東海道53次 No.01 日本橋-(約7km)-品川駅
2008年 3月23日(日)10:00 晴
日本橋北西側の“元標(げんぴょう)の広場”から出発する。基点となる“日本国道路元標”は、日本橋の車道中央に埋め込まれている。“元標の広場”には“日本国道路元標”の複製と、移設された“東京市道路元標”がある。
元標の広場 日本国道路元標の複製
日本橋 日本橋由来碑
1号線(中央通り)を南へ、日本橋川に架かる日本橋を渡ると、すぐ右手に昭和11年(1936年)造立の日本橋由来碑がある。「慶長8年(1603年)に橋が架けられ、通称で日本橋と呼ばれていたのが遂に正式名となった。翌年諸街道に一里塚を築いたとき日本橋を起点とした。」などの由来が記されている。現在の橋は、明治44年(1911年)に東京市により石造二連アーチの道路橋として架けられたもの。
日本橋橋洗い
日本橋銘板洗い
日本橋橋洗い 日本国道路元標
日本橋橋洗いは、日本橋の美化保存を目的に行われている。近隣の小学生 / 日本橋地区の町内会 / 地元企業 などの方々が、デッキブラシなどで日本橋を手洗いする。水洗いには再生水が利用されている。首都高に架かる「日本橋」の銘板は、消防のはしご車の放水で洗い流す。普段は近寄れない本物の“道路元標”を見ることができる。日本橋の北側の交差点から南側の交差点間、通行止めになる。20016年は、7月24日(土)に行われた。
日本橋からすぐの日本橋交差点からは、15号線になる。八重洲通りと交差する手前右手に、目立つキリンの像がある。八重洲通り右手の中央分離帯にヤン・ヨーステン記念碑 / 平和の鐘 がある。ヤン・ヨーステンは外交顧問に登用されたオランダ人で“八重洲”の語源になっている。八重洲通りの突き当たりに東京駅が見える。
キリンの像 ヤン・ヨーステン記念碑 / 平和の鐘
ヤン・ヨーステン記念碑から5分足らずの首都高を潜る手前右手に、江戸歌舞伎発祥之地碑がある。江戸歌舞伎は、寛永元年(1624年)猿若勘三郎が江戸京橋辺りに猿若座(後の中村座)を開設したのが始まり。首都高下は昭和34年(1959年)に埋め立てられた京橋川が流れていた。京橋は撤去されたが、道路の両側には京橋親柱が3基残されている。
江戸歌舞伎発祥之地碑 京橋親柱
銀座のアーク灯錦絵レリーフ 新橋の親柱 銀座柳の碑
右手の銀座2丁目・大蔵本館の壁に“銀座のアーク灯錦絵レリーフ”が埋め込まれている。すぐの 首都高下は昭和39年(1964年)に埋め立てられた汐留川が流れていた。左手に、新橋の親柱 / 銀座柳の碑 がある。銀座柳の碑には、西条八十作詞 / 中山晋平作曲 の歌詞と楽譜が彫られている。

新橋駅前交差点からすぐにJRガードを潜る。すぐの交差点を越えた左手に、日比谷公園に創建された日比谷神社がある。慶長11年(1606年)江戸城の拡張のため移転、幾度かの移転を経て平成21年(2009年)現地に移転する。東海道を最初に歩いた平成20年(2008年)3月には、ここになかった神社。

日比谷神社
日比谷神社からすぐの交差点を右折する。すぐ左手の塩釜公園に、仙台藩中屋敷に鎮座していた元禄8年(1695年)創建の塩竃神社がある。
塩竃神社
15号線に戻り、南西へ進む。10分足らずの右手に寛弘2年(1005年)創建の芝大神宮がある。飯倉神明宮 / 芝大明神 とも呼ばれていた
芝大神宮
西郷南州・勝海舟会見之地碑 御田八幡神社 高輪大木戸跡

JR田町駅手前の左手に、西郷南州・勝海舟会見之地碑がある。江戸城総攻撃を目前に、西郷隆盛と勝海舟の会談が行われた薩摩藩蔵屋敷跡。右手に和同2年(709年)創建の稗田神社が始まりと云われている御田(みた)八幡神社がある。三田の語源になっている。芝口門から享保9年(1724年)に移された高輪大木戸跡には、海側の石垣が残る。

中門 山門 本堂
泉岳寺交差点を右折すると、突き当りに慶長17年(1612年)桜田に創建された泉岳寺がある。寛永18年(1641年)の大火により移転した。山門は天保3年(1882年) / 本堂は昭和28年(1953年) に再建されたもの。浅野内匠頭と赤穂浪士が葬られていることで知られている。
赤穂義士墓所
15号線を南へ進むと、右手に明応年間(1492年〜1501年)創建の高輪神社がある。西側に、め組辰五郎の墓があることで知られている正覚寺がある。
高輪神社 正覚寺
15号線に戻り南へ進む。5分ほどの品川駅前交差点を過ぎた右手に、高山稲荷神社 / 境内に縁結びの神と云われている“おしゃもじさま” がある。
高山稲荷神社 おしゃもじさま