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陸奥国・高館たかだち(衣河館)
■城の種別
山城
■築城者
藤原清衡
■主な遺構
堀 / 土塁 / 郭
義経堂のある高台の郭

JR東北本線・平泉駅より西に進む。すぐの十字路を右折して、110号線(中尊寺通り)を北に進む。すぐにJR東北本線の踏切を渡ると、左手にある無量光院跡では発掘が行われている。無量光院は、奥州藤原氏3代・藤原秀衡が京都の平等院を模して創建した。往時は平等院の規模を上回る煌びやかな寺院であったが、奥州藤原氏の滅亡以降の度重なる火災で焼失した。吾妻鏡には、無量光院の近くに奥州藤原氏の政庁・平泉館があったと記載されている。土塁 / 礎石 / 池跡 が残るが、立ち入ることはできない。

無量光院跡
標識 階段
無量光院跡から10分ほどすると右手に標識があり、右折して坂を登る。次いで階段を登ると、左手に郭 / 中央に階段 / 右手に事務所がある。
[交通]JR東北本線・平泉駅-(徒歩20分)-高館義経堂事務所
高館義経堂への入山券(大人300円)が必要である。
高館義経堂入山券
突き当りからの眺望
義経堂 宝篋印塔 義経堂のある高台からの眺望
階段を登り突き当りを左に進むと郭があり、階段を登ると義経堂(ぎけいどう) / 宝篋印塔(ほうきょういんとう) がある。義経堂は天和3年(1683年)仙台藩4代藩主・伊達綱村が甲冑姿の義経の木像を収めて建立した。宝篋印塔は、藤原秀衡 / 源義経 / 武蔵坊弁慶 の供養のために昭和61年(1986年)に造立された。義経堂周囲は木々に囲まれ、階段越しに北上川 / を束稲山(たばしねやま) が眺められる。
突き当りを右に進むと、高館(衣河館)があった郭に芭蕉句碑がある。郭が狭いのは、北上川によって大幅に浸蝕されたためである。
高館(衣河館)があった郭 芭蕉句碑
西行(1118年〜1190年)は、20代後半の頃と文治2年(1186年)に平泉を訪れている。2度目は、東大寺再建のための砂金勧請に奥州藤原氏3代・藤原秀衡を訪ねたとき。山家集で「ききもせず 束稲山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは」と詠んだ。
元禄2年(1689年)芭蕉は奥のほそ道で平泉を訪れ、「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」と詠んだのはこの場所とされる。

寛治元年(1087年)奥六郡を領する勢力者となった藤原清衡は、嘉保年間(1094年〜1096年)頃から磐井郡平泉を居館とした。嘉承3年(1108年)に中尊寺造営を開始、奥州藤原氏4代100年の栄華の基礎を築いた。高館は藤原清衡の時代から要害とされていたと云われている。
平家を打倒した源義経は源頼朝と対立する。文治3年(1187年)奥州藤原氏3代・藤原秀衡を頼り奥州平泉に逃れ、ここに居館を与えられたと云われている。文治5年(1189年)奥州藤原氏4代・藤原泰衡は源頼朝の源義経引渡要求の圧力に耐えかねて急襲、源義経は正室・郷御前と4歳の娘を道連れに31歳で自害した。源頼朝は奥州に出兵、藤原泰衡は家臣の造反により殺されて奥州藤原氏は滅んだ。

[寄り道]中尊寺簡易郵便局
中尊寺簡易郵便局風景印 世界遺産平泉ポスト 世界遺産平泉ポスト側面
110号線(中尊寺通り)に戻り北西に進む。すぐにJR東北本線の踏切を渡ると、300号線と交差する左手に中尊寺簡易郵便局がある。風景印は、中尊寺金色堂の図柄になっている。重厚な紺色の世界遺産平泉ポストがある。
陸奥国・九戸城(福岡城 / 宮野城)
■城の種別
平山城
■築城者
九戸光政
■築城年
明応年間(1492年〜1501年)
■主な遺構
土塁 / 石垣 / 堀 / 曲輪 / 井戸
本丸空堀
いわて銀河鉄道・二戸駅東口から114号線を東に進む。すぐに114号線は南東に曲がり、274号線に突き当たる。交差点を左折して、馬淵川に架かる川原橋を渡る。道なりに北方向へ進むと、右手に呑香(とんこう)稲荷神社がある。石段を登ると、九戸城松ノ丸西の腰曲輪跡に呑香稲荷神社の社殿がある。承和年間(834年〜848年)に創建されたと云われ、天和2年(1682年)に現在地に移転した。
[交通] いわて銀河鉄道・二戸駅-(30分)-呑香稲荷神社
呑香稲荷神社
境内右手に九戸政実神社 / 大作神社 がある。九戸政実神社の創建時は九戸城二ノ丸跡にあったが、社殿の老朽化により平成13年(2001年)に移築新築された。
九戸政実神社 大作神社
大作神社は盛岡・八幡宮境内にあったが、廃藩置県の際に廃社となった。大正7年(1819年)下斗米秀之進(相馬大作)末裔の福岡町宅地内に再興、昭和6年(1931年)呑香稲荷神社に移された。
文政4年(1821年)南部藩士・下斗米秀之進を首謀者とする数人が、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親の暗殺未遂事件が起きる(相馬大作事件)。裏切った仲間の密告により津軽寧親の暗殺に失敗、下斗米秀之進は南部藩を出奔した。後に幕府に捕らえられ、獄門の刑となった。
津軽藩主・津軽氏は、盛岡藩主となった三戸南部氏と同じ南部氏の一族だった。大浦為信(後の津軽為信)のとき、元亀2年(1571年)に挙兵、津軽地方 / 外ヶ浜地方 / 糠部の一部 を支配した。大浦為信は天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に三戸南部氏・南部信直に先駆けて参陣、所領を安堵された。このような経緯から、盛岡藩主・南部氏は弘前藩主・津軽氏に対して遺恨があった。
呑香稲荷神社社殿右手の石段を登ると、九戸城松の丸跡がある。
九戸城松の丸跡
松ノ丸石柱 工事の案内看板 史跡 九戸城跡 石柱
松ノ丸跡を北東へ進み坂道を下ると「松ノ丸」石柱があり、右折して車道を南東に進む。工事の案内看板があり、九戸城は令和4年5月31日〜11月17日まで整備工事中であった。坂道を登ると左手の高台に「史跡 九戸城跡」石柱が見える。
「史跡 九戸城跡」石柱からすぐ左手に九戸城二の丸大手がある。立ち入り禁止の表示はなかったため、鉄板がひかれた道を進む。すぐ右手に広い二の丸跡がある。
鉄板がひかれた道 二の丸跡
二の丸はところどころに立ち入り禁止の標識があり、堀に架かる橋も通行止めになっていた。
本丸空堀 本丸空堀
本丸虎口跡から本丸に入り撮影していると、工事関係者の方から二の丸大手から立ち入り禁止になっていると言われる。時は08:45、工事が始まる前で入り込めたが、本丸石垣までは行くことができなかった。
本丸虎口跡 本丸跡
北側を白鳥川 / 東側を猫渕川 / 西側を馬淵川 と三方を河川に囲まれた天然の要害で、城内は空堀によって、本丸 / 二の丸 / 三の丸 / 若狭館(わかさだて) / 外館(とだて) / 松の丸 などの曲輪群を形成していた。東北地方では有数の規模であり、本丸に東北最古の石垣がある。三の丸跡は大部分が市街地となっている。
工事中のため往路を戻るしかなく、松ノ丸跡との間の道を北西に進む。すぐに274号線に突き当たり、左手に二戸郵便局がある。風景印は、馬仙峡の奇岩 / 九戸城石垣 / 馬淵川に架かる荒瀬橋 の図柄になっている。
二戸郵便局風景印

明応年間(1492年〜1501年)九戸光政によって築城されたと云われている。九戸氏は南部氏の祖・源光行(南部光行)の六男・南部行連が陸奥国九戸郡伊保内(岩手県九戸村)を領して九戸氏を称した。
九戸政実の頃には、三戸南部氏 / 八戸氏(根城南部氏)と並ぶ糠部郡の雄となっていた。天正10年(1582年)三戸南部氏・24代南部晴政と嫡子・25代晴継が相次いで亡くなると、石川信直と九戸実親の間に後継者争いが起きる。
石川信直は三戸南部氏22代・南部政康の次男・石川高信の庶長子で、南部晴政の長女を室としていた。九戸実親は九戸政実の弟で、南部晴政の二女を室としていた。南部氏家臣・北信愛は八戸政栄を調略、石川信直の父・石川高信の兵と軍事クーデターを起こして石川信直が南部惣領家の後継者になる。北信愛の次男・北秀愛は、南部晴政の三女を室としていた。
惣領家の当主となった南部信直は津軽為信の討伐を命じたが、九戸政実は動かなかった。津軽為信へ討伐軍を出していると0きの九戸氏が反乱するのを恐れて、南部信直は自ら討伐軍を率いることもできなかった。そのため津軽は容易に津軽為信に切り取られていった。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による奥州仕置以後、九戸氏や八戸氏などは三戸南部氏の家臣とされる。九戸政実と南部信直の対立は深まり、天正19年(1591年)九戸政実は、三戸城での南部氏の正月参賀を拒絶して5000の兵力で挙兵した。九戸一族のほか、二戸郡の領主の大半が参加している。九戸側が当初は優位にあったが、奥州仕置に反する行動とみなした豊臣秀吉による鎮圧軍6万が派遣され九戸氏は敗北した。九戸政実は降伏謝罪をしたが許されず、宮城県栗原郡内で配下の諸将数名と共に斬首処刑されて九戸氏は滅んだ。城内にいた者は、女 / 子供 構わず撫で斬りにされて皆殺しにされた。
九戸政実の乱以後、九戸氏の残党への警戒から蒲生氏郷が居残り九戸城と城下町を改修して南部信直に引き渡した。南部信直は三戸城から本拠を移し、九戸を福岡と改めた。慶長2年(1597年)不来方(盛岡)築城によって南部氏の居城は盛岡城へ移された。城は寛永13年(1636年)に廃城、破却された。 

陸奥国・花巻城(鳥谷ヶ崎城)
■城の種別
平山城
■築城者
安倍頼時
■築城年
前九年の役(1051年〜1062年)頃
■主な遺構
円城寺門 / 時鐘堂
■主な再建造物
西御門
西御門(枡形 / 櫓門)

JR東北本線・花巻駅東口より東に、すぐの297号線を右折して南東に進む。すぐのY字路を左方向に進むと、297号線は東に進路を変える。5分足らずのところにある橋の手前の交差点を右折すると、すぐ左手に鳥谷ヶ崎公園がある。
[交通]JR東北本線・花巻駅-(徒歩15分)-鳥谷ヶ崎公園

内堀に架かる雲井橋 本丸入口 西御門
花巻城は北上川西岸の段丘に築かれ、本丸は鳥谷ヶ崎公園になっている。結構広い城域で、二の丸は花巻小学校 / 花巻幼稚園 / 武徳殿 一帯である。二の丸の南側が三の丸で、東は御柱神社(鳥谷ヶ崎神社)の辺りから西は花巻市役所の辺りとなる。花巻市役所の辺りに大手門があった。
本丸
鳥谷ヶ崎神社 円城寺門 花巻城時鐘
花巻城三の丸に鳥谷ヶ崎神社 / 境内に移築された円城寺門 がある。円城寺門は和賀氏の居城であった飛勢城の追手門を慶長19年(1614年)に移築したもの。花巻城三の丸搦手の円城寺坂に移築されたため、円城寺門と命名された。明治4年(1871年)花巻城取り壊しのとき、個人に払い下げられ自邸の門とした。昭和7年(1932年)この門を購入、御柱神社(鳥谷ヶ崎神社)鳥谷ヶ崎神社境内に移築した。鳥谷ヶ崎神社から西に進むと、花巻市役所に花巻城時鐘がある。盛岡城で使用するため鋳造されたが、音量が不足していたため花巻城の時鐘として転用された。
前九年の役(1051年〜1062年)の頃、安倍頼時の城柵があったところと云われている。文治5年(1189年)の奥州合戦によって陸奥国稗貫郡を与えられた稗貫(ひえぬき)氏は、享禄年間(1528年〜1532年)に本城を鳥谷ヶ崎に移した。天正18年(1590年)豊臣秀吉の奥州仕置によって、小田原に参陣しなかった和賀義忠 / 稗貫広忠 は、所領没収の処分となった。 鳥谷ヶ崎城には豊臣秀吉の代官・浅野長政が入部する。後に浅野重吉が駐留した。天正18年(1590年)冬、旧領を奪還しようとする和賀義忠 / 稗貫広忠 が反乱を起こした。和賀・稗貫一揆によって、鳥谷ヶ崎城を含め稗貫氏の旧領も和賀・稗貫勢に奪われた。天正19年(1591年)再仕置軍により一揆は鎮圧された。
稗貫郡は南部領となり、南部信直の代官・北秀愛が城代として入る。鳥谷ヶ崎城の改修が行われ、花巻城と改称された。慶長3年(1598年)北秀愛が死去し、替わって父・北信愛が城代となる。慶長5年(1600年)南部氏が慶長出羽合戦へ出陣しているとき、和賀忠親が旧領・和賀郡の奪還を目指して反乱を起こした。花巻城は三の丸 / 二ノ丸を攻略され本丸に迫ったが、援軍を得た北信愛は撃退した。慶長18年(1613年)南部利直は次男・南部政直に2万石を与え花巻城主とし、南部政直は花巻城を近世城郭として完成させた。一国一城令後も和賀・稗貫二郡を統括する南部の抱え城として認められた。南部政直急死後は城代が置かれ、明治2年(1869年)に廃城となった。
陸奥国・一関城(釣山館 / 高崎城)
■城の種別
山城
■築城者
坂上田村麻呂
■築城年
平安時代初期
■主な遺構
堀 / 曲輪 / 移築大手門
■主な再建造物
藩主の井戸 / 清庵ヶ池
千畳敷
JR東北本線・一ノ関駅西口より342号線を西に進む。5分ほどの右手に一関田村郵便局がある。風景印は、須川岳 / 時の太鼓 / 市花・菜の花 の図柄になっている。
一関田村郵便局風景印
すぐに右折して北に進むと、すぐ右手に旧沼田家武家住宅がある。江戸時代後期に建てられた一関藩家老職を勤めた沼田家の旧宅。
旧沼田家武家住宅
342号線まで戻り西に進む。すぐの磐井川手前を左折して南に進むと、すぐ左手に心字ヶ池 / 田村家居館跡の駐車場 / 道を挟んで釣山公園 がある。
[交通]JR東北本線・一ノ関駅-(徒歩15分)-釣山公園
心字ヶ池

藩主の井戸 / 清庵ヶ池の曲輪を望む 藩主の井戸 清庵ヶ池
一関城は磐井川に面した釣山に築かれており、釣山公園となっている。釣山公園入口から坂を登り橋を渡る。田村坂を道なりに登ると、左手に復元された“藩主の井戸”や“清庵ヶ池”がある。
主郭を望む 田村神社 のろし台跡
清庵ヶ池から左方向に進み坂を登ると、山頂に主郭とされる千畳敷に田村神社 / のろし台跡 がある。
千畳敷右方向に進むと、おさん稲荷神社が見える。階段を下り道なりに進むと、日本庭園から備荒清庵野草園を経て“藩主の井戸”に至る。
おさん稲荷神社

平安時代初期に蝦夷討伐で遠征した坂上田村麻呂が陣を構え、高崎城と命名したと云われている。天喜年間(1053年〜1058年)俘囚の長である安倍貞任の弟・磐井家任が砦として使用した。前九年の役(1051年〜1062年)で安倍氏は滅亡する。文治5年(1189年)源頼朝による奥州合戦で奥州・藤原氏が滅亡すると、功績があった葛西清重が奥州総奉行に任ぜられて葛西氏の所領となった。葛西氏は武蔵・平塚城の豊嶋氏の一族で、石巻城を本拠とした。一関城には家臣の興田氏 / 高崎氏 / 小野寺道照 が居城とした。天正18年(1590年)豊臣秀吉の奥州仕置により小田原に参陣しなかった葛西氏は滅亡、旧大崎領・旧葛西領30万石は木村吉清に与えられた。間もなく葛西大崎一揆が起こり、鎮圧後の天正19年(1591年)木村吉清は領地を没収され伊達政宗の所領となった。
伊達政宗は、慶長9年(1604年)叔父・留守政景 / 慶長12年(1607年)留守政景死去後は留守宗利が城主とする。元和2年(1616年)からは仙台藩蔵入地となる。寛永18年(1641年)伊達政宗の十男・伊達宗勝が3万石を領して一関藩となった。寛文11年(1671年)伊達騒動によって伊達宗勝は所領没収のうえ土佐藩にお預けの身となり一関藩は一代で消滅した。天和2年(1682年)伊達家分家・田村建顕が岩沼から一関へ移され一関藩が再興、以後明治まで続く。

移築城門
平泉・毛越寺山門は、大正10年(1921年)一関城の大手門を移築したもの。
毛越寺山門
JR東北本線・平泉駅より西に進むと、突き当りに嘉祥3年(850年)中尊寺と同年に創建された毛越寺がある。火災や兵火 により荒廃、寛文年間(1661年?1672年)には水田になっていた。平成元年(1989年)平安時代の本堂が再建された。
毛越寺本堂 毛越寺浄土庭園
陸奥国・八戸城
■城の種別
平山城
■築城者
中館信助
■築城年
室町時代初期
■主な遺構
角御殿表門 / 八戸城東門 / 土塁
八戸城本丸跡
JR八戸線・本八戸駅南口を出ると、右手に青森本八戸駅内郵便局がある。風景印は、JR八戸線 / 三八城公園(桜・八戸城址・三八城神社) / 八戸漁港に水揚げされるイカとサバ の図柄になっている。本八戸駅南口交差点から23号線を南に進む。すぐのT字路を右折して西に進むと、三八城(みやぎ)公園がある。三八城とは、三戸郡八戸城を略した呼び名である。
[交通]JR八戸線・本八戸駅-(徒歩/約5分)-三八城公園
青森本八戸駅内郵便局風景印
八戸城跡 石柱 八戸城跡の碑 三八城神社
根城南部氏2代・南部政長の3男・中館(なかだて)信助が室町時代初期に築城したのが始まりと云われている。寛永4年(1627年)根城南部氏22代・南部直義が遠野・横田城に移封となると、中館氏も従う。八戸は津軽領と接する要衝であったことから、八戸は南部藩の直轄地として代官が支配した。
寛文4年(1664年)盛岡藩3代藩主・南部重直が嗣子を定めずに病没する。幕府の裁定により遺領10万石を南部重直の2人の弟、七戸重信に本藩8万石 / 中里数馬の八戸藩2万石に分割した。寛文5年(1665年)中里数馬は南部直房を名乗り、八戸藩初代藩主となった。三八城山にあった盛岡藩時代の建物を引き継ぎ、修築して八戸城を居城とした。明治7年(1871年)創建の三八城神社付近に御殿があった。
元禄元年(1688年)2代藩主・南部直政は、5代将軍徳川綱吉の側用人になり譜代大名並の待遇を受けていた。9代藩主・南部信順は薩摩藩より婿養子として迎えられる。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟の圧力を直に受けることとなる。南部信順はこの難局を上手く乗り切り、戦闘に参加することなく八戸藩の存続に成功した。
八戸市役所の23号線を挟んだ反対側に、南部会館がある。角御殿表門は古桜門とも呼ばれ、南部会館の表門となっている。八戸城東門は安政8年(1859年)台風で倒れ、八戸藩の家老に払い下げられた。八戸根城跡に移築され、現在は根城史跡の広場入口となっている。
八戸城角御殿表門 旧八戸城東門
陸奥国・八戸根城
■城の種別
平山城
■築城者
南部師行
■築城年
建武元年(1334年)
■主な遺構
土塁 / 空堀 / 井戸
■主な再建造物
主殿 / 中馬屋 / 工房 / 鍛冶工房 / 板倉 / 納屋
八戸根城本丸跡
JR東北新幹線 / 八戸線 / 青い森鉄道・八戸駅からすぐの八戸駅前交差点の南西側に、八戸駅前郵便局がある。風景印は、イカの外枠 / 郷土玩具・八幡馬 / 初春の神事・えんぶり の図柄になっている。
八戸駅前郵便局風景印
八戸駅前交差点から南東に進む。すぐの交差点を左折して20号線を東に進む。10分ほどの左手に八戸西郵便局がある。風景印は、郷土玩具・八幡馬 / 菊 の図柄になっている。
八戸西郵便局風景印
すぐの前田交差点を右折して南に進む。10分足らずで根城大橋を渡る。5分足らずの馬場頭交差点を左折すると、左手に八戸根城跡がある。すぐに左折して小路を進むと、本丸跡を大きく回り込むことになる。104号線を直進して5分ほどすると、旧八戸城東門がある。根城史跡の広場入口となっている。
[交通]JR東北新幹線 / 八戸線 / 青い森鉄道・八戸駅-(徒歩/約45分)-根城史跡の広場入口
104号線を直進すると、すぐ右手に八戸根城郵便局がある。風景印は、銀杏 / 八戸根城 の図柄になっている。
八戸根城郵便局風景印
旧八戸城東門 空堀跡 西側から見た本丸跡
元弘3年 / 正慶2年(1333年)甲斐国波木井の地頭・南部師行は、南朝方の北畠顕家に従い奥州に下向した。建武元年(1334年)南部師行は八戸に根城を築城した。根城は八戸市街地の西端にあり、馬淵川南岸の河岸段丘上にある。南部師行は津軽地方にも勢力を伸長した。延元3年 / 暦応元年(1338年)南部師行は北畠顕家に従い、足利尊氏討伐に遠征した。南部師行は和泉国石津川で北朝方・高師直と戦い、北畠顕家と共に戦死した。弟・南部政長が跡を継いだが、南朝方が劣勢となると次第に弱体化した。
南部師行の子孫は、根城南部氏 / 八戸南部氏 / 八戸氏 を称した。南部氏のなかでも比較的大きな勢力を有しており、当初は南部宗家に位置付けられていたと云われている。
天正18年(1590年)三戸南部氏・南部信直は小田原征伐へ参陣、豊臣秀吉から所領を安堵される。このとき、根城南部氏は支配下に組み込まれた。天正20年(1592年)豊臣秀吉の命令により城は破壊されたが館は残され、以降も根城南部氏本拠であった。寛永4年(1627年)根城南部氏22代・南部直義が遠野・横田城に移封となり、八戸根城は廃城となった。
八戸市根城史跡の広場入口にある東門は、旧八戸城東門を移築したもの。
陸奥国・三戸城(留ヶ崎城)
■城の種別
山城
■築城者
南部晴政
■築城年
天文8年(1539年)
■主な遺構
表門(龍川寺山門) / 搦手門(法泉寺山門) / 代官所門(観福寺山門) / 石垣 / 曲輪
■主な再建造物
模擬天守(三戸城温故館) / 綱御門
三戸城模擬天守
青い森鉄道・三戸駅から西へ進むと、285号線に突き当たる。交差点を右折して北に進むと、すぐ左手に三戸駅前郵便局がある。風景印は、名久井岳 / 南部祭り / 牡丹 の図柄になっている。
三戸駅前郵便局風景印

交差点まで戻り、285号線を南に進む。10分足らずの元木平交差点を直進する。20分ほどすると交差点があり、右折して西に進むと、すぐ右手に三戸郵便局がある。風景印は、リンゴの外枠 / 三戸城温故館 / 写生する猫 の図柄になっている。交差点まで戻り東に進む。すぐの2本目を左折して、道なりに坂を登ると城山公園がある。
[交通]青い森鉄道・三戸駅-(徒歩/約50分)-城山公園

三戸郵便局風景印
青い森鉄道・三戸駅は青森県三戸郡南部町 / 三戸城跡は青森県三戸郡三戸町の市街地中心部 に位置している。三戸町のマンホールは、三戸町のマスコット・ぬかべえ / 三戸城模擬天守 の図柄になっている。三戸城は馬淵川と熊原川の浸食によって形成された河岸段丘にある山城である。両河川を天然の水堀とし、周囲より孤立した台地になっている。
三戸町マンホール
三戸城跡 石柱 石垣 糠部神社

奥州南部氏は甲斐源氏の子孫で、文治5年(1189年)奥州藤原氏討伐の戦功によって陸奥国糠部五郡を領することになる。奥州南部氏初代・南部光行は建久2年(1191年)に入国する。三戸城は、天文8年(1539年)南部晴政よって築城されたと云われている。
南部宗家は三戸南部氏となっているが、根城南部氏が南部宗家に位置付けられていたと云われている。三戸南部氏・南部晴政 / 南部晴継 が相次いで没すると、天正10年(1582年)南部信直が26代当主を継承することになる。
天正18年(1590年)三戸南部氏・南部信直は小田原征伐へ参陣、豊臣秀吉から所領を安堵される。このとき、他南部家は支配下に組み込まれた。天正19年(1591年)九戸政実の反乱が鎮圧後、三戸城は近世城郭に普請される。そのとき本丸に御三階櫓が築かれたと云われている。寛永10年(1634年)盛岡城が居城となり、三戸城は御古城と呼ばれ城代が置かれた。貞享年間(1684年〜1688年)城代が廃されて三戸代官の支配となった。
昭和42年(1967年)に模擬天守(温故館)が築かれた。本丸に、明治11年(1898)創建の糠部
(ぬかべ).神社 がある。

陸奥国・弘前城(鷹岡城 / 高岡城)
■城の種別
平城
■築城者
津軽信牧
■築城年
慶長16年(1611年)
■主な遺構
天守(重文)・辰巳櫓(重文)・丑寅櫓(重文)・未申櫓(重文)・追手門(重文)・東門(重文)・南内門(重文)・東内門(重文)・北門(重文)
天守
弘前バスセンターから北西に進み、7号線を左折する。住吉入口交差点を右折すると、左手に寛延3年(1750年)創建の護穀神社と松尾神社がある。弘南電鉄の踏み切りを越え直ぐに左折すると、右手に天文元年(1532年)創建の最勝院が見えてくる。寛文7年(1667年)建立の五重塔(重文)がある。隣にある弘前八坂神社側から西へ進むと新寺町に入る。左側に袋宮寺、右側に赤い鳥居が並ぶ新寺町稲荷神社がある。慶安3年(1650年)に寺院街になったところで、案内板を見ると23もの寺が並んでいる。新寺町角交差点を北へ進み、藤森南口交差点を左折する。直ぐに右折すると奥に弘前天満宮の鳥居が見える。2本目の道を左折すると禅林街で禅寺33もの寺が並んでいる。禅寺が林のように並んでいることから禅林街と呼ばれる様になった。奥に黒門が見える。右手に子育地蔵尊があり、隣の赤門から右へ入る。道なりに進むと突き当たりに宗徳寺があり、少し戻り右折して小道を進む。通りに出ると左手に黒門が見える。
突き当たりに、享禄元年(1528年)創建の長勝寺がある。三門・御影堂・改修中の本堂・庫裏・津軽家霊屋・銅鐘が重文となっている。
長勝寺三門
黒門方向へ進むと、黒門の手前右手に天保10年(1839年)建立のさざえ堂がある。赤門から東へ進み、T字路を左折すると弘前天満宮がある。境内から東へ進み通りを左折する。さらにT字路を左折、しばらくすると慶長元年(1596年)創建の誓願寺への道標がある。右折して北へ進と、江戸時代中期建立の鶴亀門とも呼ばれている山門(重文)が見えてくる。山門前を東へ進むと、弘前城に至る。文化7年(1810年)再建された天守は、12箇所残されている現存天守の一つである。市民体育館口から西壕沿いの桜並木を北へ、春陽橋を渡る。南へ方向を変え、南内門(重文)から天守(重文)が見える下乗橋に進む。東内門(重文)から東門(重文)へ、ふたたび東内門方向に戻り北へ進む。丑寅櫓(重文)から北門(重文)へ、北門手前の左側には護国神社がある。北門から出ると、向かい側に藩政時代の豪商・石場家(重文)がある。壕沿いに南へ進む。さらに東門の前を左折東へ進む。郵便局のある小道を進むと元和3年(1617年)創建の質素な弘前東照宮がある。弘前東照宮前の道を西へ進むと薬王院がある。東門まで戻り壕沿いに南へ、さらに西へ進むと追手門(重文)がある。通りを戻り直進すると、右手に青森銀行資料館(重文)が見えてくる。T字路を左折して2本目の道を右折すると、弘前バスセンター前から弘前駅に至る。
[交通]弘前バスセンター-(徒歩/約30分)-最勝院-(徒歩/約5分)-新寺町-(徒歩/約15分)-禅林街赤門-(徒歩/約30分)-誓願寺-(徒歩/約30分)-下乗橋-(徒歩/約55分)-東照宮-(徒歩/約20分)-追手門-(徒歩/約40分)-弘前駅
陸奥国・安倍館跡
■城の種別

■築城者
安倍氏
■主な遺構
空堀
安倍館跡 標柱
いわて銀河鉄道・青山駅から東に進む。すぐのT字路交差点を右折して南に進む。5分足らずの左手に、安倍館跡がある。空堀から東側を流れる北上川方向に進むと、厨川八幡宮がある。
[交通]いわて銀河鉄道・青山駅-(徒歩/約10分)-安倍館跡
空堀 厨川八幡宮
厨川柵(くりやがわのさく)跡で、奥六郡(現:奥州市から盛岡市の地域)を拠点としていた安倍氏の館があったところと云われている。
安倍氏の出目は解っていない。東夷の酋長とされる安倍忠頼以前の確かな系図は不明とされる。安倍忠頼以降、安倍忠良→安倍頼時→安倍貞任 と続く。安倍頼時のときが最盛期で、糠部(現:青森県東部)から亘理・伊具(現:宮城県南部)に勢力を広めていた。
前九年の役(1051年〜1062年)の天喜5年(1057年)に安倍頼時は、源頼義に討たれる。康平5年(1062年)安倍頼時の次男・安倍貞任は、源頼義に討たれる。安倍頼時三男・安倍宗任は伊予国 / 四男・安倍正任は肥後国 に配流された。以後、清原氏が厨川を領する。
文治5年(1189年)鎌倉幕府の御家人・工藤行光は岩手郡の地頭となり、工藤氏の館・厨川館があったところとされる。承久年間(1219年〜1221年)厨川は北条得宗領となる。室町時代には厨川城が築城されたが、天正20年(1592年)に廃城となった。
陸奥国・盛岡城(不来方城)
■城の種別
平山城
■築城者
南部信直
■築城年
慶長2年(1958年)
■主な遺構
土蔵・石垣・堀
報恩禅寺や清水寺に、移築されたと云われる城門がある。
本丸石垣

JR盛岡駅から東へ、開運橋を渡る。五差路の開運橋東交差点を南東へ進むと、突き当たりにある。盛岡藩南部氏の居城。
[交通]盛岡駅-(徒歩/約20分)-岩手公園

陸奥国・黒沢尻柵跡
■城の種別
城砦集落
■築城者
安倍正任
■築城年
平安時代(794年〜1192年頃)後期
黒沢尻柵跡と案内板
JR北上駅から東へ107号線を北へ進むと、右手に安倍館公園(川岸遺跡)がある。陸奥の豪族安倍氏によって、北上川沿いに造営された柵の一つ。戦国時代の城と異なり、集落を柵列で円形囲んでいた。前九年の役が終わる康平5年(1062年)に、黒沢尻柵も落ちる。
[交通]北上駅-(徒歩/約5分)-安倍館公園