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下総国・関宿(せきやど)
■城の種別
平城
■築城者
簗田成助
■築城年
康正3年(1457年)
■主な遺構 埋門と大手門と云われる門が市内に移築され現存する。茨城県・逆井城に城門と云われる薬医門がある。
■主な再建造物
模擬御三階
模擬櫓

利根川と江戸川の分流点にあり、埼玉県と茨城県境にくさびを打ち込んだ様な地形になっている。千葉県最北端に位置する。往時は水運の最重要拠点だったところであるが、鉄道の駅からは離れて訪問には不便なところになっている。東武鉄道野田線・川間駅や東武鉄道伊勢崎線・東武動物公園駅から、バスで約30分掛かる。新町バス停で下車、北へ進む。すぐの博物館入口交差点を左折して北西へ進むと、関宿城博物館が見えてくる。博物館入口交差点から10分足らずで、関宿城博物館下に着く。
[交通]東武鉄道伊勢崎線・東武動物公園駅-(バス/約30分)-新町バス停-(徒歩/約10分)

関宿城博物館手前の道が大きく左に曲がるところの右手に、鬼門除け稲荷神社がある。関宿城の鬼門の方角にあたるところで、寛文9年(1669年)城内に創建された。千葉県立関宿城博物館に、平成7年(1995年)築の御三階櫓を模した模擬櫓がある。江戸時代に御三階櫓があったところは、河川改修により解らなくなっている。
鬼門除け稲荷神社

康正3年(1457年)古河公方家臣・簗田成助が築城したと云われている。永禄8年(1565年)〜天正2年(1574年)上杉方と北条方との間で3度の関宿争奪戦が行われた。最終的には北条氏が勝利、北関東進出の拠点とした。天正18年(1590年)久松松平康元が下総国・関宿藩2万石を与えられ、天正19年(1591年)には4万石に加増された。父・久松俊勝は徳川家康の生母・伝通院の再婚相手で、松平康元は徳川家康の異父弟にあたる。往時は水運の最重要拠点だったところで、信頼の厚い譜代大名が任じられた。松平康元→松平忠良 / 松平重勝 / 小笠原政信→小笠原貞信 / 北条氏重 / 牧野信成→牧野親成 / 板倉重宗→板倉重郷→板倉重常 / 久世広之→久世重之 / 牧野成貞→牧野成春 / 久世重之 と目まぐるしく替わっている。明治4年(1872年)廃城となる。城下町は利根川の対岸(現:茨城県猿島郡境町)にあった。

実相寺 実相寺客殿 関宿郵便局風景印

新町バス停から南へ進む。5分ほどの野田市関宿台町交差点を左折して南東に進むと、5分ほどの左手に応永16年(1409年)創建の実相寺がある。関宿藩主・久世家の菩提寺で、客殿は宝暦6年(1709年)築の関宿城本丸新御殿の一部を明治4年(1871年)に移築したもの。山門に「平成之大改修 本堂修復工事奉行」が掛っている。実相寺から南に進むと、すぐ右手に関宿郵便局がある。風景印は関宿城の図柄となっている。

利根川東岸の茨城県・逆井城に、関宿城の城門と云われる薬医門がある。
逆井城薬医門
都立庭園・清澄庭園は、関宿藩の江戸下屋敷だったところ。明治13年(1880年)深川親睦園として開園する。全国から名石が集まった庭園で、石の大きさや数が半端ではない。ほぼ池に沿って1周する単純なコースであるが、池の端々に飛び石を置いて渡れる様にしている。石の配置が素晴しい。
清澄庭園
関宿汚水マンホール 関宿汚水マンホール 関宿汚水マンホール

平成15年(2003年)関宿町は、野田市に編入される。関宿城博物館デザインのマンホールやボタン絵柄のマンホールには、旧関宿町章がある。

常陸国・太田城(佐竹城 / 舞鶴城 / 青龍城)
■城の種別
平山城
■築城者
藤原通延
■築城年
天仁2年(1109年)
■主な遺構
土塁
本郭土塁
常陸太田駅前交差点から293号線を北西へ進む。すぐの山下町交差点から右方向へ直進すると、すぐ右手に平安時代創建の梅龍院が始まりの梅照院がある。明和4年(1767年)現地に移転した。天保14年(1843年)廃寺となり、天満宮は若宮八幡宮に移された。梅照院は明治時代に入り再興された。
梅照院
若宮八幡宮 天満宮 御神木のケヤキ
梅照院から5分ほどの分岐を左へ進む。さらに5分ほどすると、常陸太田郵便局のある内堀町交差点に突き当たる。左折して西へ、すぐに道なりに曲がり北西へ進む。すぐ右手に若宮八幡宮がある。内堀町から若宮八幡宮一帯は、太田城二の郭のあったところ。応永年間(1394年〜1427年)佐竹義仁が鎌倉・鶴岡八幡宮から勧請して太田城内に創建したのが始まりで、佐竹氏の祈願所であった。宝永5年(1708年)現地に移転する。境内に天保14年(1843年)廃寺となった梅照院から移された天満宮がある。参道の両脇には、6本のケヤキが立ち並んでいる。鳥居を潜った右手にあるケヤキは、根回り14.05m / 目通り8.35m / 高さ約3m / 枝張り約25m / 樹齢およそ500年 の御神木。
若宮八幡宮から北西へ進むと、すぐ右手に大田小学校がある。太田小学校一帯は、太田城本郭のあったところ。大田小学校角を右折、さらに左折して北へ進むと校門がある。玄関前に舞鶴城跡碑があり、校内に入ることなく撮影はできる。
天仁2年(1109年)藤原秀郷の子孫・藤原通延が築城したのが始まりと云われている。長承2年(1133年)佐竹昌義は藤原通盛を服属させ、太田城に入り規模を拡大した。戦国最末期、佐竹義宣は水戸に本拠を移した。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後、慶長7年(1602年)常陸54万石から出羽久保田18万石へ減封された。慶長7年(1602年)廃城となった。
[交通]JR水郡線・常陸太田駅-(徒歩/約15分)-若宮八幡宮
舞鶴城跡碑
[寄り道]西山荘跡
馬頭観音 馬頭観音 馬力神
若宮八幡宮から北西へ進んだところの大田小学校角まで戻り、293号線を北へ進む。すぐの宮本町交差点を左折する。太田中入口交差点を過ぎた辺りから西山荘までは、詩碑などの石塔がところどころにある。宮本町交差点から5分足らずの西山荘入口交差点から左へ進む。三角地帯の小公園南側に、馬頭観音 / 馬頭観音 / 昭和10年(1935年)造立の馬力神 が並んでいる。馬力神とは初めての遭遇。
突上門 守護宅 西山御殿
西山荘入口交差点から5分足らずのところに西山荘駐車場があり、小路を直進すると料金所がある。料金所から突上門を潜ると、右手の高台に守護宅 / 登り切ると正面に西山御殿 がある。西山御殿は元禄3年(1690年)に建てられ、隠居した徳川光圀が元禄4年(1691年)から元禄13年(1700年)に亡くなるまで過ごしたところ。徳川光圀はここで歴史書・大日本史を編纂した。文化14年(1817年)に焼失、文政2年(1819年)水戸徳川家8代藩主・徳川齊脩によって規模を小さくして再建された。往時の守護宅が復元され、徳川光圀ゆかりの品などを展示している。

突上門は古い資料に「竹を編んで上から掛け、竹ざおをもってこれを支え、夜は降ろして扉とする質素なもの」とある。どの様な門なのか期待していたが、史実に反する門であった。西山御殿は「茅葺平屋建てで内部は粗壁のままの質素なもので、華美を嫌った徳川光圀を伝えるものとなっている。」と紹介されている。あまりの新しさに料金所に戻ると、倒壊して最近建て直したとのこと。古びた感じにできる手法も用いていない。徳川光国時代の西山荘を再現したのであれば納得する。現西山御殿は大名の隠居所としては質素かも知れないが、庶民からは贅沢に見える。この建物を見るのに、800円(2015年12月)は高過ぎる。公益財団法人・徳川ミュージアムのホームページに、現西山御殿の経緯記載はない。解っていれば訪れる必要もなく、WEBで見られる古い画像で充分だった。また西山荘跡には地図もなく、道がどの様に続いているか聞くために料金所に戻っている。

常陸国・山方城(御城)
■城の種別
山城
■築城者
山方盛利
■築城年
応永15年(1408年)
■主な遺構
土塁
■主な再建造物
模儀櫓
模儀櫓
JR水郡線・山方宿駅前の道を北へ進む。水郡線と118号線の間を通る南郷街道は、棚倉街道の脇往還。宿場町を僅かに偲ばせる町並みが続く。118号線と合流する五差路の岩井橋交差点を左折して、29号線を南西へ進む。水郡線を潜ると、すぐ右手に標識があり右折する。さらに標識があり右折して坂を登ると、山方城がある。途中に南郷街道の標識がある。岩井橋交差点から模儀櫓が見え、118号線の左側に細い急坂がある。その気になって進むと、118号線のトンネルの上を通り旧道に下ってしまう。応永15年(1408年)上杉一族の山方盛利が常陸に下向、砦を築いたと云われている。慶長7年(1602年)佐竹氏は秋田に移封となり、山方城は廃城となる。
[交通]JR水郡線・山方宿駅-(徒歩/約25分)-御城展望台
常陸国・笠間城(桂城)
■城の種別
山城
■築城者
笠間時朝
■築城年
承久元年(1219年)
■主な遺構
空堀 / 石垣 / 土塁 / 井戸
本丸八幡台にあった八幡櫓が市内の真浄寺に、城門2棟が市内の民家に移築され現存する。
天守曲輪石垣
笠間駅より311号線を北へ、高橋町交差点を右折する。笠間稲荷神社前を通り、突き当たりを右折する。次の交差点を左折、変則十字路を左折すると佐白山麓公園に至る。佐白山頂の天守曲輪には佐志能神社がある。建物は天守の廃材、裏手の築地塀は天守の瓦を使用していると云われている。
[交通]JR笠間駅-(徒歩/約40分)-佐白山麓公園-(徒歩/約20分)-笠間城天守曲輪
八幡櫓
常陸国・真壁城
■城の種別
平城
■築城者
真壁長幹
■築城年
承安2年(1172年)
■主な遺構
城門が楽法寺(雨引観音)に移築され現存する。
址碑
筑波山の北約3.5kmに真壁城がある。かつては常磐線・土浦駅と水戸線・岩瀬駅を結んでいた筑波鉄道があったが、昭和62年(1987年)に廃止になっている。水戸線・下館駅から7号線を東へ進む。消防署前交差点を左折して41号線を北へ、すぐ右手に見える町立体育館は真壁城本丸跡にある。本丸北側に城址碑と稲荷神社がある。関ヶ原の戦い後に、真壁氏は主君佐竹氏とともに出羽国に移っている。元和8年(1622年)真壁の地は天領になり、廃城となる。41号線の西側が真壁町の中心で古い町並みが残る。上宿通りを西へ進むと筑波鉄道廃線跡を利用したサイクリングロードがある。右折して見芽通りを進むと、左手の奥まったところに桜川歴史民族資料館がある。真壁の石は硬質で緻密な黒雲母花崗岩で、墓石にも古くから使用されている。
41号線を約6km北へ進むと、雨引観音の道標がある。右折して東へ進む。用明天皇2年(587年)創建の楽法寺(雨引観音)の山門は真壁城から移築された城門で、唯一の遺構となっている。41号線を北へ進み、突き当たる50号線を右折すると水戸に至る。
楽法寺山門(真壁城城門)
常陸国・逆井城(飯沼城)
■城の種別
平城(水城)
■築城者
逆井常宗
■築城年
宝徳2年(1450年)または康正2年(1456年)
■主な再建造物
二層物見櫓 / 平櫓 / 井楼矢倉 / 櫓門 / 主殿
二層物見櫓
JR東北本線・古河駅の南東約15km、関東鉄道常総線・宋道駅の西約10kmに逆井城がある。バスは乗り継ぎとなり便も悪い。東京から4号線を北へ、利根川を渡る。古河市柳橋の手前を左に下り、右折して4号線を潜り56号線を東へ進む。八千代町に入り137号線を右折して南へ進む。坂東市に入るとしばらくして逆井城への道標があり、右折して西へ進む。天文5年(1536年)後北条氏により攻略され、逆井氏は滅ぶ。天正18年(1590年)小田原の役後に廃城となる。築城当時は南北30km・東西1kmの飯沼を自然の外堀とした水城であった。遺構は土塁や空堀などが残る程度であるが、二層物見櫓 / 平櫓 / 井楼矢倉 / 櫓門 / 木橋が復元されている。主殿は文禄3年(1594年)築城の潮来市・堀之内大台城の主殿遺構を参考に復元したものである。主殿前には野田市・関宿城の城門と云われる薬医門がある。右手には天正16年(1588年)建立の岩井市・大安寺観音堂が移築されている。
常陸国・府中ふちゅう城→府中陣屋
■城の種別
平城→陣屋
■築城者
府中城:大掾詮国 / 陣屋:松平頼隆
■築城年
府中城:正平年間(1346年〜1369年)
陣屋:元禄13年(1700年)
■主な遺構
陣屋:陣屋門
陣屋門
JR常磐線・石岡駅から西へ、5分ほどの国府3丁目交差点を左折して南へ進む。すぐの交差点を右折して土橋通りを西へ進む。すぐすぐ右手に応安7年(1374年)創建の照光寺がある。常陸府中藩主・松平家墓所がある。幕末の天狗党の乱の折には田丸稲之右衛門一派の宿舎となる。江戸時代に照光寺学寮と称して寺子屋教育を行っていた。明治6年(1873年)石岡小学校創設の際には,校舎として使用された。
照光寺
すぐの突き当りの石岡民族資料館前に、文政11年(1828年)建立の陣屋門がある。石岡民族資料館西側の石岡小学校を中心とする辺りは、古代には常陸国の国衙(こくが)があったところである。常陸国・国府が置かれたところであったことから、府中と呼ばれていた。
正平年間(1346年〜1369年)には、大掾詮国によって府中城が築かれたが、天正18年(1590年)佐竹義宣によって落城する。大掾清幹が自刃、廃城となる。
慶長7年(1602年)出羽国の豪族であった六郷政乗は関ヶ原の戦いで東軍に与して武功を挙げ、常陸国府中に1万石を与えられて府中藩を立藩した。元和9年(1623年)出羽本荘藩へ移封となる。皆川広照が入封するが正保2年(1645年)皆川成郷が死去、嗣子が無かったため断絶し改易となる。しばらく府中藩は廃藩となっていた。元禄13年(1700年)常陸水戸藩初代藩主・徳川頼房の五男・松平頼隆は、常陸府中藩を立藩する。府中松平家は江戸定府だったため、陣屋が置かれていた。明治2年(1869年)の版籍奉還で石岡藩と改称するまで、常陸府中藩と名乗っていた。
陣屋門は、往時には水戸街道と接する土橋通り正面にあった。明治維新後は石岡小学校校門として用いられ、昭和44年(1969年)に石岡小学校敷地内に移された。さらに平成26年(2014年)に現在地に移築された。
[交通]JR常磐線・石岡駅-(徒歩/約10分)-陣屋門
常陸国・水戸城(馬場城 / 水府城)
■城の種別
平山城
■築城者
馬場資幹
■築城年
建久年間(1190年〜1198年)
■主な遺構
薬医門 / 藩校・弘道館(重文)/ 土塁 / 空堀
薬医門

JR常磐線・水戸駅北口より50号線を北西へ進む。中央郵便局交差点を右折して118号線を北へ進むと、右手に三の丸空堀が続く。
平安時代末期の建久年間(1190年〜1198年)に、馬場資幹によって築城されたと云われている。応永23年(1416年)上杉禅秀の乱で、足利幕府側についた江戸通房が城主となり以後7代(約170年間)続いた。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐のとき、江戸重通は北条氏側に加担する。佐竹義重・義宣父子は豊臣秀吉軍に参陣したため、常陸国54万石を与えられ居城を太田城から水戸城に本拠を移した。佐竹義宣は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで曖昧な態度であったため、慶長7年(1602年)出羽国秋田に移封となる。徳川家康は五男・武田信吉を15万石で水戸に入封させるが、慶長8年(1603年)嗣子無く没する。替わって十男・徳川頼宣を20万石で入封させた。
北部を流れる那珂川と南部に広がっていた千波湖を天然の堀としていた。本丸の西側に二の丸が配され、さらに西に三の丸が配され、それぞれが空堀で仕切られていた。石垣がなく、土塁と空堀の城だった。天守は築かれず、3重5階建ての御三階櫓があった。明治4年(1871年)廃城後も残った御三階櫓は、昭和20年(1945年)に焼失した。本丸跡に薬医門 / 三の丸跡に藩校・弘道館(重文)が現存している。

[交通]JR常磐線・水戸駅-(徒歩/約10分)-三の丸空堀

水戸城の詳細は「水戸街道ぶらり旅 No.11 水戸城」ご参照。
常陸国・土浦城(亀城)
■城の種別
平城
■築城者
若泉三郎
■築城年
永享年間(1429年〜1441年)
■主な遺構
太鼓櫓門 / 霞門 / 旧前川口門
■主な再建造物
東櫓 / 西櫓
太鼓櫓門
霞門 旧前川口門 本丸水堀
東櫓 西櫓 聖徳大師堂
土浦駅西口から北側の通りを北西に道なりに進む。20分ほどすると左手に亀城公園が見えてくる。土浦は幾度も水害に遭っているが、土浦城は水没することはなかった。水に浮かぶ亀の甲羅の様に見えたことから、亀城(きじょう)とも呼ばれていた。本丸と二の丸の一部が亀城公園となっている。
永享年間(1429年〜1441年)に若泉三郎よって築城されたが、天慶年間(937〜946年)平将門が砦を築いたのが始まりとも云われている。戦国時代の永正13年(1516年)若泉五郎左衛門は、小田氏部将・菅谷勝貞によって城は奪われる。天正11年(1583年)小田氏治のとき、佐竹氏の軍門に降る。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐のとき、北条氏と結んだために小田氏と菅谷氏は滅亡した。天正18年(1590年)関東に入封した徳川家康は、次男・結城秀康に与えられ支城となる。慶長5年(1600年)関ケ原の戦いの後、結城秀康は越前国・北ノ庄に移封となる。藤井松平家・松平信一が入封、元和3年(1617年)松平信吉が上野国・高崎に移封する。西尾氏〜朽木氏と代わり、寛文9年(1669年)土屋数直が入封する。土屋氏は天和2年(1682年)政直のとき、駿河国・田中に移封する。大河内松平家・松平信興が5年後の貞享4年(1687年)に大坂城代に転ずると、土屋政直が再び入封する。その後は常陸国で水戸藩に次いだ領地を支配、土屋氏が約200年間世襲して明治維新に至った。
江戸時代に増改築された二重の堀で守る平城であった。天守は作られなかった。明暦2年(1656年)に改築されたと云われている太鼓櫓門 / 霞門 / 移築された旧前川口門 が現存する。東櫓は平成10年(1998年)に復元された。西櫓は昭和25年(1950年)のキティ台風で破損、解体保存されていたものを平成に入ってから復原された。城内に聖徳大師堂などがある。
[交通]JR常磐線・土浦駅-(徒歩/約20分)-亀城公園
下総国・根木内ねぎうち
■城の種別
平山城
■築城者
高城胤忠
■築城年
寛正3年(1462年)
■主な遺構
土塁 / 空堀
本郭
JR常磐線・北小金駅南口から南へ、すぐの交差点を左折して東へ進む。10分足らずで 根木内交差点で6号線と交差する。すぐ左手に根木内城址口がある。
寛正3年(1462年)高城胤忠によって築城されたと云われている。天文6年(1537年)小金城を築城して移るまで、高城氏の拠点であった。天文18年(1590年)に廃城となっている。根木内歴史公園として整備されており、空堀や土塁が残る。6号線で分断された北西側は、宅地化で遺構は残っていない。
[交通]JR常磐線・北小金駅-(徒歩/約10分)-根木内城址口
根木内城址口
下総国・古河城(古河御陣)
■城の種別
平城
■築城者
下河辺行平
■築城年
平安時代末期の1180年頃
■主な遺構
堀 / 土塁
二の丸御殿乾門が市内の福法寺に、文庫蔵と乾蔵が市内の商店に移築され現存する。
本丸後
JR東北本線・古河駅から西へ、5分ほどの旧日光街道(261号線)を左折する。すぐの本町2丁目交差点を右折して西へ進む。10分ほどの渡良瀬川の堤防に登り、南へ進む。15分ほどの三国橋と新三国橋の中間辺りに、古河城本丸跡標柱がある。平安時代末期の1180年頃、源頼朝に従った下河辺行平が古河立崎に城館を築いた。北条氏が鎌倉幕府の実権を握ると、北条氏の支配下に置かれたと云われている。室町時代(1336年〜1573年)前期の南北朝時代(1336年〜1392年)は、北朝・足利氏の拠点の一つであった。室町時代後期の享徳4年(1455年)今川範忠に鎌倉を占拠されると、第5代鎌倉公方・足利成氏は下総古河に本拠を移した。以降約130年間、古河公方の本拠となる。当初は古河鴻巣の古河公方館を居館としたが、古河立崎の古河城を整備した後に移動した。後北条氏による関東支配が進むと、古河公方も次第に体制に組み込まれる。永禄10年(1567年)〜天正年間(1573年〜1592年)佐竹氏や結城氏に対抗するため、北条氏照によって城の整備・拡充が進められた。天正18年(1590年)豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼした後は、徳川家康に従って小笠原秀政が古河城の修復・拡張を行った。江戸時代には譜代大名が入れ替わりで城主を務めた。日光街道の古河宿 / 渡良瀬川による河川水運 で賑わい、徳川将軍による日光社参時の宿ともなっていた。明治6年(1873年)廃城令によって、建造物はすべて破却された。明治末から開始された渡良瀬川の改修工事により、残された城跡もほとんどが消滅した。
[交通]JR東北本線・古河駅-(徒歩/約30分)-古河城本丸跡標柱
諏訪曲輪・土塁 / 堀 店蔵(文庫蔵) / 袖蔵(乾蔵) 福法寺山門
本町2丁目交差点から旧日光街道(261号線)を南へ進む。すぐの交差点を右折して、肴町通りを西へ進む。すぐ左手にある坂長本店の店蔵は旧古河城文庫蔵 / 袖蔵は旧古河城乾蔵。坂長本店と蛭子神社の間にある道を左折して南へ進むと、すぐ右手に福法寺がある。福法寺山門は、二の丸御殿乾門が移築されたもの。南へ進み、すぐの突き当りを右折する。すぐに突き当りに歴史博物館がある。古河城諏訪曲輪だったところで、土塁 / 堀 が残る。
本町2丁目交差点から西へ、渡良瀬川方向へ進む。15分ほどすると、左手に頼政(よりまさ)神社石標があり左折する。すぐの右手に、延宝5年(1677年)創建の頼政神社がある。治承4年(1180年)以仁王(もちひとおう)の挙兵で敗死した源頼政の首を従者が持ち帰り、立崎に葬ったと云われている。頼政神社は、古河城南端の立崎曲輪(頼政曲輪)にあったが、渡良瀬川の河川改修工事のため大正元年(1912年)に古河城北端の観音寺曲輪土塁にあたる現在地に移転した。
頼政神社
下総国・一色氏館
■城の種別
居館
■築城者
一色直朝
■築城年
天文年間(1532年〜1555年)
一色稲荷神社
東武鉄道・幸手駅から東へ、すぐ右手に一色稲荷神社がある。陣屋稲荷神社とも称されている。東武鉄道・幸手駅付近には、古河公方・足利氏の家臣である一色氏が館を構えていた。江戸時代に一色義直は5160石の旗本となり、陣屋が構えられた。城山や陣屋の地名が残る。一色稲荷神社は、館跡と推定されるところから巽(南東)方向に一色氏の守り神として創建されたと云われている。
下総国・佐倉城(鹿島城)
■城の種別
平山城
■築城者
鹿島幹胤
■築城年
天文年間(1532年〜1555年)
■主な遺構
土塁
出丸跡

JR佐倉駅北口から北へ進む。296号線を越える。突き当たりを右折してすぐに左折、薬師坂を登る。突き当たりを左折して道なりに進む。296号線と合流する手前を左折、道なりに進む。突き当たりを左折すると、佐倉城公園に至る。慶長15年(1610年)土井利勝によって築城が再開、佐倉城が完成する。武家屋敷が残っている。
[交通]JR総武本線・佐倉駅-(徒歩/約25分)-佐倉城公園

下総国・本佐倉もとさくら城(将門山城)
■城の種別
平山城
■築城者
千葉輔胤
■築城年
文明年間(1469年〜1486年)
■主な遺構
土塁 / 堀
土塁
京成電鉄・京成酒々井駅から南東へ、すぐの小路を右折して道なりに進む。線路沿いに進むと、道なりに京成電鉄の踏切を渡る。左折して線路沿いに南西へ進む。10分ほどのT字路を左折して京成電鉄のガードを潜ると、前方に本佐倉城が見える。突き当りを右折すると、すぐ左手に案内板と「マムシ注意!」の大きな看板がある。夏草が生い茂っている道で、躊躇して内部には行っていない。道を直進、突き当り右折する。すぐに京成電鉄線路に突き当り。ガードを潜らずに右折して線路沿いに進む。道なりに進むと、右手に大佐倉駅がある。京成電鉄・酒々井駅に“本佐倉城跡アクセスガイド”パンフが置かれている。将門山に築かれ、千葉宗家後期9代の本拠地となった城。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐後、千葉重胤は改易となる。徳川氏に接収、破却されて城下に陣屋が置かれた。慶長11年(1606年)に移封された小笠原吉次が本佐倉城に佐倉藩の藩庁を置いたと云われている。慶長15年(1610年)に土井利勝が移封される。元和元年(1615年)藩庁が佐倉城へ移転、一国一城制により廃城となる。
[交通]京成電鉄・京成酒々井駅-(徒歩20分)-本佐倉城-(徒歩10分)-京成電鉄・大佐倉駅
下総国・臼井うすい
■城の種別
平山城
■築城者
臼井常康
■築城年
永久2年(1114年)
■主な遺構
土塁 / 堀
本丸
本丸からの印旛沼眺望 空堀(本丸と郭の間) 土塁(北側)
京成電鉄・京成臼井駅より北西へ、すぐの交差点を右折する。突き当りを左折して、296号線を北西へ進む。中宿交差点の次の交差点を左折する。すぐに右折して道なりに進むと、臼井城址公園がある。途中に標識などはなく、解りづらい。永久2年(1114年)平常兼(たいらのつねかね)五男・臼井常康が、居館を築いたのが始まりと云われている。平常兼は平安時代の武士で、下総国千葉郷に因んで千葉大介と称した千葉氏の初代。文明10年(1478年)境根原合戦で千葉自胤に敗北した千葉孝胤は、臼井持胤の守る臼井城に籠城した。7ヶ月に及ぶ籠城戦で臼井城は落城する。足利義明が小弓公方を称したときには、臼井城主・臼井景胤は小弓公方側に属し千葉孝胤の嫡男・勝胤とは立場を異にした。天文7年(1538年)第一次国府台合戦で足利義明が討ち死にすると、千葉氏に属した。永禄4年(1561年)臼井久胤の時、上総大多喜城主・正木信茂に攻められ臼井城は落城する。臼井久胤は結城城・結城晴朝を頼って脱出、臼井氏は滅亡する。永禄9年(1566年)上杉謙信と里見義弘に攻められた千葉胤富が、臼井城に籠城する。天正2年(1574年)里見勢に生実城を追われた原胤栄は、臼井城を本拠とする。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐後、酒井家次が入封する。文禄2年(1593年)に城内より出火、灰燼に帰す。慶長9年(1604年)酒井家次は上野国・高崎藩に移封、臼井藩は廃藩となり臼井城は廃城となる。
[交通]京成電鉄・京成臼井駅-(徒歩20分)-臼井城址公園
古峯神社 道祖神社 円応寺本堂
臼井城址公園内の南側に、古峯神社と道祖神社が並んでいる。臼井城址公園の北側に、歴応元年 / 延元3年(1338年)臼井興胤により創建された円応寺がある。臼井氏の菩提寺。文禄2年(1593年)臼井城とともに消失、後に再建される。
下総国・千葉城(亥鼻城)

■城の種別
平山城
■築城者
千葉常重
■築城年
大治元年(1126年)
■主な遺構
土塁

■主な再建造物
模擬天守

模擬天守
本千葉駅から線路沿いに北西へ進み、20号線を右折する。県立図書館入口交差点の手前を右折、道なりに進み階段を登ると亥鼻公園がある。長禄元年(1457年)千葉氏は本佐倉城に移り、廃城となる。城は堀切で区画して、各曲輪に土塁をめぐらした程度であった。模擬天守は、千葉市:郷土博物館になっている。
[交通]JR総武本線・本千葉駅-(徒歩/約15分)-千葉城
下総国・古河公方(こがくぼう)館(古河御所)
■城の種別
平城
■築城者
足利成氏
■築城年
享徳4年(1455年)
■主な遺構
堀 / 土塁
御所沼
星糊釣殿 史跡 古河公方館趾 史跡 古河公方館址

JR東北本線・古河駅西口より西へ、すぐの261号線(旧日光街道)を左折して南へ進む。鴻巣交差点を越えると、左手に古河総合公園入口がある。古河公方館跡地の大半は古河総合公園にある。右折して道なりに進むと、星糊釣殿が見えてくる。古河公方館は、古河御所とも呼ばれる中世の城館。享徳4年(1455年)享徳の乱の際に、初代古河公方・足利成氏により築かれたと云われている。長禄元年(1457年)足利成氏は古河城へ本拠を移す。天正18年(1590年)最後の古河公方・足利義氏の娘である氏姫(氏女)の居館となった。天正19年(1591年)豊臣秀吉は氏姫に対して、小弓公方・足利頼純の子・国朝との縁組を指示した。天文7年(1538年)国府台合戦で小弓公方が滅びると、安房国・里見氏に庇護されていた。この婚姻の結果、鎌倉公方以来の関東公方家は統一され、下野国喜連川(きつれがわ)の喜連川氏として江戸時代へ継承される。寛永7年(1630年)氏姫の孫にあたる喜連川尊信が下野国喜連川に移った後、十念寺の寺域となる。御所沼に突き出た半島状の台地に築かれた。先端にあたる西側から、1曲輪(根城) / 2曲輪(中城) / 外郭(宿) から成り立っていた。1曲輪は本丸に相当、現在は公方様の森と呼ばれる一角。2曲輪には、昭和5年(1930年)まで十念寺があった。現在は民家園(旧中山家住宅 / 旧飛田家住宅 )がある。外郭には、城下集落である「宿」が形成されていた。旧中山家住宅は、延宝2年(1674年)頃の建築物。旧飛田家住宅(重文)は県内の曲り家農家で最も古いもので、18世紀前半の建築物。御所沼は第二次世界大戦後に干拓・埋立されて消滅したが、平成8年(1996年)に復現された。古河公方の時代と比較すると、大幅に縮小されている。
[交通]JR東北本線・古河駅-(徒歩/約25分)-古河総合公園入口

安房国・久留里城(雨城 / 霧降城 / 浦田城)
■城の種別
山城
■築城者
武田信長
■築城年
康正2年(1456年)
■主な再建造物
模擬天守
模擬天守
久留里駅から東へ進む。410号線を右折、すぐに次の交差点を左折する。自噴している井戸が数箇所見受けられ、左手に神明神社がある。大多喜君津線と合流、しばらくすると久留里城への道標が現れる。森林体験交流センターと駐車場があり、城山林道から二の丸にある久留里城址資料館へ急坂を登る。男井戸と女井戸を経由して、昭和54年(1979年)天守台脇に建てられた復興天守へ進む。帰路に、坂が急だったことを再認識させられる。駐車場には戻らず、左折してトンネルを潜る。410号線を久留里駅へ戻る。水量の豊富な井戸が途中に2ヶ所あり、ポリタンクに汲んでいる人がいる。井戸水は冷たく、のどを潤し頭を冷やす。往路に左折した信号の手前を左折すると、徳冶2年(1307年)創建の正源寺がある。
[交通]久留里駅-(徒歩/約45分)-久留里城天守
安房国・館山城(根古屋城)
■城の種別
平山城
■築城者
里見義康
■築城年
天正16年(1588年)
■主な再建造物
模擬天守
模擬天守
館山駅東口から東へ、大通りを右折して南へ進む。踏み切りを渡り、潮留橋交差点を右折する。安房三十四観音霊場や安房国白寿六地蔵尊霊場となっている長福寺が左手にあり、しばらくすると左手に城山公園が見えてくる。孔雀園の横を通り館山城天守へ進む。昭和57年(1982年)模擬天守が建てられる。本丸の一角には浅間神社がある。反対側から降りると城山公園入口に戻ることができる。
[交通]館山駅-(徒歩/約20分)-長福寺-(徒歩/約15分)-館山城天守
安房国・大多喜城(大滝城)
■城の種別
平山城
■築城者
武田信清
■築城年
大永2年(1521年)
■主な遺構
二の丸御殿薬医門
■主な再建造物
天守
復興天守
いすみ鉄道・大多喜駅から北へ、Y字路を線路沿いに右へ進む。道なりに進むと線路を渡り、しばらくすると大多喜高校への道標が見えてくる。右折して校内を進む。校舎の前には唯一の遺構である二の丸御殿薬医門がある。校舎の外れにあるロータリーの様になっているところが、二の丸大井戸である。坂を登って行くと、昭和50年(1975年)に建てられた模擬天守がある。往路を駅まで戻りY字路を左へ進むと、夷隅神社がある。西側には古い町並みがある。
[交通]いすみ鉄道・大多喜駅-(徒歩/約20分)-大多喜城天守
相模国・小田原城(小峰城 / 小早川城)
■城の種別
平山城
■築城者
大森頼春
■築城年
応永24年(1417年)
■主な再建造物
天守 / 二の丸御殿 / 二の丸隅櫓 / 銅門 / 常磐木門
復興天守
小田原駅東口から南へ、T字路を右折して道なりに進むと小田原城址公園がある。明応4年(1459年)北条早雲は、小田原城主・大森藤頼を攻めて奪う。以後、北条氏5代の居城となる。豊臣秀吉により落城するが、和議と抗戦をめぐる議論に結論が出なかったことから“小田原評定”という諺が生まれる。
[交通]JR/小田急電鉄・小田原駅-(徒歩/約20分)-小田原城天守
伊豆国・山中城
■城の種別
山城
■築城者
北条氏康
■築城年
永禄年間(1558年〜1570年)

土塁 

東海道を大枯木坂〜小枯木坂から三島方面に進み、1号線を渡ると右手にある。小田原城の北条氏が支城の一つとして築城したと云われている。天正18年(1590年)に豊臣秀吉によって落城させられた。曲輪・堀・土塁が残り、整備されている。山中城の守り神だった駒形諏訪神社がある。
[交通]JR三島駅-(徒歩/約3時間またはバス/約30分)-山中