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上総国・東金とうがね城(鴇ヶ根ときがね城)
■城の種別
平山城
■築城者
酒井定隆
■築城年
大永元年(1521年)
■主な遺構
郭 / 堀切
東金城四郭
石碑の並ぶ平坦な道 御殿山神社奥院石柱 東金城四郭からの眺望
JR東金線・東金駅から北西に進む。すぐの交差点を左折して119号線を南西に進む。すぐの交差点を右折すると、八鶴湖が見えてくる。八鶴湖の遊歩道を南西へ道なりに進むと、右手に弁天島 / 左手に東金高校と本漸寺 がある。東金高校と本漸寺の間に東金城登城口があり、本漸寺側に東金城址と東金御殿跡の案内板がある。
東金城登城口を進むと、すぐに「PM4時閉門」の門を越えると、石碑の並ぶ平坦な道を進む。5分足らずのところにある分岐の手前左手に、御殿山神社の小さな社殿が見える。分岐を右に進み5分余り登ると、四郭に「御殿山神社奥院」石柱がある。
大永元年(1521年)酒井定隆によって築城される。室町時代(1338年〜1573年)千葉氏が築城した鴇ケ峯城が始まりとする説もある。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐で小田原北条氏は滅亡、東金城は浅野長政によって接収され廃城となる。
[交通]JR東金線・東金駅-(徒歩10分)-東金城登城口
東金高校があるところは、東金御殿跡である。慶長18年(1613年)東金は徳川家康の御鷹場となり、宿泊施設として東金御殿が造営された。寛永7年(1630年)徳川秀忠のときを最後に鷹狩は行なわれなくなり、寛文11年(1671年)に東金御殿は取り壊された。東金高校の正門は、明治時代の煉瓦造り。
東金高校正門
本漸寺の創建年は解っていない。創建時は上総国山辺郡松之郷(現:東金市松之郷)にあったが、東金城主・酒井氏が現在地に移した。
本漸寺本堂
弁財天
八鶴湖 八鶴亭

八鶴湖は鴇池(ときいけ)という小さな池だったが、東金御殿を造営するときに拡張された。弁天島が半島状にせり出しており、弁財天がある。湖畔の南側にある八鶴亭は明治時代創業の老舗旅館で、国の登録有形文化財になっている。

JR東金線・東金駅から北西に進む。すぐの交差点を右折して119号線を北東に進む。10分足らずの右手に東金新宿郵便局がある。風景印は、天然記念物・モウセンゴケ / 無形文化財・北之幸谷の獅子舞 の図柄になっている。
東金新宿郵便局風景印
上総国・椎津しいづ

■城の種別
平山城
■築城者
三浦貞勝 / 三浦定勝 / 真里谷武田氏 説など
■築城年
応永年間(1394年〜1427年) / 応仁年間(1467年〜1469年) / 明応年間(1492年〜1501年) 説など
■主な遺構
土塁 / 空堀

椎津城跡
長遠寺 稲荷大明神 八坂神社

JR内房線・姉ヶ崎駅東口より南東に進む。すぐの姉ヶ崎駅東口交差点を右折して、南西に進む。20分ほどすると右手に長遠寺 / すぐ右手に稲荷大明神 と続く。すぐの境川を越えた左手に八坂神社があり、裏手の標高28mの台地が椎津城跡になる。椎津城は海を前にした台地の北端部にあり、東側を流れる境川は堀の役目を果たしていた。
社殿裏の道を進むと、すぐに分岐がある。左に平坦な道を進むと、すぐに夏草に覆われ道は途絶える。先に見える道まで続いている様である。分岐まで戻り、右方向に登り坂を進む。すぐに草に覆われた広場がある。右方向に見える小高い丘が主郭の様であるが、住宅が点在している。庭先を覗き込む様に進む。不審者に間違えられる可能性もあり、根性なく引き返している。
椎津城は、応永年間(1394年〜1427年)三浦貞勝によって築城 / 応仁年間(1467年〜1469年)三浦定勝によって築城 / 明応年間(1492年〜1501年)真里谷武田氏によって築城 とする説 などがある。
天文21年(1552年)里見義堯は正木時茂に命じて椎津城を攻撃、真里谷信政は敗れて自刃した。以降も里見氏と小田原北条氏による争奪戦が繰り返されたが、天正5年(1577年)頃には北条氏の属城として定着した。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐で小田原北条氏は滅亡、椎津城は廃城となった。
[交通]JR内房線・姉ヶ崎駅-(徒歩20分)-八坂神社

[寄り道]姉崎郵便局
JR内房線・姉ヶ崎駅西口より線路沿いに北東に進む。5分足らずで久留里街道を潜る。道なりに左に進むと、すぐ右手に姉崎郵便局がある。風景印は、東京湾 / タンカー / コンビナート工場郡 / ゴルフ場 の図柄になっている。
姉崎郵便局風景印
上総国・鶴牧陣屋(鶴牧城)
■城の種別
陣屋
■築城者
水野忠韶
■築城年
文政10年(1827年)
姉崎小学校

JR内房線・姉ヶ崎駅より南東に進む。すぐの姉ヶ崎駅東口交差点を右折して、南西に進む。20分ほどの境川を越え、境川沿いに東へ進む。5分ほどの十字路を右折すると、突き当りに鶴牧陣屋が置かれていた姉崎小学校がある。
文政10年(1827年)安房国北条藩から上総国鶴牧に移封となった水野忠韶が鶴牧藩を立藩、陣屋を構える。城主格の大名であったことから、鶴牧城と呼ばれた。 鶴巻藩は水野忠韶〜水野忠実〜水野忠順と続いて明治に至る。明治4年(1871年)廃藩置県で廃藩となる。
[交通]JR内房線・姉ヶ崎駅-(徒歩25分)-姉崎小学校

上総国・八幡御所跡
■城の種別
御所
■築城者
足利義明
■築城年
永正14年(1517年)
白幡神社
飯香岡八幡宮 円頓寺 無量寺
赤い橋 日吉神社 満蔵寺
JR内房線・八幡宿駅から北西に進む。すぐに24号線と交差、左折して久留里街道を南西に進む。八幡御所跡までの街道沿いに、白鳳年間(650年〜654年)創建と云われる飯香岡八幡宮 / 円頓寺 / 白鳳年間(650年〜654年)創建と云われる無量寺 / 赤い橋 / 日吉神社 / 満蔵寺 などがある。15分ほどのT字路を右折すると、八幡御所跡に白幡神社がある。少し解りづらい場所で、社殿裏にあるジョイフル本田が目印になる。
[交通]JR内房線・八幡宿駅-(徒歩15分)-白幡神社

小弓公方・足利義明が永正14年(1517年)館を構えたところと云われている。大永元年(1521年)足利義明は、八幡御所から小弓城に移る。天文7年(1538年)足利義明率いる1万の軍勢と北条氏綱率いる2万の軍勢による国府台(こうのだい)合戦が行われる。足利義明勢は敗北、足利義明は戦死する。八幡御所は廃される。
白幡神社境内に社殿再建記念碑がある。天文7年(1538年)御所が廃され地名が五所に改められこと / 翌天文8年(1539年)跡地に白幡権現を勧進したこと などが記されている。

白幡神社社殿再建記念碑
下総国・関宿(せきやど)
■城の種別
平城
■築城者
簗田成助
■築城年
康正3年(1457年)
■主な遺構 埋門と大手門と云われる門が市内に移築され現存する。茨城県・逆井城に城門と云われる薬医門がある。
■主な再建造物
模擬御三階
模擬櫓

利根川と江戸川の分流点にあり、埼玉県と茨城県境にくさびを打ち込んだ様な地形になっている。千葉県最北端に位置する。往時は水運の最重要拠点だったところであるが、鉄道の駅からは離れて訪問には不便なところになっている。東武鉄道野田線・川間駅や東武鉄道伊勢崎線・東武動物公園駅から、バスで約30分掛かる。新町バス停で下車、北へ進む。すぐの博物館入口交差点を左折して北西へ進むと、関宿城博物館が見えてくる。博物館入口交差点から10分足らずで、関宿城博物館下に着く。
[交通]東武鉄道伊勢崎線・東武動物公園駅-(バス/約30分)-新町バス停-(徒歩/約10分)

関宿城博物館手前の道が大きく左に曲がるところの右手に、鬼門除け稲荷神社がある。関宿城の鬼門の方角にあたるところで、寛文9年(1669年)城内に創建された。千葉県立関宿城博物館に、平成7年(1995年)築の御三階櫓を模した模擬櫓がある。江戸時代に御三階櫓があったところは、河川改修により解らなくなっている。
鬼門除け稲荷神社

康正3年(1457年)古河公方家臣・簗田成助が築城したと云われている。永禄8年(1565年)〜天正2年(1574年)上杉方と北条方との間で3度の関宿争奪戦が行われた。最終的には北条氏が勝利、北関東進出の拠点とした。天正18年(1590年)久松松平康元が下総国・関宿藩2万石を与えられ、天正19年(1591年)には4万石に加増された。父・久松俊勝は徳川家康の生母・伝通院の再婚相手で、松平康元は徳川家康の異父弟にあたる。往時は水運の最重要拠点だったところで、信頼の厚い譜代大名が任じられた。松平康元→松平忠良 / 松平重勝 / 小笠原政信→小笠原貞信 / 北条氏重 / 牧野信成→牧野親成 / 板倉重宗→板倉重郷→板倉重常 / 久世広之→久世重之 / 牧野成貞→牧野成春 / 久世重之 と目まぐるしく替わっている。明治4年(1872年)廃城となる。城下町は利根川の対岸(現:茨城県猿島郡境町)にあった。

実相寺 実相寺客殿 関宿郵便局風景印

新町バス停から南へ進む。5分ほどの野田市関宿台町交差点を左折して南東に進むと、5分ほどの左手に応永16年(1409年)創建の実相寺がある。関宿藩主・久世家の菩提寺で、客殿は宝暦6年(1709年)築の関宿城本丸新御殿の一部を明治4年(1871年)に移築したもの。山門に「平成之大改修 本堂修復工事奉行」が掛っている。実相寺から南に進むと、すぐ右手に関宿郵便局がある。風景印は関宿城の図柄となっている。

利根川東岸の茨城県・逆井城に、関宿城の城門と云われる薬医門がある。
逆井城薬医門
都立庭園・清澄庭園は、関宿藩の江戸下屋敷だったところ。明治13年(1880年)深川親睦園として開園する。全国から名石が集まった庭園で、石の大きさや数が半端ではない。ほぼ池に沿って1周する単純なコースであるが、池の端々に飛び石を置いて渡れる様にしている。石の配置が素晴しい。
清澄庭園
関宿汚水マンホール 関宿汚水マンホール 関宿汚水マンホール

平成15年(2003年)関宿町は、野田市に編入される。関宿城博物館デザインのマンホールやボタン絵柄のマンホールには、旧関宿町章がある。

下総国・根木内ねぎうち
■城の種別
平山城
■築城者
高城胤忠
■築城年
寛正3年(1462年)
■主な遺構
土塁 / 空堀
本郭
JR常磐線・北小金駅南口から南へ、すぐの交差点を左折して東へ進む。10分足らずで 根木内交差点で6号線と交差する。すぐ左手に根木内城址口がある。
寛正3年(1462年)高城胤忠によって築城されたと云われている。天文6年(1537年)小金城を築城して移るまで、高城氏の拠点であった。天文18年(1590年)に廃城となっている。根木内歴史公園として整備されており、空堀や土塁が残る。6号線で分断された北西側は、宅地化で遺構は残っていない。
[交通]JR常磐線・北小金駅-(徒歩/約10分)-根木内城址口
根木内城址口
下総国・古河城(古河御陣)
■城の種別
平城
■築城者
下河辺行平
■築城年
平安時代末期の1180年頃
■主な遺構
堀 / 土塁
二の丸御殿乾門が市内の福法寺に、文庫蔵と乾蔵が市内の商店に移築され現存する。
本丸後
JR東北本線・古河駅から西へ、5分ほどの旧日光街道(261号線)を左折する。すぐの本町2丁目交差点を右折して西へ進む。10分ほどの渡良瀬川の堤防に登り、南へ進む。15分ほどの三国橋と新三国橋の中間辺りに、古河城本丸跡標柱がある。平安時代末期の1180年頃、源頼朝に従った下河辺行平が古河立崎に城館を築いた。北条氏が鎌倉幕府の実権を握ると、北条氏の支配下に置かれたと云われている。室町時代(1336年〜1573年)前期の南北朝時代(1336年〜1392年)は、北朝・足利氏の拠点の一つであった。室町時代後期の享徳4年(1455年)今川範忠に鎌倉を占拠されると、第5代鎌倉公方・足利成氏は下総古河に本拠を移した。以降約130年間、古河公方の本拠となる。当初は古河鴻巣の古河公方館を居館としたが、古河立崎の古河城を整備した後に移動した。後北条氏による関東支配が進むと、古河公方も次第に体制に組み込まれる。永禄10年(1567年)〜天正年間(1573年〜1592年)佐竹氏や結城氏に対抗するため、北条氏照によって城の整備・拡充が進められた。天正18年(1590年)豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼした後は、徳川家康に従って小笠原秀政が古河城の修復・拡張を行った。江戸時代には譜代大名が入れ替わりで城主を務めた。日光街道の古河宿 / 渡良瀬川による河川水運 で賑わい、徳川将軍による日光社参時の宿ともなっていた。明治6年(1873年)廃城令によって、建造物はすべて破却された。明治末から開始された渡良瀬川の改修工事により、残された城跡もほとんどが消滅した。
[交通]JR東北本線・古河駅-(徒歩/約30分)-古河城本丸跡標柱
諏訪曲輪・土塁 / 堀 店蔵(文庫蔵) / 袖蔵(乾蔵) 福法寺山門
本町2丁目交差点から旧日光街道(261号線)を南へ進む。すぐの交差点を右折して、肴町通りを西へ進む。すぐ左手にある坂長本店の店蔵は旧古河城文庫蔵 / 袖蔵は旧古河城乾蔵。坂長本店と蛭子神社の間にある道を左折して南へ進むと、すぐ右手に福法寺がある。福法寺山門は、二の丸御殿乾門が移築されたもの。南へ進み、すぐの突き当りを右折する。すぐに突き当りに歴史博物館がある。古河城諏訪曲輪だったところで、土塁 / 堀 が残る。
本町2丁目交差点から西へ、渡良瀬川方向へ進む。15分ほどすると、左手に頼政(よりまさ)神社石標があり左折する。すぐの右手に、延宝5年(1677年)創建の頼政神社がある。治承4年(1180年)以仁王(もちひとおう)の挙兵で敗死した源頼政の首を従者が持ち帰り、立崎に葬ったと云われている。頼政神社は、古河城南端の立崎曲輪(頼政曲輪)にあったが、渡良瀬川の河川改修工事のため大正元年(1912年)に古河城北端の観音寺曲輪土塁にあたる現在地に移転した。
頼政神社
下総国・一色氏館
■城の種別
居館
■築城者
一色直朝
■築城年
天文年間(1532年〜1555年)
一色稲荷神社
東武鉄道・幸手駅から東へ、すぐ右手に一色稲荷神社がある。陣屋稲荷神社とも称されている。東武鉄道・幸手駅付近には、古河公方・足利氏の家臣である一色氏が館を構えていた。江戸時代に一色義直は5160石の旗本となり、陣屋が構えられた。城山や陣屋の地名が残る。一色稲荷神社は、館跡と推定されるところから巽(南東)方向に一色氏の守り神として創建されたと云われている。
下総国・佐倉城(鹿島城)
■城の種別
平山城
■築城者
鹿島幹胤
■築城年
天文年間(1532年〜1555年)
■主な遺構
土塁
出丸跡

JR佐倉駅北口から北へ進む。296号線を越える。突き当たりを右折してすぐに左折、薬師坂を登る。突き当たりを左折して道なりに進む。296号線と合流する手前を左折、道なりに進む。突き当たりを左折すると、佐倉城公園に至る。慶長15年(1610年)土井利勝によって築城が再開、佐倉城が完成する。武家屋敷が残っている。
[交通]JR総武本線・佐倉駅-(徒歩/約25分)-佐倉城公園

下総国・本佐倉もとさくら城(将門山城)
■城の種別
平山城
■築城者
千葉輔胤
■築城年
文明年間(1469年〜1486年)
■主な遺構
土塁 / 堀
土塁
京成電鉄・京成酒々井駅から南東へ、すぐの小路を右折して道なりに進む。線路沿いに進むと、道なりに京成電鉄の踏切を渡る。左折して線路沿いに南西へ進む。10分ほどのT字路を左折して京成電鉄のガードを潜ると、前方に本佐倉城が見える。突き当りを右折すると、すぐ左手に案内板と「マムシ注意!」の大きな看板がある。夏草が生い茂っている道で、躊躇して内部には行っていない。道を直進、突き当り右折する。すぐに京成電鉄線路に突き当り。ガードを潜らずに右折して線路沿いに進む。道なりに進むと、右手に大佐倉駅がある。京成電鉄・酒々井駅に“本佐倉城跡アクセスガイド”パンフが置かれている。将門山に築かれ、千葉宗家後期9代の本拠地となった城。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐後、千葉重胤は改易となる。徳川氏に接収、破却されて城下に陣屋が置かれた。慶長11年(1606年)に移封された小笠原吉次が本佐倉城に佐倉藩の藩庁を置いたと云われている。慶長15年(1610年)に土井利勝が移封される。元和元年(1615年)藩庁が佐倉城へ移転、一国一城制により廃城となる。
[交通]京成電鉄・京成酒々井駅-(徒歩20分)-本佐倉城-(徒歩10分)-京成電鉄・大佐倉駅
下総国・臼井うすい
■城の種別
平山城
■築城者
臼井常康
■築城年
永久2年(1114年)
■主な遺構
土塁 / 堀
本丸
本丸からの印旛沼眺望 空堀(本丸と郭の間) 土塁(北側)
京成電鉄・京成臼井駅より北西へ、すぐの交差点を右折する。突き当りを左折して、296号線を北西へ進む。中宿交差点の次の交差点を左折する。すぐに右折して道なりに進むと、臼井城址公園がある。途中に標識などはなく、解りづらい。永久2年(1114年)平常兼(たいらのつねかね)五男・臼井常康が、居館を築いたのが始まりと云われている。平常兼は平安時代の武士で、下総国千葉郷に因んで千葉大介と称した千葉氏の初代。文明10年(1478年)境根原合戦で千葉自胤に敗北した千葉孝胤は、臼井持胤の守る臼井城に籠城した。7ヶ月に及ぶ籠城戦で臼井城は落城する。足利義明が小弓公方を称したときには、臼井城主・臼井景胤は小弓公方側に属し千葉孝胤の嫡男・勝胤とは立場を異にした。天文7年(1538年)第一次国府台合戦で足利義明が討ち死にすると、千葉氏に属した。永禄4年(1561年)臼井久胤の時、上総大多喜城主・正木信茂に攻められ臼井城は落城する。臼井久胤は結城城・結城晴朝を頼って脱出、臼井氏は滅亡する。永禄9年(1566年)上杉謙信と里見義弘に攻められた千葉胤富が、臼井城に籠城する。天正2年(1574年)里見勢に生実城を追われた原胤栄は、臼井城を本拠とする。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐後、酒井家次が入封する。文禄2年(1593年)に城内より出火、灰燼に帰す。慶長9年(1604年)酒井家次は上野国・高崎藩に移封、臼井藩は廃藩となり臼井城は廃城となる。
[交通]京成電鉄・京成臼井駅-(徒歩20分)-臼井城址公園
古峯神社 道祖神社 円応寺本堂
臼井城址公園内の南側に、古峯神社と道祖神社が並んでいる。臼井城址公園の北側に、歴応元年 / 延元3年(1338年)臼井興胤により創建された円応寺がある。臼井氏の菩提寺。文禄2年(1593年)臼井城とともに消失、後に再建される。
下総国・千葉城(亥鼻城)

■城の種別
平山城
■築城者
千葉常重
■築城年
大治元年(1126年)
■主な遺構
土塁

■主な再建造物
模擬天守

模擬天守
本千葉駅から線路沿いに北西へ進み、20号線を右折する。県立図書館入口交差点の手前を右折、道なりに進み階段を登ると亥鼻公園がある。長禄元年(1457年)千葉氏は本佐倉城に移り、廃城となる。城は堀切で区画して、各曲輪に土塁をめぐらした程度であった。模擬天守は、千葉市:郷土博物館になっている。
[交通]JR総武本線・本千葉駅-(徒歩/約15分)-千葉城
下総国・古河公方(こがくぼう)館(古河御所)
■城の種別
平城
■築城者
足利成氏
■築城年
享徳4年(1455年)
■主な遺構
堀 / 土塁
御所沼
星糊釣殿 史跡 古河公方館趾 史跡 古河公方館址

JR東北本線・古河駅西口より西へ、すぐの261号線(旧日光街道)を左折して南へ進む。鴻巣交差点を越えると、左手に古河総合公園入口がある。古河公方館跡地の大半は古河総合公園にある。右折して道なりに進むと、星糊釣殿が見えてくる。古河公方館は、古河御所とも呼ばれる中世の城館。享徳4年(1455年)享徳の乱の際に、初代古河公方・足利成氏により築かれたと云われている。長禄元年(1457年)足利成氏は古河城へ本拠を移す。天正18年(1590年)最後の古河公方・足利義氏の娘である氏姫(氏女)の居館となった。天正19年(1591年)豊臣秀吉は氏姫に対して、小弓公方・足利頼純の子・国朝との縁組を指示した。天文7年(1538年)国府台合戦で小弓公方が滅びると、安房国・里見氏に庇護されていた。この婚姻の結果、鎌倉公方以来の関東公方家は統一され、下野国喜連川(きつれがわ)の喜連川氏として江戸時代へ継承される。寛永7年(1630年)氏姫の孫にあたる喜連川尊信が下野国喜連川に移った後、十念寺の寺域となる。御所沼に突き出た半島状の台地に築かれた。先端にあたる西側から、1曲輪(根城) / 2曲輪(中城) / 外郭(宿) から成り立っていた。1曲輪は本丸に相当、現在は公方様の森と呼ばれる一角。2曲輪には、昭和5年(1930年)まで十念寺があった。現在は民家園(旧中山家住宅 / 旧飛田家住宅 )がある。外郭には、城下集落である「宿」が形成されていた。旧中山家住宅は、延宝2年(1674年)頃の建築物。旧飛田家住宅(重文)は県内の曲り家農家で最も古いもので、18世紀前半の建築物。御所沼は第二次世界大戦後に干拓・埋立されて消滅したが、平成8年(1996年)に復現された。古河公方の時代と比較すると、大幅に縮小されている。
[交通]JR東北本線・古河駅-(徒歩/約25分)-古河総合公園入口

安房国・久留里城(雨城 / 霧降城 / 浦田城)
■城の種別
山城
■築城者
武田信長
■築城年
康正2年(1456年)
■主な再建造物
模擬天守
模擬天守
久留里駅から東へ進む。410号線を右折、すぐに次の交差点を左折する。自噴している井戸が数箇所見受けられ、左手に神明神社がある。大多喜君津線と合流、しばらくすると久留里城への道標が現れる。森林体験交流センターと駐車場があり、城山林道から二の丸にある久留里城址資料館へ急坂を登る。男井戸と女井戸を経由して、昭和54年(1979年)天守台脇に建てられた復興天守へ進む。帰路に、坂が急だったことを再認識させられる。駐車場には戻らず、左折してトンネルを潜る。410号線を久留里駅へ戻る。水量の豊富な井戸が途中に2ヶ所あり、ポリタンクに汲んでいる人がいる。井戸水は冷たく、のどを潤し頭を冷やす。往路に左折した信号の手前を左折すると、徳冶2年(1307年)創建の正源寺がある。
[交通]久留里駅-(徒歩/約45分)-久留里城天守
安房国・館山城(根古屋城)
■城の種別
平山城
■築城者
里見義康
■築城年
天正16年(1588年)
■主な再建造物
模擬天守
模擬天守
館山駅東口から東へ、大通りを右折して南へ進む。踏み切りを渡り、潮留橋交差点を右折する。安房三十四観音霊場や安房国白寿六地蔵尊霊場となっている長福寺が左手にあり、しばらくすると左手に城山公園が見えてくる。孔雀園の横を通り館山城天守へ進む。昭和57年(1982年)模擬天守が建てられる。本丸の一角には浅間神社がある。反対側から降りると城山公園入口に戻ることができる。
[交通]館山駅-(徒歩/約20分)-長福寺-(徒歩/約15分)-館山城天守
安房国・大多喜城(大滝城)
■城の種別
平山城
■築城者
武田信清
■築城年
大永2年(1521年)
■主な遺構
二の丸御殿薬医門
■主な再建造物
天守
復興天守
いすみ鉄道・大多喜駅から北へ、Y字路を線路沿いに右へ進む。道なりに進むと線路を渡り、しばらくすると大多喜高校への道標が見えてくる。右折して校内を進む。校舎の前には唯一の遺構である二の丸御殿薬医門がある。校舎の外れにあるロータリーの様になっているところが、二の丸大井戸である。坂を登って行くと、昭和50年(1975年)に建てられた模擬天守がある。往路を駅まで戻りY字路を左へ進むと、夷隅神社がある。西側には古い町並みがある。
[交通]いすみ鉄道・大多喜駅-(徒歩/約20分)-大多喜城天守