東海道53次 No.34 知立駅-(約14km)-鳴海駅
2010年 2月27日(土)09:00 晴れ
池鯉鮒宿問屋場跡 都築屋菓子店 石仏
知立古城址 了運寺 了運寺弘法堂
名鉄・知立駅から北へ、知立駅北交差点を右折する。前回歩いた中町交差点をから、鋭角に北西へ進む。右手に池鯉鮒宿問屋場跡、左手に明治8年(1875年)創業の都築屋菓子店と続く。T字路を右折すると左手に花に埋もれた石仏がある。すぐ左手の西町児童遊園に、知立古城址碑が立っている。平安時代〜戦国時代に永見氏の館があったところで、永見氏は知立神社の神主も務めていた。突き当たりにある了運寺は、嘉祥3年(850年)創建の神宮寺の一坊だった寺である。知立三弘法第2番札所になっている。了運寺のT字路を左へ進む。右手に総持寺跡の説明板があり、国道155号線を地下道で潜る。
土御前社 古い校舎 知立神社
知立神社石柱があり右折する。左手に知立神社の摂社、土御前社がある。参道の右手に菖蒲畑や古い校舎がある。突き当たりに、参河国二宮で延喜式内社の知立神社がある。本殿は天保元年(1830年)の建立。境内右手に、永正6年(1509年)に再建された神宮寺の多宝塔(重文)がある。嘉祥3年(850年)創建の神宮寺は知立神社の別当であったが、廃寺になっている。
知立神社多宝塔
総持寺 逢妻橋 知立祭りのタイル
東海道に戻り北西に進むと、すぐ左手に総持寺がある。神宮寺の一坊だった寺で明治5年(1872年)廃寺になったが、大正15年(1926年)に再建される。三河三不動1番札所 / 三河新四国88ヶ所1番札所になっている。突き当たりを左折して、すぐに右折して逢妻川を逢妻橋で渡る。知立祭りのタイルが埋め込まれている。逢妻川は在原業平を慕って京都から追ってきた杜若姫が、在原業平に再会できたことに由来していると云われている。
今岡町歩道橋付近の分断された道 十王堂 洞隣寺 
逢妻町交差点で1号線に合流する。東海道は一里山町新屋敷交差点の先を右へ進む。1号線と斜めに交差、今岡町歩道橋を渡る。実際には行き過ぎ、地元の方に道を尋ねる。今岡町交差点の先を右折して回り込み、1号線を潜る。東海道を5分ほど戻り、今岡町歩道橋からあらためて進む。すぐ右手に十王堂があるが、民家で気を付けないと見逃す。左手にある囲いのなかに、石仏が納められている。すぐ左手に天正8年(1580年)創建の洞隣寺がある。玉砂利が綺麗に敷き詰められている。愛知梅花33観音第6番札所になっている。
洞隣寺観音堂
いもかわうどん発祥地説明 / 津島神社 乗願寺 古民家
乗蓮寺 282号線の歩道橋 地蔵
10分ほどすると右手に、いもかわうどん発祥地説明 / 常夜燈 / 津島神社の祠がある。左手に天正15年(1587年)創建の乗願寺 / 右手に江戸時代前期創建の乗蓮寺 と続く。282号線を歩道橋で渡る。10分ほどすると左手に地蔵があり、今川町交差点で1号線と斜めに交差する。左にある坂を下り、回り込んで1号線を小川に沿った道で潜る。
回り込んで1号線を潜る
豊明インター付近 河野一里塚
西雲寺 古民家 地蔵の祠
伊勢湾岸自動車道の豊明インター手前で、1号線を左へ進む。少し回り込む様に伊勢湾岸自動車道を潜る。すぐ左右に河野一里塚があるが、原形は失われている。15分ほどすると、右手に天正10年(1582年)創建の西雲寺がある。さらに15分ほどすると、右手に元和2年(1616年)創建の神明社石柱がある。本殿は右折して国道1号線を超えたところにある。20分ほどすると左手に地蔵の祠がある。
中京競馬場モニュメント 史跡桶狭間古戦場 古戦場案内板
桶狭間古戦場址 今川義元の墓 高徳院
地蔵の祠から5分ほどすると、右手に中京競馬場モニュメントが見えて来る。名鉄のガードを潜り交差点を左折すると、左手に永禄3年(1560年)に合戦があった桶狭間古戦場がある。今川義元が戦死した場所と云われ、墓がある。説明板を見ると、緑区の桶狭間には触れていない。2kmしか離れていないので、25,000人と云われる今川軍が跨って展開していたと十分考えられる。相互に案内をして欲しいと思う。通りをはさんだ西側に高徳院がある。弘仁元年(810年)創建、明治27年(1894年)に移転してきた。高徳院にも今川義元の墓がある。東海道に戻り西へ進むと、すぐに1号線から左へ分岐する。しばらくするとふたたび1号線と合流する。次の大将ヶ根交差点から右へ進む。
石塔 地蔵堂
有松の街並み
文章嶺天満宮石柱 東海道53次2代目松 祇園寺

有松は間宿であるが、繁盛した宿場であった。広重五十三次鳴海宿は、有松を描いたものである。特産品の有松絞りは知られている。趣きのある町並みが今も続き、撮影した画像を掲載すると切りがないないほどである。有松宿の東側には、左手に正泰真命と彫られた石塔 / 右手に祠 / 左手に地蔵堂と続く。西側には、右手に江戸時代中期創建の文章嶺天満宮石柱 / 右手に東海道53次2代目松 / 左手に祇園寺と続く。有松の地名は、松がたくさんあったことからとも云われている。文章嶺天満宮は石柱を右折する。名鉄の線路を越えたところに鳥居、山頂に本殿がある。

[寄り道]緑区・桶狭間古戦場
地蔵堂 桶狭間古戦場公園
桶狭間古戦場公園 瀬名陣所跡 長福寺
大将ヶ根交差点から有松郵便局を左折、南へ進む。1号線の桶狭間交差点を越える。アップダウンがあり、豊明の桶狭間より雰囲気がある。左手に見えて来る地蔵池の手前に地蔵堂がある。さらに南へ進むと道標があり、左折すると 永禄3年(1560年)に合戦があった桶狭間古戦場公園がある。石碑などがある側は、工事中で入れなかった。説明板を見ると、豊明の桶狭間には触れていない。2kmしか離れていないので、25,000人と云われる今川軍が跨って展開していたと十分考えられる。相互に案内をして欲しいと思う。桶狭間古戦場公園の東側を南へ進むと、左手に瀬名陣所跡がある。今川義元の家臣、瀬名氏俊隊約200名が先発隊として着陣したところである。大池沿いに南へ進むと、左手に天文7年(1538年)創建の長福寺がある。本尊の阿弥陀如来像は、今川義元の茶坊主・林阿弥が義元供養のために納めたと云われている。寺宝に今川義元と家老松井宗信の木造、合戦記を所蔵する。有松駅・桶狭間古戦場公園間は、徒歩約30分掛る。
神明社 常夜燈タイル 平部町常夜燈
祇園寺から約15分ほどすると、右手に神明社がある。さらに20分ほどすると平部北交差点がある。渡る手前に常夜燈タイル、渡ると左手に文化3年(1806年)造立の平部町常夜燈があり、鳴海宿の東入口になっていた。
東海道53次 40番 鳴海宿
所在地:愛知県名古屋市
天保14年(1843年)資料
人口:3643人 家数:847 本陣:1 脇本陣:2 旅籠:68 問屋場:
金剛寺 飛脚と編み笠の女性が彫られた石碑 銭湯・草津温泉
瑞泉寺 瑞泉寺山門 瑞泉寺本堂
平部町常夜燈から5分ほどすると、右手に宝暦10年(1760年)創建の金剛寺がある。右手にある飛脚と編み笠の女性が彫られた石碑を過ぎると、右手に廃業した銭湯・草津温泉温泉が寂しくある。すぐ右手に応永3年(1396年)創建の瑞泉寺がある。山門は宝暦6年(1756年)、本堂は宝暦5年(1755年)築である。
万福寺 浄泉寺 高札場
天神社 龍寺 雷神社
鳴海城址 道寺 誓願寺

さらに西へ進むと曲尺手(枡形)になる。右折すると左手に永亨年間(1429年〜1441年)創建の万福寺、右へ進み石段を登ると浄泉寺がある。曲尺手(枡形)に戻り西へ進む。東海道はさらに西へ進むが、本町交差点を右折して坂を登る。右手に高札場、天神社と続く。天神社の角を右折して坂を登ると、右手に圓龍寺がある。善照寺砦跡にあったが、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いの際に七堂伽藍が焼失する。寛永10年(1633年)に現在地となる。坂を登りきると、右手に雷神社がある。天神社まで戻り、通りを横断して右へ進む。すぐに左折すると、城址公園に鳴海城址(根古屋城址)碑がある。応永年間(1394年〜1427年)に足利義満配下の安原宗範によって築城される。城址公園から天神社が、城郭にあたると云われている。桶狭間の戦いでも落城しなかったが、天正末期に廃城になったと云われている。東福院に鳴海城の廃材で造られたと云われる門が存在する。通りまで戻り右折して南へ下ると、すぐ右手に天正年間(1573年〜1592年)創建の圓道寺がある。創建時の猿堂寺から、地蔵寺〜庚申堂〜圓道寺と改称している。本尊は青面金剛(庚申)で、本堂の屋根には三猿が据えられている。さらに南へ進むとすぐ右手に天正元年(1573年)創建の誓願寺がある。南へ進み浅間橋を渡ると、左方向に鳴海駅がある。