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日向国・延岡城(縣城あがたじょう / 亀井城)  
■城の種別
平山城
■築城者
高橋元種
■築城年
慶長元年(1596年)
■主な遺構
石垣
■主な再建造物
北大手門
千人殺しの石垣
JR日豊本線・延岡駅から西へ、延岡駅前交差点を左折して南へ進む。五ヶ瀬川を渡り、最初の交差点を右折して西へ進む。突き当りの左手から城山公園に行ける。天平時代(710年〜794年)に、土持氏の居城があったと云われている。千人殺しの石垣は、ある石を外すと一気に崩れて千人の敵兵を殺すことができると云われている。天守台跡地に鐘撞堂がある。1日6回鳴らされ、市民に時を告げている。
[交通]JR日豊本線・延岡駅-(徒歩/約30分)-延岡城天守台跡
日向国・綾城(竜尾城)
■城の種別
山城
■築城者
細川小四郎義門
■築城年
元弘年間(1331年〜1334年)
■主な遺構
曲輪 / 空堀
■主な再建造物
模擬天守 / 模擬城門
模擬天守
宮崎交通・綾待合所から西へ、最初の交差点を右折して北へ進む。右手に綾中学校があるT字路を左へ、さらにY字路を右へ進む。道なりに坂を登ると右手にある。足利尊氏の家臣・細川小四郎義門が下向を命じられ、子・細川義遠は綾氏を名乗る。室町幕府8代将軍・足利義政の頃、伊東氏の配下となる。天正5年(1577年)島津氏が日向に侵攻する。伊東氏は破れ、綾城も落城する。島津氏の支城となるが、元和元年(1615年)江戸幕府の一国一城令により、廃城となる。模擬天守は昭和60年(1985年)日本城郭協会の中世山城の考察に基づき、戦国時代初期の城楼建造物として木造で復元される。
[交通]宮崎交通・宮交シティ-(バス/約60分)-綾待合所-(徒歩/約20分)-綾城
日向国・飫肥城(舞鶴城)
■城の種別
平山
■築城者
土持氏
■築城年
戦国初期
■主な遺構
石垣
■主な再建造物

御殿 / 櫓門 / 門
石垣
JR日豊本線・飫肥駅から北西へ、222号線を左折して道なりに進む。飫肥本町交差点の次の交差点を右折して北へ進むと、突き当りに飫肥城がある。薩摩・島津氏の属城であったが、文明16年(1484年)日向中北部を支配する伊東祐国が侵攻する。侵攻は断続的に続けられる。永禄10年(1567年)伊東義祐(祐国の孫)は飫肥城を奪取、子の伊東祐兵に飫肥城が与えられる。元亀3年(1572年)木崎原の戦いで伊東氏が没落すると、日向国は島津氏が治めるところとなる。羽柴秀吉の九州征伐に参加した功により、伊東祐兵に飫肥城が与えられることとなった。廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで、伊東氏が治めることになった。伊東祐国が飫肥に侵攻した文明16年(1484年)から伊東祐兵が豊臣大名として飫肥城主となった:天正15年(1587年)までの100年余り、伊東氏と島津氏は1つの城を巡って争い続けた。
[交通]JR日豊本線・飫肥駅-(徒歩/約20分)-飫肥城
薩摩国・出水いずみ城(亀ヶ城 / 花見ヶ城 / 和泉城)
■城の種別
平山城
■築城者
和泉兼保
■築城年
建久年間(1190年〜1199年)
■主な遺構
土塁 / 空掘
城山
肥薩おれんじ鉄道・出水駅東口から南へ進む。10分足らずの米ノ津川に架かる広瀬橋を渡ると、出水麓に入る。10分ほどの出水小学校前交差点を左折すると、すぐ右手に出水小学校がある。出水小学校の南方向、標高82m / 比高40mの城山に出水城跡がある。城山公園墓地と山林になっており、山林の道は立入禁止になっている。出水城は、建久年間(1190〜1199)に和泉兼保(伴姓和泉氏)によって築城されたと云われている。応永24年(1417)川辺松尾城の戦いで和泉直久が戦死、嗣子がなかったため和泉家は断絶する。享徳2年(1453年)島津忠国の弟・用久が薩州島津家を興し本拠とした。7代・島津忠辰が朝鮮出兵に際し改易され、出水城は廃城となった。出水は肥後との国境に近い場所で、薩摩防衛の地として重要視されていた。江戸時代には薩摩藩の外城制に伴い出水麓が整備され、地頭に統治させた。
[交通]肥薩おれんじ鉄道・出水駅-(徒歩約20分)-出水小学校
堅馬場通り 竹添邸 諏訪馬場通り
出水御仮屋門 護国神社 牛車
薩摩藩は領地を外城と呼ばれる113の地区に分け、地頭や領主の屋敷である御仮屋を中心に麓と呼ばれる武家集落を造った。鹿児島に武士団を集結させることなく、分散して統治にあたらせた。出水麓は出水城の麓の丘陵地帯を整地して、慶長4年(1599年)から約30年掛けて造られた。最も規模が大きく、他の麓は出水に倣ったと云われている。南北に延びる堅馬場通りと諏訪馬場通りを中心に、武家屋敷の石垣と生垣が連なっている。竹添邸は、篤姫ロケ地になったところ。出水小学校正門は、出水御仮屋門。出水小学校の道を挟んだ北側に、護国神社がある。境内に、土曜日・日曜日・祝日に運行されている“牛車遊覧観光のりば”がある。

薩摩国・鹿児島城(鶴丸城)

■城の種別
平山城
■築城者
島津忠恒(家久)
■築城年
慶長7年(1602年)
■主な遺構
石垣 / 堀 / 石橋
鶴丸城跡碑
堀 / 石垣

本丸大手口の枡形

城山からの桜島眺望
JR鹿児島本線・鹿児島中央駅より東へ、鹿児島市電の軌道がある21号線を進む。15分ほどの天文館交差点を左折して北西へ進むと、照国町交差点で225号線に合流する。すぐの照国神社前交差点を直進すると、突き当りに照国神社がある。照国神社の北側が城山になる。照国神社前交差点から北西へ進む。すぐの中央公民館前交差点の左手に、西郷隆盛銅像がある。直進すると、左手に鹿児島城がある。南北朝時代に築城された上山城があった城山と、東麓に築かれた鹿児島城で構成される平山城。上山家は正平年間(1346年〜1369年)桜島に移り、上山城は廃城と云われている。鹿児島城は城山を“後詰めの城”としている。島津家は鎌倉幕府から守護職に任じられた島津忠久から続く戦国大名。関ヶ原の戦いでは西軍に属するが、薩摩国 / 大隅国 / 日向諸県郡 の所領を安堵される。琉球を含めた90万石の大名の城としては、防御に問題のある屋形造の城であった。本丸 / 二ノ丸 / 出丸 には石垣が築かれたが、天守などの高層建築や高石垣などは築かれなかった。島津忠恒(家久)の実父・島津義弘は海岸に近いこの地は防御に問題があると、築城に反対していた。文久3年(1863年)薩英戦争の時に、イギリス軍艦から奥御殿に砲弾を何発か打ち込まれる。簡素な造りだったために、イギリス軍艦は寺を天守と間違えて砲撃している。幾度も焼失や倒壊があり、その都度建て替えられた。明治5年(1872年)に廃城となり、明治7年(1874年)焼失後は再建されなかった。本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡に鹿児島県立図書館 / 鹿児島市立美術館 / 鹿児島県立博物館がある。
[交通]JR鹿児島本線・鹿児島中央駅-(徒歩/約20分)-照国神社-(徒歩/約5分)-鹿児島城
照国神社 / 城山 照国神社 西郷隆盛銅像

照国神社は、文久3年(1863年)創建。薩摩藩第11代藩主・島津斉彬を祀る。西郷隆盛は薩摩藩の下級武士であったが、藩主・島津斉彬に抜擢される。元治元年(1864年)禁門の変以降、薩長同盟の成立や戊辰戦争の主導と活躍する。西郷隆盛銅像は昭和12年(1937年)に造立されたもので、軍装(陸軍大将)である。上野公園の西郷隆盛銅像は、明治31年(1898年)に造立されたもの。

鹿児島城から堀沿いに進み、城山入口交差点を左折する。堀が切れるところの左手に、薩摩義士碑がある。宝暦3年(1753年)幕府は薩摩藩に、木曽川 / 揖斐川 / 長良川の河川改修工事を命じる。宝暦5年(1755年)工事は完成するが、多数の犠牲者と40万両の巨費を費やした。犠牲者は、岐阜と三重の14ヶ寺に埋葬される。治水総奉行・家老平田靱負は、難事業の責任を取る形で切腹した。薩摩義士碑は、大正9年(1920年)に供養墓塔として建立された。治水総奉行・家老平田靱負を頂上に、墓塔が並んでいる。

薩摩義士碑
 

薩摩義士碑から北へ進む。すぐの鹿児島本線を越えたところにある交差点を左折して,南西へ進む。道なりに5分ほど坂を登ると、右手に西郷隆盛南州洞窟がある。交差点を右折して北東へ進むと、すぐ左手に西郷隆盛終焉之地史跡がある。明治10年(1877年)9月24日に政府軍の総攻撃が始まる。西郷隆盛は洞窟から岩崎谷口の坂道を下り始めた所で銃弾を受け、自刃する。

西郷隆盛南州洞窟 西郷隆盛終焉之地
南州神社 西郷隆盛墓 南州墓地から見える桜島

西郷隆盛終焉之地から5分ほどの突き当りを左折する。すぐの交差点を直進して坂を登ると、右手に南州公園の標識がある。公園内に南洲墓地 / 南洲神社がある。南洲墓地には、西郷隆盛をはじめ薩軍2000余名の将兵が眠っている。西南の役は明治10年(1877年)2月15日、西郷隆盛率いる12000の薩軍が鹿児島を出撃したことに始まる。九州各地を転戦、9月1日には城山に陣取る。9月24日政府軍の総攻撃が始まる。西郷隆盛は洞窟から岩崎谷口の坂道を下り始めた所で銃弾を受け、自刃する。7ヵ月余に渡った日本最後の内戦、西南戦争が終了する。

南州神社から東へ階段を下る。南州神社入口交差点を右折して南へ進む。5分ほどすると鹿児島本線を渡り、小川町交差点を左折すると、JR鹿児島本線 / 日豊本線・鹿児島駅がある。

薩摩国・知覧ちらん
■城の種別
山城
■築城者
知覧忠信
■築城年
平安時代末期
■主な遺構
土塁 / 堀 / 虎口
知覧城跡碑
JR鹿児島中央駅から知覧行きバスに乗車、武家屋敷入口バス停で下車する。バス停のある23号線の1本南側の道が、武家屋敷の連なる本馬場通りである。東方向に戻り、川沿いの道から本馬場通りを西に進む。役場前交差点からの232号線と交差、左折して南へ進む。坂を登ると標識があり坂を下ると、左手に知覧城跡碑がある。鹿児島中央駅での待ち時間に驟雨となったが、同様に降った様である。道は大きな水溜りもあり抜かるんでいるため、登城を諦める。
平安時代末期に、郡司だった知覧忠信によって築城されたと云われている。鎌倉時代になると、郡司は平忠益 / 地頭は島津忠久 として治めていた。文和2年(1353年)島津忠宗の三男・佐多忠光が領主となった。伊集院頼久の一族・今給黎久俊に攻られて落城するが、応永27年(1420年)伊集院頼久が島津氏に降伏すると佐多親久が城主となった。天正19年(1589年)佐多久慶の家臣・佐多久福が海賊行為を働いていたため、知覧を没収されて川辺宮村に転封となる。知覧は島津家の直轄領となったが、知覧城は原因不明の火災により焼失して廃城となった。慶長15年(1610年)佐多久達のときに知覧の領主に復帰するが、城が復興されることはなかった、江戸時代には薩摩藩の外城制に伴い知覧麓が整備され、引き続き佐多氏に統治させた。
薩摩藩は領地を外城と呼ばれる113の地区に分け、地頭や領主の屋敷である御仮屋を中心に麓と呼ばれる武家集落を造った。鹿児島に武士団を集結させることなく、分散して統治にあたらせた。本馬場通りは武家屋敷の石垣と生垣が連なり、7庭園(有料施設)が公開されている。
森重堅庭園 本馬場通り
23号線を西へ、特攻観音に向かう。特攻観音へは約2kmのだらだらとした登り坂になる。特攻観音入口バス停まで行き、武家屋敷方面に下った方が楽である。
特攻観音
大隅国・赤尾木あかおぎ城(上之城)
■城の種別
平城
■築城者
種子島忠時
■築城年
寛永元年(1624年)
■主な遺構
土塁 / 石垣
赤尾木城跡碑
西之表港フェリーターミナルから東へ進む。西之表港入口交差点を左折して581号線を北へ進む。すぐのT字路を右折して、東へ道なりに進む。左手に月窓亭があるところのT字路を右折すると、すぐ左手に榕城小学校が見えてくる。
種子島氏は平清盛の曾孫・平信基に始まるとも云われているが、鎌倉時代に守護代として派遣された肥後氏が種子島氏を名乗る様になったとされる。応永年間(1394年〜1427年)には島津氏に臣従したと云われている。慶長3年(1598年)薩摩藩の家老に任命され、江戸時代を通して家老の家柄だった。赤尾木城は寛永3年(1624年)種子島忠時が築城、明治2年(1869年)版籍奉還まで種子島氏の居城だった。
[交通]西之表港フェリーターミナル-(約15分)-月窓亭-(約5分)-榕城小学校正門
土塁 石垣 榕城小学校正門への階段
赤尾木城跡地は榕城小学校になっている。城内にアコウの木があったため、赤尾木城と呼ばれる様になったと云われている。校庭には樹齢400年以上のアコウの木が残る。
榕城小学校
寛政7年(1795年)に建てられた月窓亭(有料施設)は、明治19年(1886年)種子島家の屋敷となった。平成12年(2000年)まで使用され、後に西之表市が購入した。司馬遼太郎や数多くの著名人が訪れている。冷たい月窓茶は美味であった。
月窓亭
赤尾木城跡の南角を右折すると、すぐ左手に犬の馬場案内板がある。鎌倉時代の犬追物などの乗馬稽古場 / 練兵場で、犬の馬場と呼ばれた。
犬の馬場
犬の馬場案内板から西へ進む。すぐの交差点を左折してすぐに右折すると、右手に本願寺がある。文明元年(1469年)種子島時氏によって創建された種子島家の菩提寺。種子島に法華宗を伝えた日典上人の墓がある。
本願寺
本願寺の西側に栖林(せいりん)神社があるが、南にある西之表市役所側から回り込まなければならない。文久3年(1863年)創建、種子島久基を祀る。案内地図では場所が解りづらく、地元の方が近くまで案内していただいた。
栖林神社
天文12年(1543年)種子島に鉄砲が伝来する。島の豊富な砂鉄をもとに国産化に成功したことから、鉄砲の事を種子島銃または種子島と呼ばれる様になった。種子島鉄砲館(有料施設)内は撮影禁止で、展示されている銃の撮影はできなかった。入口付近に記念撮影場所があり、種子島銃を持っての撮影ができる。
でぶ猫爺64歳6ヶ月の夏