日光例幣使街道・栃木駅-(約5km)-合戦場宿

栃木の天気予報は、AM:曇 / PM:雨 であった。栃木駅に07:30頃に到着、既に雨となっていた。合戦場駅から栃木駅に戻ると、快晴になっていた。

日光例幣使街道標柱 町並み 日光例幣使街道 / 佐野街道 標柱

JR両毛線 / 東武日光線・栃木駅北口から北へ進む。すぐに31号線と交差、左折して西へ進む。すぐ右手に、前回まで歩いた「日光例幣使街道」標柱がある。鋭角に右折して、日光例幣使街道を道なりに進む。すぐ左手に「日光例幣使街道 / 佐野街道」標柱がある。

[寄り道]佐野街道
「日光例幣使街道 / 佐野街道」標柱には、「境橋・相生橋を経て栃木町に至る」と記されている。なぜ佐野街道なのか解らず、本陣跡辺りまで歩く。
すぐに境橋を渡り、続いて相生橋を渡る。すぐ左手に、元文5年(1740年)創建の鹽庚申(しおこうしん)鳥居がある。「日光例幣使街道 / 佐野街道」標柱から5分ほどすると、幸来橋から東にある11号線の倭町交差点への75号線と交差する。
鹽庚申鳥居 75号線沿いの古商家
長谷川本陣跡辺り 常夜燈 街しるべ(抜粋)

75号線を越ると、すぐ右手に長谷川本陣があった。案内板などはない。すぐ右手に常夜燈 / 「街しるべ」 と続く。「街しるべ」は栃木市内のところどころにある案内地図であるが、長谷川本陣跡の表記はない。例幣使は長谷川本陣で昼食を摂るのが習わしだったと云われているが、日光例幣使街道からは少し離れている。日光例幣使街道は、万町交差点を左折してすぐに右折して北へ進む。地図を見ると、佐野街道の延長に北に進む日光例幣使街道がある。本陣があったことからも、日光例幣使街道だったことも考えられる。

長谷川本陣の先にある「街しるべ」から「日光例幣使街道 / 佐野街道」標柱まで戻り、日光例幣使街道を南西に進む。すぐ左手に「日光例幣使街道 / みつわ横丁」標柱がある。日光例幣使街道は直進する。すぐに11号線と交差する手前左手に、「日光例幣使街道 / 大通り」標柱がある。

日光例幣使街道 / みつわ横丁 標柱 日光例幣使街道 / 大通り 標柱
[寄り道]栃木城
日光例幣使街道は交差点を左折して153号線を北に進むが、直進して東に進む。すぐに分岐があり、北西方向に進む。10分足らずのところに交差点があり、すぐのT字路を左折する。すぐに十字路があり、右折して道なりに進むと栃木城の堀がある。天正18年(1590年)皆川城が豊臣秀吉の軍勢によって落城、居城を失った皆川広照は天正19年(1591年)栃木城を築城する。当時の栃木は荒れ地であった。城下町の構築を始めたことにより、栃木を繁栄させる基盤になった。江戸時代に日光例幣使街道の宿場・栃木宿として巴波川の舟運で栄えることとなった。
栃木城全景
栃木城址公園標柱 築山
慶長8年(1603年)皆川広照は徳川家康の六男・松平忠輝の家老になる。松平忠輝が信濃川中島藩主となると、信濃・飯山城主となり旧地と合わせて7万5000石を領した。慶長14年(1609年)皆川広照は、いくら諫言しても改めない松平忠輝の行状を幕府に訴える。逆に家老として不適格と徳川家康により皆川広照は改易となり、築城から19年間で栃木城は廃城となる。栃木町は後に足利藩領になり、宝永元年(1704年)〜寛政元年(1789年)栃木城内に陣屋が設けられた。城址は栃木城址公園となっており、L字型の堀 / 土塁 / 築山 が残っている。

日光例幣使街道は直進、すぐに31号線と合流する。すぐの交差点を左折して153号線を北へ進む。すぐに巴波川に架かる開明橋を渡る手前左手に、熊野神社がある。

熊野神社
開明橋を渡ると木戸があったと云われ、栃木宿に入る。

栃木宿
天正19年(1591年)皆川広照が城内町に栃木城を築城、城下町として整備されたのが始まり。慶長14年(1609年)徳川家康により皆川広照は改易となり、栃木城は廃城となる。江戸時代には、日光例幣使街道の宿場 / 巴波川の舟運 で栄えた。本陣:1 / 旅籠:7 があった。元治元年(1864年)日光東照宮の占拠に失敗した天狗党・田中隊は栃木宿に到着、定願寺を本陣とした。栃木宿は焼き討ちされ全焼している。
明治維新後の明治6年(1873年)に栃木県庁が置かれたが、明治17年(1884年)に宇都宮に県庁が移転した。

すぐの室町交差点で、11号線に合流する。すぐ右手に天正年間(1573年〜1591年)川連村より移転した定願寺 / すぐ右手に栃木室町郵便局 と続く。風景印は、太平山 / 室町の人形山車・桃太郎 の図柄になっている。
定願寺 栃木室町郵便局風景印
栃木室町郵便局からすぐの交差点から万町交差点まで、約700m間に趣きある建物がところどころにある。江戸時代の建築物は少ない。

右は、嘉永元年(1848年)創業の人形店・三枡屋本店。3軒目の見世蔵は、江戸中期より紙商を営んだ毛塚紙店。

右の見世蔵は、井岡荒物屋。2軒目の見世蔵は、五十畑荒物店。どちらも明治中期築の登録文化財。

肥料の看板が掛かる漬物屋・本澤屋商店。

右の見世蔵は、とちぎ蔵の街観光館。元荒物店・八百金の建物で、明治37年(1904年)築。隣の土蔵倉庫は文久3年(1863年)築のあだち好古館。洋館はそば屋・好古(こうこ)壱番館。

とちぎ山車会館

古商家

とちぎ歌麿館は、元古久磯提灯店見世蔵。歌麿と関連資料を展示している。歌麿は京都に生まれ、母と幼いときに栃木に移り住んでいる。

下野新聞栃木支局社は、文久元年(1861)築の元肥料豪商の見世蔵。 万町交差点南西側の古商家
栃木宿は万町交差点で終わる。日光例幣使街道は、万町交差点を左折する。直進すると、すぐ右手に栃木蔵の街郵便局がある。風景印は、巴波川沿いのに蔵 の図柄になっている。
古商家 栃木蔵の街郵便局風景印
日光例幣使街道は、万町交差点を左折する。万町交差点北西側に、「代表的な伝統的建造物」案内板がある。日光例幣使街道はすぐに右折して北へ、平柳新地 / 嘉右衛門新田村 などの町並みを進む。嘉右衛門町は、天正年間(1573年〜1592年)足利から移り住んだ岡田嘉右衛門によって開発されたと云われている。
万町交差点北西側 代表的な伝統的建造物案内板(抜粋)
右折して北へ進むと、すぐ右手に岡田記念館がある。屋敷は畠山藩の陣屋となっていた。
町並み 岡田記念館
古商家 神明神社 妙唱寺
岡田記念館から5分足らずの右手に神明神社 / すぐ左手に本堂が木々に覆われた妙唱寺 と続く。
庚申塔 日光例幣使道石柱 油伝味噌
妙唱寺からすぐの左手に、寛政12年(1800年)造立の道標を兼ねた庚申塔がある。「右 日光おざく道 左 三日月道」と彫られている。すぐ左手に「日光例幣使道」石柱 / すぐ左手に天明年間(1781年〜1789年)創業の油伝味噌 と続く。明治時代築の土蔵他5棟は、国登録有形文化財。
油伝味噌からすぐの例幣使通り交差点を越えると、すぐ右手に大島肥料店がある。明治15年(1882年)築の見世蔵は、国登録有形文化財。すぐ左手の栃木大町郵便局先はY字路で、日光例幣使街道は右方向に進む。
大島肥料店 Y字路
5分足らずで信号がない37号線と交差する。すぐ左手に嘉永元年(1848年)創建の一乗院がある。
一乗院
一乗院から5分足らずの平柳交差点で3号線に合流、5分ほどすると車道横の階段で東武日光線を越える。階段を下ると、すぐ左手に軍馬霊がある。
軍馬霊
軍馬霊から5分足らずのところに合戦場交差点があり、合戦場宿に入る。
古民家

合戦場宿
宿場名は、大永3年(1523年)宇都宮忠綱と皆川宗成が戦った川原田合戦に由来する。飯盛女が置かれ、賑わった宿場であった。本陣:1 / 脇本陣:1 / 旅籠:25 があった。

合戦場交差点からすぐの左手に黄色に塗られた建物は合戦場郵便局で、「ここは日光例幣使街道の合戦場宿です」看板がある。風景印は設置されていない。すぐ右手に小平浪平生誕地がある。日立製作所の創業者・小平浪平は、明治7年(1874年)この地で生まれた。
小平浪平生誕地
すぐの合戦場駅東交差点を左折すると、すぐの突き当りに東武日光線・合戦場駅がある。東武日光線・栃木駅以北は、6050系が使用されている。6050系は昭和61年(1986年)野岩鉄道開業に伴い、6000系を更新した車両と増備用として新造した車両。セミクロスシート / 2扉車 で、浅草駅・東武日光駅間の快速急行にも使用されていた。日比谷線直通車両20000系を日光線と宇都宮線に転用することが決まり、6050系は平成29年(2017年)から廃車が始まっている。 
東武鉄道6050系