新田荘・世良田

新田荘は平安時代末期に新田義重によって開かれ、旧新田郡のほぼ全域と旧太田市の南西部を荘園化した。世良田地区は新田荘の経済的 / 文化的 中心であった。中世を代表する荘園の遺構として、11箇所の遺跡が国の史跡になっている。世良田地区では、総持寺 / 長楽寺 / 世良田東照宮 が指定されている。
鉄道利用の場合、東武伊勢崎線・世良田駅で下車する。西側を通る69号線を南に進む。15分ほどすると、世良田交差点がある。

総持寺山門 総持寺本堂 総持寺鐘楼
日光例幣使街道・境稲荷神社から142号線を南東に進む。15分ほどの早川を越えた右手に総持寺がある。梵鐘は享保16年(1731年)に鋳工太田甚佐衛門藤原秀次作と云われている。新田義重の館跡と云われ、西の早川を背にして堀で囲んでいた。新田氏は、源義国の長男・義重を祖とする。鎌倉攻めに挙兵した9.代・新田義貞が知られている。足利氏は、源義国の次男・義康を祖とする同族である。

総持寺から142号線を東に進むと、5分ほどのところに世良田交差点がある。左折して北へ進むと、すぐ左手に世良田郵便局がある。風景印は、世良田東照宮 / 長楽寺渡月橋 の図柄になっている。

世良田郵便局風景印
世良田郵便局角を左折して西に進む。すぐの十字路を右折して北へ進むと、突き当りに正保年間(1644年〜1648年)創建の八坂神社がある。
八坂神社
清泉寺山門 清泉寺

十字路まで戻り西に進むと、すぐ右手にひなびた雰囲気の清泉寺がある。源義平(悪源太義平)の妻・新田義重の娘が庵を結んだのが始まりと云われている。源義平は源義朝の長男で、源頼朝の兄である。平治の乱には父・義朝と共に戦い、永暦元年(1160年)に捕えられ六条河原で処刑された。源義平の妻は京に上ってその首を秘かに持ち帰り、この地に埋葬したと云われている。「悪源太義平の墓入口」の案内板が道路と山門の間にある。山門を潜ると夏草が生い茂り荒れ果てており、墓には行っていない。

世良田郵便局から69号線を北に進むと、10分ほどの右手に東武伊勢崎線・世良田駅がある。
142号線沿いの長屋門 14号線沿いの門
世良田交差点の南西側に、由緒がありそうな建物がある。
長楽寺総門 長楽寺本堂 長楽寺三仏堂
長楽寺太鼓門
14号線沿いの勅使門 蓮池に架かる渡月橋 / 勅使門
世良田交差点から南に進むと、すぐ右手に承久3年(1221年) 創建の長楽寺 / 南側に寛永21年(1644年)創建の世良田東照宮 がある。長楽寺境内に、慶安4年(1651年)徳川家光によって再建された三仏堂 / 江戸時代初期建立の太鼓門 / 寛永21年(1644年)世良田東照宮創建の時代に建立されたと云われる勅使門(ちょくしもん) がある。勅使門は、世良田東照宮の正門として建立された。勅使または幕府の上使が参拝するときのみ使用された門で、あかずの門 / 赤門 と呼ばれていた。明治8年(1875年)神仏分離によって東照宮が分離されたとき、長楽寺に所属した。14号線側は、道路工事中であった。蓮池は長楽寺創建当時の遺構で、心字池とも呼ばれている。訪問時は池の水が抜かれており、夏草に覆われていた。蓮池に架かる渡月橋は木橋であったが、寛政8年(1796年)石橋に改められた。
世良田東照宮御黒門
世良田東照宮鳥居 世良田東照宮拝殿

世良田東照宮は、寛永21年(1644年)徳川家光の命により日光東照宮の古社殿を移築して長楽寺境内に創建された。本殿 / 拝殿 / 唐門 は重文。新田義重の四男・義季は、世良田郷を譲られ地頭になる。新田義季は、得川郷を長男・頼有 / 世良田郷を次男・頼氏 に継承させた。頼氏は世良田氏を称した。三河国の戦国大名・松平清康のとき、世良田氏の末裔を称する様になったと云われている。徳川家康は、天正18年(1590年)関東に移封される。世良田氏発祥の地は、徳川氏ゆかりの地とされた。明治8年(1875年)神仏分離によって長楽寺から分離した。