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尾張国・古渡ふるわたり
■城の種別
平城
■築城者
織田信秀
■築城年
天文3年(1534年)
古渡城址碑
美濃路(旧東海道・熱田宿〜旧中山道・垂井宿)の19号線(伏見通)古渡交差点を東へ進むと、すぐ左手に元禄3年(1690年)創建の東本願寺名古屋別院がある。
山門 本堂

天文3年(1534年)織田信長の父・織田信秀が東南方に備えるために築城した。天文15年(1546年)織田信長は古渡城で13歳のとき元服した。天文17年(1548年)美濃に侵攻した織田信秀が留守のとき、清洲の守護代・織田信友に攻められるが落城はしなかった。同年に織田信秀は末森城を築いて拠点としたため、古渡城はわずか14年で廃城となった。山門を潜った左手に、古渡城址碑がある。
尾張藩2代藩主・徳川光友が古渡城跡地約1万坪を寄進、元禄3年(1690年)東本願寺名古屋別院が創建された。
[交通]名古屋市営地下鉄名城線・東別院駅-(徒歩5分)-東本願寺名古屋別院

伊豆国・堀越公方館跡 / 北条館跡 / 韮山城 / 韮山代官屋敷
伊豆箱根鉄道・韮山駅から北へ、すぐの133号線を左折して西へ進む。すぐ左手に隣光院 / 正長元年(1428年)創建と云われている八坂神社 と続く。
隣光院 八坂神社
八坂神社交差点を左折して136号線(下田街道)を南へ進む。5分ほどすると、右手に正応2年(1289年)北条正宗によって創建された成福寺がある。
成福寺
すぐのJA伊豆の国北条支店のあるT字路交差点を右折すると、左手に案内板がある。すぐの十字路を左折すると、すぐ右手に光照寺がある。北条時政が源頼朝のために建てた宿館があったところと云われている。願成就院が隆盛の頃には、浄土庭園だったところとも云われている。
光照寺

政子産湯の井戸石標 政子産湯の井戸
十字路まで戻り西へ進む。すぐのT字路南東側に、東急グループ・五島慶太(ごとう けいた)造立の「政子産湯の井戸」石標がある。T字路南西側に「北条政子産湯の井戸」 /「史跡・北条氏邸跡(円成寺跡)」 標識がある。左折するとすぐの突き当りに、北条政子産湯の井戸がある。北条氏邸跡の東側に位置している。近隣の人々の間に、この井戸に安産を願うという信仰もあった。現在も湧き出ているが、飲料はできない。
伝・堀越御所跡

T字路まで戻り西へ進むと、すぐ右手に伝・堀越御所跡がある。室町幕府8代将軍・足利義政は対立する古河公方・足利成氏に対抗、長禄2年(1458年)足利政知を鎌倉公方とした。鎌倉に入ることが出来ずに、伊豆堀越に留まることになった。初めは国清寺を陣所としたが、長禄4年(1460年)に焼き討ちされた。伝・堀越御所跡はその後に造営されたところで、延徳5年(1491年)に伊勢宗瑞(そうずい)に攻め滅ぼされるまで続いた。伊勢宗瑞の通称は伊勢新九郎、 俗に北条早雲で知られている。北条を名乗ったのは、伊勢宗瑞の後を継いだ息子の氏綱からである。

[参考]

古河公方の分家筋にあたる足利義明は、本家と覇権を争う様になった。下総国。千葉郡小弓城(現:千葉市中央区と緑区の辺り)が本拠地だったため、小弓公方(おゆみくぼう)と呼ばれた。古河公方家と小弓公方家は、小田原北条氏や千葉氏との戦によって衰退していた。名門家系であったことから、豊臣秀吉に再興を許された。小弓公方家の足利国朝に対して古河公方家跡取の足利氏姫を娶ることを奨め、下野国喜連川で400貫の所領を与えた。江戸時代には5000石の喜連川藩となった。徳川家康は名家足利家として10万石の格式の大名として遇し、参勤を免除した。明治に喜連川氏は足利姓に復している。

北条氏邸跡

伝・堀越御所跡からすぐに、狩野川沿いの道に突き当たる。左折すると、すぐ左手に北条氏邸跡(円成寺跡)がある。調査中のため立ち入ることはできない。平安時代〜鎌倉時代の北条氏居館跡である。元弘3年 / 正慶2年(1333年)東勝寺合戦で鎌倉幕府は滅亡、北条一族や家臣らとともに自刃した。鎌倉幕府14代執権・北条高時の母・覚海円成は、一族の菩提を弔うため館跡に円成寺を創建した。堀越御所の造営のとき円成寺は接収され、寺域は縮小されその後に廃寺となった。

北条氏邸跡
願成就院山門 願成就院大御堂 願成就院本堂
北条時政の墓 守山八幡宮拝殿 守山八幡宮本殿

136号線(下田街道)まで戻り、南へ進む。すぐの交差点を越えると、願成就院の標識があり右折する。すぐ左手に文治5年(1189年)創建の願成就院 / すぐの突き当りに大化3年(647年)創建の守山八幡宮 がある。願成就院は北条政子の父親で鎌倉幕府初代執権・北条時政によって創建され、北条時政の墓がある。大御堂にある運慶作の仏像5躯は国宝。大御堂の左手にある茅葺の本堂は、寛政元年(1789年)の建立。守山八幡宮は、治承4年(1180年)源頼朝が源氏再興を祈願して挙兵したところ。長い階段を登ると、寛永9年(1632年)久能城主・榊原照久によって建立された本殿がある。

136号線(下田街道)まで戻り、南へ進む。すぐ右手に、鎌倉時代に武田信光が創建した信光寺がある。武田信光から15代目が武田信玄になる。
信光寺
伊豆の国市(旧韮山町)マンホール
韮山反射炉 韮山反射炉 / 江川英龍銅像

信光寺から15分ほどの反射炉入口交差点を左折して、東へ進む。10分ほどのT字路に標識があり右折すると、すぐの突き当りに韮山反射炉がある。ユネスコの世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」に含まれている。 欧米諸国の開国要請に対抗して江戸を守るために、品川沖に台場が造られた。据える大砲を鋳造するため、安政4年(1857年)に完成した金属溶解炉。元治元年(1864年)使用中止されるまで、大小の大砲数百門を鋳造した。建設を建議した韮山代官・江川英龍の銅像がある。伊豆の国市(旧韮山町)マンホールは、富士山 / 韮山反射炉 / 特産の苺 の図柄になっている。

伊豆国・韮山城

■城の種別
平山城
■築城者
外山豊前守
■築城年
文明年間(1469年〜1486年)
■主な遺構
水堀 / 土塁

韮山城本丸
熊野神社 本丸跡から煙硝曲輪方向 城池親水公園

T字路まで戻り、136号線を北へ進む。20分ほどすると、韮山城跡 / 城地親水公園 / 江川邸 の標識があり、右折する。標識に従って進むと、熊野神社を経由して本丸跡に行ける。文明年間(1469年〜1486年)に初代堀越公方足利政知の家臣。外山豊前守が築城したのが始まりと云われている。延徳5年(1491年)堀越公方を攻め滅ぼした伊勢宗瑞(そうずい)によって本拠地として本格的に改修された。伊勢宗瑞の通称は伊勢新九郎、 俗に北条早雲で知られている。北条を名乗ったのは、伊勢宗瑞の後を継いだ息子の氏綱からである。韮山高校と城池の間の南北に長い丘に築かれて、館は韮山高校にあったと云われている。伊勢宗瑞はここを拠点に伊豆の各拠点の支配を進めた。相模に領土を広げた後も小田原城に移ることなく、没するまでここを居城とした。以降も 小田原城を本拠として関東を支配する北条氏の重要拠点だった。天正18年(1590年)小田原征伐では、豊臣秀次に攻撃される。北条氏康の四男・北条氏規が籠城、約百日間も持ち堪えて開城した。関東に入った徳川家康の家臣・内藤信成が居城とするが、慶長6年(1601年)に転封され廃城となった。

表門 主屋 書院

韮山反射炉から韮山城に向かう途中から江川邸の標識が多く、誘導される様に立ち寄る。江戸時代東国の幕府直轄領を支配するために韮山代官所が設置された。慶長元年(1596年)江川英長が伊豆代官職に任命されたのが始まりとされる。韮山代官所は、支配地域は伊豆国 / 駿河国 / 相模国 / 武蔵国に及び、幕末には甲斐国も管轄していた。伊豆諸島を管轄下に置いたこともある。江川邸(有料施設)は韮山代官屋敷で、主屋 / 書院 / 仏間 / 蔵 / 元禄9年(1659年)建立の表門 / 塀 / 神社 が、重文になっている。
韮山代官屋敷だけのことで、重文になっているとしか思えない。1600年頃に建てられたと云われる主屋は、茅葺きが銅板葺きになっている。書院の屋根は茅葺きであるが、昭和初期の玄関の様に改造されている。滑稽なのは茅葺き屋根には似合わない波打ちガラス窓である。書院には近づけず、主屋の廊下から見るだけになる。この程度で500円も高い。
地方には重文でないが、本陣跡などこれ以上の建物が数多く存在する。 願成就院にあった寛政元年(1789年)の建立の茅葺の本堂の方が、格調高く思える。

江川邸東側の道を北へ進む。5分ほどの交差点を左折して道なりに西へ進む。10分ほどすると、右手に韮山郵便局がある。風景印は、韮山反射炉 / 富士山 / 特産の苺 / 温泉 の図柄になっている。5分ほどすると伊豆箱根鉄道の線路んを渡り 左折すると伊豆箱根鉄道・韮山駅がある。

韮山郵便局風景印
駿河国・沼津城(観潮城)
■城の種別
平山城
■築城者
水野忠友
■築城年
安永6年(1777年)
沼津城本丸址碑

JR東海道本線・沼津駅から52号線を南へ、大手町交差点の南東側に本丸跡の中央公園がある。永禄12年(1569年)甲斐武田氏と相模北条氏との甲相同盟が破綻、駿河・伊豆国境付近が緊張した際に北条氏により砦が築かれたのが始まり。天正7年(1579年)武田勝頼が跡地に三枚橋(さんまいばし)城を築城する。天正18年(1590年)津軽為信は、小田原征伐で東下する途上の豊臣秀吉にこの城で謁見し所領を安堵される。慶長6年(1601年)大久保治右衛門忠佐が城主となる。慶長18年(1613年)死去後に大久保家は断絶、慶長19年(1614年)廃城となる。中央公園の沼津城本丸址周囲の石は、付近で工事の際に発見された三枚橋城の石垣に使われていたもの。安永6年(1777年)水野忠友が2万石で沼津に入り、三枚橋城跡地に築城。水野家8代の5万石の城下町として幕末を迎える。明治6年(1873年)の廃城令前に破却された。城郭は失われ、本丸跡の中央公園に沼津城本丸址碑がある。沼津市岡宮・光長寺辻之坊山門は、城門を移築したものと云われている。
JR東海道本線・沼津駅-(徒歩10分)-中央公園

駿河国・興国寺城(根古屋城)
■城の種別
平山城
■築城年
文明年間(1469年 〜1487年)
■主な遺構
石垣 / 土塁 / 空堀
本丸跡

JR東海道本線・原駅から北へ、原駅入口交差点を右折して旧東海道を東へ進む。原交番東交差点を左折して北へ進む。しばらくすると、突き当りに興国寺城跡がある。本丸跡に安政4年(1857年)創建の穂見神社、背後に天守台がある。興国寺を鳥谷に移転させ、その跡に築城したことに由来すると云われている。石脇城に在城していた伊勢新九郎盛時(北条早雲)は、今川氏の家督争いの活躍により長享元年(1487年)興国寺城を与えられる。延徳5年(1491年)堀越公方・足利茶々丸を攻め滅ぼし、伊豆国の領主となり韮山城に移る。この後駿東郡の地は、今川氏 / 武田氏 / 北条氏が奪い合うことになる。天正10年(1582年)武田氏滅亡後は、徳川家康が竹谷松平玄蕃允清宗を配する。天正18年(1590年)家康の関東入封後は、中村一氏が在城する。関ヶ原の戦い後は天野康景が1万石で入封するが、改易となり慶長12年(1607年)廃城となる。
[交通]JR東海道本線・原駅-(徒歩30分)- 興国寺城跡

穂見神社

穂見神社背後の天守台

駿河国・駿府城(府中城 / 静岡城)
■城の種別
平城
■築城者
徳川家康
■築城年
天正13年(1585年)
■主な遺構
石垣 / 堀
■主な再建造物
二の丸巽櫓 / 東御門(櫓門) / 続多聞櫓
二の丸巽櫓と東御門

JR静岡駅から北西へ、5分ほどすると右手に静岡県庁が見えてくる。北側に駿府公園がある。応永11年(1404年)今川範政が築いた館が始まりと云われている。徳川家康は少年時代に今川氏の人質として日々を送った。永禄11年(1568年)武田信玄の攻撃を受け落城する。天正13年(1585年)徳川家康が改修、築城する。徳川秀忠に将軍職を譲り、大御所として駿府に隠居した。現在残る城郭は、このときに天下普請によって大修築されたもの。 元和2年(1616年)駿府城で家康が没するまで、駿府は江戸と並ぶ政治・経済の中心地として繁栄した。外堀と中堀の間にある三の丸跡に官庁や学校などの公共施設、中堀の内側にある本丸・二の丸跡は駿府公園となっている。
[交通]JR静岡駅-(徒歩/10分)-駿府公園

駿河国・丸子まりこ
■城の種別
山城
■築城者
斎藤安元
■築城年
応永年間(1394年〜1427年)
■主な遺構
曲輪 / 土塁 / 堀
本丸後
旧東海道・丸子宿の丁子屋から北西へ進む。Y字路を左へ、1号線を歩道橋で越える。右手に吐月峰入口バス停(静岡方面)がある。1号線を西へ進み、すぐの駿府匠宿入口交差点を右折する。すぐ左手の津島神社に丸子城案内板がある。5分ほどすると丸子城入口標識があり、左折して険しい山道を登る。15分ほどすると、丸子稲荷神社奥宮と丸子城案内板がある。土橋跡〜大手曲輪跡〜北曲輪跡〜二の曲輪跡〜堀切〜枡形虎口跡〜一の曲輪跡〜本丸跡 と進む。本丸跡から急坂を下ると、誓願寺に至る。5分ほどの1号線に、二軒家バス停(静岡方面)がある。歴史的に北城と南城に分けられ、北城は応永年間(1394年〜1427年)に駿河国守護・今川家の家臣・斎藤安元によって築城された。宇津谷城 / 鞠子城 の別名がある。南城は、今川氏親が文明年間(1469年〜1488年)の終わり頃に城域を拡大した。三角(みかど)城 / 赤目ヶ谷砦の 別名がある。南城本丸から北城主郭間の西側斜面には、南北に長大な空堀が設けられている。今川義忠が文明8年(1476年)に戦死、家督争いが起きる。その際、龍王丸(後の今川氏親)は丸子城で暮らしていた。永禄11年(1568年)武田信玄が駿河に侵攻、丸子城を掌握する。天正9年(1581年)高天神城落城前に、放棄される。以降は徳川家康に属したが、天正18年(1590年)の関東移封に伴い廃城となった。
[交通]吐月峰入口バス停-(徒歩25分)-丸子稲荷神社奥宮-(徒歩15分)-本丸跡-(徒歩20分)-誓願寺-(徒歩5分)-二軒家バス停
津島神社 丸子稲荷神社奥宮 誓願寺
誓願寺は、建久年間(1190年〜1199年)源頼朝の創建。天文年間(1532年〜1555年)戦火により類焼したが、永禄11年(1568年)武田信玄により再建された。大阪冬の陣の発端となった事件を家康公に弁明した豊臣家の家臣、片桐且元の墓がある。
駿河国・田中城(亀甲城 / 亀井城 / 徳之一色城)
■城の種別
平城
■築城者
今川氏
■築城年
天文6年(1537年)
■主な遺構
本丸櫓 / 石垣 / 堀
不浄門が旭傳院に移築され現存する。
本丸櫓
JR西焼津駅より北へ、突き当りの交差点を右折する。豊田交差点を左折して、224号線を北西へ進む。東名高速道路を潜り、瀬戸川を渡る。十字路の右手に旭傳院の標識があり、右折すると旭傳院がある。224号線に戻り、北西へ進む。六間川の手前を右折すると、突き当りに田中城下屋敷がある。224号線に戻り道なりに進むと、西益津小学校校門前に田中城本丸跡標柱がある。道なりに進むと、大手交差点で1号線と交差する。右折するとすぐ右手に、元亀年間(1570年〜1573年)創建の田中神社がある。田中城本丸に鎮座、明治23年(1890年)移転する。大手交差点を直進すると、旧東海道と交差する。円形輪郭式縄張の城で、三重に堀が巡らされている。二の丸と三の丸に丸馬出しが計6箇所設けられており、武田流城郭の特徴を示している。武田氏による駿河侵攻以降、三河の徳川氏に対抗する駿河西部の城砦網の要になった城。徳川家康の死因とも云われている鯛の天ぷらを食した場所がこの田中城である。本丸・二の丸跡に西益津小学校 / 三の丸跡に西益津中学校があり、周囲も宅地化されいる。二の丸・三の丸の堀の一部 / 三の丸平島口付近に土塁 / 虎口の石垣が残る。田中城下屋敷に、本丸櫓や米倉などが移築されている。本丸櫓は明治4年(1871年)旗本に払い下げられ、移築して住居として利用されてきた。昭和60年(1985年)寄贈され、田中城下屋敷に移築される。旭伝院に不浄門が移築され現存するが、城内屋敷の門とも云われている。
[交通]JR西焼津駅-(徒歩/25分)-田中城下屋敷
田中城本丸跡標柱 旭伝院山門 田中神社
遠江国・小山城
■城の種別
平山城
■築城者
馬場信春
■築城年
元亀2年(1571年)
■主な遺構
土塁 / 曲輪 / 堀
■主な再建造物
模擬天守
模擬天守
JR藤枝駅より静波方面行きバスに乗車、吉田高校前停留所で下車する。停留所が近づくと右手に模擬天守が見えてくる。弘長2年(1262年)創建能満寺の本堂左手から登る。今川氏によって築かれた砦が始まりで、元亀2年(1571年)武田氏により築城される。諏訪原城とともに大井川西方の防衛ラインを形成、高天神城攻略の拠点となった。天正10年(1582年)徳川家康の攻撃を受け落城、廃城となる。甲州流築城術の特徴である丸馬出しや三日月堀が残る。物見台があったと云われる三の丸跡に、昭和62年(1987年)築の模擬天守がある。
[交通]JR藤枝駅-(バス/30分)-吉田高校前-(徒歩/10分)-小山城天守
能満寺
遠江国・掛川城(懸川城 / 懸河城 / 雲霧城 / 松尾城)
■城の種別
平山城
■築城者
朝比奈泰煕
■築城年
文明年間(1469年〜1487年)
■主な遺構
二の丸御殿(重文) / 太鼓櫓
大手三の門(重文)が袋井市の油山寺に、蕗の門が掛川市円満寺に移築され現存する。
■主な再建造物
天守・大手門
復興天守

JR掛川駅から北へ、逆川を渡ると掛川公園がある。応永年間(1394年〜1427年)鶴見氏が砦を築いたのが始まりとも云われている。現在残る城郭は、天正18年(1590年)城主になった山内一豊による。文久元年(1861年)再建された二の丸御殿が現存している。
[交通]JR掛川駅-(徒歩/15分)-掛川城天守

油山寺山門(掛川城大手三の門) 円満寺山門(掛川城蕗の門
遠江国・横須賀よこすか城(松尾城 / 両頭城)
■城の種別
平山城→平城
■築城者
大須賀康高
■築城年
天正6年(1578年)
■主な遺構
石垣 / 土塁 / 堀跡
不開門が北西にある撰要寺 / 町番所が市役所大須賀支所北側 / 書院が袋井・油山寺 に移築され現存する。
横須賀城跡碑
玉石垣
JR東海道本線・袋井駅からバスに乗車、七軒町バス停で下車する。七軒町バス停から東へ進む。すぐの北側に、堀跡の荒れ地が続く。案内板のあるT字路を左折して北へ進むと、すぐ右手に横須賀城跡公園がある。
横須賀城は武田勝頼に奪われていた高天神城攻略の拠点として、徳川家康が大須賀康高に命じて築城された。築城当時は松尾山にある平山城で、二の丸などの平城部分が拡張されて現在の横須賀城になったと云われている。また海が深く入り込み、三方が入江と沼や深田に囲まれた天然の要害の地だった。
天正9年(1581年)高天神城は落城と共に廃城となり、横須賀城が遠州南部の拠点として位置づけられた。戦国時代の城攻めのための陣城が、そのまま近世城郭として続いた城である。
海は宝永4年(1707年)の宝永地震や安政元年(1855年)の安政地震による隆起で遠くなってたが、往時は遠江の陸運と海運を抑える拠点だった。入り江は掛川城の外堀となっている逆川の河口で、掛川城に船で直接行き来することができたと云われている。入り江には、横須賀湊があった。掛川城が東海道の押さえであったのに対し、横須賀城は浜筋道と海上交通の押えであった。
石垣は天竜川の玉石を使用している玉石積みで、三層四階の天守閣があった。大手門が東西にあり、両頭の城と呼ばれていた。
堀跡 本丸玉石垣 天守台跡
大須賀氏は北総を根拠地とした千葉一族で、三河に来て土着したのが三河大須賀氏の始まりである。大須賀康高・大須賀忠政〜渡瀬繁詮〜有馬豊氏〜大須賀忠政・大須賀忠次〜徳川頼宣〜松平(能見)重勝・松平(能見)重忠〜井上正就・.井上正利〜本多利長と、めまぐるしく代わる。天和2年(1682年)譜代大名の西尾忠成が小諸藩から2万5千石で移封となり、8代続き明治維新を迎える。2代藩主・西尾忠尚は、若年寄や老中を務めている。280余年に渡り横須賀藩の中心であった横須賀城は、明治2年(1870年)に廃城となった。
[交通]JR東海道本線・袋井駅-(バス)-七軒町バス停-(徒歩5分)-横須賀城跡公園
袋井・油山寺に元禄12年(1699年)建立の書院が移築されている。安政6年(1859年)遠州横須賀城主・西尾忠受の寄進。江戸初期の書院として優れた技工と地方色豊かな建築物と云われている。昭和54年(1979年)往時の姿に復元された。
書院
遠江国・高根城(久頭郷城 / 久頭合城)
■城の種別
山城
■築城者
奥山氏
■築城年
応永年間(1394年〜1427年)
■主な遺構
土塁 / 堀 / 曲輪
■主な再建造物
井楼櫓 / 大手門 / 塀
大手門 / 井楼櫓
塀 / 井楼櫓 井楼櫓 稲荷神社
JR飯田線・向市場駅より東へ、すぐの突き当りを南へ進む。すぐの十字路に標識があり、右折して坂を下る。JR飯田線鉄橋を潜り、突き当りを左折して橋を渡る。渡り終えた左手に案内板がある。道なりに進むと、左手に登り口がある。河内川が水窪(みさくぼ)川に合流するところに築かれ、本曲輪は三角山(標高420m)山頂にある。遠江国の北端に位置し、室町時代は今川氏の支配下にあった。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、元亀年間(1570年〜1573年)武田氏の支配下となった。駿遠攻略の最前線として大改修され、そのために奥山氏時代と武田氏時代の遺構が残る。高さ8mの井楼(せいろう)櫓は武田氏時代の遺構で、発掘された柱穴を基に釘を使わない当時の建築技術で復元された。天正4年(1576年)長篠の戦後に武田氏の勢力が一掃された頃に、廃城になったと云われている。本曲輪に稲荷神社がある。
[交通]向市場駅-(徒歩20分)-登り口-(徒歩20分)-本曲輪
遠江国・浜松城(曳馬城 / 引馬城 / 引間城)
■城の種別
平山城
■築城者
今川貞相
■築城年
永正年間(1504年〜 1520年)
■主な遺構
石垣・曲輪
■主な再建造物
模擬天守
模擬天守
JR浜松駅から北へ、152号線(東海道)を左折する。東海道は連尺交差点で左折するが、直進っする。次の紺屋町交差点を右折して北へ進む。突き当たる浜松市役所前の左手に鎧掛松がある。元亀3年(1572年)三方原の合戦から城に帰った徳川家康が鎧をかけたこと云われる松で、三代目になる。左側の道を進むと浜松城公園で、模擬天守がある。
[交通]JR浜松駅-(徒歩/20分)-浜松城天守
遠江国・二俣城
■城の種別
山城
■築城者
二俣昌長
■築城年
文亀3年(1503年)
■主な遺構
天守台・石垣・曲輪
天守台
天竜浜名鉄道・二俣本町駅より北へ、152号線との変則五差路を西へ進む。階段を登り、突き当りを右折して道なりに進むと城跡に至る。岡崎三郎信康(徳川家康長男)が織田信長の命により切腹した城で、墓所は北東側の清龍寺にある。 井戸櫓が清龍寺に復元されている。
[交通]天竜浜名鉄道・二俣本町駅-(徒歩/20分)-二俣城天守台
三河国・長篠城(末広城 / 扇城)
■城の種別
平城
■築城者
菅沼元成
■築城年
永正5年(1508年)
■主な遺構
石垣・空堀・土塁・曲輪
本丸跡
JR飯田線・長篠城駅から北へ、T字路を左折して西へ進む。本丸跡手前の帯曲輪跡に、長篠城址史蹟保存館がある。天正3年(1575年)武田勝頼軍は、奥平貞昌(後の奥平信昌)が籠城する長篠城を攻撃する。長篠の戦いの始まりで、援軍の来ることを知らせて磔にされた鳥居強右衛門が知られている。織田の援軍が駆け付け、設楽原で鉄砲の三段撃ち戦法により武田の騎馬隊を破ったと云われている。本丸の南側に野牛曲輪があるが、JR飯田線で寸断されている。
[交通]JR飯田線・長篠城駅-(徒歩/10分)-長篠城跡
三河国・吉田城(峯野城 / 歯雑城)
■城の種別
平城
■築城者
牧野古白
■築城年
永正2年(1505年)
■主な遺構
石垣・土塁・堀
■主な再建造物
鉄櫓(くろがねやぐら)
復興鉄櫓
JR豊橋駅から東へ、新川交差点を左折して北へ進む。西八町交差点を右折、豊橋市公会堂の北側に豊橋公園がある。豊川に面したところに昭和29年(1954年)に復興された鉄櫓がある。西八町交差点を直進して吉田大橋を渡る。対岸を豊川沿いに東へ進むと、鉄櫓が正面に見える。
[交通]JR浜松駅-(徒歩/30分)-吉田城鉄櫓
三河国・田原城(巴江城 / 今宮城)
■城の種別
平山城
■築城者
戸田宗光
■築城年
文明12年(1480年)
■主な遺構
石垣・堀
■主な再建造物
桜門・二の丸櫓
桜門・石垣・堀
豊橋鉄道・三河田原駅から北へ進む。殿町交差点を左折すると、右手に石垣と堀が見えてくる。本丸跡に巴江神社 / 二の丸跡に田原市博物館 / 三の丸跡に護国神社がある。西側の出曲輪跡に、崋山神社と崋山会館がある。田原藩の家老であった渡辺登(崋山)は、画家・文人として知られている。
[交通]豊橋鉄道・三河田原駅-(徒歩/10分)-田原城
三河国・西大平陣屋
■城の種別
陣屋
■築城者
大岡忠相
■築城年
寛延癌年(1748年)
■主な再建造物
門 / 塀
復元陣屋門
岡崎市の旧東海道に面している。大岡越前守忠相が、寛延癌年(1748年)に1万石の大名となって立藩した。江戸時代に江戸町奉行から大名になったのは、大岡忠相のみである。以後、子孫が明治まで継いだ。跡地に稲荷神社がある。
稲荷神社
三河国・岡崎城(龍城)
■城の種別
平山城
■築城者
西郷稠頼
■築城年
享徳元年(1452年)
■主な遺構
北曲輪門が額田町の民家に、北門が西尾市西浅井町の宿縁寺に、念沸堂赤門が東阿知和町謁播神社に移築され現存する。
■主な再建造物
天守・井戸櫓・附櫓・模擬大手
復興天守
名鉄・東岡崎駅から北へ進み、明代橋を渡る。1号線を西へ進むと左手に岡崎公園がある。さらに西へ進むと、名鉄・岡崎公園前駅や愛知環状鉄道・中岡崎駅がある。天文11年(1542年)徳川家康が誕生した城として知られている。岡崎公園の南と西を流れる乙川と菅生川河畔では、8月上旬に花火大会行われる。
[交通]名鉄・東岡崎駅-(徒歩/20分)-岡崎城天守
三河国・西尾城(鶴城 / 鶴ヶ城 / 錦丘城 / 西条城)

■城の種別
平山城
■築城者
足利義氏
■築城年
鎌倉時代前期
■主な遺構
石垣 / 土塁 / 堀
■主な再建造物
二の丸鍮石門門 / 本丸丑寅櫓

本丸丑寅櫓

名鉄西尾線・西尾駅から線路沿いに南西へ、383号線を北西へ進む。西尾小交差点の先を左折すると、右手に西尾歴史公園がある。承久の乱(承久3年 / 1221年)の戦功によって三河国守護に任じられた足利義氏が築城した西条城が始まりと云われている。足利氏は吉良氏と改名、吉良荘を統治する。戦国時代には城主が入れ替わり、城域も拡大する。平成8年(1996年)本丸丑寅櫓と二の丸鍮石(ちゅうじゃく)門が復元されている。本丸跡に西尾神社がある。
[交通]名鉄西尾線・西尾駅-(徒歩/15分)-西尾歴史公園

二の丸鍮石門 西尾神社拝殿 西尾神社本殿
三河国・刈屋城(亀城)
■城の種別
平城
■築城者
水野忠政
■築城年
天文2年(1533年)
■主な遺構
土塁 / 水堀
辰巳櫓が碧南市内の妙福寺に移築され現存する。
刈屋城址碑
名鉄三河線・刈谷市駅西側にある刈谷市駅前交差点から、北西へ進む。突き当りを左折して、48号線の銀座4丁目交差点を越える。城町図書館の角を右折すると、旧刈屋城の本丸と二の丸の1部にあたる亀城公園が見えて来る。衣ヶ浦(ころもがうら)と呼ばれていた入江の北端東岸に面して築かれた。徳川家康生母・於大の育った城として知られている。於大の父・水野忠政の死後、兄・水野信元は今川氏を離れ織田氏に付いた。このため松平広忠から離縁され、久松氏に再嫁するまで刈屋城近くの椎の木屋敷で過ごしている。刈屋藩は明治4年(1871年)に廃藩、城は破却された。
[交通]名鉄三河線・刈谷市駅-(徒歩15分)-亀城公園
本丸跡
尾張国・一宮いちのみや
■城の種別
平城
■築城者
関成重
■築城年
天文年間〜弘治年間(1532年〜1558年)
一宮城跡碑
JR東海道本線・尾張一宮駅 / 名鉄一宮駅 から457号線を東へ進む。5分足らずの本町交差点手前左手に、一宮城跡碑がある。尾張国一の宮・真清田(ますみだ)神社の神主・関成重が、真清田神社および領地を守るために天文年間(1532年〜1555年)〜弘治年間(1555年から1558年)に築城されたと云われている。伊勢関氏の遠縁と云われている。東西50m / 南北90m の規模で、土塁や堀で囲まれていた。
関成重の嫡男・関共成は森長可の妹を娶り、森氏との関わりが深くなっている。天正12年(1584年)小牧長久手の戦いに羽柴秀吉に従い、森長可とともに戦死する。関共成の戦死後は織田信雄家臣・不破広綱が入城するが、天正18年(1590年)廃城となる。関氏は、親戚縁者として森氏に仕えている。子孫には美作津山藩・二代藩主となった関家継(後の森長継)がいる。
交通]JR東海道本線・尾張一宮駅 / 名鉄一宮駅-(徒歩5分)-一宮城跡碑
尾張国・挙母城ころもじょう(七州城しちしゅうじょう
■城の種別
平山城
■築城者
内藤政苗
■築城年
天明元年(1782年)
■主な遺構
櫓台石垣
■主な再建造物
隅櫓
復興隅櫓

名鉄・豊田市駅から西へ、愛知環状鉄道・新豊田駅方向に進む。けやき通りを左折して南へ進む。突き当たりを右折すると、右手に隅櫓が見えて来る。三河国・尾張国・美濃国・信濃国・遠江国・伊勢国・近江国の7つの国が見えることから七州城と云われた。トヨタ自動車の発展により、挙母市から豊田市に地名変更される。
[交通]名鉄・豊田市駅-(徒歩/20分)-挙母城隅櫓

尾張国・岩崎城

■城の種別
平山城
■築城者
不明
■築城年
不明
■主な遺構
空堀 / 土塁 / 井戸跡
■主な再建造物
模擬天守

模擬天守
名鉄豊田線・日進駅から西へ、57号線をしばらく進む。岩崎交差点を右折、すぐに左折すると突き当りに岩崎城跡公園がある。築城年は不明であるが、尾張国勝幡城主・織田信秀(織田信長の父)の支城であった記録がある。享禄2年(1529年)三河国岡崎城主・松平清康(徳川家康の祖父)が、織田信秀の属将・荒川頼宗の守備する岩崎城を攻め落とした。天文4年(1535年)松平清康が死去すると、本郷城主・丹羽氏清が移り、4代続けて在崎する。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの緒戦で落城する。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後、丹羽氏次は三河国伊保に移封となり廃城となる。昭和62年(1987年)築の模擬天守がある。
[交通]名鉄豊田線・日進駅-(徒歩/30分)-岩崎城跡公園
尾張国・旭城(新居城)
■城の種別
平山城
■築城者
水野良春
■築城年
康安元年(1361年)
■主な遺構
土塁
■主な再建造物
模擬天守
模擬天守
名鉄・尾張旭駅東側の通りを北へ進む。新居町交差点を左折して西へ進むと、右手の城山公園に旭城模擬天守が見えて来る。
[交通]名鉄・尾張旭駅-(徒歩/15分)-旭城模擬天守
尾張国・小牧山城
■城の種別
山城
■築城者
織田信長
■築城年
永禄6年(1563年)
■主な遺構
石垣・空堀・土塁・井戸跡
■主な再建造物
模擬天守
模擬天守
名鉄・小牧尾駅から西へ進むと、山頂に小牧山城模擬天守が見えて来る。織田信長が美濃攻めのために築城する。永禄10年(1567)稲葉山城を落城させ岐阜城と改めて移り住み、小牧山城は廃城となる。天正12年(1584年)羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が争った小牧・長久手合戦で、徳川・織田連合軍が本陣を置く。和議が成立して撤退後は使われなくなる。小牧山城模擬天守に、小牧・長久手合戦の陣容などが詳しく解説されている。
[交通]名鉄・小牧尾駅-(徒歩/30分)-小牧山城模擬天守
尾張国・知立城
■城の種別
平城
■築城者
氷見氏
■築城年
平安時代
知立城址碑
名鉄・知立駅から北へ、知立駅北交差点の次を左折して旧東海道を北西へ進む。T字路を右折すると、左手に知立城址がある。平安時代〜戦国時代に、知立神社の神主も務めていた永見氏の館があったところ。桶狭間の戦いで落城する。永見貞英の娘・お万の方は徳川家康の側室となり、次男・結城秀康を生んでいる。
[交通]名鉄・知立駅-(徒歩/15分)-知立城址
尾張国・鳴海城(根古屋城)
■城の種別
平山城
■築城者
安原宗範
■築城年
応永年間(1394年〜1427年)
■主な遺構
空堀・土塁
東福院に、鳴海城の廃材で造られたと云われる門が現存する。
鳴海城址碑
名鉄・鳴海駅から西へ、242号線を右折して北へ進む。本町交差点で旧東海道と交差する。円道寺の先を左折すると、城址公園がある。城址公園から天神社が、城郭にあたると云われている。桶狭間の戦いでも落城しなかったが、天正年間末期に廃城になったと云われている。
[交通]名鉄・鳴海駅-(徒歩/10分)-城址公園
尾張国・名古屋城(金鯱城 / 金城 / 柳城 / 亀屋城 / 蓬左城)
■城の種別
平城
■築城者
今川氏親
■築城年
大永5年(1525年)
■主な遺構
辰巳隅櫓(重文)・未申隅櫓(重文)・御深井丸戌亥隅櫓(重文)・表二の門(重文)・二の丸西鉄門二の門(重文)・旧二の丸東鉄門二の門(重文)
■主な再建造物
大天守・小天守
復興天守

名古屋市営地下鉄・市役所駅の北西側が名古屋城跡になる。北へ進むと左手に東門がある。名古屋城二の丸の位置にあったとされる那古屋城で、天文3年(1534年)織田信長が誕生したと云われている。慶長12年(1607年)徳川家康の九男・義直が清洲藩主となる。慶長15年(1610年)より天下普請として名古屋城が築城される。
[交通]名古屋市営地下鉄・市役所駅-(徒歩/5分)-名古屋城東門

尾張国・犬山城(三光寺山城 / 白帝城)
■城の種別
平山城
■築城者
織田信康
■築城年
天文6年(1537年)
■主な遺構
天守(国宝)
矢来門が専修院に、黒門が徳林寺に、松ノ丸門が千秋寺に、内田門と伝わる城門が瑞泉寺に移築され現存する。
■主な再建造物
隅櫓・本丸門
天守

名鉄・犬山遊園駅から東へ、名鉄犬山線に平行する道を南へ進む。内田交差点を右折して木曽川方向に進むと、犬山城がある。郷瀬川を公園橋で渡り、道なりに進む。北へ登る道を進むと三光稲荷神社を経て、犬山城天守に至る。文明元年(1469年)織田広近が築城したとも云われている。
[交通]名鉄・犬山遊園駅-(徒歩/20分)-犬山城

尾張国・清洲城
■城の種別
平城
■築城者
斯波義重
■築城年
室町時代初期
■主な再建造物
模擬天守
模擬天守
JR清洲駅から線路沿いに南へ進むと、清洲公園がある。五条川の対岸に模擬天守が見える。本来の天守は、清洲駅寄りの線路際にあった。織田信長が尾張の統一から天下統一へと、飛躍の拠点となった城。
[交通]JR東海道本線・清洲駅-(徒歩/20分)-清洲城
伊勢国・桑名城(扇城 / 旭城)
■城の種別
平城
■築城者
本多忠勝
■築城年
慶長6年(1601年)
■主な再建造物
蟠龍櫓
JR桑名駅から東へ、1号線を東へ進む。しばらくすると桑名城の堀が見えてくる。桑名城から北へ進むと、“七里の渡跡”がある。旧東海道は愛知県・宮(熱田神宮)から三重県・桑名間は、陸0.8km / 海上27.3kmとなっていた。
[交通]JR桑名駅-(徒歩/15分)-桑名城跡
伊勢国・神戸かんべ城(本多城)
■城の種別
平城
■築城者
神戸具盛
■築城年
天文年間(1532年〜1555年)
■主な遺構
石垣 / 堀
大手門が四日市市西日野町の顕正寺に、二の丸太鼓櫓が鐘楼として鈴鹿市東玉垣町・蓮花寺に、本多忠統による書院(坐忘亭)が城下の龍光寺に移築され現存する。
本丸後
伊勢鉄道・鈴鹿駅から直線距離で1kmほどのところに神戸公園がある。鈴鹿駅より西へジグザグに進むのが最短距離となる。少し遠回りになるが、鈴鹿駅から線路沿いに南へ進む。すぐの鈴鹿駅入口交差点を右折して、旧伊勢街道(553号線)を北西へ進む。5分ほどすると右手の宋林寺前にT字路があり左折する。すぐの突き当りにある神戸高校は二の丸跡で、左折して回り込むと神戸公園がある。本丸の石垣と堀の一部が残っている。
交通]伊勢鉄道・鈴鹿駅-(徒歩20分)-神戸公園
神戸城は天文年間(1532年〜1555年)神戸具盛によって築城された。桓武平氏と云われる関氏6代・関盛政が、正平22年(1367年)長男・関盛澄に伊勢国河曲郡神戸郷を与えられ神戸氏を名乗る様になった。7代・神戸具盛は関氏と共に六角氏に臣従していたが、永禄11年(1568年)に織田信長の侵攻を受ける。神戸具盛は信長の三男・三七丸を養子に迎え和睦する。元亀3年(1572年)三七丸が元服して神戸信孝を名乗り、神戸氏当主となる。このとき神戸城はより強固に修築され、5重6階の天守が築かれた。天守は文禄4年(1595年)に解体され、桑名城に三重櫓として移築された。天正10年(1582年)本能寺の変で信長が斃れると、跡目を狙った信孝は織田姓に復する。羽柴秀吉と対立する柴田勝家に接近、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いが起きると再度挙兵する。柴田勝家が北ノ庄城で自害すると、岐阜城を開城して降伏する。尾張国知多郡野間・大御堂寺(野間大坊)で自害させられる。神戸城は織田信孝の敗死後、織田信雄の家老・林与五郎が城主となり神戸姓を名乗る。神戸与五郎が蒲生氏郷に神戸城を追われてからは、城主は度々代わる。関ヶ原の戦い以降は一柳氏が5万石で入封、その後は天領となった時期もあった。慶安3年(1650年)石川総長が1万石で入封、享保17年(1732年)本多忠統が2万石で入封して明治維新まで続いた。
伊勢国・蒔田城
■城の種別
平城
■築城者
蒔田宗勝
■築城年
文治年間(1185年〜1190年)
■主な遺構
堀・土塁
長明寺山門と堀に架かる橋

近鉄名古屋線・富洲原駅から北西へ、JR関西本線方向に進む。66号線(東海道)を左折、南西方向へ進むと右手に長明寺がある。長明寺の境内になっている。
文治年間(1185年〜1190年)の伊勢平氏残党の反乱のとき、蒔田宗勝が居城。
[交通]近鉄名古屋線・富洲原駅-(徒歩/15分)-長明寺

伊勢国・津城(安濃津城)
■城の種別
平城
■築城者
細野藤敦
■築城年
永禄年間(1558年 〜1570年)
■主な遺構
石垣・堀
■主な再建造物
模擬隅櫓
模擬隅櫓
JR/近鉄・津駅から東へ、23号線を右折して南へ進む。三重会館前交差点の南西方向に、お城公園がある。江戸時代は、築城の名手として知られる藤堂高虎の本城であった。23号線を南へ進み、岩田橋交差点を左折する。114号線を左折すると、すぐ右手に藤堂家の墓所である寒松院がある。巨大な五輪塔が立ち並び壮観である。
[交通]JR/近鉄・津駅-(徒歩/30分)-お城公園 または近鉄・津新町駅-(徒歩/10分)-お城公園
伊勢国・松坂城(松阪城)
■城の種別
平山城
■築城者
蒲生氏郷
■築城年
天正16年(1588年)
■主な遺構
石垣・井戸
石垣
JR/近鉄・松阪駅より西へ進む。道路を歪斜にしている町割になっており、ジグザグに進まないと方向がずれてしまう。元亀年間(1570年〜1572年)瀬田長政が築いたのが始まりとも云われている。元和5年(1619年)南伊勢は紀州藩領となり、松坂城に城代が置かれた。建物は残っていないが、石垣には圧倒される。
[交通]JR/近鉄・松阪駅-(徒歩/15分)-松阪公園
伊勢国・田丸城(玉丸城)
■城の種別
平山城
■築城者
北畠親房
■築城年
建武3年/延元元年(1336年)
■主な遺構
富士見門・石垣・堀
石垣 

JR田丸駅から西へ進むと、堀に突き当る。城内に、玉城町役場および玉城中学校がある。現在残る縄張りは、北畠具教の養子になった織田信長の二男・織田信雄が天正3年(1575年)に大改修したもの。元和5年(1619年)南伊勢は紀州藩領となり、松坂城に城代が置かれた。
[交通]JR田丸駅-(徒歩/10分)-田丸城 

伊勢国・鳥羽城(鳥羽の浮城 / 錦城 / 二色城)
■城の種別
平山城 / 海城
■築城者
橘宗忠
■築城年
永正年間(1504年〜1521年)
■主な遺構
石垣

家老屋敷跡石垣

JR/近鉄・鳥羽駅の南側にある低い丘が、鳥羽城址である。現在残る縄張りは、 文禄3年(1594年)九鬼嘉隆が跡地に築城したもの。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで九鬼嘉隆は西軍、嫡子九鬼守隆は東軍に属した。九鬼嘉隆は答志島で自刃する。答志島の岬の頂きに首塚、その麓に胴塚がある。
[交通]JR/近鉄・鳥羽駅-(徒歩/10分)-鳥羽城址

伊勢国・亀山城(胡蝶城)
■城の種別
平山城
■築城者
関実忠
■築城年
文永2年(1265年)
■主な遺構
多聞櫓・石垣
多聞櫓
JR亀山駅から北へ、亀山駅前交差点を過ぎると道は東へ方向を変える。次の信号を左折して北へ進むと亀山城がある。正保年間(1644年〜1648年)に築かれた多聞櫓が現存する。城跡には、移築された江戸時代建立の大久保神官邸宅門や文永2年(1265年)創建と云われる亀山神社がある。
[交通]JR亀山駅-(徒歩/15分)-亀山城
伊賀国・上野城(白鳳城)
■城の種別
平山城
■築城者
滝川雄利
■築城年
天正9年(1581年)
■主な遺構
武庫・永倉
■主な再建造物
模擬大天守・模擬小天守
模擬大天守・小天守
近鉄・上野市駅から北へ、25号線を東へ進む。次の信号を右折して北へ進むと、上野城がある。天正13年(1585年)筒井定次が築いたとも云われている。
[交通]近鉄・上野市駅-(徒歩/10分)-上野城
飛騨国・増島城
■城の種別
平城
■築城者
金森長近
■築城年
天正13年(1585年)
■主な遺構
石垣・堀
円光寺と林昌寺の山門は、移築した城門と云われている。
本丸跡
JR高山本線・飛騨古川駅から南東へ、線路に平行した道を進む。5分ほどすると、右手に古川小学校 / 隣に僅かに残る堀と本丸の石垣がある。本丸跡には増島天満神社や御蔵稲荷神社がある。天正13年(1585年)に高山藩主となった金森長近が築城したが、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となった。古川小学校は城跡地で、南西側の荒城川を堀としていたと云われている。
[交通]JR高山本線・飛騨古川駅-(徒歩/約5分)-増島城
円光寺山門
飛騨国・高山城(天神山城 / 多賀山城)
■城の種別
平山城
■築城者
多賀徳言
■築城年
永正年間(1504年〜1520年)
城址碑
JR高山駅から広小路通りを東へ進む。本町通りを右折、陣屋前の中橋を渡り東へ進むと右手に城山公園が見えてくる。標高686.6mの城山(臥牛山 / 巴山)に築かれた天神山城(多賀山城)跡に、天正16年(1588年)金森長近が高山城を築城。城下町は京都に似せて造られ、今日に至っている。元禄8年(1695年)に 天領となり、廃城となる。
[交通]JR高山本線・高山駅-(徒歩/約40分)-城山公園
飛騨国・神岡城(野尻城 / 沖野城)
■城の種別
山城
■築城者
江馬時盛
■築城年
永禄7年(1564年)
■主な遺構
堀 / 石垣
■主な再建造物
木造模擬天守
模擬天守
JR高山本線・飛騨古川駅から神岡行バスに乗車、西里バス停で下車する。東へ進み、すぐに高原川に架かる西里橋を渡る。神岡町公民館外れの角を右折して南へ進むと、左手に模擬天守が見えてくる。
古民家 神岡町並み
越中国への侵攻拠点とするために、永禄7年(1564年)武田信玄の命により江馬時盛が築城した。天正10年(1582年)姉小路頼綱により飛騨はほぼ統一される。天正13年(1585年)金森長近による飛騨攻略により、家臣・山田小十郎が城代となった。元和元年(1615年)一国一城令により廃城となる。昭和45年(1970年)三井金属鉱業神岡鉱業所の創業100周年記念として、城跡に模擬天守が建てられた。神岡城の名も、この時に名付けられた。模擬城門からは有料施設となる。
山奥に城が必要だったのか疑問に思うが、豊富な森林資源や奈良時代の養老年間(717年〜724年)に採掘が始まった神岡鉱山があった。神岡鉱山は平成13年(2001年)鉱石の採掘を中止した。古い町並みは、鉱山最盛期の頃を彷彿させる。明治元年(1868年)築の古民家・松葉家 / 鉱山資料館 がある。
[交通]JR高山本線・飛騨古川駅-(バス約40分)-西里バス停-(徒歩約5分)-神岡町公民館外れの角-(徒歩約10分)-模擬天守
飛騨国・郡上八幡城(積翠城)
■城の種別
 山城
■築城者
遠藤盛数
■築城年
永禄2年(1559年)
■主な再建造物
模擬天守
模擬天守
郡上八幡旧庁舎記念館から吉田川に架かる新橋を渡り、左折して直ぐ右折する。安養寺の手前を右折して坂を登ると、山内一豊と妻千代の像がある。左右どちらからでも天守に行ける。千代は築城者・遠藤盛数の娘である。承久3年(1221年)の承久の乱で勝利を治めた鎌倉幕府は、山田荘(大和町)の地頭に東胤行(とうのたねゆき)を任命した。藤原定家の孫娘と結婚した胤行は、歌道の奥義を代々伝えることとなる。連歌の宗匠・飯尾宗祇(いいおそうぎ)は文明年間(1470年頃)に古今和歌集を極めた歌人・東常縁(とうのつねより)から古今伝授を受けるために、郡上を訪れこの泉のほとりに住んだ。伝授は3年にわたって行われ、常縁の居城篠脇(しのわき)城へ通った。古今伝授が終り宗祇が都へ帰るとき、常縁はこの泉のほとりまで宗祇を送ってきて歌を詠み交わしたことから、宗祇水の名が付いたと云われている。東氏は永禄2年(1559年)支族遠藤盛数に滅ぼされる。そのころ八幡山に砦が築かれたのが、郡上八幡城の始まりと云われる。遠藤〜稲葉〜井上〜金森〜青山氏の居城となり、4万石の城下町として栄えた。宝暦5年(1755年)大規模な農民一揆・宝暦騒動が起り、12代城主金森頼錦はお家断絶に追い込まれる。宝暦9年(1759年)丹後宮津から青山幸道が転封となる。東京都港区青山の地名は、郡上藩江戸屋敷があったなごりである。天守が築かれたことはないが、昭和8年(1933年)大垣城を模して造られた模擬天守がある。
[交通]長良川鉄道・郡上八幡駅-(徒歩/約40分)-郡上八幡城天守
美濃国・落合五郎兼行城
■城の種別
平山城
■築城年
治承年間(1177年〜1180年)
落合五郎兼行之城跡
19号線に架かる“おがらん橋”の北側、旧中山道に面している。19号線の拡幅によって、史跡の主要部は削り取られている。遺構はなく、“おがらん四社”(落合五郎兼行神社 / 愛宕神社 / 山神神社 / 天神社)境内に落合五郎兼行之城跡碑がある。落合五郎兼行(かねゆき)は、平安時代末期の武将。巴御前の兄または弟で、木曽義仲四天王の一人。信濃国との境に、美濃口の抑えとして館を構えていたと云われている。
美濃国・苗木城(霞ケ城 / 赤壁城)
■城の種別
山城
■築城者
遠山直廉
■築城年
天文年間(1532年〜1555年)
■主な遺構
石垣 / 堀 / 井戸
■主な再建造物
天守柱組
本丸
苗木遠山史料館 大矢倉跡

千石井戸

JR中央本線・中津川駅からバスに乗車、苗木バス停で下車する。西へ5分ほど進むと苗木交差点があり、左折して257号線を南東へ進む。10分ほどすると。苗木遠山史料館への標識があり左折する。10分ほどすると、右手に苗木遠山史料館がある。駐車場奥から左へ道なりに登ると、15分ほどで本丸に着く。鎌倉時代初期に岩村城を本拠地として恵那郡を統治した地頭遠山氏が始まり。天正10年(1582年)本能寺の変後、森長可に城を落とされる。城代として河尻秀長が入る。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが起こると、遠山友政は苗木1万石の領主になっていた河尻秀長を攻め落城させる。遠山友政が苗木藩初代となり、幕末まで遠山氏十二代の居城となる。本丸 / 二の丸 / 三の丸などの石垣や大矢倉跡 / 風吹門跡 / 綿倉門などの門跡、堀が残っている。巨大な自然石が複数箇所で利用されているのが特徴。菱櫓台の下に千石井戸と呼ばれる井戸が残る。赤壁城の由来がいろいろ伝えられている。苗木藩が経済的に弱体だったため、漆喰を塗る費用が捻出できなかったと云われている。
[交通]JR中央本線・中津川駅-(バス/約20分)-苗木バス停-(徒歩/約25分)-苗木遠山史料館-(徒歩/約15分)-本丸

美濃国・岩村城(霧ヶ城)
■城の種別
山城
■築城者
加藤景廉
■築城年
文治元年(1185年)または建久6年(1195年)
■主な遺構
土岐門が徳祥寺山門、不明門が妙法寺山門として移築され現存する。
■主な再建造物
太鼓櫓・表御門・平重門
岩村城
明知鉄道・岩村駅の南東、城山の本丸は標高721mにある。高取城・備中松山城とともに、日本三大山城の一つに数えられている。山上の石垣がほぼ完全に残っている。
織田信長の叔母・おつやの方が、女城主として差配を振るったことで知られている。武田信玄の家臣・秋山信友と再婚、天正3年(1575年)長篠の戦後、長良川河川敷で逆さ磔となる。
[交通]明知鉄道・岩村駅-(徒歩/約60分)-岩村城本丸
美濃国・明智城(長山城 / 明智長山城)
■城の種別
山城
■築城者
土岐明智二郎頼兼
■築城年
康永元年(1342年)
■主な遺構
曲輪 / 土塁
■主な再建造物
大手門
復元大手門
本丸跡 城址碑 展望デッキ眺望
名鉄広見線・明智駅の西側にある踏切から、南へ進み21号線を越える。踏切から15分ほどのところに天龍寺の標識があり右折する。道なりに進むと右手に太元神社 / 左手に寛永2年(1625年)創建の天龍寺 / 突き当り手前右手に東栄寺 / 突き当りに明智城大手口 と続く。明智城は恵那市明智町城山と可児市瀬田長山にあり、どちらが明智光秀出生の城なのか裏付ける資料はない。美濃国緒旧記では、明智城は可児郡明智庄長山城であることが記されている。土岐明智二郎頼兼は、土岐美濃守光衡により五代の嫡流・土岐明智民部大輔頼清の二男。弘治2年(1556年)稲葉山城主・斎藤義龍の攻撃を受け、落城する。明智城代・明智光安と弟光久は自刃、明智光秀は明智城から逃れたと明智軍記にあるが、真偽は解っていない。城は再興されることもなく廃城となる。本丸跡の先端に展望デッキがある。
[交通]名鉄広見線・明智駅-(徒歩20分)-大手口-(徒歩10分)-本丸
太元神社 天龍寺 東栄寺
天龍寺には、明智光秀の位牌と明智氏歴代の墓所がある。東栄寺は瀬田最古の寺で、太元神社の神護寺であったと云われている。広見東まちづくり協議会制作の案内板には、東栄寺が明智一族の菩提寺であったが昭和に天龍寺に譲ったと記されている。
美濃国・美江寺(みえじ)
■城の種別
平城
■築城者
和田八郎
■築城年
応仁・文明年間(1467年〜1486年)
石垣のモニュメント
樽見鉄道・美江寺駅から南へ、すぐの旧中山道を西へ進む。美江寺一里塚跡手前の交差点を左折すると、右手にある中小学校敷地一帯が城跡。中小学校沿いに角を右折して進むと、右手の校庭西隅に石垣のモニュメントと松の木が見える。美濃国守護・土岐氏家臣・和田八郎が居館を構えたのが始まりと云われる。土岐頼芸は天文5年(1536年)勅許により正式に守護の座に就いた。天文10年(1541年)重臣の斎藤道三との仲が険悪となり、次第に対立する様になる。天文11年(1542年)和田高行は土岐頼芸と共に斎藤道三と戦い、美江寺城は落城する。その後廃城となる。江戸時代の美江寺は中山道の宿場町として栄え、城跡を囲うように北西隅で鉤の手に中山道が折れている。
[交通]樽見鉄道・美江寺駅-(徒歩5分)-中小学校
美濃国・猿啄さるばみ城(猿飛城 / 勝山城)
■城の種別
山城
■築城者
西村豊前守善政
■築城年
応永年間(1394年〜1427年)
二層櫓風展望台
JR高山本線・坂祝(さかほぎ)駅から南へ進む。5分ほどの21号線取組交差点から木曽川の土手に登る。木曽川沿いの道を西へ5分ほど進むと、勝山交差点辺りから標高265mの城山山頂にある平成9年(1997年)築の二層櫓風展望台が見える。尾張国と美濃国の境にあたり、木曽川が流れ中山道が通る重要な地点であった。嘉吉元年(1441年)西村豊前守善政が祖母の法要で猿啄城を留守にした時、田原左衛門尉頼吉が突然攻め入り城を略奪した。天文16年(1547年)多治見修理が城を略奪した。永禄8年(1565年)織田信長が美濃攻略を開始、丹羽長秀の先鋒である川尻鎮吉が猿啄城を攻略し落城。川尻鎮吉が猿啄城主となり、勝山城と改称したと云われている。天正2年(1575年)川尻鎮吉は岩村城に移り、廃城となる。
美濃国・岐阜城(井之口城 / 稲葉山城 / 金華山城)
■城の種別
山城
■築城者
二階堂行政
■築城年
建仁元年(1201年)
■主な再建造物
模擬天守・門
模擬天守天守
永禄7年(1564年)または永禄10年(1567年)〜天正4年(1576年)に、織田信長が居城したことで知られる。明治43年(1910年)模擬天守が再建されるが、昭和18年(1943年)失火のため焼失する。昭和31年(1956年)模擬天守が再建される。
[交通]JR岐阜駅-(バス/約15分)-岐阜公園・歴史博物館前-(徒歩/約5分)-岐阜公園-(ロープウェー/約5分)-山頂駅-(徒歩/約10分)-岐阜城天守
美濃国・加納城
■城の種別
平城
■築城者
徳川家康
■築城年
慶長7年(1602年)
■主な遺構
石垣 / 堀跡
石垣
JR岐阜駅から187号線を南へ、加納栄町4交差点を左折して東へ進む。加納大手町交差点を右折して南へ進むと、突き当りに加納城がある。文安2年(1445年)斎藤利永によって沓井城が築城されたのが始まり。天文7年(1538年)には廃城となっている。慶長6年(1601年)岐阜城が廃城となり、天下普請として加納城が築城される。加納藩に移封された奥平信昌は天正3年(1575年)長篠の戦いのとき、武田勝頼軍を相手に三河国・長篠城を守り抜いた武将。後に徳川家康の娘・亀姫と結婚している。建材は主に岐阜城のものが用いられ、岐阜城天守を二ノ丸御三階櫓として利用したと云われている。大手門は旧中山道に面し、加納宿は中山道53番目の宿場。明治5年(1872年)廃城令により建物は破却、城門などは売却された。
[交通]JR東海道本線・岐阜駅-(徒歩20分)- 加納城跡
加納城の西10分ほどのところに、三河にあった奥平家の菩提寺・増瑞寺を移した盛徳寺がある。奥平信昌・亀姫の墓があり、山門前には岐阜市による案内看板がある。しかし境内に入ることはできない。またJR岐阜駅の南東方向に慶長19年(1614年)創建の光国寺があり、ここにも亀姫の墓がある。ここも境内に入ることはできない。亀姫の墓は、右手の鉄柵の隙間から見ることができる。
大手門跡
盛徳寺 光国寺 亀姫の墓
美濃国・墨俣城
■城の種別
平城
■主な再建造物
模擬天守
(墨俣一夜城歴史資料館)
模擬天守
尾張から美濃へ侵攻する重要拠点であることから、度々合戦になっていたと云われている。信長公記には永禄4年(1561年)洲俣要害の攻防があり攻略、改修して在陣したことが記されている。永禄9年(1566年)織田信長の稲葉山城攻略の際、木下藤吉郎が一夜にして城を築いた逸話がある。信憑性に乏しく、江戸時代の創作であるとも云われている。天正12年(1584年)池田恒興の家臣・伊木忠次が改修、天正14年(1586年)木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の氾濫で木曽川の流路が変わり、墨俣城は戦略上の重要性を失ったと云われている。平成3年(1991年)大垣城の天守を模して建てられた墨俣一夜城歴史資料館がある。
[交通]名鉄岐阜駅-(バス)-墨俣バス停-(徒歩/約10分)-墨俣城 JR大垣駅-(バス)-墨俣バス停-(徒歩/約10分)-墨俣城
美濃国・大垣城(巨鹿城 / 牛屋城)
■城の種別
平城
■築城者
竹腰尚綱
■築城年
明応9年(1500年)
■主な遺構
内柳口門
■主な再建造物
天守・乾櫓・良櫓・西門
復興天守
JR大垣駅南口から南へ進むと、右手に見えてくる。宮川安定が天文4年(1535年)に築城したとも云われている。昭和34年(1959年)天守が再建される。
[交通]JR大垣駅-(徒歩/10分)-大垣城
中山道鵜沼宿町屋館の向かいに、旧大垣城鉄門がある。
旧大垣城鉄門