東海道53次 No.08 二宮駅-(約11km)-小田原駅
2008年10月12日(日)10:00 晴
吾妻神社道標 川匂神社神輿 等覚院
等覚院梵鐘 等覚院王徳地蔵 石仏群
JR二宮駅から線路沿いに商店街を東へ、T字路を右折する。1号線を右折して西へ進む。吾妻神社の道標があり、右折してJR東海道線を越える。吾妻山を登るとあるらしく引き返す。旧東海道の道標があり、右へ進む。空き地に川匂(かわわ)神社の神輿が置かれている。毎年10月第2日曜日に例大祭が行われ、夕刻より海岸では浜降り祭となる。川勾神社は相模(さがむ)と磯長(しなが)を合わせて相模国になったときに、二宮になったことが町名の由来になっている。右手に等覚院(藤巻寺)がある。寛永8年(1631年)の銘がある梵鐘は、吾妻神社の別当である千手院から移されたと云われている。樹齢約400年の藤棚や王徳地蔵がある。1号線と合流するところにある火の見櫓下に、道祖神などの石仏が集められている。
二宮一里塚跡 松屋本陣跡 椿森稲荷神社
川匂神社入口交差点の手前を左折する。右手に二宮一里塚跡、左手の個人宅の庭に松屋本陣跡案内板がある。椿森稲荷神社と道祖神が右手に続き、急な押切坂を下ると1号線と合流する。
道祖神 1号線との合流地点
浅間神社 車坂標柱 / 車坂案内板 大山道道標
坂下道にある道祖神 中宿公民館にある道祖神 国府津4丁目5番地にある道祖神

押切坂から約20分で右手に浅間神社 / 「史跡 車坂」標柱と車坂案内板 と続く。天保5年(1834年)造立された不動を乗せた大山道道標がある。坂下道に道祖神 / 中宿公民館に道祖神 / 国府津4丁目5番地に道祖神 と続く。JR国府津駅近くで昼食を摂る。

勧堂跡 真楽寺 法秀寺
小八幡一里塚跡 三宝寺 酒匂中学校区にある道祖神
上輩寺 大見寺 成田山不動明王小社
法善寺 法船寺山門 法船寺御手引地蔵
法船寺五重塔 法船寺五重塔 酒匂川

左手に親鸞が7年間滞在した勧堂跡、右手にマリア観音があることで知られる真楽寺がある。右手にある法秀寺ではお会式(おえしき)が終わったところであった。お会式は、日蓮の命日(10月13日)に行われる法要である。お逮夜(おたいや)は、日蓮の命日前夜(10月12日)に行われる法要である。小八幡三交差点の左手にある小八幡一里塚跡を過ぎると、右手に三宝寺や酒匂中学校の先に道祖神が置かれている。周辺には松並木が残っている。右手に上輩寺、鎌倉時代からの酒匂の旧家・小嶋家の宝篋印塔や五輪塔が残る大見寺がある。反対側に成田山不動明王小社が見える。右手に法善寺 / お会式で山門が飾りつけられている法船寺 と続く。法船寺には御手引地蔵やミニチュアの五重塔がある。酒匂川を渡るが、旧東海道は北側の渡し舟を利用していた。

常顕寺 呑海寺 弘経寺
昌福院 心明寺 山王神社
宋福寺 宋福寺山王大権現 小田原宿モニュメント
酒匂川から約10分、右手に常顕寺や呑海寺が続く。弘経寺ではお会式が終わっていた。昌福院や本堂が改修中の心明寺、山王橋を渡ると山王神社や宋福寺がある。宋福寺には神仏分離により山王神社から移された山王大権現がある。
小田原城址江戸口見付 新宿道標 新宿交差点近くにある門
小田原城址江戸口見付があり、旧東海道はすぐの新宿交差点を左折する。1号線を直進した角地には、由緒がありそうな立派な門がある。
松原神社社殿 吉兆の亀石
すぐに変則十字路を右折して南西に進む。かまぼこ屋が立ち並んでおり、購入して歩きながら食する。右折してから5分余りの青物町交差点を過ぎると、すぐ右手に久安年間(1145年〜1150年)創建と云われる松原神社がある。天文14年(1545年)小田原海岸に現われた大亀を池に放つと、北条氏康が吉兆なりと参詣したと云われている。甲羅をなでるといいことがあると云う「吉兆の亀石」がある。
すぐの本町交差点で1号線と合流する左手に、なりわい交流館がある。昭和7年(1932年)年築の旧網問屋を整備、平成13年(2001年)市民や観光客の「憩いの場」として開館した。
なりわい交流館
すぐの御幸ヶ浜交差点を旧東海道は直進する。
小田原城址公園 小田原提灯が架かる食事処 小田原郵便局風景印
御幸ヶ浜交差点を右折して北へ進む。すぐの三の丸小学校前交差点から、小田原城堀沿いの道になる。5分ほどのお堀端通り交差点を過ぎ、すぐのT字路を右折する。すぐ右手に小田原郵便局がある。風景印は、小田原城天守閣 / 梅 の図柄になっている。
T字路まで戻り、北に進む。すぐ右手に三の丸土塁跡がある。
三の丸土塁跡
おしゃれ横丁入口 北条氏政 / 北条氏照 墓所
すぐの栄町交差点を過ぎ、すぐの錦通り入口交差点を直進する。すぐの突き当りにおしゃれ横丁入口がある。すぐに道は左に折れ、すぐに右に折れる。すぐ右手の高台に北条氏政 / 北条氏照 の墓がある。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めにより、小田原北条氏は降伏して小田原城は開城する。4代・北条氏政と弟・北条氏照は切腹を命じられる。城下の田村安斉邸で自刃、遺骸は早雲寺の末寺・伝心庵に葬られた。伝心庵は江戸時代に寺町の地へ移転、墓所のみが残る。墓所には、北条氏政 / 北条氏照 / 氏北条政夫人 のものと云われる五輪塔がある。5代・北条氏直は徳川家康の娘婿であることから特別に許され、高野山での蟄居を命じられた。
おしゃれ横丁入口まで戻り西へ進むと、すぐの突き当りにJR / 小田急・小田原駅がある。
[寄り道]小田原城
駿河国を本拠としていた大森頼春は相模国・伊豆国方面に勢力を広げ、応永24年(1417年)小田原城を築城した。明応4年(1459年)大森藤頼のとき、伊豆国を本拠としていた伊勢盛時(北条早雲)によって奪われる。伊勢盛時(北条早雲)は亡くなるまで韮山城を根拠としており、小田原城を拠点としたのは嫡男・伊勢氏綱(北条氏綱)からである。以後、北条氏康〜北条氏政〜北条氏直の時代まで小田原北条氏の政治的中心地となった。伊勢氏綱が北条氏を名乗るのは、大永3年(1523年)または大永4年(1524年)からである。
復興天守
二の丸隅櫓(再建) 常磐木門(再建) 銅門(再建)
永禄4年(1561年)上杉謙信の侵攻 / 永禄12年(1569年)武田信玄の侵攻 を防ぎ切った。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原攻めが行われる。3ヶ月間の篭城戦の末、開城する。小田原北条氏が和議か抗戦の議論したが、結論が出なかった。この故事が小田原評定という言葉になり、「いつになっても結論の出ない会議や相談」として使われる様になった。豊臣秀吉は下野国宇都宮で、参陣した東北地方の諸大名の処遇を決定した。豊臣秀吉の国内統一事業はこれをもって終わった。
天正18年(1590年)徳川家康が関東に移封になると、大久保忠世を小田原城に置いた。慶長19年(1614年)2代藩主・大久保忠隣のときに政争に敗れ、改易になっている。その後は城代が置かれた。元和5年(1619年)阿部正次 / 寛永9年(1632年)稲葉正勝 と続き、貞享3年(1686年)再興された大久保忠朝が再び入封され明治まで続いた。
小田原城は、寛永10年(1633年)と元禄16年(1703年)に大地震に遭っている。元禄の地震では、天守や櫓などが倒壊する被害を受けている。宝永3年(1706年)に再建された天守は、明治4年(1871年)に廃城となり解体されるまで存続した。現天守は、昭和35年(1960年)に復興されたもの。
小田原城こども遊園地・ミニSL 報徳二宮神社鳥居 報徳二宮神社社殿

復興天守の南側に、小田原城こども遊園地 / 明治27年(1894年)創建の報徳二宮神社 がある。二宮尊徳は天明7年(1787年)相模国足柄上郡栢山村に農民の子として生まれる。報徳社を設立して農村の救済を行い、天保8年(1837年)小田原藩の荒廃した領地を再興したことで知られている。日光神領の荒廃した農村の復興に尽力したが、安政3年(1856年)今市報徳役所で70歳の生涯を閉じた。二宮尊徳が亡くなった後も報徳社は存続、関東や東海地方を中心に活動を行っていた。明治24年(1891年)二宮尊徳に従四位が贈られ、報徳社員を中心に誕生地である小田原の小田原城址内に創建された。