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甲斐国・川田館かわだやかた
■城の種別
居館
■築城者
武田信昌
■築城年
寛正5年(1464年)
■主な遺構
水堀
川田館跡案内板辺りからのぶどう畑
甲府市川田町あった甲斐守護の武田氏居館跡。最寄り駅はJR中央本線・石和温泉駅になる。JR中央本線・石和温泉駅南口より西へ進む。すぐにJR中央本線を陸橋で越える手前を左方向に進み、すぐに右折して川を越える。道なりに進むとJR中央本線の踏切を渡るが、手前を左折して南へ小路を進む。すぐの突き当りを左へ進む。周囲はぶどう畑になっている。5分ほどの突き当りを右折して西に進むと、右手のぶどう畑に川田館跡案内板 / 二宮神社参道 / 寿徳院 と続く。甲斐守護の甲斐武田16代・武田信昌が、寛正5年(1464年)小田野城の跡部景家を攻め自害させ、小石和(旧東八代郡石和町)の居館を廃して新たに築いた城館跡である。甲斐武田18代・武田信虎(武田信玄の父)は川田館を本拠に甲斐を統一後、永正16年(1519年)古府中に躑躅ヶ崎(つつじがさき)館を築いて居館を移した。武田信虎が新たな居館として躑躅ヶ崎館を築いたのは、古府中が甲斐の中心に位置していたことによる。また川田館が水害に悩まされることが多かったことと云われている。二宮神社参道や境内の東側、ぶどう畑が館跡とされている。ぶどう畑にある水路は、かつての水堀と云われている。御所曲輪(ごしょぐるわ)があったとされる付近には土塁の痕跡が残っている。昭和62年(1987年)甲府市により発掘調査が行われ、土器 / 擂り鉢 / 大陸から輸入された陶磁器 などが多数出土した。
[交通]JR中央本線・石和温泉駅-(徒歩約15分)-川田館跡案内板
二宮神社鳥居 二宮神社社殿 二宮神社境内東側
二宮神社の創建は、貞観5年(863年)と云われている。二宮神社の社名であるが、甲斐国二宮ではない。南から北へ延びる長い参道の両側は、ぶどう畑になっている。西側に寿徳院がある。
寿徳院
下野国・鹿沼かぬま
■城の種別
平山城
■築城者
壬生綱房
■築城年
天文元年(1532年)
■主な遺構
土塁
鹿沼城跡
東武鉄道日光線・新鹿沼駅から東へ、すぐの新鹿沼駅前交差点を左折して壬生道の内町通り(293号線 / 352号線)を北へ進む。15分ほどの市役所前交差点を左折して西へ進む。すぐに市役所に突き当り、左折する。すぐの突き当りを右折すると、鹿沼城跡の御殿山公園がある。
黒川の西側の台地上に築かれた平山城で、現在は野球のグラウンド施設となっている。正応5年(1292年)佐野氏の支族・鹿沼教阿が坂田山に築城したのが始まりと云われている。大永年間(1521年〜1527年)鹿沼綱勝は、宇都宮忠綱に攻め滅ぼされた。鹿沼城周辺の支配を任された壬生綱房は、坂田山の館から御殿山に新たに城を築城する。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、壬生義雄は北条氏に味方して小田原城に立て籠もった。鹿沼城は宇都宮氏に攻められ落城、廃城となる。
[交通]東武鉄道日光線・新鹿沼駅-(徒歩/20分)-御殿山公園
下野国・壬生みぶ

■城の種別
平城
■築城者
壬生綱重
■築城年
文明年間(1469年〜1486年)
■主な遺構
土塁 / 堀
■主な再建造物
二の丸門

壬生城復元門

東武鉄道宇都宮線・壬生駅より西へ進む。すぐの壬生駅入口交差点を右折して、壬生道(日光西街道)を北へ進む。すぐに、右方向のT字路と左方向のT字路からなる壬生町役場入口交差点がある。左方向のT字路を左折して西へ進む。5分ほどすると右手に壬生城址公園がある。
[交通]東武鉄道宇都宮線・壬生駅-(徒歩/10分)-壬生城址公園

文明年間(1469年〜1486年)壬生胤業の子・壬生綱重によって築かれたと云われている。壬生氏は京都の公家・小槻氏の壬生胤業を祖とすると云われているが、宇都宮氏庶流の末裔など諸説がある。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、壬生義雄は北条氏に味方して小田原城に立て籠もった。壬生義雄は落城直後で病死、嫡子なく壬生氏は断絶となり所領は没収された。
壬生城 堀 / 土塁
徳川家康が関東に入封すると結城秀康が城主となる。以降、慶長7年(1602年)日根野吉明 / 寛永12年(1635年)阿部忠秋 / 寛永16年(1639年)三浦正次 / 元禄5年(1692年)松平(大河内)輝貞 / 元禄8年(1695年)加藤明英 と目まぐるしく入れ替わった。正徳2年(1712年)鳥居忠英が入封、以後8代続いて明治に至る。
天守 / 櫓 はなく、簡素な城であった。本丸に御殿があり、江戸初期には将軍の日光社参の宿舎となった。廃藩後は城の建物は取り壊され、堀や土塁の多くも破壊された。本丸は城址公園として整備され、資料館 / 図書館 などがある。土塁 / 堀 の一部が残り、二の丸門が復元されている。鹿沼市および小山市の民家に、城門と云われる門が移築され現存している。
掘が遮断された橋に見立てた道を進むと、左手に2基の傍示抗が保存されている。左側は、正面と右側面に「従是南 壬生領」 / 左側面に「下野国 都賀郡 家中村」 と彫られている。右側は、正面と右側面に「従是北 壬生領」と彫られている。
壬生領傍示杭
精忠神社神門 精忠神社拝殿 畳塚

奥にある図書館の手前を左に進むと、精忠神社 / 本殿の裏に畳塚 がある。鳥居元忠は徳川家康が今川氏の人質だった頃からの側近の一人で、あらゆる合戦に参戦している。関ヶ原の戦いの前哨戦に当たる伏見城の戦いでは、1800人の兵で宇喜多秀家率いる4万と云われる大軍に攻撃される。13日間持ち堪えて落城、鳥居元忠は戦死する。徳川家康は鳥居元忠の「血染めの畳」を江戸城伏見櫓の階上に置き、登城した大名たちに鳥居元忠の精忠を偲ばせたと云われている。明治維新の江戸城開城のとき、「血染めの畳」は持ち出されて埋められたと云われている。
鳥居元忠の武功により、鳥居家は24万石の譜代大名となった。孫・忠恒の代で無嗣断絶となり、山形24万石を没収改易となる。幕府は鳥居元忠の功績を鑑み、忠恒の異母弟・忠春を高遠藩3万200石で大名に認められた。寛文2年(1662年)忠春は侍医・松谷寿覚により斬りつけられ、それが原因で客死した。忠春の跡を継いだ子・忠則は、元禄2年(1689年)閉門中に急死した。自害とも云われている。所領は没収され改易となる。ふたたび幕府は鳥居元忠の功績を鑑み、忠則の子・忠英に能登下村藩1万石が与えられた。元禄8年(1695年)近江水口に1万石加増の上で移封される。正徳2年(1712年)さらに1万石を加増され、下野壬生3万石に移封された。

精忠神社神門手前の左右に、2基の傍示抗がある。左側は、正面に「従是南」 / 左側面に「下野国都賀」 と彫られている。右側は、正面に「従是北」と彫られている。
傍示抗
下野国・喜連川城
■城の種別
平山城のち陣屋
■築城者
塩谷惟広
■築城年
鎌倉時代初期
■主な遺構
空堀 / 土塁
■主な再建造物
模擬城門
模擬城門
奥州街道の江戸からの入口である連城橋を渡る。宿場通りを進むと左手に「←さくら市役所喜連川支所」標識があり、左折すると模擬城門が見える。
喜連川城は、宇都宮氏の支流・塩谷惟広が鎌倉時代初期に築城した大蔵ヶ崎城に始まる。塩谷惟広は、平安末期から鎌倉初期の武将で、喜連川塩谷氏の祖。源平合戦に於いては、元暦元年(1184年)一ノ谷合戦 / 文治元年(1185年)屋島の合戦で戦功があった。源頼朝から塩谷郷を与えられ、要害の地である喜連川に築城する。戦国時代に入ると、塩谷氏は宇都宮氏から離反と帰参と繰り返した。小田原征伐の際には、塩谷氏は小田原へ参陣しなかった為に改易された。
貞和5年(1349年)室町幕府は関東分国統治のために鎌倉府を設置した。鎌倉公方は、室町幕府初代将軍・足利尊氏の次男・足利基氏を初代とする。享徳4年(1455年)第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。天正11年(1583年)第5代古河公方・足利義氏が死去、断絶する。豊臣秀吉は足利氏が断絶することを惜しみ、足利義氏の娘・氏姫と足利国朝を結婚させて再興させた。足利国朝は古河公方の分家筋にあたる小弓公方・足利義明の孫。下野国喜連川に400貫の所領を与えられた。足利国朝は文禄2年(1593年)文禄の役に従軍して肥前国名護屋に赴く途上、安芸国で病のために死去した。氏姫は足利国朝の弟・喜連川頼氏と再婚して、喜連川義親を産んだ。江戸時代には5000石の喜連川藩となった。徳川家康は名家足利家として10万石の格式の大名として遇し、参勤を免除した。明治に喜連川氏は足利姓に復している。
明治3年(1870年)廃藩置県に先立って新政府に奉還、喜連川城は廃城となった。現在はお丸山公園となっており、空堀 / 土塁 が残る。
模擬城門は陣屋門としては大き過ぎる感がある。お丸山公園登り口にある門の方が陣屋門らしい。
お丸山公園門
奥州街道の江戸からの入口である連城橋を渡る。すぐの本町交差点を過ぎると、右手に足利尊氏が創建した龍光寺がある。足利国朝や足利頼氏の父・足利頼純が慶長6年(1601年)に死去したとき葬られ、菩提所となり歴代の廟所がある。
龍光寺
喜連川城址 / 喜連川スカイタワー
お丸山公園門山頂に、喜連川スカイタワーがある。東日本大震災による被災により、再開の見通しが立っていないと云う。
下野国・大田原城 (龍城 / 龍体城 / 前室城
■城の種別
平山城
■築城者
大田原資清
■築城年
天文12年(1543年)
■主な遺構
堀 / 土塁
本丸跡
金燈籠交差点から旧奥州街道を北東へ進む。旧奥州街道は次の交差点を左折して、ビジネスホテル手前を右折する。桝形を通り道なりに進むと、太田原神社と龍城公園を繋ぐ461号線横断架橋手前で461号線に合流する。金燈籠交差点から10分ほどになる。すぐ右手に大田原城跡がある。
大俵氏は、武蔵七党の丹党の一族である安保氏の分流とされる。南北朝時代に下野国那須地方の大俵に移住したことから大俵と名乗り、大俵忠清が初代と云われている。那須氏に仕え、大俵胤清の代に大田原氏に変更したといわれている。天正18年(1590年)小田原征伐のとき大田原晴清は豊臣秀吉に従い、那須氏から認められていた領地を安堵される。慶長7年(1602年)12400石となり、大田原藩を立藩した。明治維新まで大田原氏が居城した。戊辰戦争のとき、大田原城は会津攻めの重要拠点とされた。慶応4年(1868年)旧幕府軍による攻撃を受け、三の丸が炎上した。明治6年(1873年)廃城令により廃城となる。現在は龍城公園(城山公園)になっている。
大田原龍城公園石柱 龍体山大田原城案内板 太田原神社
旧奥州街道(461号線)を挟んだ反対側に、太田原神社がある。大田原城跡からは461号線横断架橋で行ける。天文12年(1543年)大田原城築城のとき、城郭内に祠を建立したのが始まりと云われている。明治の初めに温泉神社から大田原神社に改称した。明治37年(1904年)に現在地に移転する。
下野国・勝山城(氏家城)
■城の種別
丘城
■築城者
氏家公頼
■築城年
建久2年(1191年)
■主な遺構
石垣 / 土塁 / 空堀
■主な再建造物
木橋
本丸空堀

JR東北本線・氏家駅から西へ進む。4号線と交差、左折して南へ進む。川岸南交差点から125号線を進むと右手に勝山城址がある。旧奥州街道沿いに位置する。
宇都宮一族の氏家氏は南北朝時代に入ると没落、宇都宮氏一族の芳賀高清が飛山城から移り住む。芳賀氏によって強固な城構えが完成する。中世下野における宇都宮氏一族の北方防衛の拠点であった。戦国時代には那須氏との激戦地となったが、落城することは無かった。勝山城の西側に鬼怒川が流れ、絶壁になっていた。慶長2年(1597年)宇都宮氏が豊臣秀吉により改易され、廃城となった。
[交通]JR東北本線・氏家駅-(徒歩/約10分)-烏山城三の丸跡

本丸空堀に架かる木橋 本丸跡 本丸土塁
「勝山城址周辺の鬼怒川」標柱 民家広場 昌玖寺愛染明王堂

本丸空堀に架かる木橋が復元されている。本丸跡から西へ進むと、「勝山城址周辺の鬼怒川」標柱がある。旧奥州街道から本丸方向へ進んだ右手の民家広場に、旧森家長屋門と2階建て瓦葺の旧手塚家が移築されている。左手に昌玖寺やさくら市ミュ−ジアムがある。本堂らしき建物は見当たらない。氏家氏の祈願寺とされている。境内の愛染明王堂にある愛染明王は、鎌倉時代末期〜南北朝時代造立のもの。

下野国・徳次郎(とくじら)
■城の種別
平城
■築城者
新田徳次郎昌言
■築城年
戦国時代
■主な遺構
曲輪 / 土塁 / 空堀
旧日光街道からの徳次郎城跡
旧日光街道の徳次郎から南へ進む。5分ほどすると、左手に案内板がある。戦国時代に宇都宮氏22代・宇都宮国綱の家臣・新田徳次郎昌言によって築城されたと云われている。慶長2年(1597年)宇都宮国綱の改易に伴ない、廃城となった。田川の西岸に造られた平城で、曲輪 / 土塁 / 空堀 が残る。所有者が一般個人であるため、立ち入ることは出来ない。
下野国・烏山城(臥牛城)
■城の種別
山城
■築城者
那須資重
■築城年
応永25年(1418年)
■主な遺構
石垣・土塁
吹貫門跡の石垣

烏山駅から西へ、駅入口交差点を右折して北へ進む。烏山幼稚園入口交差点を左折、法務局前交差点を右折する。左手に烏山城の案内看板がある。急な七曲り坂を登る。堀切の車橋跡を過ぎると、吹貫門跡に石垣がある。二の丸と本丸間にも堀切がある。本丸は杉の木が生い茂っている。三の丸跡に寿亀山神社がある。
[交通]JR烏山駅-(徒歩/約20分)-烏山城三の丸跡

下野国・宇都宮城(亀ヶ岡城 / 亀ヶ丘城 / 唐糸城)
■城の種別
平城
■築城者
藤原宗円
■築城年
平安時代末期
■主な遺構
土塁
■主な再建造物
清明台櫓 / 富士見櫓 / 堀 / 土塀
富士見櫓
西側の正面入口 清明台櫓

JR東北本線・宇都宮駅から大通りを西へ進む。宇都宮二荒山神社のある馬場通り1丁目交差点を左折してバンバ通りを南へ進むと、突き当りに宇都宮城址公園がある。
平安時代末期に藤原宗円(宇都宮氏の祖)が築城したと云われるが、藤原秀郷築城説もある。平安時代末期から改易される慶長2年(1597年)まで、約500年続いた宇都宮氏の居城。戦国時代後期には後北条氏や家臣である壬生氏の攻撃で、占拠されたこともあった。天正18年(1590年)に行われた奥州仕置
(おうしゅうしおき)では、豊臣秀吉に謁見するため奥州の大名が宇都宮城に参城した。慶長2年(1597年)宇都宮氏の改易後は、慶長3年(1598年)蒲生秀行 / 慶長6年(1601年)奥平家昌 / 元和5年(1619年)徳川家康の懐刀と言われた本多正純が入封する。徳川将軍の日光東照宮参拝の際に、将軍の宿泊施設として利用された。宇都宮城釣天井事件は、徳川2代将軍・徳川秀忠の暗殺を図ったとされる事件である。釣天井の仕掛けは存在しなかったとされている。本田正純以降は譜代大名がこまめに入れ替わり、戸田氏で幕末を迎える。慶応4年(1868年)戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は藩校修道館などを残して焼失した。東山道軍の対会津戦争の拠点となり、板垣退助をはじめ東山道軍の幹部等が駐屯した。天守は築かれず、清明台櫓が代わりとなっていた。土塁に清明台櫓と富士見櫓が再建される。
[交通]JR東北本線・宇都宮駅-(徒歩/約20分)-宇都宮城址公園

下野国・小山おやま城(祗園ぎおん城)

■城の種別
平山城
■築城者
小山政光
■築城年
久安4年(1148年)
■主な遺構
土塁
/ 堀

城山公園入口

空堀跡 深い堀に架かる祇園橋 祇園橋
曲輪を囲む土塁跡 銀杏の古木 小山城からの思川眺望
JR東北本線・小山駅から西へ進む。すぐに旧日光街道(265号線)と交差する。交差点を直進して、西へ道なりに進む。15分ほどすると、思川に架かる観晃橋手前の北側に城山公園がある。
藤原秀郷の後裔を称した武蔵国・太田郷の太田政光が、下野国小山に移り小山氏を名乗った。政光の後妻・寒河尼が頼朝の乳母となり、政光 / 嫡子・朝政 / 三男・朝光(結城家祖)らは頼朝の挙兵に応じている。鎌倉幕府成立後は重用され、下野国守護を務めた。三男・朝光の母は、寒河尼。小山城は中久喜城や鷲城とともに、小山氏の主要な居城であった。小山郷の総鎮守・須賀神社(祇園社)を城の守り神としてため、祇園城とも呼ばれていた。
天授6年/康暦2年(1380年)〜弘和2年/永徳2年(1383年)下野国守護・小山義政が鎌倉公方・足利氏満に対して起こした反乱で、鎌倉府により追討されて嫡流は断絶する。同族の結城直光の次男・泰朝を養子として迎え再興した。
天正4年(1576年)小山秀綱が北条氏照に降伏して開城、北条氏照が北関東攻略の拠点として改修した。天正18年(1590年)北条氏滅亡後、慶長12年(1602年)本多正純が入封する。元和5年(1619年)宇都宮へ移封となり、小山城は廃城となった。
古河市三国橋の上流で渡良瀬川に合流する思川に沿って、南北に曲輪がある。本丸と二の丸との間には思川へ一直線に伸びる深い堀があり、赤い祇園橋が架けられている。二の丸に、享和3年(1803年)の書物に古木と記されている銀杏がある。
[交通]JR東北本線・小山駅-(徒歩/約15分)-城山公園
城山公園の北側に、久寿2年(1155年)小山政光によって創建された天翁(てんのう)院がある。城山公園の東側を通る4号線を北へ進むと、左手に山門がある。北山(小山市中久喜地内)にあったが、文明4年(1472年)現在地に移転した。小山氏の菩提寺になっている。
天翁院
下野国・足利氏館
■城の種別

■築城者
足利義兼
■築城年
平安時代末期または鎌倉時代初期
■主な遺構
土塁 / 堀
土塁 / 堀
鑁阿寺・太鼓橋 / 山門 足利学校

JR両毛線・足利駅から北へ、JR足利駅入口交差点を左折して67号線を西へ進む。通1丁目交差点を右折して293号線を北へ進む。足利学校沿いに進み左折すると、右手に足利氏館跡がある。源義家の曾孫・足利義兼によって平安時代末期または鎌倉時代初めに築かれたと云われている。足利義兼は源頼朝の挙兵に応じて平氏追討戦や奥州征伐に従軍、軍功を挙げている。源氏の中でも宗家に次ぐ家柄で、子孫も鎌倉幕府の要職に就いている。足利尊氏の代に隆盛を迎え、鎌倉幕府を倒し室町幕府を開いた。方形居館の四面を廻る土塁と水堀が残り、平安時代末期〜鎌倉時代初期の武家屋敷の面影を今に伝える遺構になっている。約40,000uの館跡は、鑁阿(ばんな)寺の境内になっている。鑁阿寺は、建久7年(1196年)足利義兼が邸内に大日如来を祀る持仏堂を建立したのが始まりと云われている。文暦元年(1234年)足利義氏が堂塔伽藍を建立、足利氏の氏寺となる。館の南方には、日本最古の学校と云われる足利学校がある。
[交通]JR両毛線・足利駅-(徒歩10分)-鑁阿寺

下野国・唐沢山城(栃本城 / 根古屋城 / 牛ヶ城)
■城の種別
山城
■築城者
藤原秀郷
■築城年
延長5年(927年)
■主な遺構
石垣・土塁・堀切・井戸
井戸
唐沢山(247m)山頂を本丸とする。戦国時代に北条氏政や上杉謙信の攻撃を退けている堅固さを誇る。江戸の火事が見えたことから、廃城になった逸話がある。慶長4年(1599年)江戸20里四方の山城法度による禁令が出される。本丸跡に明治16年(1883年)創建の唐沢山神社がある。
[交通]東武佐野線・田沼駅-(徒歩/約90分)-本丸跡
下野国・佐野城(春日岡城・春日城・姥城うばがじょう
■城の種別
平山城
■築城者
佐野信吉
■築城年
慶長7年(1602年)
■主な遺構
曲輪・堀切・土塁
城門が惣宗寺(佐野厄除大師)山門としてとして移築され現存する。

埋め戻された石畳と石垣
佐野駅北側の城山公園にある。江戸20里四方の山城法度による禁令により、唐沢山城を廃城して居城を移す。惣宗寺(佐野厄除大師)が移転させられている。慶長19年(1614年)佐野信吉は改易となり、廃城となる。本丸虎口の石垣と石畳が発掘されるが、保存のため埋め戻されている。
[交通]JR両毛線/東武鉄道佐野線・佐野駅北口からすぐ城山公園
上野国・沼田城(倉内城)
■城の種別
丘城
■築城者
沼田顕泰
■築城年
天文元年(1532年)
■主な遺構
石垣・堀
■主な再建造物
鐘楼

鐘楼
上越線・沼田駅から東へ進む。上り坂を道なりに進み、左手にある階段を登る。突き当たりを左折して北へ進むと、沼田公園がある。北関東の要衝として上杉 / 武田 / 北条の争奪戦が繰り広げられた。武田氏の滅亡後は真田信幸の支配となる。天和元年(1681年)廃城となり破却されるが、真田信幸によって改修された本丸西櫓台の石垣が発掘される。
[交通]JR上越線・沼田駅-(徒歩/約30分)-沼田公園
上野国・箕輪(みのわ)
■城の種別
平山城城
■築城者
長野業尚
■築城年
永正9年(1512年)
■主な遺構
石垣 / 土塁 / 空堀
本丸跡
箕郷(みわ)本町バス停から西へ、西明屋交差点を右折して北へ進む。道なりに進むと、右手に箕輪城大手虎韜門口がある。城の西に榛名白川 / 南には榛名沼があり、天然の堀を形成していた。甲斐の武田氏、越後の上杉氏が侵攻を繰り返す場であった。永禄9年(1566年)武田氏により落城。武田氏の上野経営の拠点と位置づけられる。天正10年(1582年)武田氏は滅亡、北条氏政の弟・氏邦が侵攻する。北条氏と織田氏による攻防が行われるが、本能寺の変後は北条氏の支配となる。天正18年(1590年)小田原征伐後は徳川家康が関東に移封、箕輪城は井伊直政に与えられる。慶長3年(1598年)高崎城に移封、箕輪城は廃城となる。
[交通]JR高崎駅-(群馬バス / 箕輪行き / 30分)- 箕郷本町バス停-(徒歩/約15分)-箕輪城大手虎韜門口-(徒歩/約15分)- 箕輪城本丸跡
城址碑 三の丸付近の石垣
上野国・高崎城(和田城)
■城の種別
平城
■築城者
和田義信
■築城年
正長元年(1426年)
■主な遺構
乾櫓・東門
土塁・堀
乾櫓
高崎駅西口から29号線を西へ、高崎市役所方向に進む。右手にある新町諏訪神社を過ぎ、堀沿いに右折して進む。左手に乾櫓や移築された東門がある。正長元年(1426年)和田義信が和田山城を築城する。天正18年(1590年)小田原合戦のとき落城、和田氏は滅亡する。慶長2年(1597年)井伊直政は和田城跡に築城する。碓井川と烏川の合流点の台地にあり、三の丸外郭の土塁と堀が残る。
[交通]JR・高崎駅-(徒歩/約15分)-高崎城乾櫓
東門
上野国・前橋城(厩橋城)
■城の種別
平城
■築城者
長野方業
■築城年
延徳年間(1489年〜1492年)
■主な遺構
石垣・堀
市内総社町に、城門が移築され現存する。 
 本丸土塁
前橋駅から北へ、109号線を左折して西へ進む。利根橋手前を右折して、利根川沿いに北へ進む。群馬県庁を囲む様に、土塁が残る。利根川の氾濫による浸食により、江戸時代中期には放棄される。文久3年(1863年)松平直克によって再築城を開始される。城址には再築前橋城の案内板がある。
[交通]JR前橋駅-(徒歩/約30分)-群馬県庁 
上野国・館林城(尾曳城)
■城の種別
平城
■築城者
赤井照光
■築城年
享禄3年(1530年)
■主な遺構
土塁
■主な再建造物
土橋門
土橋門
館林駅から370号線を東へ進む。市役所前交差点を越えると、左手に道標がある。左折すると復元された土橋門がある。駅前の案内板では、と三の丸芸術ホールのみが描かれている。右側を進むと、土橋門への道標は見落とし易い。三の丸芸術ホールから駐車場に進むと二の丸橋があるが、二の丸がある訳けではなく紛らわしい。戦国時代には、越後・上杉氏 / 甲斐・武田氏 / 相模・北条氏による攻防が繰り広げられた。天和3年(1683年)廃城となるが、宝永4年(1707年)再築される。
[交通]東武鉄道伊勢崎線・館林駅-(徒歩/約15分)-館林城土橋門
信濃国・龍岡城(龍岡五稜郭 / 桔梗城)
■城の種別
平城
■築城者
松平(大給)乗謨
■築城年
元治元年(1864年)
■主な遺構
御台所櫓 / 石垣 / 土塁 / 堀
大広間が佐久市鳴瀬落合の時宗寺の本堂、東通用口が佐久市野沢の成田山薬師寺の門、薬医門と塀が市内の個人宅に移築され現存する。
石垣 / 堀

JR小海線・臼田駅から線路沿いに北へ進む。右折して踏切を渡り、93号線を道なりに進む。龍岡橋南交差点を直進して、次の十字路を右折すると五稜郭公園がある。信濃国と三河国に領地を持つ三河奥殿藩は、幕末の動乱期に拠点を田野口に移すことを決める。元治元年(1864年)築城を開始するが、完成前に明治維新を迎える。江戸時代末期に築城された、蝦夷国・五稜郭と同じ星形稜堡式の城郭。石垣が低く水堀も狭いため、実戦には耐えられないと云われている。廃城後の御台所櫓は、農機具倉庫として使用される。小学校設立の際に校舎として活用され、築城当時と反対方向に移築された。城跡には、佐久市立田口小学校と招魂社がある。
[交通]JR小海線・臼田駅-(徒歩/約25分)-五稜郭公園-(徒歩/約30分)-JR小海線・龍岡城駅

御台所櫓 招魂社
信濃国・松代城(海津城 / 貝津城)
■城の種別
平城
■築城者
武田信玄
■築城年
永禄3年(1560年)
■主な遺構
石垣・堀
■主な再建造物
太鼓門
太鼓門
松代駅から南へ、突き当たりを右折する。美術館の角を右折して線路を越えると、海津城址公園がある。川中島は千曲川と犀(さい)が合流する三角地帯で、繰り返される洪水川により荒れ地だったところ。武田信玄と上杉謙信との第4回川中島合戦では、武田信玄がここから出撃する。 元和8年(1622年)真田信之が入城、明治維新まで真田氏の居城となる。沼田領はそのまま継承されている。
[交通]長野電鉄屋代線・松代駅-(徒歩/約10分)-海津城址公園
信濃国・荒砥城あらとじょう(新砥城)
■城の種別
山城
■築城者
山田二郎
■築城年
大永4年(1524年)
■主な遺構
土塁 / 空堀

■主な再建造物
櫓 / 館 / 兵舎
櫓 / 兵舎

しなの鉄道・戸倉駅から西へ、戸倉市山田中学校前交差点を左折して南へ進む。総合体育館前交差点を右折して西へ、千曲川に架かる万葉橋を渡る。城山入口交差点を直進して坂道を登ると、千曲市城山史跡公園(標高895m)がある。平安時代からの豪族、山田二郎が築城したと云われている。村上氏・葛尾城の支城としての役割を果たしていた。天文22年(1553年)武田信玄により葛尾城が落城、武田氏に従った屋代政国が屋代城から移る。天正10年(1582年)武田氏滅亡後、屋代秀正は上杉氏に従った。天正11年(1583年)屋代秀正は徳川氏に通じたため、上杉景勝に攻められる。天正12年(1584年)荒砥城は落城、廃城となる。屋代秀正は徳川家康を頼って敗走、旗本となり存続する。
[交通]しなの鉄道・戸倉駅
-(徒歩/約30分)-城山入口バス停-(徒歩/約30分)-千曲市城山史跡公園

信濃国・上田城(尼ヶ淵城 / 真田城)
■城の種別
平城
■築城者
真田昌幸
■築城年
天正11年(1583年)
■主な遺構
北櫓 / 南櫓 / 西櫓 / 石垣 / 土塁 /
■主な再建造物
東虎口櫓門 /
東虎口櫓門
しなの鉄道・上田駅から141号線を北東へ進む。松尾町交差点を左折して北西へ進むと、突き当りの藩主居館跡に上田高校がある。堀沿いに北西へ、突き当りを左折する。すぐに右折、さらに市役所前交差点を左折して北西へ進む。突き当りに上田城がある。
土豪小泉氏の古い城館が存在したと云われている。
真田昌幸は甲斐武田氏の武将。天正10年(1582年)武田氏滅亡後は、織田信長に属し滝川一益の与力となる。本能寺の変後、有力勢力の狭間で揺れ動くことになる。上田・小県地方制圧の拠点として、上田城が築城される。天正13年(1585年)と慶長5年(1600年)の上田合戦で、真田昌幸が徳川軍の攻撃を撃退した城として知られている。天正13年(1585年)徳川軍およそ7000の兵を真田昌幸がおよそ1200の兵で迎え撃ち、守り抜いた。慶長5年(1600年)中山道から西へ進む徳川秀忠軍およそ38000の兵を、真田昌幸と真田信繁(幸村)がおよそ2000の兵で迎え撃ち守り抜いた。徳川秀忠軍は、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。西軍に就いていた真田昌幸と真田信繁(幸村)は、慶長6年(1601年)紀伊国九度山に配流になる。上田城は徳川軍に徹底的に破却され堀も埋められた。東軍に就いていた嫡男・真田信之が上田領を引き継ぎ、三の丸跡地に居館(陣屋)を構える。元和8年(1622年)真田信之は信濃国・松代に転封となり、仙石忠政が入封する。寛永3年(1626年)から再建が始められたが、寛永5年(1628年)仙石忠政の死により城普請は中断される。仙石氏三代の後、宝永3年(1706年)松平(藤井)忠周が入封する。松平氏が明治維新まで城主を務めるが、本格的な再建は行われなかった。真田昌幸時代の上田城について正確な構造は、解っていない。
[交通]しなの鉄道 ・上田駅-(徒歩/約15分)-上田城跡公園
北櫓 南櫓 西櫓
明治4年(1871年)廃城後、明治7年(1874年)から上田城の土地 / 建物は民間へ払い下げられる。城址には、石垣と寛永3年(1626年)〜寛永5年(1628年)に建てられた西櫓が残るのみであった。北櫓と南櫓は上田市常磐城(新地)にあった遊郭に払い下げられ、連結されて使用されていた。昭和24年(1949年)に復元される。東虎口櫓門は平成6年(1004年)に再建される。東虎口櫓門の正面右手の石垣に、真田昌幸が築城のときに柱石として据えたと云われる真田石がある。真田信之は信濃国・松代に転封のとき、持ち運ぼうとしたびくとも動かなかったと云われている高さ約2.5m / 幅約3mもある大石。
真田石
真田神社 真田赤備え兜オブジェ 酒樽茶室・百余亭
本丸跡には、明治12年創建の松平(しょうへい)神社として建立された歴代城主を祀った神社がある。現在では、真田神社と呼ばれている。拝殿手前左手に真田赤備え兜オブジェがある。真田信繁(幸村)は、大阪夏の陣で武具を赤で統一した部隊を率いた。真田信繁(幸村)が被った兜が真田赤備え兜。その手前左手に、酒樽茶室がある。
真田神社絵馬
上田城は政務用の建物が、三の丸に置かれている。これは、真田信之が上田領を上田領を引き継いだとき上田城は破却されており、三の丸跡地に居館(陣屋)をを構えたことによる。寛政2年(1790年)再建の上田城主屋敷門(現上田高校正門)と堀と土塀が残る。
上田城主屋敷門 堀 / 土塀
二の丸の堀だったところには、昭和2年(1927年)上田温泉電軌・北東線の線路が敷設された。二の丸橋のすぐ下には、公会堂下駅(後に公園前駅と改称)があった。昭和47年(1972年)に廃止となり、昭和56年(1981年)にケヤキ並木遊歩道が完成した。
ケヤキ並木遊歩道
信濃国・小諸城(酔月城 / 穴城 / 白鶴城 / 鍋蓋城)
■城の種別
平山城
■築城者
武田信玄
■築城年
天文23年(1554年)
■主な遺構
大手門(重文)・三之門(重文)・石垣
足柄門が光岳寺山門、黒門が正眼院山門として移築され現存する。
大手門
小諸駅から北西へ道なりに進むと、右手に大手門がある。小諸駅北側の地下道で線路を潜ると、小諸公園に三之門がある。戦国時代に武田信玄により現在の縄張りがされる。現在の構えは、天正18年(1590年)に入城した仙石秀久によるもの。
[交通]JR小海線 / しなの鉄道・小諸駅-(徒歩/約5分)-大手門および三之門
信濃国・鍋蓋城
■城の種別
平城
■築城者
大井光忠
■築城年
長享元年(1487年)
鍋蓋城址

小諸駅から北東へ進む。相生町交差点を左折して141号線を北西へ進む。本町交差点を左折すると、右手の城郭を思わせる様な白塀に“大井伊賀守居城鍋蓋城址”の案内板がある。小諸は平安時代末期から滋野氏一族・小室氏が支配、宇当坂に居館を構えていた。南北朝時代に南朝方として戦い、衰退する。信濃佐久地方を支配していた大井氏宗家は、文明16年(1484年)北信濃の村上氏に滅ぼされる。北朝方に属していた大井氏の一族・大井光忠は小諸を支配、鍋蓋城を築城する。天文23年(1554年)甲斐の武田信玄が侵攻、鍋蓋城や乙女坂城は落城する。小諸城は鍋蓋城と乙女坂城を、それぞれ鍋蓋曲輪と二の丸として取り込み築城される。
[交通]JR小海線 / しなの鉄道・小諸駅-(徒歩10分)-鍋蓋城址

信濃国・犬甘(いぬかい)城(放光寺城)
■城の種別
山城
■築城者
犬甘氏
■築城年
正平年間(1346年〜1370年)
■主な遺構
堀・土塁
二曲輪

JR松本駅東口より北へ進む。20分ほどすると城山入口交差点があり左折して西へ進む。5分ほどすると右手に正麟寺があり、Y字路を北西へ進む。10分ほど坂を登ると、城山(じょうやま)公園がある。松本は犬甘氏 / 平瀬氏 / 桐原氏などの犬甘一族によって支配されていた。信濃国守護職に小笠原貞宗が任命され、麾下に属する様になる。甲斐国の武田晴信の侵攻を受け、天文19年(1550年)落城する。そのまま廃城になったと云われている。鳳来山・正麟寺は、室町時代中期に創建された少林寺が始まり。天正11年(1583年)小笠原長時の菩提寺となり、正麟寺に改められる。
[交通]JR松本駅-(徒歩/約35分)-城山公園

正麟寺
信濃国・松本城(深志城 / 烏城)
■城の種別
平城
■築城者
小笠原長朝
■築城年
永正元年(1504年)
■主な遺構
天守(国宝)・乾小天守(国宝)・渡櫓(国宝)・辰巳附櫓(国宝)・月見櫓(国宝)・二の丸土蔵
■主な再建造物
黒門・太鼓門
天守

北松本駅北側の通りを東に進むと、左手に松本城天守が見えてくる。平安時代末期に松本行光が築城したとも云われている。現在の城は天正18年(1590年)石川数正が築城。安曇野市内堀金地区にある薬医門は、大手門二の門を移築したと云われている。
[交通]JR北松本駅-(徒歩/約20分)-松本城天守

信濃国・諏訪高島城(諏訪の浮城 / 島崎城)
■城の種別
水城
■築城者
日根野高吉
■築城年
文禄元年(1592年)
■主な遺構
三の丸家屋敷裏門
温泉寺や浄光寺に、城門が移築され現存する。
■主な再建造物
天守 / 隅櫓 / 櫓門
復興天守
隅櫓 櫓門 三の丸家屋敷裏門
諏訪護国神社 温泉寺山門 温泉寺本堂
上諏訪駅の東を通る20号線を南へ、諏訪町1・2丁目交差点手前を右折して南西へ進む。JR中央本線を越え、県道衣の渡橋や中門橋を渡ると高島公園に至る。文禄元年(1592年)日根野高吉によって築城される。関ケ原の合戦の翌年に日野根氏は下野国壬生藩に転封となり、替わって諏訪頼水が入封する。以降明治まで諏訪氏の居城として続く。往時は諏訪湖に突き出た水城で、諏訪の浮城と呼ばれた。江戸時代初期の諏訪湖干拓により、湖は遠くなった。昭和45年(1970年)天守が復興される。移築されていた三の丸家屋敷裏門が本丸に復元される。温泉寺本堂に城門や文政10年(1827年)建立の能舞台が移築されており、それぞれ山門や本堂となっている。高島公園内に諏訪護国神社がある。
[交通]JR上諏訪駅-(徒歩/約20分)-高島城天守
信濃国・桑原くわばら城(高鳥屋たかとや城 / 水晶すいしょう
■城の種別
山城
■築城者
諏訪氏
■主な遺構
土塁 / 空堀
桑原城跡
JR中央本線・茅野駅西口から192号線を北へ進む。上原交差点で20号線に合流する。上原頼岳寺交差点の次にある十字路を右折して道なりに進む。四賀桑原交差点を右折すると、正面に桑原城跡の看板が見える。上原交差点から四賀桑原交差点間は、旧甲州街道となる。築城年は不明だが、諏訪総領家の本拠・上原城の支城となっていた。標高981mの山頂や尾根に築かれ、山腹に足長神社がある。
天文11年(1542年)武田晴信(信玄)は諏訪に侵攻、諏訪頼重の本拠・上原城を攻めた。頼重は上原城を支えきれず、桑原城に逃れ籠城した。しかし家臣の多くは逃亡したため降伏、頼重は弟の頼高とともに甲斐府中に連行された。頼重は頼高と共に東光寺で自刃させられる。桑原城は上原城とともに武田氏に接収された。

[交通]茅野駅-(徒歩45分)-四賀桑原交差点
信濃国・高遠城(兜山城 / 甲山城)
■城の種別
平山城
■築城者
不詳
■築城年
不詳
■主な遺構
大手門 / 石垣 / 土塁 / 空堀 / 藩校進徳館
本丸門が伊那市内の個人宅に移築され現存 / 本丸冠木門が伊那市内の個人宅に移築され現存 / 二の丸門が岡谷市内個人宅より伊那市へ寄贈され解体保管中 / 搦手門が岡谷市の久保寺に移築され現存。
■主な再建造物
太鼓櫓
桜雲橋
JR飯田線・伊那市駅より北西へ、すぐの伊那市駅前交差点を右折して146号線を北東へ進む。坂下入舟交差点を右折して飯田線の踏切を渡る。361号線(伊那街道)を道なりに東へ進む。しばらくすると、左手に高遠駅バス停がある。さらに361号線を東へ進み、突き当りの秋葉街道を右折する。すぐに左折、さらに左折して高遠警察署前を通る。道なりに進むと、右手に高遠城址公園入口がある。築城主や築城年は不詳であるが、治承3年(1179年)または元暦年間(1184年〜1185年)に笠原平吾頼直によって築城されたと云われている。木曽家親築城説もある。高遠城主・高遠頼継は諏訪氏一門であるが、甲斐国守護・武田氏と同盟関係にある諏訪頼重とは反目していた。天文10年(1541年)武田晴信(信玄)に内応、諏訪攻略を援護している。諏訪頼重が滅ぼされると、諏訪の領有を巡り武田と高遠頼継は対立する。天文14年(1545年)に武田信玄によって攻略される。天文16年(1547)高遠城の大改修を行い、現在見られる城郭の原形が築かれる。永禄5年(1562年)武田晴信の庶子で諏訪氏の娘を母とする四郎勝頼(武田勝頼)が諏訪氏を継承、高遠城主となる。元亀元年(1570年)武田信玄の嫡子・義信が廃嫡されると、勝頼は後継者となる。武田信玄により本拠の躑躅ヶ崎館に呼び戻され、高遠城主は信玄実弟の武田信廉となった。天正3年(1575年)長篠の戦いに敗退する。天正9年(1581年)新府城を築城して領国の維持を図とともに、武田勝頼の弟・仁科盛信を高遠城主とする。天正10年(1582年)織田信忠は5万の大軍で、高遠城を攻撃する。3千の守備隊は玉砕、仁科盛信は自決して城は落城した。9日後、武田勝頼は天目山へ逃避する途中で落命する。武田氏滅亡後、毛利長秀が城主となる。3ヵ月後に本能寺の変が起こり、武田家旧臣・木曾義昌が攻め込み占領した。天正壬午の乱の結果、徳川家康の支配となる。江戸時代になると高遠藩の藩庁となり、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主が交代した。元禄4年(1691年)内藤清枚が入封、明治維新まで続く。明治5年(1872年)に廃城となる。
[交通]伊那市駅-(徒歩110分)-高遠駅バス停-(徒歩30分)-高遠城址公園入口
大手門 問屋門 有料な時期の門
高遠城址公園入口手前の左手に、大手門と云われる門がある。伊那市富県北福地の所有者より寄贈を受け移築され、昭和29年(1954年)〜昭和59年(1984年)県立高遠高校正門として使用されていた。大手門のあった場所とは異なる。桜雲橋を渡ると、本丸入口に問屋門がある。問屋役所にあった門で、昭和23年(1948年)に町内の旧家から移築したもの。桜の時期は城内が有料となるため、いたるところに現代の城門が設置されている。
本丸跡 太鼓櫓 新城・藤原神社
高遠城は桜の名所としても知られ、本丸にも桜の木が多い。復元された太鼓櫓と新城・藤原神社がある。
藩校進徳館 白兎橋 高遠閣公園管理事務所
三の丸に万延元年(1860年)最後の藩主・内藤頼直によって創設された藩校進徳館がある。明治4年(1871年)に廃校となった。高遠城唯一の残存建造物である。本丸跡と法憧院郭の堀に白兎橋が架かる。北ゲートに高遠閣公園管理事務所がある。
本丸跡から白兎橋を渡る。法憧院郭の南門から標識に従い5分ほどの歴史博物館に、絵島(えしま)囲み屋敷がある。絵島は、徳川幕府の大奥で月光院(7代将軍・徳川家継の生母)に仕えていた女中で、出世して大年寄りにまでなった。絵島は山村座に度々出掛け、役者・生島新五郎と馴染みを重ねるようになった。正徳4年(1714年)月光院の代わりに、増上寺に徳川家宣の墓参をする。帰路に山村座で芝居見物、大奥門限に遅れる。公務を疎かにしたということで裁きを受け、高遠に遠流となる。33歳の時で、61歳で亡くなりなるまでの28年間幽閉された。絵島を口実に大奥の粛清を断行したと云われている。
絵島囲み屋敷
信濃国・妻籠城
■城の種別
山城
■築城者
木曾氏
■築城年
室町時代中期
■主な遺構
土塁
総堀

旧中山道・妻籠宿「JR南木曽駅3.2km これより妻籠宿の町並み」道標から、旧中山道を北へ進む。10分ほどすると、妻籠城跡碑と妻籠城跡案内看板がある。すぐに妻籠城総堀になる。元禄16年(1703年)道の付け替え工事が行われ、妻籠城総堀を通る様になった。標高521mにある山城で、戦国時代には木曾義昌が城主であった。元和2年(1616年)の一国一城令により、廃城になった。
[交通]妻籠宿-(徒歩/約10分)-妻籠城跡碑 / 総堀

妻籠城跡碑

信濃国・馬篭城
■城の種別
山城
■築城年
室町時代
馬篭城跡
馬篭宿南の入口十字路から南へ進む。急な坂道を下り道なりに10分ほど進と、丸山坂の右手に馬籠城跡案内板がある。この辺りは城山とも言われ、室町時代から馬篭城があった。元和元年(1615年)尾州徳川家の領地になり、いつしか廃城になった。
[交通]馬篭宿-(徒歩/約10分)-馬籠城跡案内板
甲斐国・新府城
■城の種別
平山城
■築城者
武田勝頼
■築城年
天正10年(1582年)
■主な遺構
土塁・堀
 
本丸跡
新府駅から南西へ道なりに進む。藤武神社の鳥居から西へ進むと、新府城跡がある。本丸跡に藤武神社がある。天正3年(1575年)長篠の戦いで、武田軍は敗北する。織田信長の甲斐侵攻に備えて築城され、躑躅ヶ崎館から移転する。武田勝頼は、2ヶ月余りで自ら城を焼いて退去する。天目山に追い詰められ自刃、武田氏は滅亡する。
[交通]JR中央本線・新府駅-(徒歩約20分)-新府城本丸跡 
甲斐国・躑躅ヶ崎館
■城の種別
平城
■築城者
武田信虎
■築城年
永正16年(1519年)
■主な遺構
石垣 / 土塁 / 堀
躑躅ヶ崎館跡
土塁 武田神社
甲府駅より31号線を北へ進むと、突き当たりに大正8年(1919年)創建の武田神社がある。永正16年(1519年)武田信虎によって築城された躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)跡で、背後にある要害山城を詰城としていた。武田信虎・晴信(信玄)・勝頼の3代60年余りに渡り、府中として機能した。武田氏滅亡後、徳川家康によって館域は拡張されて天守も築かれた。天正11年(1583年)甲府城が築城されると、廃城となった。
[交通]JR中央本線・甲府駅-(徒歩約30分)-武田神社
甲斐国・甲府城(舞鶴城 / 一条小山城)
■城の種別
平山城
■築城者
徳川家康
■築城年
天正11年(1583年)
■主な遺構
石垣・堀
■主な再建造物
櫓 / 門 
天守台
甲府駅の南東に舞鶴公園がある。甲斐国統治のため、躑躅ヶ崎館に替わり一条小山に築城される。甲斐武田氏一族、一条忠頼の居館があったところである。源頼朝によって謀殺され、居館は尼寺になる。正和元年(1312年)に一蓮寺となるが、甲府城築城のために移転させられる。天守が建てられていたかは、不明とされている。
[交通]JR中央本線・甲府駅-(徒歩約10分)-甲府城 
甲斐国・岩殿山城(岩殿城)
■城の種別
山城
■築城者
小山田信茂
■築城年
大永7年(1527年)

■主な遺構
郭 / 空堀
岩殿山
ふれあいの館 南面の絶壁 揚木戸跡
乃木希典詩碑 / 岩殿山城址碑 岩殿山城址碑 南物見台からの眺望
JR中央本線で新宿方面から大月駅に近づくと、右手に標高634mの岩殿山が見える。大月駅前から東へ進み、岩殿登山口が掲げられたアーケードを左折する。踏切を渡り右折すると139号と合流、北へ道なりに進むと左手に岩殿山城登山口がある。5分程で中世の城をイメージしたと云う「ふれあいの館」に到着する。頂上への道は階段も多く、整備されているが勾配はきつい。自然の岩を利用した揚木戸跡を過ぎると、南物見台に陸軍大将・乃木希典が明治12年(1879年)に登頂した際の詩碑がある。南物見台からの展望は素晴らしいが、富士山は雲が厚く隠れている。帯郭跡から三の丸 / 二の丸 / 本丸 方面へ進む。烽火(のろし)台には鉄塔かあり、工事中で機材が占領していた。空湟跡から岩殿へ下る短絡路は落ち葉が深くて滑り易く、途中から引き返し帯郭跡まで戻る。帯郭跡から岩殿までは比較的整備されているが、落ち葉が堆積している。朝から誰も通っていない様で、蜘蛛の巣を払い除けながらの下山となる。車道を下ると往路の登山口に至る。標高634mの岩殿山には大同元年(806年)創建と云われる円通寺があり、修験道の場となっていた。大月は武蔵国へ至る街道が交差する地に位置する。小山田氏は初め武田氏に対抗していたが、永正6年(1509年)武田氏の傘下に入った。岩殿山城は、大永7年(1527年)小山田信茂により築城された。相模の北条氏 / 駿河の今川氏 / 武蔵の上杉氏 との国境警備の役割を担っていた。東西に長い岩山をそのまま城にしている。南面は西から東までほとんどが絶壁で、北面も急傾斜になっている。戦国時代には、東国の城郭の中でも屈指の堅固さを持っていた。天正10年(1582年)織田軍が甲斐に侵攻したときに、小山田信茂は織田方へ寝返る。岩殿山城へ落ち延びてくる武田勝頼は、進退に窮し天目山で自害した。武田家を滅亡させる事に深く関わった小山田信茂は、この戦いの後に織田信長により処刑されている。江戸時代にも岩殿山城は要塞として存続している。
[交通]JR中央本線・大月駅-(徒歩約15分)-登山口-(徒歩約5分)-ふれあいの館-(徒歩約40分)-岩殿山頂上