東海道53次 No.07 平塚駅-(約9km)-二宮駅
2008年 9月21日(日)10:00 曇のち雨
追加:2015年 7月23日(日) 晴

JR平塚駅から北へ進む。すぐの平塚駅前交差点で旧東海道と交差する。

[寄り道]平塚八幡宮
平塚駅前交差点を直進して北へ進む。すぐに1号線の宮の前交差点を歩道橋で渡ると、左手に仁徳天皇68年(360年)創建の平塚八幡宮がある。相模国の八幡宮の総鎮守。武田信玄が北条氏康を攻めるとき陣所としたため、戦火に遭い焼失している。慶長年間(1596年〜1615年)に徳川家康が参拝、社殿を再建している。
平塚八幡宮 平塚八幡宮
平塚駅前交差点まで戻る。旧東海道を西へ、アーケードのある商店街を進む。
[寄り道]お菊塚

3つ目の交差点を左折する。すぐ右手に平塚紅谷郵便局があり、手前の十字路を右折する。すぐに左折すると、右手に紅谷公園がある。番町皿屋敷で知られるお菊が埋葬された墓地の跡地と云われ、お菊塚がある。お菊は、平塚宿の役人・真壁源右衛門の娘。江戸の旗本・青山主膳方で行儀見習い中に主人愛蔵の皿を破損して、手打ちとなった。真壁源右衛門は長持ちに入れられた娘の亡骸を馬入川の渡しで受け取り、葬った。刑死人の例にならい、墓を作らず栴檀(せんだん)を植えて墓標とした。

お菊塚
旧東海道に戻り西へ進む。市民プラザ交差点を越えた右手に、復元された平塚江戸見附がある。平塚宿に入る。
平塚江戸見附

東海道53次  7番 平塚宿
所在地:神奈川県平塚市
天保14年(1843年)東海道宿村大概帳
人口:2144人 家数:443 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:54

[寄り道]八王子神社 / 大鷲神社
平塚江戸見附からすぐの交差点を右折して、61号線を北へ進む。2本目の十字路を右折すると、すぐ左手に八王子神社がある。徳川家康が鷹狩のとき休息を取った由縁で、鷹匠の子孫が東照宮(東照大権現)を創建したのが始まりと云われている。天保元年(1830年)に八王子権現に改称する。
八王子神社

61号線まで戻り、北へ進む。すぐの交差点を左折すると、すぐ右手に大鷲(おおとり)神社がある。社殿の左手奥に、大正12年(1923年)関東大震災のときの昭和4年(1929年)造立の震災遭難者供養碑がある。この辺りは遊郭があったところで、平塚貸座敷組合一同の造立になっている。貸座敷とは、芸娼妓の置屋や揚屋などの家を総称したもの。

大鷲神社
脇本陣跡 高札場跡 東組問屋場跡
旧東海道まで戻り、西へ進む。すぐ右手に脇本陣跡 / 右手に平塚本宿郵便局 / 右手に高札場跡 / 左手に東組問屋場跡 / 右手に本陣跡 と続く。東組問屋場は、西組問屋場と十日交代で問屋業務を勤めた。徳川14代将軍・徳川家茂が上洛のとき2度 / 明治天皇が東京行幸と遷都のとき2度 本陣で休息している。
本陣跡 本陣旧跡碑
[寄り道]宝善院
宝善院 須賀神社門 須賀神社

平塚宿問屋場跡手前の交差点を左折する。すぐに左折すると、すぐ右手に宝善院 / 境内に須賀神社 がある。須賀神社門は閉じられている。

旧東海道まで戻り、西へ進む。本陣跡からすぐの交差点を越える。すぐ右手のなまこ壁の平塚市消防団第一分団詰所角に、平塚宿西組問屋場跡がある。東組問屋場と十日交代で問屋業務を勤めた。
平塚宿西組問屋場跡
[寄り道]教善寺
阿弥陀寺 北野天神社 教善寺
平塚宿問屋場跡の手前を左折して小路を南へ進むと、すぐの突き当りに弘治元年(1555年)創建の阿弥陀寺がある。旧東海道に戻る手前の十字路を左折して西へ道なりに進むと、すぐ左手に北野天神社 / 左手に教善寺と続く。一遍上人が諸国を巡回したとき、この辺りに堂を建立して住庵としたと云われている。教善寺山門前に「開祖一遍上人留錫霊場跡」石柱がある。
教善寺
[寄り道]要法寺 / 平塚
要法寺山門 要法寺 浄行菩薩

平塚宿問屋場跡を右折するのが、江戸虎の門に至る中原街道。すぐの突き当りに要法寺がある。山門左手にある寛保元年(1741年)造立の七面大明神は、日蓮宗の守護神。日蓮は弘安5年(1282年)病気療養のために身延山から常陸の国向かう途中、平塚の鎌倉幕府第3代執権・北条泰時の次男・北条泰知の屋敷内に宿泊している。説法を聴いて帰依した北条泰知は、館を寄進して要法寺を創建した。平塚も屋敷内にあった。境内にある寛延年間(1748年〜1750年)造立の浄行菩薩は、体の悪いところを洗うと取り除くことができると云われている。

西側の公園に平塚があり、地名の由来になっている。傍らの松は三代目とされる。桓武平氏の祖と云われる高望王の妹・真砂子が都より東国へ下向の途上、相模国の海辺の里で長旅の疲れからか急な病で亡くなった。土地の人は高貴な姫の死を悼み、里外れの松の大木の根元に葬り塚を築いて弔った。いつしか塚は風化して平たくなったことから、平塚と呼ばれる様になったと云われている。平氏の姫の墓(塚)から、平塚になったとも云われている。

平塚
公園の南側にある十字路を西へ進むと、すぐ右手に春日神社がある。平塚山黒部宮と称していた建久2年(1191年)に、馬入川(相模川)の橋供養祈願所と定められていた。
春日神社
平塚宿西組問屋場跡 平塚京方見附 平成の一里塚
平塚宿西組問屋場跡まで戻り、旧東海道はすぐのY字路を右へ進む。すぐの古花水橋交差点で1号線に突き当り左折して南西へ進む。すぐの古花水橋交差点を渡った左手に、復元された平塚京方見附がある。平塚京方見附からすぐの相模貨物駅前交差点から、旧東海道は1号線の歩道右手の側道を進む。すぐの階段を登ると、右手に松が植えられた平成16年(2004年)造成の平成の一里塚がある。江戸時代の一里塚とは関係のないもので、紛らわしい。
平成の一里塚からすぐに花水川に架かる花水橋を渡る。右手に高麗山が望める。すぐ左手に、本堂が木々に覆われている善福寺がある。曽我十郎と虎御前の子・祐若(了源)が世の無常を感じ出家、この地に草庵を結んだと云われている。伝木造了源坐像は重文。
高麗山 善福寺
大礒は曽我物語にまつわる虎御前の舞台として知られている。虎御前は鎌倉時代初期の遊女で、曾我兄弟の兄・曾我十郎の妾。建久4年(1193年)曾我兄弟は父の仇・工藤祐経を討ち取るが、曾我十郎はその場で切り殺される。曾我五郎は生け捕りになり、後に処刑される。虎御前は十郎の死後に出家して、草庵を結び曾我兄弟を供養した。草庵を結んだ地は、高麗山の北側や延台寺と云われている。
古民家 慶覚寺 高来神社
善福寺から5分ほどの高来(たかく)神社入口交差点を右折する。高来神社の鳥居を潜ると、右手に慶覚寺 / 直進すると突き当りに高来神社 がある。高句麗は668年に滅亡、相模国大磯に渡来した高麗人によって高麗神社が創建された。養老元年(717年)高麗山に高麗寺が創建され神仏習合となる。明治元年(1868年)神仏分離令により、高麗寺は廃寺となる。慶覚寺は高麗寺の地蔵堂が始まりで、高麗権現の本地仏と云われる千手観音が移された。明治30年(1897年)高来神社に改称する。社殿は高麗寺の旧観音堂である。
高来神社入口交差点からすぐの右手に、虚空蔵(こくうぞう)堂がある。往時はここに下馬標が立っており、参勤交代の大名も駕篭から降りた。寛永年間(1624年〜1645年)東照大権現を併祀されたことによる。
虚空蔵堂
化粧井戸 化粧坂の一里塚跡

旧東海道は虚空蔵堂からすぐに化粧(けわい)坂交差点があり、旧東海道は右へ進む。化粧坂交差点辺りに遊郭があったと云われている。化粧坂を進むと、すぐ左手に化粧井戸がある。虎御前は、この井戸水で化粧をしたと云われている。すぐ右手に化粧坂の一里塚跡がある。虎の門から続く旧中原街道はここで終わる。

大磯八景碑
江戸見附案内看板 旧東海道 江戸見附跡辺り

化粧坂の一里塚跡からすぐ右手に、大磯八景碑がある。化粧坂の夜雨「雨の夜は 静けかりけり化粧坂 松のしづくの 音ばかりして」が彫られている。すぐに化粧坂の頂上となり、旧東海道は東海道本線で分断され、地下道で潜る。5分足らずのところに街道に覆い被さる松がある、この辺りが江戸見附跡で、右手に案内板がある。大磯町のこの形式の案内板は、虚空蔵堂から上方見附跡まで続く。合理的であるが、味気ない。

東海道53次  8番 大磯宿
所在地:神奈川県中郡大磯町
天保14年(1843年)東海道宿村大概帳
人口:3056人 家数:676 本陣:3 脇本陣:0 旅籠:66
大磯は平安末期に相模國の国府が置かれていた。大磯宿は鎌倉時代からの宿駅。
日枝神社 石仏石塔群
江戸見附跡からすぐの三沢橋東交差点で1号線に合流する。左折して横断歩道で1号線を渡り、小路を道なりに進むと、すぐ左手に日枝神社がある。境内には数多くの石仏石塔がある。2008年9月のときは、ここで雨はさらに強くなっている。
三沢橋東交差点 からすぐ左手に、神明神社がある。2008年9月のときは、すぐの大磯駅入口交差点を右折して大磯駅前で昼食を摂っている。昼食後は雨が小降りとなる。服や靴は水浸し状態で、2名の方が大磯駅から帰宅する。
神明神社 雨の大磯駅
秋葉神社 虎御石案内板 延台寺
法虎庵 虎女供養塔 大礒宿遊女の墓

大磯駅入口交差点を過ぎると、左手に宝暦13年(1763年)創建の穐葉(秋葉)神社がある。宝暦12年(1762年)大火で大磯宿は焼失、秋葉大権現を勧請した。秋葉神社角を左折すると、秋葉神社柵に虎御石案内板 / 突き当たりに慶長4年(1599年)創建の延台寺がある。虎御前が草庵を結んだのが始まりと云われ、法虎庵に虎御石がある。

秋葉神社の通りを挟んだ反対側に、元和年間(1615〜1624年)創建の大運寺がある。木造阿弥陀如来は 、頭部と体部が500年以上を経て合わさった逸話がある。

大運寺
大運寺穐葉からすぐの右手に大礒宿小島本陣旧蹟がある。すぐの大磯町消防本部のある交差点を右折すると、承知4年(837年)創建の地福寺がある。本堂前には樹齢100年〜200年の梅の古木約20本 ./ 島崎藤村・静子夫妻の墓がある。
大礒宿小島本陣旧蹟 地福寺
大磯小学校発祥之地 / 尾上本陣跡 石井本陣跡 南組問屋場案内板
大磯町消防本部のある交差点まで戻り、旧東海道を南西へ進む。すぐ右手に、右側面に尾上本陣跡と彫られている大磯小学校発祥之地碑 / 石井本陣跡の大石館 と続く。明治末期に,尾上本陣に私塾が開かれた。明治の学制令によって公立の学校となり、明治26年(1893年)大磯小学校になった。すぐの照ケ崎海岸入口交差点から旧東海道は左へ進む。すぐ右手に南組問屋場案内板がある。
高札場案内板
湘南発祥之地碑 鴫立庵

南組問屋場案内板からすぐのさざれ石交差点で1号線に合流する。すぐ右手に高札場案内板 / 左手に湘南発祥之地碑 と続く。中国湖南省・洞庭湖の畔にある湘江の南側が湘南で、大磯がこの地に似ているところから湘南と呼ばれる様になった。湘南発祥之地碑に隣接して寛文4年(1664年)草庵を結んだのが始まりの鴫立(しぎたつ)庵がある。元禄8年(1695年)鴫立庵と名付けられ、京都・落柿舎(らくししゃ)や滋賀・無名庵とともに日本3大俳諧道場と云われている。

上方見附案内板
伊藤公滄浪閣之舊蹟 松並木
鴫立庵から5分ほどの左手に上方見附案内板があり、大磯宿が終わる。虚空蔵堂から続いた大磯町の案内板も終わる。すぐに松並木になる。5分ほどの滄浪閣(そうろうかく)交差点で松並木は終わり、すぐ左手に伊藤公滄浪閣之舊蹟がある。長州藩出身で日本初代総理大臣を務めた伊藤博文の邸跡。
八坂神社 西國三十三所順禮講供養塔 石祠 / 丸石道祖神
伊藤公滄浪閣之舊蹟碑から10分足らずの左手に、八坂神社がある。さらに5分足らずの右手に、西國三十三所順禮講供養塔と石祠 / 多数の丸石道祖神 がある。
西國三十三所順禮講供養塔から5分ほどの交差点を右へ進むと、すぐに大磯城山公園がある。大磯城山公園は室町時代に築城された小磯城址であるが、正確な城域は解っていないと云う。すぐの分岐を直進すると、5分ほどの左手に宝前院 / すぐ左手に道祖神 と続く。
宝前院 道祖神
国府本郷の一里塚跡  国府本郷の一里塚跡 
道祖神からすぐに分離帯を挟んで左手を1号線が平行、分離帯に国府本郷の一里塚跡がある。5分足らずの左手に、神号碑「地神社」 / 双体道祖神と数多くの丸石道祖神 がある。
地神社 双体道祖神 / 丸石道祖神
六所神社鳥居 道祖神 宝積院
双体道祖神と丸石道祖神からすぐの国府新宿交差点で1号線に合流する。5分ほどの六所神社入口交差点右手に六所神社の鳥居がある。鳥居の右手に道祖神がある。鳥居を潜ると、すぐ右手に天平13年(741年)創建の宝積院がある。寛永8年(1631年)鋳造の梵鐘は大磯町最古のもの。北へ進みJR東海道本線を潜ると、柳田大明神社に五社を合併した六所神社がある。
六所神社
六所神社入口交差点から20分ほどの二宮駅入口交差点を右折すると、JR東海道本線・二宮駅に至る。