最新の追加 | ||
若狭国・守護館 | ||
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■城の種別 守護館 ■築城者 武田元光 ■築城年 大永2年(1522年) |
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小浜小学校旧校地 | ||
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発心寺参道 | 愛宕神社鳥居 | 登り口石段 |
JR小浜線・小浜駅改札口から右に進み、跨線橋を渡り西へ道なりに進む。すぐの27号線・小浜伏原交差点を右折、すぐの後瀬山東交差点を右折する。すぐ左手にある発心寺の参道を進むと、右手に愛宕神社の鳥居がある。ここが後瀬山城(のちせやまじょう)の登り口で、本丸跡に元和元年(1615年)創建の愛宕神社がある。慶長6年(1601年)の廃城後、京極高次の正室・初(常高院 / 浅井三姉妹の次女)が勧進した。 |
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発心寺の参道入口まで戻り、左折して北西に進む。後瀬山東交差点から北西に延びる道は、鯖街道と丹後街道の重複区間になっている古道。 |
立光寺 | 蓮興寺 | |
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誓願寺 | 八幡神社大鳥居 | 八幡神社 |
すぐの突き当りを左折すると丹後街道(敦賀〜宮津)、右折すると鯖街道(小浜〜京都)。 |
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T字路を右折して北西に進むと、すぐの十字路北側に小浜住吉郵便局がある。風景印は、八百比丘尼木像 / 人魚の像 の図柄になっている。 |
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小浜住吉郵便局風景印 | ||
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後瀬山 | 空印寺 | 小浜小学校旧校地 |
T字路まで戻り、丹後街道を南西に進む。すぐの突き当りが小浜小学校旧校地 / 左手に空印寺 がある。 |
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永禄11年(1568年)内乱の続く若狭国を越前国・朝倉氏が平定、若狭武田氏は支配権を失った。 |
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本行寺 | 天満宮鳥居 | 浄安寺 |
突き当りを右折して、すぐに左折する。小浜小学校旧校地に沿って進むと、5分足らずの左手に本行寺 / 左手に天満宮鳥居 / 右手に浄安寺 と続く。天満宮鳥居横に「常高寺への近道」標識がある。 |
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常高寺参道 | 東光寺 | 栖雲寺 |
すぐ左手の常高寺参道を進むと、すぐ左手に東光寺 / すぐ右手に文明15年(1482)創建の栖雲寺 と続く。 |
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常高寺参道石段 | 天満宮 | JR小浜線 |
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突き当りにある常高寺の石段はJR小浜線で分断されており、登ることはできない。石段左手の小路から迂回する。 |
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常高寺山門 | 常高寺本堂 | |
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正法寺 | 青井稲荷神社鳥居 | 石仏石塔群 |
十字路まで戻り西に進むと、丹後街道はすぐに南西に進路が変わる。 |
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石仏石塔群 | 神明神社 | 後瀬山城登り口 |
T字路を直進するのが旧丹後街道で、すぐに27号線(丹後街道)に合流する。 |
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[寄り道]若狭国分寺 | ||
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国分寺釈迦堂 | 国分寺薬師堂 | 国分寺古墳 |
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27号線・小浜伏原交差点から東に進むと、東小浜駅口交差点から10分ほどの左手に若狭国分寺がある。小浜市市街地から約4.5km / 東小浜駅から1.5km
に位置する。 |
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若狭姫神社 | ||
国分尼寺 / 若狭国国府 のあった場所は解っていない。小浜市市街地から国分寺間には、総神社 / 若狭姫神社 / 若狭彦神社 などの古社がある。 | ||
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東小浜駅口交差点の西100mに、遠敷郵便局がある。風景印は、小浜の伝統行事・お水送り神事 の図柄になっている。 |
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遠敷郵便局風景印 | ||
若狭国・小浜城(雲浜うんぴん城) |
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■城の種別 海城 ■築城者 京極高次 ■築城年 慶長6年(1601年) ■主な遺構 石垣 |
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小浜城本丸石垣 | ||
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JRJR西日本小浜線・小浜駅から162号線を北に進む。すぐの小浜病院前交差点手前左手に、小浜駅前郵便局がある。風景印は、後瀬山 / 小浜市花・ツツジ
/ 幕末の儒学者・梅田雲浜銅像 の図柄になっている。 |
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小浜駅前郵便局風景印 | ||
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10分余りの雲浜保育所前交差点を左折すると、小浜城本丸跡に明治8年(1875年)創建の小浜神社がある。 |
小浜神社 | 小浜神社拝殿 | |
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにより京極高次は若狭国を与えられ、大永2年(1522年)武田元光によって築城された後瀬山城を居城にする。後瀬山城は山城で手狭だったため、慶長6年(1601年)小浜城の築城に取り掛かる。海
/ 河川 / 湿地 に囲まれた海城だった。2代藩主・京極忠高は完成を見ずして、寛永11年(1634年)出雲国松江に転封となった。京極高次の正室は浅井長政の娘・初で、従兄妹同士であった。 |
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寛永11年(1634年)徳川家譜代・酒井忠勝が12万3000石で小浜藩に入封する。城の整備拡張が続き、寛永19年(1641年)に完成する。以降、若狭酒井家の居城として明治を迎えた。 |
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小浜城天守台跡 |
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越前国・金ヶ崎城 |
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■城の種別 |
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金ヶ崎山 | ||
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JR北陸本線・敦賀駅より北西に進む。 |
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敦賀駅前郵便局風景印 | ||
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気比神宮中鳥居 | ||
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気比神宮大鳥居(重文) | 気比神宮外拝殿 | |
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白銀交差点から10分ほどの気比神宮交差点を越えた右手に、仲哀天皇8年(199年)創建と云われる気比神宮がある。古事記や日本書紀にも記事がある古社。北陸から畿内への入口に位置、北陸道総鎮守として朝廷から重視されていた。社殿のほとんどは第二次世界大戦の空襲で焼失、空襲を免れた大鳥居(重文)が残る。松尾芭蕉は「おくのほそ道」で、元禄2年(1689年)旧暦8月14日〜16日敦賀に滞在した。 |
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気比神宮絵馬 | ||
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気比神宮交差点を越えた左手に、銅像 / お砂持ち神事案内板 がある。承安3年(1301年)当時は、気比神宮辺りまで入江であった。時宗遊行上人・他阿真教が敦賀を訪れたとき、気比神宮西門前の参道、周辺が沼地となって参拝者が難儀していた。上人自らが先頭に立ち、浜から砂を運んで |
お砂持ち神事銅像 | ||
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お砂持ち神事案内板からすぐ左手に敦賀郵便局がある。風景印は、気比の松原 / 松原海水浴場 の図柄になっている。 |
敦賀郵便局風景印 | ||
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すぐの元町交差点を直進して8号線を北東に進む。すぐの曙交差点を左折すると、すぐ右手に寛和年間(985年〜987年)創建の天満神社がある。 |
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天満神社 | ||
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天満神社角の交差点に標識があり、右折して北東に進む。5分ほどすると、平成21年(2009年)に休止となったJR敦賀港線の踏切を越える。遮断機や警報機は撤去され、線路側に固定柵が設置されている。踏切から旧敦賀港駅方向を撮影、奥左側が |
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JR敦賀港線 | ||
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すぐ左手に天平8年(736年)創建の金前寺がある。織田信長による越前攻めで金ヶ崎城が落城したときの兵火 / 昭和20年(1945年)敦賀空襲
により焼失した。 |
金前寺 | 金ヶ崎跡・天筒山城跡碑 | |
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金前寺境内沿いに西に進む。北西に曲がる左手に、明治15年(1882年)に竣工した敦賀港駅ランプ小屋が移築されている。旧長浜駅舎とともに国内における最古の鉄道建築物になっている。ランプ小屋は、列車に使用されるカンテラの燃料を保管する油庫。かつては主要な駅に存在した。電灯に変わるなど用途がなくなり、急速にその姿を消していった。 |
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敦賀港駅ランプ小屋 | ||
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登り坂から石段になり、すぐ右手に愛宕神社がある。 | |
愛宕神社 | ||
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金崎宮拝殿 | 金崎宮本殿 | |
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絹掛神社 | 金ヶ崎跡碑 | 絵馬 |
敦賀港駅ランプ小屋から5分ほどのところに、明治23年(1890年)創建の金崎宮(かねがさきぐう)がある。 |
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金崎宮境内からの眺望 | ||
金崎宮境内からは、手前に旧敦賀港駅跡 / 中央に煉瓦倉庫 / 市街地 が眺望できる。 |
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金ヶ崎城は、敦賀湾に突き出した海抜86mの金ヶ崎山に築かれた山城である。治承4年(1180年)〜元暦2年(1185年)の治承・寿永の乱のとき、平通盛が木曾義仲との戦いのために築城したと云われている。 延元元年 / 建武3年(1336年)南朝方の新田義貞は、後醍醐天皇の皇子である恒良親王と尊良親王を奉じて気比氏治の居城であった金ヶ崎城に入城する。北朝方の越前守護・斯波高経らの軍勢に包囲され兵糧攻めにされ、飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られ延元2年 / 建武4年(1337年)落城する。尊良親王 / 新田義貞の嫡男・新田義顕は自害、恒良親王は捕縛される。 延元3年 / 暦応元年(1338年)新田義貞が奪還するが、足利方の越前平定により越前守護代・甲斐氏の一族が守備する。 元亀元年(1570年)織田信長は朝倉義景攻めのとき、朝倉景恒は織田信長に対し開城する。次いで越前に進軍しようとしたとき、同盟関係にあった近江・浅井氏が裏切り朝倉氏に味方する。 |
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月見御殿址 | 月見櫓跡からの眺望 | |
月見櫓跡までの登り坂の途中に、尊良親王御墓所見込地がある。安政年間(1855年〜1860年)経塚が発見され、石室からいずれも銅製の経筒 / 円鏡
/ 椀 が出土した。明治時代に尊良親王御墓所見込地碑が造立された。 |
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敦賀赤レンガ館 | キハ28形 | |
金前寺から南に進み、JR敦賀港線の踏切を越えて道を戻る。すぐのT字路を右折して西に進むと、すぐ左手に敦賀赤レンガ館がある。 |
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コンテナが積まれている旧敦賀港駅構内 | ||
敦賀赤レンガ館から西側にある敦賀港は近いが、 |
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敦賀ムゼウム | 敦賀港 | |
旧敦賀港駅からUターンする様に南に進むと、すぐ右手に「人道の港 敦賀ムゼウム」がある。ムゼウムとは、ポーランド語で資料館を意味する。杉原千畝(すぎはら ちうね)は外務省職員で、昭和14年(1939年)〜昭和15年(1940年)リトアニアのカウナス日本領事館領事代理に赴任していた。ナチス・ドイツの迫害により、リトアニアには欧州各地から避難民が逃れてきていた。外務省からの訓令に反して、昭和15年(1940年)7月〜8月の間に日本を通過する大量のビザ(通過査証)を発行した。ユダヤ人を中心に6000人以上の避難民にビザ発給、救ったことで知られる。リトアニアからシベリア鉄道でウラジオストックまで9000km、さらにウラジオストックから船で荒れた冬の日本海を3日間掛けて敦賀港に到着した。敦賀市は難民を受け入れ、ここから安住の地への出発が始った。敦賀ムゼウムには、ビザの写し / ユダヤ人の歴史や感謝のしるし が展示されている。 |
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敦賀ムゼウムから南に進むと、鉄道資料館 |
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鉄道資料館 | ||
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鉄道資料館から南西に進む。すぐの交差点南西側の市民センター前に、「国々の 八景更に 気比の月」句碑 / 芭蕉翁月塚石柱 が有る。松尾芭蕉は「おくのほそ道」で、元禄2年(1689年)旧暦8月14日〜16日敦賀に滞在した。 |
芭蕉句碑 | 芭蕉翁月塚石柱 | |
越前国・福井城(北ノ庄城 / 福居城) | ||
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■城の種別 平城 ■築城者 朝倉頼景 ■築城年 文明3年(1471年) ■主な遺構 内堀 / 土塁 / 石垣 / 天守台 ■主な再建造物 御廊下橋 |
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本丸石塁 | ||
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内堀 | 春の内堀 | |
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石垣 | 天守台 | 御廊下橋 |
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御廊下橋は平成20年(2008年)に復元されたもの。御本城橋を渡ると、東側に結城秀康騎馬像がある。 |
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結城秀康騎馬像 | ||
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寛永元年(1624年)に福居、さらに福井と改名された。天守台の傍にある“福の井”は“福井”の由来となったと云われている。 |
福の井 | 建屋がなかった頃の福の井 | |
JR北陸本線・福井駅から北へ進むと、内堀に囲まれた福井城跡がある。文明3年(1471年)朝倉頼景が居館を築いたのが始まり。天正元年(1573年)織田信長によって朝倉氏は滅亡、天正3年(1575年)越前国を与えられた柴田勝家が北ノ庄城を築城する。天正11年(1584年)羽柴秀吉により落城、柴田勝家はお市の方とともに自刃する。 慶長6年(1601年)徳川家康の次男・結城秀康が越前国67万石で入封、北ノ庄城跡地に天下普請により築城する。結城秀康の嫡男・松平忠直は、大坂の陣での戦功の不満から幕府に反抗的態度を取る様になった。元和9年(1623年)松平忠直は乱行を理由に廃されて豊後国大分に配流された。 本丸跡に、福井県庁 / 県会議事堂 / 県警察本部 / 公園 がある。本丸御殿の一部が、市内の瑞源寺に移築されている。柴田神社のあるところは、柴田勝家が築城した北ノ庄城本丸跡と云われている。 [交通]JR福井駅-(徒歩/約10分)-福井城 |
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越前国・一乗谷城(朝倉館) | ||
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■城の種別 山城 ■築城者 朝倉敏景 ■築城年 文明3年(1471年) ■主な遺構 唐門 ■主な再建造物 上城戸 / 下城戸 |
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館跡 | ||
JR一乗谷駅から東へ、突き当たりを右折して南へ進む。JR越美北線の踏切を渡り、信号を右折すると一乗谷に至る。一乗谷川沿い南北約3kmの一乗谷に、朝倉館・武家屋敷・寺院・町屋があった。朝倉館の背後にある標高473mの一乗城山に山城が築城された。唐門は、豊臣秀吉が朝倉義景の菩提を弔うために寄進したと云われる。現存する唐門は江戸時代中期に再建されたもの。武家屋敷
/ 町屋 / 井戸が復元されている。 [交通]JR一乗谷駅-(徒歩/約30分)-一乗谷 |
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越前国・丸岡城(霞ヶ城) | ||
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■城の種別 平山城 ■築城者 柴田勝豊 ■築城年 天正4年(1576年) ■主な遺構 天守(重文) / 移築城門 |
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天守 | ||
丸岡城は北陸本線・丸岡駅から直線距離で4kmほどのところにある。以前は大正4年(1915年)開業の京福電気鉄道丸岡線があったが、昭和43年(1968年)に廃止された。バスの接続が悪くタクシーも見当たらず、歩くことになる。駅前で地元の方に道を尋ねると「直ぐそこ」と言われ、60分歩くことになった。 [交通]北陸本線・丸岡駅-(徒歩60分)-丸岡城-(バス40分)-北陸本線・福井駅 |
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望楼からの丸岡町 | 銃眼 / 物見窓 | 丸岡城スタンプ |
市街地東の小高い丘陵にある丸岡城は、天正4年(1576年)柴田勝家の甥・柴田勝豊が築城した。柴田勝豊が天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦い後に病死すると、青山宗勝が越前丸岡4万6000石を与えられた。青山宗勝は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後に改易された。 慶長6年(1601年)に関ヶ原の戦いの功により、徳川家康の次男・結城秀康が越前国67万石を与えられた。丸岡には結城秀康の重臣・今村盛次が2万5000石で入ったが、慶長16年(1611年)の福井藩重臣による内紛に巻き込まれて流罪とされた。 慶長18年(1613年)鬼作左こと本多重次の嫡男・本多成重が4万石を与えられて入封、結城秀康の後を継いだ松平忠直を本多富正と共に補佐した。寛永元年(1624年)松平忠直が豊後国に流罪となると、本多成重は4万6300石に加増され、福井藩から独立した大名となった。元禄8年(1695年)4代・本多重益のときお家騒動が起こり、幕府の裁定により改易となった。代わってキリシタン大名で有名な有馬晴信の曾孫・有馬清純が越後糸魚川藩から5万石で入封する。明治4年(1871年)の廃藩置県まで、有馬氏丸岡藩6代の居城となり明治維新を迎えた。 |
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丸岡城天守(重文)は現存12天守の一つで、北陸地方で現存する唯一の天守である。大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた古式の外観から、現存最古の天守と云われていた。調査により寛永年間(1624年〜1644年)竣工と判明した。屋根は珍しい石瓦で、笏谷石(しゃくだにいし)を使用している。各層に銃眼や物見窓が設けられている。石垣は“野づら積み”で、自然の石を積み上げている。昭和23年(1948年)福井大震災で倒壊したが、再建される。 小松市・興善寺 / あわら市・蓮正寺 / 丸岡町野中山王の民家 に城門が移築されている。珍しい五角形の内堀が廻らされていたが、埋め立てられている。 |
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JR北陸本線・小松駅の西側を通る25号線を北に進む。360号線との細工町交差点を越えると、101号線になる。道は2車線道路と狭くなり、歩道もなくなる。JR小松駅前から15分ほどの右手に興善寺がある。この道は梯(かけはし)川に架かる小松大橋に至る。 |
興善寺山門 | 興善寺本堂 | |
興善寺は文明7年(1475年)大島村(現:小松市大島町)に創建されたのが始まり。寛永16年(1639年)小松城が2代藩主・前田利常の隠居城となったとき、城下町が町割りされて現在地に移転した。 |
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越前国・大野城 | ||
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■城の種別 平山城 ■築城者 金森長近 ■築城年 天正4年(1576年) ■主な遺構 石垣 / 堀 / 不明門が市内の真乗寺に移築され現存する。 ■主な再建造物 復興天守 / 搦手門 |
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復興天守 | ||
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越前大野城碑 | 搦手門 | 柳廼社 |
JR越美北線・越前大野駅より476号線を西へ進む。10分ほどすると、右手の柳廼社(やなぎのやしろ)境内に大野市郷土歴史館がある。裏手にある復元された搦手門から登る。天正3年(1575年)金森長近が入封する。居城とした戌山城の近くの亀山に築城する。山麓部に内堀および外堀の一部が、山頂に石垣および堀が残る。昭和43年(1968年)に推定復元された天守は資料館となっている。往時の絵図や築城同時期の他の城の天守が基となっており、史実に基づいていないと云われている。 [交通]JR越美北線・越前大野駅-(徒歩/約10分)-大野市郷土歴史館-(徒歩/約10分)-天守 |
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能登国・七尾ななお城(松尾城 / 末尾城) | ||
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■城の種別 山城 ■築城者 畠山満慶 ■築城年 正長年間(1428年〜1429年) ■主な遺構 郭 / 石垣 / 土塁 / 空堀 |
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桜馬場石垣 | ||
JR七尾線・七尾駅から七尾市内循環バス・まりん号に乗車、城史資料館前バス停で下車する。バス通りと177号線が交差する十字路の西にある小路を南に進むと、すぐ右手に地蔵堂がある。直進すると城史資料館(有料施設)がある。地蔵堂右手に「七尾城旧大手道」道標がある。ここから本丸跡までは、2.4kmの道程となる。能登畠山氏(七尾畠山氏)初代当主で能登国守護の畠山満慶(はたけやま みつのり)が、正長年間(1428年〜1429年)に砦を築いたのが始まりとされる。行政府である守護所は、府中(現:七尾市府中)に置かれていた。拡張と増強が行われ、約150年間に渡って領国支配の本拠となった。5代・畠山慶致の頃には守護所も府中から七尾城へと移され、8代・畠山義続
/ 9代・畠山義綱 の頃に最大の縄張りとなったと云われている。日本五大山城(七尾城 / 小谷城 / 観音寺城 / 月山富田城 / 春日山城)のひとつに数えられている。 [交通]JR七尾線・七尾駅-(七尾市内循環バス・まりん号)-城史資料館前バス停-(徒歩/約50分)-本丸 |
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地蔵堂から右へ進むと、すぐ左手に「大手道(旧本道)本丸まで2.4km」標識 / 道路に“赤い→→”が描かれている。右折して小路を進む。唯一間違い易いところ。5分足らずの左手に、「拝むと虫歯が治る」案内がある立石の地蔵 / 不明の石塔 がある。 |
地蔵堂 | 立石の地蔵 / 不明の石塔 | |
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歴史の道 赤坂口石柱 | 長坂 | 七曲り |
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調度丸石垣 / 石段 | 桜馬場石垣 | 本丸石垣 |
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七尾城址碑 | 城山神社 | 城山神社からの眺望 |
立石の地蔵から10分ほどすると、「歴史の道 赤坂口」石柱がある。15分ほどすると急カーブが連続する七曲りになる。さらに15分ほどすると調度丸に着く。桜馬場までの石段を登り左へ進むと、本丸に行ける。本丸に七尾城址碑 / 小高いところに城山神社 がある。 | ||
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桜馬場から右へ進むと、九尺石(画像正面中央)や二の丸がある。九尺石は城の鎮護の要石で、石の大きさに因んでいる。 |
九尺石 | 二の丸石垣 | |
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地蔵の祠 | 畠山義忠歌碑 | |
調度丸から左へ進むと、左手に地蔵の祠 / 「野も山もみなうづもるる 雪の中にしるしばかりの杉の村立」2代・畠山義忠歌碑 がある。 |
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畠山満慶は、畠山基国の次男。応永13年(1406年)畠山基国が死去すると、3代将軍・足利義満の逆鱗に触れて蟄居していた兄・畠山満家に代わって畠山氏の家督(越中 / 紀伊 / 河内 / 能登)を継ぐ。応永15年(1408年)足利義満が死去すると、兄に家督を返還した。畠山満家は能登を畠山満慶に与えた。畠山満慶と2代・畠山義忠は在京守護であり、所領の支配は守護代・遊佐氏に委ねられていた。応仁の乱後は3代・畠山義統が能登に下向、在国大名として強力な領国支配体制を築いた。4代・畠山義元の時に弟・畠山慶致との間で争いが起こる。明応9年(1500年)守護代・遊佐統秀によって畠山義元は追放され、5代当主に畠山慶致が擁立される。永正3年(1506年)両者は和解、畠山義元は復帰して再び当主となる。7代・畠山義総(畠山慶致の子)の時代、都から貴族も転居してくるなど小京都と呼ばれるほどに繁栄した。8代・畠山義続のとき統制が乱れ、畠山七人衆と呼ばれる重臣に実権を握られ傀儡化される。9代・畠山義綱のときに権力を奪回して専制支配を行ったが、永禄9年(1566年)反発した重臣によって畠山義続・畠山義綱父子は追放される。以降は内部紛争が続き、衰退の道を辿ることになる。畠山義綱の嫡男・畠山義慶が10代当主として擁立されるが、天正2年(1574年)に急死する。11代を弟の畠山義隆が継ぐが、天正4年(1576年)に急死したと云われている。幼少の息子・畠山春王丸が継いだが、実権は重臣・長続連に握られていた。天正5年(1577年)能登国に侵攻した上杉謙信に包囲されたとき、城内で発生した疫病に罹って死去したと云われている。能登畠山氏嫡流は滅亡する。重臣同士の対立もあり、遊佐続光の内応によって七尾城は開城された。天正6年(1578年)上杉謙信死後に御館の乱が起きる。能登国は織田の支配するところになり、天正9年(1581年)能登一国の領主として前田利家が入城した。七尾城は要害ではあったが山城のため、港から離れていて利便性に難があった。天正10年(1582年)七尾港に近い小丸山城を築城、拠点を移した。しばらく前田利家の次男・利政が城主となっていたが、天正17年(1589年)廃城となった。 |
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