機関区が廃止となり扇型機関庫と転車台が残る。九州に残る唯一の扇形機関庫となっている。機関庫の壁には、昭和20年8月4日の米軍機機銃掃射の跡が残っている。光線や公園の樹木配置の状態により、1994年〜1996年頃に撮影した方が良い感じである。転車台の手前に、蒸気機関車9600型29612号が静態保存されている。大正8年(1919年)竣工、長崎本線や唐津線で使用された。長崎に原子爆弾が投下されたとき、輸送に活躍した。昭和49年(1974年)廃車となり、福岡県志免町の公園に静態保存された。平成27年(2015年)豊後森機関庫公園に静態保存されることになった。
29612号
豊前国・門司城(門司関山城 / 亀城)
■城の種別
山城
■築城者
紀井通資
■築城年
元暦2年(1185年)
■主な遺構
石垣
門司城跡碑
石垣 砲台跡 関門海峡大橋

JR門司港駅より南東へ、桟橋通り交差点を左折して3号線を北東へ進む。鎮西橋交差点を直進、261号線を進む。しばらくすると、門司港レトロ緩行線の踏切を越える。ほぼ直角に曲がるところから鋭角に分岐する坂を登る。左手にある第二展望台への階段を進み、さらに坂を登る。駐車場手前を右折、坂を登ると門司城本丸跡がある。本丸跡は布刈公園の古城山山頂にある。明治25年(1892年)大日本帝国海軍の要塞が築かれたため、遺構はほとんど残っていないが石垣の一部が残る。本丸跡には砲台が残り、関門海峡大橋が眼下に見える。戦国時代には攻防が続き、永禄元年(1558年)小早川隆景が奪取する。永禄2年(1559年)と永禄4年(1561年)大友義鎮と毛利元就による門司城の戦いが行われている。慶長5年(1600年)細川忠興が豊前国に入封、城を修築するが元和3年(1617年)に廃城となった。
[交通]JR門司港駅-(徒歩35分)-第二展望台-(徒歩15分)-門司城本丸跡

豊前国・小倉城(勝山城 / 指月城)
■城の種別
平城(海城)
■築城者
毛利元就
■築城年
永禄12年(1569年)
■主な遺構
石垣 / 堀
■主な再建造物
復興天守 / 着見櫓 / 庭園
復興天守
JR鹿児島本線・西小倉駅より南へ進む。すぐの199号線を越えると、左手に小倉城がある。
[交通]JR鹿児島本線 / 日豊本線・西小倉駅-(徒歩5分)-小倉城
石垣 / 土塀 着見(つきみ)櫓 四年式15センチ榴弾砲
天守は昭和34年(1959年)天守が外観復興されたが、大入母屋破風 / 千鳥破風 / 唐破風 などが追加されて史実と大きく異なっている。明治8年(1875年)陸軍歩兵第12旅団本部が松の丸跡に置かれ、明治31年(1898年)陸軍第12師団司令部庁舎が本丸跡に建てられる。大正14年(1925年)久留米に移転する。本丸跡に、四年式15センチ榴弾砲(大正13年製)が置かれている。重量は2800kg、重さ36kgの榴弾の射距離は約9000mに達する。威力は圧倒的で、旧式となったにもかかわらず敗戦まで活躍した。
貞観12年(870年)疫病が流行したため、山城国八坂郷・祇園社を長尾(現:小倉南区長尾)に勧請したのが始まり。慶応4年(1868年)神仏分離令により、八坂神社に改称する。昭和9年(1934年)八坂神社は鋳物師町より移された。元和4年(1618年)に始まる小倉祇園太鼓祭は八坂神社の例大祭。
八坂神社
永禄12年(1569年)毛利元就の命により築城、高橋鑑種が城主となる。高橋鑑種は大友氏の家臣で岩屋城主であったが、永禄10年(1567年)毛利氏に寝返った。岩屋城を逐われ、毛利元就を頼って落ち延びていた。天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐により、高橋鑑種の養子・高橋元種は小倉城を開城する。九州征伐後に毛利勝信は豊前国・小倉に6万石を与えられ、小倉城に入城する。毛利勝信によって、小倉城は整備されたと云われている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで毛利勝信は西軍に組し改易となる。関ヶ原の戦い後、細川忠興は豊前国33万9000石に加増され入封する。豊後国杵築6万石を合わせ、39万90009石となった。黒田氏の居城であった中津城に入城するが、慶長7年(1602年)から小倉城を改築し居城した。寛永9年(1632年)細川忠利は54万石に加増され肥後国に移封、播磨国から小笠原忠真が豊前国15万石で入封する。以後、幕末まで小笠原氏の居城となる。天保8年(1837年)本丸御殿 / 天守 を焼失、以降天守は再建されなかった。慶応2年(1866年)第2次長州征討のとき、長州藩の攻勢の前に小倉城撤退を決め小倉城を焼却する。
豊前国・岩石がんじゃく城(添田城)
■城の種別
山城
■築城者
大庭景親
■築城年
保元3年(1158年)
■主な遺構
石垣 / 堀 / 井戸
■主な再建造物
模擬天守
ふれあいの館
JR日田英彦山線・添田駅から北へ進む。5分ほどの交差点を右折する。さらに添田郵便局前交差点を右折して、南へ進む。最初の道を左折して道なりに進むと、右手に添田神社がある。山頂に祀られていた天穂日命を保元3年(1158年)麓に移転、太宰府天満宮勧請して合祀した。添田神社の手前を右折すると、城をイメージしたふれあいの館がある。標高454mの岩石山頂より少し下がったところに本丸跡がある。
[交通]JR日田英彦山線・添田駅-(徒歩15分)-添田公園-(徒歩60分)-本丸跡
添田神社
保元3年(1158年)平清盛が大庭景親に築かせたと云われている。応保元年(1161年)日田宗道 / 文治2年(1186年)筑紫種有 が城主となる。承久3年(1221年)承久の乱で朝廷側に組した筑紫種有は所領を没収され、大友氏の持城となった。暦応元年(1338年)大庭景道が在城する。正平19年 / 貞治3年(1364年)岩石城は菊池勢に攻められ落城する。応安元年(1368年)豊前国守護・大内氏の持城となる。永徳元年(1381年)頃より大庭景忠が城主となるが、大内氏と大友氏による争奪戦が繰り広げられた。天正13年(1585年)秋月種実によって攻められ落城する。天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐では、前田利長 / 蒲生氏郷の攻撃で落城する。九州征伐後に毛利勝信は豊前小倉に6万石を与えられ、岩石城は付城とされる。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後、細川忠興は豊前国・中津に33万9000石に加増され入封する。豊後国杵築6万石を合わせ、39万90009石となった。岩石城は付城とされる。元和元年(1615年)一国一城令により廃城となった。平成3年(1991年)模擬天守が建てられている。
豊前国・中津城(扇城 / 小犬丸城 / 丸山城)
■城の種別
平城(海城)
■築城者
黒田孝高
■築城年
天正16年(1588年)
■主な遺構
石垣 / 堀
■主な再建造物
模擬天守 / 二重櫓
二重櫓 / 模擬天守

JR日豊本線・中津駅から北へ、交差点を左折して23号線を北西に進む。右手に中津市歴史民俗資料館がある交差点を右折して北へ進むと、突き当りに中津城がある。本丸跡に、奥平貞能・信昌・家昌を祀る奥平神社がある。
[交通]JR日豊本線・中津駅-(徒歩/約15分)-中津城

本丸石垣 奥平神社

天正15年(1587年)黒田孝高(如水)は、豊臣秀吉より豊前12万3000石を与えられる。当初、馬ヶ岳城に入城した。天正16年(1588年)黒田孝高は、領地の中心である中津川河口に中津城の築城を始める。堀に海水が引き込まれているため海城ともされる。慶長5年(1600年)黒田孝高 / 黒田長政は関ヶ原の戦い時に徳川方に味方、黒田孝高は中津城からも西軍の所領を攻めた。黒田長政の戦功により筑前国52万石に加増、名島城に転封となる。
替わって細川忠興が39万石で入封、築城を継続する。細川忠興は小倉城を居城として、中津城の城主は細川忠興の次男・細川興秋になる。 [元和7年(1621年)扇形の縄張りに拡張され、中津城が完成。寛永9年(1632年)2代藩主・細川忠利のとき熊本藩に転封、小笠原長次が8万石で入封して中津藩が成立する。
享保2年(1717年)奥平昌成が10万石で入封、明治維新まで続く。奥平氏は三河山間部の小豪族であった。天正3年(1575年)長篠の戦いで、奥平定能(貞能)の嫡男・奥平信昌(貞昌)は長篠城を守り抜く。奥平信昌(貞昌)は徳川家康の長女・亀姫を妻に迎え、亀姫との間には4男1女が生まれる。早世した1子を除き、いずれも徳川家康の外孫として厚遇された。奥平信昌は徳川家康の関東転封に伴い、上野国甘楽郡小幡3万石を領する。関ヶ原の戦い以降は美濃国加納10万石を領した。嫡流は、下野国宇都宮10万石を経て豊前国中津10万石となった。
昭和39年(1964年)模擬天守が建てられる。

豊後国・杵築きつき城(木付城 / 勝山城 / 臥牛城)
■城の種別
平山城
■築城者
木付頼直
■築城年
明徳5年(1394年)
■主な遺構
藩校学習館正門 / 石垣 / 土塁
■主な再建造物
模擬天守
模擬天守
青筵神社 石造物公園入口 石造物公園
JR日豊本線・杵築駅から南へ、644号線を左折して東へ道なりに進む。49号線に合流、直進して道なりに進む。塩田交差点を右折すると、右手に城山公園がある。模擬天守方向に進むと、左手に昭和11年(1936年)創建の青筵(せいえん)神社がある。 1998年3月に次ぐ2回目の訪問2020年7月は、5人で訪れている。復路、往路にはなかった大木が倒れて道を塞いでいた。災難に合わなかったのは、参拝のご利益か…。模擬天守近くに石造物公園がある。市内で発見された国東塔などの石仏石塔を野外展示している。
[交通]JR日豊本線・杵築駅-(徒歩90分)-城山公園
大友氏2代・大友親秀の6男・大友親重は、建長2年(1250年)鎌倉幕府から豊後国・八坂郷木付荘に封じられた。弘長年間(1261年〜1264年)〜文永年間(1264年〜1275年)に竹ノ尾城を築城、地名の木付を名乗った。応永元年(1394)木付親重の曾孫・木付頼直は八坂川の河口にある台山(だいやま)に木付城を築城、居城を移す。北は高山川 / 東は守江湾 に囲まれた天然の要害になっていた。天正14年(1586年)島津氏の豊後侵攻のとき、木付氏16代・木付鎮直が籠城して退けている。
本丸からの守江湾

大友義鎮(宗麟)の死去に伴い嫡男・大友義統が継ぐが、文禄の役における敵前逃亡を咎められ文禄2年(1593年)改易された。大友義統に従っていた木付統直は自害、主家と嫡男を失った木付鎮直も自害する。17代 / 344年間続いた木付氏は滅びる。
豊後国は前田玄以 / 宮部継潤 が奉行を務めた。慶長元年(1596年)杉原長房の所領となる。慶長2年(1597年)台山北麓に居館を移すが、慶長3年(1598年)但馬国・豊岡城に移封となる。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの戦功により、細川忠興が豊前国と木付を領することになり城代が置かれた。寛永9年(1632年)細川忠利が熊本藩に転封となる。豊前国には小笠原忠真が封じられ、木付には弟・小笠原忠知が4万石で入封して木付藩が成立した。正保2年(1645年)小笠原忠知は三河国・吉田藩に転封となり、松平(能見)英親が豊後高田藩より3万2千石で移封、明治維新までこの地を領した。正徳2年(1712年)幕府の朱印状に“杵築と記されていたことから、杵築と表記される様になった。

慶長元年(1596年)の地震 / 慶長2年(1597年)の暴風雨 によって、天守などが損壊する。天守は慶長13年(1608年)落雷で焼失したが、その後再建された。正保2年(1645年)以降、台山の郭群は廃止された。昭和45年(1970年)天守台跡に模擬天守が建てられる。

勘定場の坂(登り終わり)
勘定場の坂(登り始め) 藩校・学習館跡
勘定場の坂は台山の杵築城と北台武家屋敷を結ぶ坂道で、江戸時代に収税や金銭出納の役所があったことから名付けられた。前面にゆるやかな傾斜がある石段は、駕龍かきの足に合わせて造られている。53段ある石段は、姫島から取り寄せた石で造られている。側溝は水が一気に流れない工夫がされている。勘定場の坂を登ると、右手に天明8年(1788年)7代藩主・小笠原親賢が設立した藩校・学習館の正門が残っている。藩校・学習館は明治の廃藩置県によって廃校となった。
武家屋敷跡 武家屋敷跡 崩れかけた塀(1998年3月撮影)
酢屋の坂 岩鼻の坂 綾部みそ店

武家屋敷跡を進み十字路を左折すると、武家屋敷と商人の町を繋ぐ酢屋の坂になる。酢屋の坂を下り切ると、志保屋の坂に続く。十字路を直進して突き当りを左折すると、岩鼻の坂になる。商人の町には、古い商家が残る。

豊後国・大友氏館跡
■城の種別
守護館
■築城者
大友氏泰
■築城年
鎌倉時代末期〜南北朝時代
大友氏館跡発掘現場
JR日豊本線・大分駅に大分駅内郵便局がある。風景印は、府内城 / ザビエル像 の図柄になっている。JR日豊本線・大分駅より北東に進む。すぐの大分駅前交差点を右折して、10号線を南東へ進む。10分余りの顕徳町三交差点から南東方向に進み、すぐに右折して南に進む。以前に見逃している道であるが、道の両側に「よみがえる大友館」幟が乱立して解り易い。
大分駅内郵便局風景印 「よみがえる大友館」幟
建久7年(1196年)大友能直は、豊前・豊後両国の守護となる。大友氏館は、7代当主・大友氏泰になってから守護館を構えたところである。戦国時代の最盛期には豊後・筑後に加え、豊前・肥前・肥後・筑前の6ヶ国と日向・伊予の各半国を領有していた。キリシタン大名として知られる21代当主・大友義鎮(宗麟)のとき、元亀元年(1570年)今山の戦いで龍造寺隆信に大敗する。続いて天正6年(1578年)耳川の戦いで島津義久に大敗して、危機的状況に陥る。天正12年(1584年)龍造寺隆信が沖田畷の戦いで戦死すると島津氏の侵攻を受けることとなり、天正14年(1586年)には豊後にまで侵攻される。大友義鎮は豊臣秀吉に支援を要請、九州征伐が開始される。島津氏は豊臣氏との戦いに敗れ、嫡男・大友義統は豊後一国を安堵された。大友義統は文禄の役における敵前逃亡を咎められ、文禄2年(1593年)改易された。大友氏館跡 / 旧萬壽寺跡は、発掘調査が行われている。庭園 / 中核施設(主殿) の復元など、歴史公園として整備する計画がある。
顕徳町三交差点の西側にある顕徳町二交差点から南に進む。5分足らずでJR日豊本線 / すぐにJR久大本線 を潜る。すぐの芸短大北交差点を右折して西に進むと、すぐ右手に若宮八幡社がある。建久7年(1196年)大友氏初代・大友能直が豊前・豊後両国の守護として下向したとき、鶴岡八幡宮を勧請して創建したと云われている。当初は古河津留(現:岩田町周辺)にあったが、大分川に近く水害に遭ったため、建仁元年(1201年)に現在地の東側に遷座した。大友氏館から南西(裏鬼門)に位置しており、豊後国の国府が置かれた府内の鎮守として大友氏から代々崇敬を受けた。
若宮八幡社
顕徳町三交差点から北へ進む。すぐの十字路を右折すると、すぐ左手に徳治元年(1306年)創建の豊府稲荷神社がある。5代当主・大友貞親が萬壽寺を創建したとき、鎮守として勧請した。
豊府稲荷神社
豊府稲荷神社から十字路まで戻り北へ進むと、すぐの突き当りに徳治元年(1306年)5代当主・大友貞親によって創建された萬壽寺がある。山門は閉ざされている。大友氏の菩提寺で、旧萬壽寺は大友氏館の南東に位置していた。室町時代には十刹に数えられるなど、高い寺格を持っていた。天正14年(1586年)島津軍の豊後侵攻のとき、大友氏館とともに焼失した。寛永8年(1631年)に移転再興された。
萬壽寺
万寿寺の北東側に文亀元年(1501年)18代当主・大友親冶によって創建された来迎寺がある。来迎寺から北へ進みすぐに右折すると、すぐ右手に大分錦町郵便局がある。大分錦町郵便局の風景印は、大友宗麟像 / 府内城 / 桜 の図柄になっている。
来迎寺 大分錦町郵便局風景印

豊後国・府内城(大分城 / 荷揚城 / 白雉城)

■城の種別
平城(海城)
■築城者
福原直高
■築城年
慶長2年(1597年)
■主な遺構
宗門櫓 / 人質櫓 / 土塀 / 石垣 / 堀
■主な再建造物
大手門 / 西丸二重櫓 / 東丸着到櫓 / 東丸隅櫓 / 廊下橋 / 土塀
大手門
JR日豊本線・大分駅から中央通りを北へ進む。昭和通り交差点を右折して197号線を東へ進むと、すぐ左手に大分城址公園がある。大手門前に、大分県道路元標がある。
[交通]JR日豊本線・大分駅-(徒歩15分)-大分城址公園
大分県道路元標
古代に上野丘陵に豊後国・国衙が置かれていた地である。建久7年(1196年)大友能直は、豊前国・豊後国の守護となる。大友氏は最盛期には九州6ヶ国を支配していた。府内城の南東に、大友氏館を築いて本拠とした。天正6年(1578年)薩摩国・島津義久との耳川の戦い後は衰退し始める。天正14年(1586年)島津氏の侵攻により大友氏館などを含む府内の中心部が焼き払われる。天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州平定後、豊後国を安堵された。大友義鎮(宗麟)の死去に伴い嫡男・大友義統が継ぐが、文禄の役における敵前逃亡を咎められ文禄2年(1593年)改易された。文禄3年(1594年)早川長政が代官として府内に入る。当初は家島に仮館を構えていたが、大友氏館を改修して移り住んだと云われている。慶長2年(1597年)福原直高が12万石で臼杵より転封、大分川河口付近の荷揚に築城を開始する。当時の海岸線は現在より内陸に入り込んでいた。慶長4年(1599年)福原直高は徳川家康により6万石に減封の上、再び臼杵に転封された。替わって早川長政が入城するが、慶長6年(1601年)関ヶ原の戦いで西軍に付いたため改易となる。替わって竹中重利が3万5千石で入城、府内城の大改修を行う。寛永11年(1634年)2代・竹中重義が長崎奉行時代の不正のため切腹、改易となる。日根野吉明が2万石で入城するが、明暦2年(1656年)嗣子なく没し廃絶となる。臼杵藩主稲葉信通が城代となる。明暦4年(1658年)豊後高松より松平(大給)忠昭が2万2千石で転封となり、明治維新まで続く。
西丸二重櫓 宗門櫓(城外から) 宗門櫓(城内から)
大手門 東丸着到櫓 東丸隅櫓
人質櫓 天守台 廊下橋

明治6年(1873年)廃城令で、本丸 / 東の丸 / 西の丸 以外の建造物は破却され、堀の一部も埋め立てられた。昭和20年(1945年)大分空襲により大手門 / 櫓数棟 が焼失、宗門櫓 / 人質櫓 が現存する。大手門の西に位置する宗門櫓は二重櫓であるが、城外からは石垣の上に建つ平櫓に見える。また木々に覆われ解りづらい。人質櫓は本丸北東部の人質場と呼ばれた曲輪に位置する。宗門櫓 / 人質櫓 は安政元年(1854年)安政大地震倒壊、宗門櫓は安政6年(1859年) / 人質櫓は文久元年(1861年) に再建された。昭和40年(1965年)大手門 / 西丸二重櫓 / 東丸着到櫓 / 東丸隅櫓 が復元される。さらに平成8年(1996年)西丸と山里曲輪を結ぶ廊下橋が復元される。

松栄神社は慶長年代(1596年〜1615年)末期に、上州水沼村に近正八幡宮が創建されたのが始まり。享保14年(1729年)この地に遷宮、3度移転して現在地となる。西の丸と廊下橋で繋がっている。
松栄神社
豊後国・臼杵城(丹生島城 / 亀城)
■城の種別
平山城(海城)
■築城者
大友義鎮(宗麟)
■築城年
永禄5年(1562年)
■主な遺構
卯寅口櫓 / 畳櫓 / 曲輪 / 石垣 / 堀
■主な再建造物
二の丸大門櫓
二の丸大門櫓

JR日豊本線・臼杵駅から33号線を北へ進む。10分ほどの右手に臼杵郵便局 / 左手に臼杵城卯寅口 がある。臼杵郵便局風景印は、駅標 / 臼杵石仏 の図柄になっている。
[交通]JR日豊本線・臼杵駅-(徒歩/約10分)-臼杵城

臼杵郵便局風景印 臼杵城卯寅口
大友義鎮(宗麟)は弘治2年(1556年)大友氏館から臼杵に本拠を移したと云われ、永禄5年(1562年)丹生(にゅう)島に丹生島城を築城した。丹生島は北 / 東 / 南 を海に囲まれ、西は干潟の陸地でつながる天然の要害となっていた。大友義鎮は、丹生島を城郭化して干潟を干拓して城下を形成した。大友氏は豊後国 / 筑後国 の守護であり、最盛期には九州6ヶ国を支配していた。天正6年(1578年)薩摩国・島津義久との耳川の戦い後は衰退し始める。天正14年(1586年)島津軍の侵攻にはポルトガルから入手したフランキ砲などにより撃退しているが、城も城下も大きな被害を受けた。天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州平定後、豊後国を安堵された。大友義鎮の死去に伴い嫡男・大友義統が継ぐが、文禄の役における敵前逃亡を咎められ文禄2年(1593年)改易された。替わって石田三成の妹婿である福原直高が居城する。慶長2年(1597年)太田一吉が入城、城の近世城郭化が行われた。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、美濃国郡上八幡より5万石で稲葉貞通が入封する。稲葉氏は明治維新まで15代続く。明治10年(1877年)西南戦争では、旧臼杵藩家老・稲葉頼が臼杵隊を組織して臼杵城に篭城する。薩摩軍奇兵隊に襲撃され落城し占領されるが、数日後に政府軍が奪還する。
卯寅口櫓 畳櫓 二の丸大門櫓
臼杵城には3重の天守と31基の櫓があったが、明治6年(1873年)明治の廃城令で建造物はほぼ撤去された。明治20年(1887年)周囲の海が埋め立てられた。畳櫓 / 卯寅口門脇櫓 が現存、平成13年(2001年)二の丸大手門が復元された。
天守台跡
卯寅稲荷神社参道 卯寅稲荷神社 護国神社
城址に、卯寅(うとの)稲荷神社 / 護国神社 がある。卯寅稲荷神社は永禄5年(1562年)臼杵城卯寅口の鬼門として創建される。明治11年(1878年)創建の招魂社 / 明治12年(1879年)創建の稲葉神社 を昭和35年(1960年)合祀、護国神社となる。
豊後国・暘谷ようこく城(日出城)
■城の種別
平山城
■築城者
木下延俊
■築城年
慶長7年(1602年)
■主な遺構
鬼門櫓 / 裏門櫓 / 時鐘 / 石垣 / 堀
本丸石垣
JR日豊本線・暘谷駅から南に進む。すぐの突き当りを右折して西に進む。すぐの突き当りを左折して南に坂を登ると、左手に鬼門櫓が見えてくる。城址に日出小学校と日出中学校 / 大手虎口跡に暘谷城趾碑 がある。
[交通]JR日豊本線・暘谷駅-(徒歩/約10分)-暘谷城
暘谷城趾碑
日出藩初代藩主・木下延俊は、豊臣秀吉の正室・高台院(北政所 / おね)の兄・木下家定の三男。慶長5年(1600年)関ケ原の戦いでは、東軍に属した。慶長6年(1601年)播磨三木郡2万石から日出藩3万石に加増されて移封。慶長7年(1602年)暘谷城を築城する。別府湾に突出した南端の台地にあり、“城下(しろした)かれい”の生息地として知られている。
致道館前の街並み
鬼門櫓 二の丸館 / 裏門櫓 裏門櫓跡 / 時鐘
明治7年(1874年)の廃城令により、建物は競売に掛けられた。望海櫓と鬼門櫓は、本丸に開校した暘谷学舎(現:日出小学校)の建物に利用された。大正10年(1921年)日出尋常小学校の校舎が建替えられとき、望海櫓は取壊され鬼門櫓は移築された。平成22年(2010年)移築されていた裏門櫓は、二の丸館敷地内に移築復元された。裏門櫓跡にある時鐘は、元禄8年(1695年)3代藩主・木下俊長が鋳造させた釣鐘。平成25年(2013年)鬼門櫓が、月見櫓跡に移築復元された。平成21年(2009年)に訪れたときには鬼門櫓と裏門櫓が移築前で、令和2年(2020年)7月に再訪問する。
暘谷城下海岸に、昭和57年(1982年)元乗務員による海鷹によって造立された軍艦海鷹之碑がある。海鷹(かいよう)は、昭和18年(1943年)貨客船“あるぜんちな丸”を改造した軽空母。航空機輸送 / 船団護衛 に投入された。昭和20年(1945年)四国・佐田岬沖で機雷に触れ航行不能となり、駆逐艦・夕風に曳航され別府湾の暘谷城下海岸に擱座した。さらに空襲により大破、擱座放棄され終戦を迎えた。戦後、浮揚解体された。
軍艦海鷹之碑
豊後国・永山城(丸山城)
■城の種別
平山城→陣屋
■築城者
小川光氏
■築城年
慶長6年(1601年)
■主な遺構
石垣 / 堀
■主な再建造物
土塀
大手虎口石垣
豆田の街並み 歩行者用「とまって」標識
JR久大本線・日田駅より南西へ、日田駅前交差点を右折して48号線を北西に進む。中央1丁目交差点を右折して48号線を北東に進み、久大本線を潜る。豆田上町通りから花月川を渡る。3本目のT字路を左折すると、右手に月隈(つきくま)公園がある。
[交通]JR久大本線・日田駅-(徒歩30分)-月隈公園
土塀 / 石垣 / 水堀 月隈神社鳥居 古代の横穴墓群
古代の横穴墓群の祠 月隈神社常夜燈 月隈神社
月隈神社鳥居から登って行く。古代の横穴墓群を見ながら登ると、山頂の左手に元和2年(1616年)創建の月隈神社 / 右手に本丸石垣がある。
本丸石垣

慶長6年(1601年)豊後国日田郡2万石で入封した小川光氏が、月隈山に丸山城を築城した。慶長15年(1610年)小川光氏は病死、無嗣断絶となる。元和2年(1616年)石川忠総が美濃大垣藩5万石から6万石で移封、城の改築と城下町の移転が行われ、永山城と改名される。寛永10年(1633年)下総国佐倉藩7万石に移封となり、豊前国中津藩の預かりとなる。寛永16年(1639年)幕府直轄領となり廃城、麓に日田陣屋(日田代官所)が置かれた。寛文5年(1665年)〜寛文6年(1666年)肥後熊本藩の支配地となる。天和2年(1682年)播磨国姫路藩から松平直矩が7万石で入封する。貞享3年(1686年)出羽山形藩10万石に移封となり、幕府直轄領となる。明和4年(1767年)西国筋郡代役所となる。明治元年(1868年)西国筋郡代役所は廃された。

秋風庵 遠思楼 先生宅
豆田上町通りの西側を通る豆田みゆき通りを南へ進む。JR久大本線を潜る手前左手に、私塾・咸宜園(かんぎえん)・東塾跡がある。文化2年(1805年)儒学者・廣瀬淡窓が長福寺に開塾したのが始まり。文化4年(1807年)桂林荘に移転する。文化14年(1817年)桂林荘を現地に移転、咸宜園とした。明治30年(1897年)まで存続した。咸宜園・東塾舎は大正4年(1915年)に撤去された。 咸宜園・東塾跡に秋風庵(しゅうふうあん) / 遠思楼(えんしろう) が現存する。秋風庵は、天明元年(1781年)に伯父・廣瀬月化により現在の場所に建てられた。遠思楼は、文化14年(1817年)に商家に建てられていたもので、嘉永2年(1849年)に移築したもの。明治7年(1874年)に中城町へ移築されたが、昭和28年(1954年)に現在の場所に移築復元された。道を隔てた西側にあった西塾跡に井戸が残っている。
[参考]長福寺
天正12年(1584年)創建の長福寺は豆田町にあり、本堂は寛文9年(1699年)の建立。
長福寺本堂
豊後国・岡城(臥牛がぎゅう城 / 豊後竹田城)
■城の種別
山城
■築城者
緒方惟栄
■築城年
文治元年(1185年)
■主な遺構
石垣
岡城址碑
廉太郎トンネル 広瀬神社神門 広瀬神社社殿

岡城址には、1995年春 / 1997年冬 / 2019年夏 と3回訪れている。1995年春は、廉太郎トンネル〜広瀬神社〜岡城址を徒歩で往復しているが道筋は憶えていない。1997年冬 / 2019年夏 は車に同乗しての訪問である。廉太郎トンネルは、“荒城の月”の曲が流れる。広瀬神社は昭和10年(1935年)創建、明治37年(1904年)日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死した竹田市出身の広瀬武夫中佐を祀る。
[交通]JR豊肥本線・豊後竹田駅-(バス5分)-岡城入口バス停-(徒歩15分)-岡城

登城口 登城口〜大手門跡登り坂の石垣 大手門跡
三の丸 高石垣 近戸門跡 本丸跡 天満神社
岡城は、天神山(標高325m / 比高95m)に築かれた山城。文治元年(1185年)緒方惟義が築城したと云われている。南北朝時代の建武元年(1334年)緒方氏を滅ぼした大友氏の支族・志賀貞朝が入城したと云われている。応安2年(1369年)以降に志賀氏房が騎牟礼城から移った説もある。
天正6年(1578年)耳川の戦いで豊後国・大友宗麟と薩摩国・島津義久が激突、島津義久が勝利する。天正14年(1586年)薩摩・島津氏が豊後国に侵攻するが、志賀親次の守る岡城は再三に渡り島津軍を撃退した。文禄2年(1593年)文禄の役で大友吉統は豊臣秀吉から鳳山撤退を責められ、所領を没収される。志賀親次も岡城を退去することとなった。
文禄3年(1594年)播磨国・三木から中川秀成が移封、3年掛りで大規模な修築を行った。このとき天守が築かれている。建物は岩盤の台地の上に築かれたため、台風 / 地震 / 火事 による被害を多く受けている。
明治維新後の廃城令によって廃城とされ、明治4年(1871年)から翌年に掛けて城内の建造物は全て破却された。現在残っているのは石垣のみである。
岡城址 桜の頃
“荒城の月”作曲者・瀧廉太郎は幼少期を竹田で過ごしており、岡城で曲のイメージを得たと云われている。
豊後国・佐伯さいき城(鶴ヶ城 / 鶴屋城)
■城の種別
山城
■築城者
毛利高政
■築城年
慶長7年(1602年)
■主な遺構
三の丸櫓門 / 石垣
三の丸櫓門
JR日豊本線・佐伯駅から217号線を南へ進む。25分ほどの歩道橋のある交差点を右折すると、右手の佐伯小学校に四教堂(しこうどう)跡がある。四教堂は、安永8年(1779年)8代藩主・毛利高標によって城内に創設された藩校。明治43年(1910年)佐伯藩役所跡の現地に移転する。突き当りに三の丸櫓門が見える。
[交通]JR日豊本線・佐伯駅-(徒歩30分)-三の丸櫓門
四教堂跡
三の丸櫓門から北に進み、すぐに左折する。左手に案内地図などがあり、毛利神社の鳥居を潜る。昭和3年(1928年)山頂の天守台跡に毛利神社が創建されたが、社殿は昭和20年(1945年)の空襲で破壊された。
三の丸石垣 毛利神社の鳥居
堀切に架かる橋 石垣 山頂の郭への道
本丸石垣 天守台
本丸へは、翠明の道 / 登城の道 / 独歩碑の道 がある。往路は登城の道を登るが、つづら折りが続く道は意外ときつい。天守台跡に祠がある。三の丸櫓門から本丸跡まで25分掛かる。
帰路は眺めの良い翠明の道を下る。
翠明の道からの眺望 三の丸石垣
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで東軍に与した毛利高政は、慶長6年(1601年)豊後国・日隈城より2万石で入封する。豊後佐伯氏の居城であった栂牟礼(とがむれ)城に入城する。文禄の役で大友義統に従っていた豊後佐伯氏14代・佐伯惟定は、文禄2年(1593年)大友氏改易により居城を失っている。栂牟礼城は険阻な山城で不便であったため、慶長7年(1602年)番匠川河口近くの八幡山に築城する。元和3年(1617年)二の丸より失火、本丸 / 天守 を焼失した。寛永14年(1637年)3代藩主・毛利高尚のとき、山麓の三の丸に居館が移された。以降、城の中心施設として利用された。山上の本丸 / 二の丸 は放置され荒廃したため、宝永6年(1709年)6代藩主・毛利高慶によって天守以外の建物が復興、修復されている。明治4年(1871年)廃城され、三の丸以外の建物はすべて払い下げ撤去された。
武家屋敷跡 汲心亭門 安井の井戸
三の丸御殿櫓門前から北に延びる山際通りには、風情ある武家屋敷の雰囲気が残る。汲心亭(きゅうしんてい)門を潜ると、安井(あんせい)の井戸がある。藩医・今泉元甫が飲用水に苦しむ城下町の人々のために私財を投じて掘った井戸。唖泉(あせん)の井戸 / 甘泉(かんせん)の井戸 とともに今泉元甫の三義井(さんぎせい)と呼ばれている。これらの井戸は昭和初期まで生活用水として使われていた。
国木田独歩館は、明治26年(1893年)10月〜明治27年(1894年)7月末までの僅か10ヶ月間、当時22歳の国木田独歩と弟・収二(15歳)が下宿した坂本永年邸。国木田独歩が教師を務めた鶴谷学館の館長・坂本永年は、公私ともに面倒をみていた。
武家屋敷跡 国木田独歩館
養賢寺山門 養賢寺本堂 養賢寺庫裡

慶長10年(1605年)創建の養賢寺は、毛利家の菩提寺。本堂は昭和4年(1929年) / 庫裡は弘化2年(1845年) の建立。