東海道53次 No.45 膳所駅-(約14.5km)-三条大橋
2010年 7月 4日(日)09:30 晴
中山道69次 No.43 草津追分-(約15km)-大津駅
2013年 4月17日(水)08:15 晴のち曇り
中山道69次 No.44 大津駅-(約12km)-三条大橋
2013年 4月18日(木)08:00 晴
膳所駅より北へ進む。すぐのY字路を右へ進むと、昨日左折した旧東海道と交差する。道を間違え、Y字路を左へ進む。交差点を右折すると、左手に地蔵の祠がある。すぐに旧東海道と交差する。
大津の散策路(拡大) 地蔵の祠
義仲寺山門前石柱群 義仲寺山門 義仲寺朝日堂
旧東海道と交差、右折して東へ進む。すぐ右手に義仲寺(ぎちゅうじ)がある。木曽義仲は平家討伐の兵を挙げ、平家の大軍を打ち破り都に入る。寿永3年(1184年)粟津ヶ原で源範頼 / 義経と戦い、討ち死にする。木曽義仲が葬られた地に、尼僧となった側室・巴御前が草庵を結んだのが始り。天文22年(1553年)近江国守護・佐々木六角氏が再興したと云われている。
木曽義仲墓 巴塚 松尾芭蕉墓

貞享年間(1684年〜1688年)に松尾芭蕉がたびたび訪れている。元禄7年(1694年)大阪で逝去したとき、遺言に従いここに墓が作られた。境内には、本堂の朝日堂(ちょうじつどう) / 翁堂(おきなどう) / 無名庵(むみょうあん) / 文庫 / 芭蕉をはじめ数多くの句碑 がある。境内全域が国の史跡に指定されている。
翁堂
[参考]松尾芭蕉生家 / 終焉の地
松尾芭蕉生家 松尾芭蕉終焉の地
松尾芭蕉は正保元年(1644年)松尾与左衛門と妻・梅の次男として、伊賀国(伊賀市上野赤坂町)で生まれる。元禄7年(1694年)大坂・花屋仁右衛門方離れ座敷に病臥、51歳で亡くなる。御堂筋の中央大通りとの交差点の南、東側の植樹帯に松尾芭蕉終焉の地石柱がある。

義仲寺から西へ進むと、すぐ右手に地蔵の祠 / 右手に地蔵の祠 と続く。 

地蔵の祠 地蔵の祠
中山道69次 69番 / 東海道53次 53番 大津宿
滋賀県大津市
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳
人口:14892人 家数:3650 / 本陣:2 脇本陣:1 旅籠:71
東海道および中山道最大の宿場。宿場の長さは東西16町51間(約1838m) / 南北1里19間(約3962m)。大津が歴史上登場するのは、天智天皇6年(667年)天智天皇の大津京遷都による。延暦13年(794年)平安遷都により、大津は都の玄関口となる。東海道・中山道と北国海道との合流点 / 琵琶湖舟運の港町 / 膳所藩の城下町 として発展する。比叡山延暦寺 / 石山寺 / 三井寺(園城寺) / 日吉大社 / 建部大社などの参拝者が大津宿を利用していた。
古民家 地福寺 平野神社石柱 / 常夜燈
地蔵の祠から5分ほどすると、京阪鉄道石山坂本線踏切を渡り大津宿に入る。踏切の前後に“大津の散策路”案内板がある。すぐ左手に地福寺 / 左手に毎年8月9日古式ゆかしい蹴鞠の奉納がある平野神社石柱と常夜燈 と続く。
地蔵の祠 地蔵 西方寺
町並み 成覚寺 清源寺
生水地蔵堂 善正寺 天孫神社
平野神社石柱から5分ほどすると分岐があり、左へ進む。すぐ左手に地蔵の祠 / 左手に地蔵 / 左手に西方寺 / 右手に成覚寺 / 左手に清源寺 / 左手に生水地蔵 と続く。すぐの交差点を左折すると、突き当りに滋賀県庁がある。旧東海道を北西へ進むと、すぐ右手に善正寺がある。次の十字路を左折すると、すぐ右手に延暦元年(782年)創建の天孫神社がある。大同3年(806年)には、近江を行幸した平城天皇が行在所とした。天正14年(1586年)大津城が築城された折に、城下の守護神と位置づけられた。
華階寺 大津別院 大津別院本堂
旧東海道に戻り、北西へ進む。すぐに京町3丁目で中央大通りと交差する。旧東海道は直進 / 交差点を左折すると左手に華階寺 / 坂を登り切った突き当りにJR東海道本線・大津駅 / 交差点の北東側に慶長5年(1600)創建の大津別院 がある。華階寺は藤原秀郷(俵藤太)の旧宅別館があったところと云われている。門前に「俵藤太 矢根地蔵 月見の石」石標がある。矢根地蔵は、百足を討ち取った矢の根で石に地蔵を刻んだと云われている。大津別院の本堂(重文)は慶安2年(1649年)築 / 書院(重文)は寛文10年(1670年)築 。
唯泉寺 地蔵の祠 町並み
京町3丁目の交差点を直進して北西へ進むと、すぐ左手に唯泉寺 / 左手に地蔵の祠 / 「此附近露国皇太子遭難之地」石標 と続く。明治24年(1891年)親善のため来日したロシア帝国ニコライ皇太子(後のニコライ2世)が、警備にあたっていた津田三蔵巡査に切りつけられ負傷した大津事件。列強のロシア帝国艦隊が神戸港にいるときに事件が発生、武力報復されかねない緊迫した状況であった。明治政府は外交問題に発展することを懸念、津田三蔵の死刑を主張した。刑法では殺人未遂の最高刑は無期懲役であり、法治国家として法は遵守されなければならないとした。法を安易に曲げれば条約提携諸外国から益々理不尽な要求を突きつけてくると判断して、無期懲役の判決を行った。三権分立の意識を広めた、近代日本法学史上重要な事件とされる。
此附近露国皇太子遭難之地
京阪電鉄京津線 ラッピング電車(2010年7月) 上栄町駅手前
 
「此附近露国皇太子遭難之地」石標からすぐに、京町1丁目交差点で161号線(西近江路)と交差する。札の辻だったところで、高札場が置かれていた。161号線(西近江路)は、浜大津駅から0.8kmの上栄町駅手前まで京阪電鉄京津線の併用軌道区間となっている。以前は浜大津駅と京都の京津三条駅を結んでいた。平成9年(1997年)御陵駅以西を廃止、京都市営地下鉄東西線へ乗り入れを開始した。併用軌道 / 急勾配の山岳鉄道 / 地下鉄 と変化を楽しめる路線である。昭和9年(1934年)〜昭和15年(1940年)天満橋駅・浜大津駅間で特急・びわこ号の運転も行われていた。
[寄り道]琵琶湖疏水 / 三井寺
大津制水門
第1トンネル 琵琶湖第1疏水疏水

京町1丁目交差点を直進、旧北国海道を北西へ進む。5分ほどの突き当りを右折、北へ進む。さらに5分ほどすると、園城寺(おんじょうじ)の地下に通じる琵琶湖第1疏水(そすい)に突き当たる。琵琶湖疏水は、琵琶湖の湖水を京都市へ流すために作られた水路(疏水)である。第1疏水は明治23年(1890年) / 第2疏水は明治45年(1912年)に完成している。この辺りの第2疏水は地下になっている。

琵琶湖第1疏水沿いに南西方向へ進む。長等山・園城寺(おんじょうじ)への入口に、三尾(みお)神社がある。園城寺背後にある長等山(ながらやま)の地主神。神の意志を伝えると云われる眷属(けんぞく)さんがウサギで、卯年生まれの守護神になっている。社殿は応永年間(1394年〜1427年)足利将軍が再興したもの。慶長年間(1596年〜1615年)豊臣秀吉は社殿を修復、社領を寄進している。豊臣秀吉は慶長3年(1598年)に亡くなっている。明治9年(1876年)琴緒谷(ことおだに)から現在地に移転する。

三尾神社拝殿
三井の晩鐘
金堂 三重塔

弁慶の引き摺り鐘

三井寺観音堂の北側石段 三井寺観音堂
園城寺(おんじょうじ)は大友与多王(よたのおおきみ)によって創建が発願され、朱鳥元年(686年)許可された。大友与多王は、壬申の乱において敗北・自害した大友皇子(弘文天皇)の皇子。通称の三井寺(みいでら)は、境内に涌く霊泉が、天智天皇 / 天武天皇 / 持統天皇 の産湯として使われたことに由来する。“御井(みい)の寺”と呼ばれ、転じて三井寺となったと云われている。境内には、金堂を始めとする国宝 / 三重塔や梵鐘を始めとする重文が数多くある。梵鐘は、除夜の鐘でも登場する“三井の晩鐘(ばんしょう)”で知られている。金堂の後方左手にある霊鐘堂に、奈良時代作と云われる“弁慶の引き摺り鐘”(重文)が納められている。三上山の百足を討ち取った俵藤太が寄進したと云われている。弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げ様としたのが由来。「イノー・イノー」(関西弁で帰りたい)と響いたので谷底へ投げ捨てる。鐘にある傷痕や破目は、その時のものと云われている。この鐘は三井寺に変事があるとき、前兆として不可思議な現象が生じたなど逸話は尽きない。三井寺は平安時代以降、皇室 / 貴族 / 武家などの信仰を集めた。10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化、比叡山の宗徒によって焼き討ちされることが度々あった。豊臣秀吉によって寺領を没収されて、廃寺同然となったこともある。苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、“不死鳥の寺”と称されている。西国三十三観音14番札所(観音堂) / 西国四十九薬師48番札所(水観寺) / 江州三十三観音4番札所 / 近江西国三十三観音5番札所 になっている。
旧東海道は京町1丁目交差点を左折して、161号線(西近江路)を南へ進む。札の辻から逢坂山まで、長い登り坂となる。すぐの京町1丁目交差点を渡ると、右手に本願寺近松別院が見える。京阪電鉄京津線の併用軌道区間が終わり、すぐ左手の大津本陣跡がある。
本願寺近松別院 本陣跡
妙光寺 東海道本線と京阪電鉄京津線
地蔵の祠 関蝉丸神社
大津本陣跡から5分ほどすると、JR東海道本線跨線橋がある。手前を右折、京阪電鉄京津線の踏切を越えたところに妙光寺がある。この辺りまでが大津宿だったところ。JR東海道本線を跨線橋で越えると、右手に地蔵の祠 / 右手に天慶9年(946年)創建の関蝉丸神社(下社)石標と常夜燈がある。右折して京阪電鉄京津線の踏切を渡ると鳥居、境内を進むと万治3年(1660年)に建立された社殿がある。音曲を始めとする諸芸道の祖神・蝉丸を祀る。蝉丸は盲人ながら、琵琶の名人であったと云われている。諸芸能を生業とする人々の興業には、関蝉丸神社の免許が必要とされたと云われている。今昔物語を出典とした名曲が謡曲蝉丸である。
京阪電鉄京津線踏切り 逢坂石標 安養寺
旧逢坂山ずい道東口 関蝉丸神社上社 弘法大師堂
旧東海道を南西へ進む。すぐの京阪電鉄京津線踏切を渡ると、右手に安養寺がある。行基作と云われる阿弥陀如来坐像(重文)がある。石段の手前に逢坂(おうさか)石標がある。地名は、神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王と出会ったと云う日本書紀の故事に由来する。京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂の関が設けられる。ここから逢坂山の登りになる。すぐの右手に、旧逢坂山ずい道東口がある。明治13年(1880年)竣工の全長664.8mのトンネル。初の日本独自技術の設計・施工によるもので、大正10年(1921年)まで東海道本線下り線として使用されていた。すぐの逢坂1丁目交差点で、1号線と合流する。合流後は右側に歩道がないので、161号線と1号線を横断して反対側に渡る。京阪電鉄京津線と1号線に挟まれた歩道を進む。5分ほどすると右手に蝉丸神社上社 / 右手に弘法大師堂 / 右手に逢坂常夜燈と続く。
逢坂常夜燈
逢坂山関址 逢坂常夜燈 常夜燈
弘法大師堂から5分ほどの右手の小公園に、逢坂山関址 / 寛政6年(1794年)造立の逢坂常夜燈 / 逢坂の関案内板 / 常夜燈 がある。地面に大津絵“鬼の寒念仏”タイルが埋め込まれている。逢坂関は、山城国と近江国の国境となっていた関所。古代日本の畿内周辺には、三関(美濃国・不破関 / 伊勢国・鈴鹿関 / 近江国・逢坂関)が設けられていた。
鬼の寒念仏タイル
大津絵販売の地石標 地蔵の祠 鬼の寒念仏
標識 蝉丸神社分社 道標
旧東海道は1号線から分岐して右へ進む。すぐ右手に「此の付近逢坂関跡 大津絵販売の地」石標 / 左手に地蔵の祠 / 左手に鬼の寒念仏 / 「うなぎ注意」標識 / 右手に蝉丸神社分社 / 左手に「左 伏見奈良街道 右 京三條みち」道標 / 左手に“元祖走井餅本家”石標 と続く。江戸時代は、この辺りに立場茶屋があった。江戸時代から続くうなぎ店があり、ユーモラスな道路標識が目立つ。走井餅は大津の名物として知られ 、安藤広重の東海道五十三次にも登場する。本家は昭和初期に廃業している。
元祖走井餅本家石標
大津算盤の始祖・片岡庄兵衛案内板 月心寺 道標
元祖走井餅本家石標からすぐに1号線に合流、歩道橋で京阪電鉄京津線と1号線を越える。1号線の左側を進むと、すぐ左手の復元された大津算盤の始祖・片岡庄兵衛の住居前に案内板がある。5分ほどすると、左手の走井茶屋跡に月心寺 / 左手に「右一里丁 左大谷町」道標 と続く。走井茶屋は追分の地で繁昌していた。 平安時代から知られ、成務天皇が産湯に使ったと云われる“走井”の井戸跡がある。日本画家の橋本関雪が、大正3年(1914年)別荘として走井茶屋跡地を購入、昭和20年(1945年)に寺院となる。斜面を活かした月心寺庭園は、室町時代造園と云われている。精進料理が食べられるお寺として知られている。「右一里丁 左大谷町」道標にある一里町の町名は、この付近に一里塚があったことによる。
月心寺から10分ほど名神高速道路を潜ると、1号線に架かる歩道橋がある。旧東海道は歩道橋脇の交番からY字路を右に進む。
[寄り道]摂取院
1号線に架かる歩道橋と京阪電鉄京津線の踏切を渡ると、右手の高台に天正2年(1574年)創建の摂取院がある。
摂取院
大日如来の祠 沸立寺 常夜燈
道標(正面)
山科追分(2010年7月) 道標(左側面)
閑栖寺 地蔵の祠 上横木町地蔵

歩道橋脇の交番からY字路を右に進むと、すぐ左手に大日如来の祠 / 右手に沸立寺 と続く。沸立寺の塀が切れたところの柵に常夜燈がある。沸立寺から10分ほどの山科追分まで、道の北側が大津市 / 南側が京都府 の県境になっている。大津市と京都府のマンホールが並ぶ。山科追分の道標には「ひだりハふしミみち みぎハ京のみち」と彫られている。山科追分から右に進むのが旧東海道、京街道は左に進む。伏見〜淀〜枚方〜守口と経由して大坂・高麗橋へ至る。大名が京都に入るのを幕府が好まなかったので、参勤交代のときに利用された。道標の左側に2010年7月には存在した、明和3年(1766年)造立の「蓮如上人 是より十町」道標が2013年4月には根元しか残っていなかった。江戸時代にはここに高札場があった。追分道標からすぐ右手に閑栖寺 / 左手に地蔵の祠 / 右手に上横木町地蔵 と続く。

車石案内板 / 車石 三井寺観音道道標 常夜燈
善福寺石柱 地蔵の祠 地蔵の祠

上横木町地蔵から5分ほどすると、1号線と交差する。右手の歩道橋で1号線を越え西へ進むと、すぐ左手に車石案内板と車石が置かれている。車石は:京都の心学者・脇坂義堂が、文化2年(1805年)大津八町筋から京都三条大橋までの12km間の東海道に花崗岩の切石を敷詰めたもの。車のわだちを刻み、物資を運搬する牛車の通行を容易にした。すぐ右手に三井寺観音道道標 / 右手に常夜燈 / 右手に善福寺石柱 / 右手に地蔵の祠 / 左手に地蔵の祠 と続く。

古民家
地蔵の祠 徳林寺(六角堂)
十禅寺石標 円光寺 諸羽神社鳥居
地蔵の祠 地蔵の祠 来迎寺

地蔵の祠からすぐの旧三条四ノ宮交差点を越えると、左手に地蔵の祠 / 反対側に徳林寺(六角堂)がある。六角堂には、仁寿2年(852年)造立の山科地蔵がある。京都六地蔵の一つで、後白河天皇が京都を守るため町の入口六ヶ所に配置したもの。すぐ右手に十禅寺石標があり、右折すると奥に十禅寺 / 仁明天皇の第四皇子・人康(さねやす)親王の墓がある。人康親王は、琵琶の名手であったと云われている。四宮の地名は、第四皇子であった親王からと付いたと云われている。旧東海道に戻り西へ進むと、すぐ右手に円光寺 / 右手に延喜式内社の諸羽神社鳥居 / 右手に地蔵の祠 / 左手に地蔵の祠 / 右手に来迎寺 と続く。東海道を巡ったときは、京阪山科駅前交差点を右折して山科駅前で昼食を摂っている。

旧東海道道標 安祥寺石標 地蔵の祠
愛宕常夜燈 當麻寺 もてなす君風船
五条の別れ道標  地蔵の祠 古民家
京阪山科駅前交差点を西へ進むと、すぐ右手に旧東海道道標 / 右手に安祥寺石標 / 左手に地蔵の祠 / 右手に愛宕常夜燈 / 右手に當麻寺 と続く。商店街の店先に“もてなす君風船”が吊るされている。ナスのイメージである紫の風船に、目がついたものである。すぐ左手に宝永4年(1707年)造立の五条別れ道標があり、左へ進むと旧道澁谷越道を経由して五条大橋へ至る。すぐ左手に地蔵の祠があり、すぐに143号線(三条通)と合流する。右折してすぐのJR東海道本線のガードを潜ると、すぐ左手に常夜燈と石仏の祠祠 / 左手に観光案内板 がある。
常夜燈 / 石仏の祠
観光案内板からすぐの小路を左折して北西へ進む。左折してから旧東海道標識がある。この辺りの御陵という地名は、北側にある天智天皇陵に由来する。すぐ左手に地蔵の祠、すぐにカラー舗装された十字路がある。
地蔵の祠 十字路
地蔵の祠 亀の水不動
旧東海道は、カラー舗装された十字路を直進する。すぐ右手に地蔵の祠がある。坂を登り切ると、左手に亀の水不動がある。江戸時代には木食(もくじき)正禅養阿上人が結んだ梅香庵があり、旅人に湯茶を接待したり牛馬の渇きを癒したところとされる。木食正禅養阿上人は、元文3年(1738)日ノ岡峠の改修工事を行っている。木食正禅養阿上人は、木食上人のひとりである。木食とは、草根木皮の生食のみで生きる難行中の難行を云う。
花山稲荷道道標と妙見道道標 大乗寺石標 地蔵の祠
地蔵の祠 地蔵の祠 地蔵の祠
亀の水不動からすぐの左手ブロック塀のなかに、花山稲荷道道標と妙見道道標 / 大乗寺石標 と続く。5分ほどすると右手に地蔵の祠がある。さらに5分ほどすると、左手に地蔵の祠 / 左手に地蔵の祠 / 左手に地蔵の祠 / 左手に地蔵の祠 と続く。すぐに143号線(三条通り)と合流する。143号線(三条通り)の観光案内板から143号線(三条通り)に再度合流するまで、約1.5km / 25分ほどである。
地蔵の祠
[寄り道]木食遺蹟
十字路 地蔵の祠

粟田口題目塔

旧東海道はカラー舗装された十字路を直進するが、右折するとすぐ左手に地蔵の祠がある。すぐの日ノ岡交差点を左折して143号線(三条通)を北西へ進むと、すぐ右手に木食遺蹟がある。九条山周辺にあった享保2年(1717年)造立の粟田口題目塔「南無阿弥陀佛」 / 日ノ岡宝塔などがある。粟田口には京都最大の刑場があった。処刑された罪人は1500人余と云われ、1000人に1基の供養塔が造立された。明治の初めに刑場が廃止、廃仏毀釈で供養塔は取り壊され石垣や道路などに転用された。日ノ岡宝塔は、昭和14年(1939年)法華倶楽部・小島愛之助翁(法華倶楽部創設者)によって処々に残っていた断片を基石として造立されたもの。5分ほどすると、旧東海道と合流する。

日ノ岡宝塔

俵を積んだ荷車のモニュメント 車石案内板 / 車石 地蔵の祠
安養寺石標 / 日向大神宮鳥居
蹴上発電所 レンガ造ずい道
旧東海道が143号線(三条通り)と合流すると、すぐ左手に小公園がある。俵を積んだ荷車のモニュメント / 車石案内板と車石 が置かれている。5分ほどすると、右手に地蔵の祠がある。さらに5分ほどすると、右手に安養寺石標と延喜式内社の日向大神宮鳥居がある。日向大神宮は顕宗天皇の時代(485年〜487年)に、高千穂の神蹟を移したのが始まりとされる。すぐ右手にレンガ造ずい道が見える。明治時代に建設された琵琶湖から鴨川までの傾斜鉄道の遺構。すぐ左手に都ホテル / 右手の低いところに赤煉瓦造りの蹴上(けあげ)発電所がある。明治24年(1891年)に造られた日本最初の水力発電所で、現在も関西電力蹴上発電所として発電が行われている。
沸光寺本廟 地蔵の祠
合槌稲荷神社 栗田神社鳥居 地蔵の祠
坂本竜馬・お龍結婚式場跡 三条白川橋道標 地蔵の祠
地蔵の祠 地蔵の祠 要法寺
蹴上発電所から5分ほどすると、左手に佛光寺本廟 / 左手に地蔵の祠 / 右手に合槌稲荷神社 と続く。合槌稲荷神社は、刀匠三條小鍛冶宗近が稲荷大明神の神助を得て名刀・小狐丸を打ったと云われている。すぐの左手に栗田神社鳥居 / 左手に地蔵の祠 / 左手に坂本竜馬・お龍結婚式場跡 / 左手に鴨川に注ぐ白川に架かる白川橋 と続く。白川橋を渡る手前左手に、「ひだり ち於んゐん ぎおん きよ水みち」三条白川橋道標がある。白川橋を渡ると、すぐ右手に地蔵の祠 / 左手に地蔵の祠 / 左手に地蔵の祠 / 東山三条交差点を過ぎた右手に要法寺 と続く。143号線(三条通)は、東山三条交差点から南へ曲がる。ここから西は37号線(三条通)となる。
要法寺から5分ほどすると、鴨川に架かる三条大橋が見えてくる。37号線(三条通)は三条大橋手前で川端通りと交差、地下に京阪三条駅がある。三条大橋は室町時代前期には、既に簡素な構造の橋が架けられていた。天正18年(1590年)豊臣秀吉の命により、五条大橋とともに石柱の橋に改修された。江戸時代には幕府直轄の公儀橋に位置付けられ、幕府の経費で架け替えや修復が行われた。現在の橋は昭和25年(1950年)に改造されたもので、橋の長さ74m / 幅は15.5m ある。擬宝珠には豊臣秀吉が作らせたものが残る。
三条大橋 三条大橋擬宝珠
旧東海道は2008年3月23日に日本橋を出発、2010年7月4日に三条大橋に到着する。旧中山道は2010年11月21日に日本橋を出発しているが、途中で行程が前後している。2013年4月18日に大津駅〜三条大橋を歩いている。延日数は、旧東海道 / 旧中山道ともに45日となる。旧東海道のときに三条大橋を渡っていると、まるで出迎えてくれた様にチンドン屋に出会う。
チンドン屋
弥次喜多像 地蔵の祠 地蔵の祠
三条大橋を渡った西詰め南側に、江戸時代に出版された「東海道中膝栗毛」の主役である弥次郎兵衛と喜多八の像 / 地蔵の祠が2基 がある。
鴨川の川岸はかつて「三条河原」と呼ばれ、処刑や処刑後の晒し首が行われた。釜茹での刑に処せられた石川五右衛門 / 高野山で切腹した後に晒し首になった豊臣秀次 / 豊臣秀次の妻子侍女など39名の処刑 / 六条河原で斬首刑となり晒し首になった石田三成 / 板橋刑場で処刑され晒し首になった近藤勇 などが知られている。
鴨川
[寄り道]大雲院
石川五右衛門は安土桃山時代の盗賊。文禄3年(1594年)に捕えられ、京都三条河原で煎り殺された。墓は天正15年(1587年)創建の大雲院(だいうんいん)にある。正親町天皇の勅命を賜り、織田信長 / 信忠父子の菩提を弔うため御池御所(烏丸二条南)の地に創建。織田信忠の法名に因んで、大雲院となった。後に豊臣秀吉により寺町四条へ移され、昭和に入り、八坂神社の南に位置する現在の地に再度移された。銅閣寺または銅閣とも呼ばれ、本堂裏に祇園閣がある。山門は旧宮家の門を移築したもの。境内は通常非公開。
大雲院(銅閣寺)