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越後国・出雲崎代官所
■城の種別
代官所
■築城者
江戸幕府
■築城年
元和2年(1616年)
出雲崎代官所跡
JR越後線・出雲崎駅から大門交差点を左折して南西に進む。5分ほどすると352号線と合流、西に曲がりくねったアップダウンのある道を道なりに進む。“良寛と夕日の丘公園”への分岐手前左手に、浄玄寺がある。良寛の末の妹・みかが嫁いだ寺で、往時は海沿いにあったが平成26年(2014年)に移転した。
浄玄寺
町並みが見えるところで道は大きく左に進路を変え、下り坂になる。さらに大きく右に進路を変え、良寛堂の左手に出る。
出雲崎の町並み
良寛堂は良寛の生家・橘屋の屋敷跡にある。良寛は、江戸時代後期の曹洞宗の僧侶。宝暦8年(1758年)出雲崎の名主・橘屋の長男子として生まれた。良寛は跡を継ぐために名主見習いをしたが、見習い2年目の18歳の時に光照寺で修行を始めた。この年は全国各地で米騒動が頻発、越後でも天災 / 悪疫 / 凶作によって餓死者を出していた。年貢の厳しさで貧しい暮らしに苦しめられた人たちが反抗、米騒動の首謀者はみせしめに処刑された。獄門での首切りの立会い が嫌で、出家の動機と云われている。
良寛堂
出雲崎は徳川幕府の直轄地(天領)で、北国街道の宿場町 / 佐渡金山の荷揚げ / 北前船の寄港地 として賑わった。佐渡で産出した金銀は出雲崎に陸揚げされ、北国街道を経由して江戸へ輸送された。出雲崎宿は日本海と小高い丘に挟まれた細長い平地にあり、約4kmに及んでいた。道の両脇に“妻入り家屋”が軒を連ねていた。“妻入り家屋”とは、建物の正面玄関が妻側(短い壁側)にあって奥行きが長い構造の建物。往時は間口広さに応じて屋敷税が掛けられていたため、この様な街並みになった。
江戸時代の出雲崎は北国街道屈指の宿場町で、人口は約2万人もいたと云われている。越後随一の人口密度を誇り、経済の中心地だった。
北国街道沿いの妻入り家屋

良寛堂から北国街道を北東に進むと、左手に遊郭建築物がある。

遊郭建築物(左側)
良寛堂の左手に出た352号線は、海岸の住吉町交差点に突き当たる。352号線は南西に進み、北東に進む道は402号線になる。402号線を北東に進むと出雲崎港郵便局がある。風景印は、良寛堂の図柄になっている。
出雲崎港郵便局風景印
石井神社への階段 住吉神社
良寛堂から北国街道を南西に進むと、すぐ左手に石井神社の摂社・住吉神社がある。石井神社は和銅4年(712年)佐渡から移転した出雲崎町の総社。住吉神社左手の長い石段を登ったところにある。石井神社と同じく、日本海に近い丘には寺社があるが、丘を渡り歩くことはできない。
芭蕉園 / 銀河の序を刻んだ碑(中央) 芭蕉像

住吉神社からすぐの左手に芭蕉園がある。元禄2(1689年)7月4日 弥彦を発った芭蕉は出雲崎に着いて1泊、7月5日には出雲崎宿から次の鉢崎宿に向かっている。ここは芭蕉が宿泊した大崎屋跡の向かいにあり、良寛の生家・橘屋と権力争いをした廻船問屋・敦賀屋の跡地である。
出雲崎は「荒海や 佐渡によこたふ天の河」の詩想が生まれた地で、直江津・聴信寺で詠んだ。芭蕉園には、銀河の序を刻んだ碑 / 芭蕉像 / 東屋 がある。

北国街道妻入り会館 出雲崎寄港地の町家 出雲崎尼瀬郵便局風景印

芭蕉園から10分ほどすると、左手に出雲崎尼瀬(あまぜ)郵便局がある。風景印は、石油機械掘第一号井 / 記念碑 の図柄になっている。
出雲崎町尼瀬の沖合は、昔から海面に石油が浮き出ていた。明治の初めにランプが使われる様になり、石油の需要が高まった。活発に採掘が行われたが、僅かしか採れなかった。明治23(1890年)米国から輸入した綱掘
(つなぼり)式掘さく機で井戸を掘り、明治24年(1891年)掘削に成功した。この第一号井戸は国内初の石油機械掘りで、近代石油産業の発祥を伝えるものとなっている。

出雲崎のマンホール

出雲崎おけさを踊る女性 / 日本海の荒波と沈む夕日 / 油田の鉄塔 / 生産量日本一の紙風船 の図柄。

波模様の背景 / 江戸時代から正月の行事として行われてきた獅子舞 の図柄
出雲崎尼瀬郵便局を過ぎると、風情ある妻入り家屋の町並みが続く。

出雲崎尼瀬郵便局から10分ほどの左手にポケットパークがあり、すぐのT字路を左折して坂を登ると右手に出雲崎代官所跡がある。出雲崎は元和2年(1616年)徳川幕府の天領となり、代官所が置かれた。何回か移転したが、ここが最後の代官所であった。最初は良寛の生家・橘屋に近くで町の中央に位置、上杉氏時代の陣屋(秋田屋敷)にあった。寛永2年(1624年)京屋与右衛門家があった尼瀬の稲荷町 / 享保9年(1724年)地滑りで被害を受け出雲崎の羽黒町 / 宝暦13年(1763年)再び尼瀬町の稲荷町 / 文化5年(1808年)地滑りで同じ尼瀬町内の現在地 に移転した。
[交通]JR越後線・出雲崎駅-(徒歩50分)-良寛堂-(徒歩30分)-出雲崎代官所跡

出雲崎代官所跡碑
出雲崎代官所獄門跡 石柱 尼瀬獄門跡 供養塔

代官所から北国街道に戻り、南西に進むと5分ほどの左手に尼瀬獄門跡がある。代官所の附属機関として牢屋も造られ、尼瀬獄門は極刑の執行をする刑場であった。数多くの斬首がなされ、重罪人の生首は浜辺に晒されたと云われている。地蔵堂 / 天明3年(1783年)造立と云われる供養塔 がある。

地蔵堂
2023年7月26日(水)新潟駅05:56-(越後線)-06:47吉田駅06:51-(越後線)-07:24出雲崎
出雲崎駅から出雲崎宿の路線バスは、土・日は運休 / 平日は2往復 となっている。到着した時間帯に運行はなかった。乗り合いタクシーの情報があったが、乗り場には停まっていなかった。地元の方に路線バスやタクシーのことを聞いて、諦めて歩くことにする。出雲崎駅と良寛堂往復 / 出雲崎宿場内往復 で16kmほどを歩く。当日は午前中から防災放送で熱中症アラートが案内されており、曰く「出歩かないでください」だった。良寛堂から出雲崎駅の帰路は、足がつり痛みのため時々立ち止まる状態になる。500mlペットボトル11本を飲み干す。30分は持つ瞬間冷却剤を2ヶ使用するが、あっという間にぬるま湯になった。
越中国・富山城(安住あずみ城 / 浮城うきしろ
■城の種別
平城
■築城者
神保長職
■築城年
天文12年(1543年)
■主な遺構
千歳御門 / 石垣 / 堀
■主な再建造物
模擬天守
 
模擬天守
本丸 / 模擬天守 千歳御門 佐藤記念美術館
JR北陸本線・富山駅から、富山駅前交差点を南西へ進む。10分ほどの安住橋交差点左手に、富山城址公園がある。富山の地は北陸街道と飛騨街道が交わる越中の要衝。神通川の流れを城の防御に利用、水に浮いたように見えたため「浮城」の異名をとった。室町時代の越中守護は三管領の畠山氏であったが越中には来任せず、東部を椎名氏 / 西部を神保氏に守護代として治めさせていた。天正9年(1581年)または天正10年(1582年)に佐々成政が富山城主となる。天正13年(1585年)羽柴秀吉に攻められ降伏、富山城は破却される。越中一国が前田家に与えられた後、寛永16年(1639年)加賀藩第三代藩主・前田利常が次男利次に10万石を与えて分家させ富山藩が成立した。明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となる。建築物は払い下げや、解体される。本丸 / 西の丸 / 二の丸の一部 が富山城址公園となっている。富山城の石垣は主要な門の周囲のみであり、他の大部分は土塁の城であった。模擬天守東側に石垣が新造され、地下駐車場入り口が城門風になっている。江戸時代に天守は築かれなかったが、昭和29年(1954年)模擬天守(富山市郷土博物館)が建てられる。昭和36年(1961年)隅櫓風の佐藤記念美術館が開館した。明治時代に移築された千歳御殿の門が、平成19年(2007年)本丸東側に再び移築された。平成20年(2008年)移築された千歳御門の横に、石垣が完成した。富山城本来の歴史的な景観と異なるものになっている。
[交通]JR北陸本線・富山駅-(徒歩/約10分)-富山城址公園
越中国・高岡城
■城の種別
平城
■築城者
前田利長
■築城年
慶長14年(1609年)
■主な遺構
堀 / 石垣 / 井戸
高岡城堀

あいの風とやま鉄道・高岡駅より北へ、高岡駅前交差点を右折して58号線を北東へ進む。10分足らずの古城公園前交差点の北側に、高岡古城公園がある。慶長10年(1605年)初代加賀藩主・前田利長は隠居して富山城に入るが、慶長14年(1609年)富山城は焼失する。前田利長は魚津城に移り、新たに築城したのが高岡城である。前田家の客将だった高山右近が縄張した。慶長19年(1614年)前田利長は死去、元和元年(1615年)一国一城令により廃城となる。廃城後は加賀藩の米蔵 / 塩蔵 / 火薬蔵 / 番所 などが置かれ、軍事拠点としての機能は密かに維持されていた。
[交通]あいの風とやま鉄道・高岡駅-(徒歩/約10分)-高岡古城公園

本丸 土橋の石垣 朝陽橋
本丸と二の丸を結ぶ土橋の石垣 / 三の丸に民部井戸 が残る。三の丸と本丸に朝陽橋が架っている。
民部井戸
射水神社鳥居 射水神社 高岡市護国神社
本丸跡に越中国一宮射水神社がある。奈良時代以前の創建と云われている、明治8年(1875年)現在地に移転した。二の丸跡に昭和10年(1935年)創建の招魂社が始まりの高岡市護国神社がある。
高岡古城公園に高山右近銅像がある。織田信長 / 豊臣秀吉 に抜擢され明石12万石の大名となったが、切支丹禁令を拒否して追放された。細川忠興の斡旋により、豊臣秀吉の内諾を得て加賀藩に1万石以上の高禄で迎えられた。前田利長が隠退後の慶長14年(1609年)に築かれた高岡城は、築城の名手・高山右近が縄張りをした。徳川幕府の禁教令は愈々厳しく、慶長19年(1615年)高山右近は国外追放となる。ルソンに渡ると大歓迎を受けたが、間もなく悪疫に冒され元和元年(1616年)に生涯を終えた。
高山右近銅像
あいの風とやま鉄道・高岡駅から南に10分ほどのところに瑞龍寺(有料施設)がある。前田利長が織田信長・信忠の追善のため、文禄3年(1594年)金沢に創建した法円寺が始まり。慶長18年(1613年)高岡に移され、慶長19年(1614年)前田利長は死去に伴い菩提寺となる。前田利長の法名・瑞龍院に因んで瑞龍院と改称、後に瑞龍寺に改称する。
瑞龍寺山門
越後国・長岡
■城の種別
平城
■築城者
堀直寄
■築城年
元和2年(1616年)
本丸跡碑
元和2年(1616年)堀直寄が蔵王堂城に入封した。蔵王堂城が信濃川に面して洪水に弱いことから、南の信濃川からやや離れた長岡に築城する。元和4年(1618年)牧野忠成が入封、明治3年(1870年)の廃藩まで続く。慶応4年(1868年)戊辰戦争によって長岡城は焼失する。明治31年(1898年)本丸跡地に長岡駅が開業した。他は市街地として利用され、遺構は残っていない。JR長岡駅の西側広場に、長岡城本丸跡碑がある。
越後国・高田城(鮫ヶ城 / 関城 / 高陽城)
■城の種別
平城
■築城者
松平忠輝
■築城年
慶長19年(1614年)
■主な遺構
土塁 / 堀
■主な再建造物
三重櫓
高田城模擬三重櫓
平成14年(2002年)に完成したえちごトキめき鉄道(旧JR信越本線)・高田駅の駅舎は、高田城をモチーフにしている。実は、駅前の通路を覆うアーケードとのこと。このアーケードは雁木と呼ばれ、古くから豪雪地帯に伝わるもの。歩道の雪よけの役目を果たしている。
えちごトキめき鉄道(旧JR信越本線)・高田駅
西堀に架かる西堀橋
えちごトキめき鉄道(旧JR信越本線)・高田駅より東へ進むと、右手に高田公園がある。慶長15年(1610年)徳川家康の六男・松平忠輝が、信濃川中島から福島城に入封する。慶長19年(1614年)福島城を廃城、高田城を天下普請によって築城する。城地の縄張りと工事の総監督は、忠輝の舅・伊達政宗が行った。土塁が採用され石垣は築かなかったと云われていたが、明治初年に本丸付近を撮影した写真に石垣が写っていると云う。越前福井藩と加賀前田藩を押さえ込む配置で、幕府にとって重要な位置付けとなっていた。慶長19年(1614年)築の三重櫓は天守の代用とした。現在の模擬三重櫓は、平成5年(1993年)に復興されたもの。明治3年(1871年)廃城となり、陸軍第13師団の駐屯地司令部として使用された。旧城地の東半分は旧状を留めていないが、本丸を含めた西半分には堀 / 土塁の一部が残る。陸軍第13師団の入城時に3000本を超す桜が植栽された。堀には失職した旧士族のための殖産策として蓮根栽培が行われ、外堀の大半は蓮に覆われている。
[交通]えちごトキめき鉄道(旧JR信越本線)・高田駅-(徒歩15分)-高田公園
上越市マンホールは、高田城の外堀に浮かぶ白鳥と黒鳥 / 堀に咲く蓮の花 / 背後に市の木・桜 の図柄になっている。
上越市マンホール
高田城址公園に、国登録有形文化財の小林古径(こけい)邸がある。日本画家・小林古径は、明治16年(1883年)新潟県中頚城郡高田土橋町(現:上越市)に生まれる。大正9年(1920年)東京都大田区馬込の農家を改造した画室を設けた。昭和9年(1934年)画室に隣接したところに、設計:吉田五十八 / 施工棟梁:岡村仁三 による本邸を新築する。平成5年(1993年)解体され、平成7年(1995年)上越市は本邸の解体部材を購入する。解体時に作図された図面に基づき、平成13年(2001年)高田城二の丸跡に画室をあわせて復元した。
小林古径邸
越後国・新発田城(菖蒲あやめ城 / 舟形城)
■城の種別
平城
■築城者
新発田氏
■築城年
鎌倉時代初期
■主な遺構
表門(重文) / 二の丸隅櫓(重文) / 石垣 / 堀
■主な再建造物
三階櫓 / 辰巳櫓
二の丸隅櫓
表門 辰巳櫓 三階櫓
JR羽越本線・新発田駅から北西へ道なりに進む。左手にある大手郵便局の先の交差点を右折して北へ進むと、突き当りに新発田公園がある。大手郵便局までの間に新発田城への標識があるが、城下町特有の道で解りにくい。最初に城が築かれた時期は解っていない。鎌倉幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱を祖とする加地氏の庶流、新発田氏による築城と云われている。天正9年(1581年)新発田重家が上杉景勝に対して反乱を起こす。天正15年(1587年)新発田城は落城、新発田氏は滅亡する。上杉氏の会津転封に伴い、慶長2年(1597年)溝口秀勝が入封して明治まで続く。本丸北西隅の3重櫓が新発田城における実質的な天守であった。寛文8年(1668年)に焼失、延宝7年(1679年)に再建される。明治6年(1873年)廃城令により破却されるが、平成16年(2004年)三階櫓と辰巳櫓が復元される。遺構として残る表門 / 二の丸隅櫓は重文。新潟県内では唯一残る、江戸時代当時の城郭建築物となっている。明治政府に接収された城跡には、陸軍の歩兵第16連隊が置かれた。現在も陸上自衛隊の駐屯地となっている。二の丸隅櫓 / 本丸表門 / 辰巳櫓は観覧できるが、自衛隊の敷地に入り込んだ所にある三階櫓の内部は公開されていない。
[交通]JR羽越本線・新発田駅-(徒歩/約20分)-新発田公園
越後国・村上城(舞鶴城 / 本庄城)
■城の種別
平山城
■築城者
本庄房長
■築城年
明応年間(1492年〜1501年)
■主な遺構
石垣 / 堀
本丸石垣
古峯神社 藤基神社神門 藤基神社
JR羽越本線・村上駅から530号線を東へ進むと、20分ほどの左手に古峯神社がある。往時はここに飯野門があった。村上城の三ノ丸には、北から順に山辺里門 / 大手門 / 飯野門 が設けられていた。飯野門は米沢街道から村上城下に入った旅人が、最初に目にする門であった。飯野門跡から30号線を挟んだ南側の三の丸跡に、享保2年(1717年)創建の藤基(ふじも)神社がある。徳川家康の異母弟とされる内藤信成と歴代城主を祀る。
飯野門跡からすぐの突き当りを左折、次の交差点に標識があり右折する。突き当りに村上城址登城口がある。
[交通]JR羽越本線・村上駅-(徒歩20分)-村上城飯野門跡-(徒歩20分)-本丸
村上城址登城口 石柱
四ツ門跡付近 黒門跡付近 本丸
明応年間(1492年〜1501年)村上に居所を移した本庄房長が、標高135mの臥牛山に築城した。木柵で防御された中世式の城郭であった。慶長3年(1598年)領主となった村上頼勝が近世城郭への改築工事を行い、元和4年(1618年)領主となった堀直寄の時代に完成した。戊辰戦争では、内藤家の村上藩は親幕府派と新政府派で分裂する。慶応4年(1868年)親幕府派の藩士が火を放って庄内方面へ脱出、庄内藩兵と合流し新政府軍と羽越国境で交戦した。明治4年(1871年)に廃城となり、明治8年(1875年)までに焼け残っていた建築物は解体・売却された。
多聞櫓跡
越後国・春日山城(蜂ヶ峰城)
■城の種別
山城
■築城者
上杉氏
■築城年
南北朝時代(1336年〜1392年)
■主な遺構
土塁 / 空堀
上杉謙信銅像
大手道 三の丸跡 春日山神社
JR信越本線・春日山駅から西へ進む。15分ほどの突き当りを左折する。春日山町交差点を右折すると、左手に大手道道標がある。直進すると昭和44年(1969年)造立の上杉謙信銅像 / 明治34年(1901年)創建の春日山神社 に至る。左折して大手道を進むと、番所址〜三の丸跡と大きく回り込む様に本丸跡に至る。訪れた時は三の丸跡手前からは雪に覆われた道となり、三の丸跡には雪が残っていた。南北朝時代に越後国守護である上杉氏が築城したのが始まりと云われている。永正4年(1507年)守護代・長尾為景が上杉定実を擁立して、守護・上杉房能を追放する。上杉定実が守護として府中に入り、長尾為景が春日山城主となる。永禄4年(1561年)山内上杉家の名跡を譲られた、長尾景虎(上杉謙信)の城として知られている。上越市中部にある春日山山頂に築かれ、天然の要害を持つ難攻不落の城とされる。春日山の周辺には数多くの支城や砦が配置され、広義の春日山城を構成していた。山中には春日山城と支城や砦を結ぶ軍事用道路があった。慶長3年(1598年)上杉景勝が会津へ転封、堀秀治が入封する。慶長12年(1607年)直江津港近くに福島城を築城、春日山城は廃城となる。春日山の名称は、奈良・春日大社から勧請(かんじょう)した春日神社に由来する。
[交通]JR信越本線・春日山駅-(徒歩25分)-大手道道標-(徒歩15分)-上杉謙信銅像 / 春日山神社