日光例幣使街道・太田宿-(約8km)-八木宿
[寄り道]

東武伊勢崎線・太田駅南口から西へ進む。すぐに407号線に突き当たり、左折して南へ進む。5分ほどすると、左手に太田郵便局がある。風景印は、外周が桜 / 挂甲の武人埴輪(国宝) / 金山城跡 / 大光院開山堂 の図柄になっている。

太田郵便局風景印

東武伊勢崎線・太田駅北口から北に進む。すぐの太田駅入口交差点を右折して407号線を東に進む。すぐの東本町交差点を過ぎると、SUBARUの文字が掲げられた建物が多くなる。すぐのSUBARU群馬製作所正門前は、(株)SUBARU前交差点になっている。地名はスバル町1丁目と、SUBARU尽くしである。(株)SUBARU前交差点からすぐの左手に追分地蔵がある。地蔵の右にある道標には「右 たてはやし道 左 日光道」と彫られている。

追分地蔵
日光例幣使街道は追分地蔵からすぐに北東方向に進んでいたが、道は途絶えている。すぐに東武伊勢崎線を潜り、すぐの新島町交差点を左折して北東に進む。5分足らずの左手に社がある。

さらに5分足らずのところで、道は緩やかに右方向に曲がる。すぐの変則十字路辺りから日光例幣使街道が復活しする様である。変則十字路を左折すると、すぐ左手に南盛寺 / 境内に薬師堂 がある。

南盛寺本堂 南盛寺薬師堂

日光例幣使街道に戻り東に進む。すぐ左手に「日光例幣使道 馬洗い場跡」石柱がある。往時は雨が降れば泥まみれになるので、ここで馬を洗った。すぐ左手に地蔵堂がある。

日光例幣使道 馬洗い場跡 地蔵堂
地蔵堂からすぐに122号と交差する。五差路になっているところで、日光例幣使道は北東に進む。すぐに128号と斜めに交差、すぐ左手に石原賀茂神社がある。「日光例幣使街道 鳥居のない神社」石柱 / 由来碑 がある。
石原賀茂神社 日光例幣使街道 鳥居のない神社石柱
[迷い道]
勘違いして、五差路を南東に進んでいる。すぐ左手に馬頭観音があり、128号線を横切らないので間違いに気付く。
馬頭観音

石原賀茂神社から道なりに5分ほど進み、突き当りを折する。すぐのY字路を左に進む。三角地帯に「東 福居佐野道 北 丸山桐生道」道標 / 「例幣使道 台之郷の辻」石柱 がある。

道標 / 石柱
すぐに128号線と合流、道なりに左折して東へ進む。10分ほどの矢場交差点を左折して北へ進む。5分足らずのところに変則十字路があり、右折して東に進む。すぐ左手に「日光例幣使道 この先 桜山跡」石柱がある。
日光例幣使道 この先 桜山跡
道なりに進むと、左手に風景印が設置されていない矢場川郵便局 / すぐ左手に八坂神社 と続く。
八坂神社

すぐに128号線と交差、左折して北東に進む。すぐ左手に勢至堂がある。勢至堂の左にある地蔵の台座は道標になっており、「右ハたてばやし道 左ハさの道」と彫られている。

街道寸景 勢至堂
10分ほどすると、堀込町南交差点手前左手に宝性寺(堀込薬師)がある。八木宿の飯盛女が口ずさんでいた唄が八木節となり、これを全国に広めた初代堀込源太の墓がある。
宝性寺
5分ほどの八坂神社入口バス停を過ぎると、「ようこそ 八木節のふるさとへ」看板がある。
街道寸景

5分足らずの左手に福居郵便局がある。この辺りから八木宿に入る。風景印は、永宝寺円空仏 / 郷土民謡・八木節 / 紫陽花 の図柄になっている。

福居郵便局風景印

八木宿
往時は宿場の周りに8本の松があったことから八木の地名となった。福居郵便局辺りから東武伊勢崎線踏切辺りまでが宿場だった。弘化2年(1845年)では家数:96 / 人数542人と、日光例幣使街道の宿場町では小規模な宿場であった。往時の面影はほとんど残っていない。飯盛女が置かれていた宿場で、文化年間〜文政年間(1804年〜1831年)に繁昌したと云われている。彼女たちは越後から来た女が多く、越後に伝わっていた口説き唄が入って八木節の源流になったと云われている。本陣:1 / 脇本陣:1 / 旅籠:19 があった。

福居郵便局からすぐ左手に龍善寺がある。
龍善寺
すぐの八木宿交差点を越えた左手に「八木節のふるさと 旧例幣使街道八木宿本陣跡」看板があり、隠れる様に判読できない石柱がある。
八木宿本陣跡看板 不明の石柱
5分ほどの左手に、八木宿の鎮守だった母衣輪(ほろわ)神社がある。日本武尊が東夷を征討の際にこの地に駐屯、賊徒の鎮圧を祈った神跡と云われている。
母衣輪神社

5分ほどすると、東武伊勢崎線踏切があり、この辺りまでが宿場だった。踏切を渡らずに左折して線路沿いに進むと、すぐ右手に福居駅がある。東武特急りょうもう号が通過する。

古商家 東武特急りょうもう号