日光例幣使街道・境宿-(約13km)-太田宿
東武伊勢崎線・境町駅から297号線を南に進む。5分ほどの境町駅入口交差点で日光例幣使街道と交差する。交差点の北東側にある群馬銀行敷地に、境町道路元標がある。標柱の左下にある小さな石柱で、暗いこともあり解りづらい。大正8年(1919年)公布の「道路法」に基づく、境館林線の起点だった。
境町道路元標
[寄り道]瑳珂比神社
境町駅入口交差点を直進して南へ進む。5分ほどの突き当りに、大永年間(1521年〜1527年)創建の石剣(いするぎ)明神が始まりの瑳珂比(さかい)神社がある。明治40年(1907年)7社を合祀、瑳珂比神社と改称した。境内に「例幣使道と六斎市」案内板がある。
瑳珂比神社

境町駅入口交差点まで戻り、142号線を東へ進む。すぐの境東交差点の手前右手に「ここより例幣使道境宿」の標柱があり、境宿が終わる。

古商家 ここより例幣使道境宿
古民家 桝形道 東町の道しるべ
境東交差点からすぐの小路を右折する。桝形道になっていたところで、すぐの突き当たりを左折する。すぐ右手に、天明7年(1787年)造立の「東町(あずまちょう)の道しるべ」がある。西面に「右 江戸 なかせ 左 日光きさき道」 / 東面に「此方世良田 たてはやし道」と彫られている。
すぐに297号線と交差する。この辺りから、日光例幣使街道の道筋はよく解らない。事前に地図で142号線の北側の道と繋がりそうな道筋を探す。日光例幣使街道は直進して東へ進み、すぐに左折して北に進んでいた様である。左折して北に進む道は消滅している。
十字路まで戻り、297号線を北へ進む。すぐに突き当たる142号線の稲荷神社前交差点北側に、境稲荷神社がある。
境稲荷神社
稲荷神社前交差点から142号線を東へ進み、すぐの小路を左折して北へ進む。すぐの突き当りを左折、すぐに右折して北に進む。ここから日光例幣使街道が復活と推察する。すぐの突き当り、再び道は消滅している様である。突き当りを右折するとすぐに312号線に突き当たり、左折して北へ進む。
どの辺りから日光例幣使街道が復活しているか解らない。312号線に突き当たってから5分ほどの東武伊勢崎線踏切手前を左折すると、すぐ右手に往時は七堂伽藍の寺院だった法楽寺 / 境内に女塚稲荷神社 がある。
法楽寺 女塚稲荷神社

東武伊勢崎線踏切を渡り、すぐの突き当りを右折する。2本目を左折して北へ進み、すぐの三ツ木橋西交差点を右折して東へ進む。すぐ左手に庚申塔が2基 / すぐ左手の祠に享保10年(1725年)造立の庚申塔と子育て地蔵 と続く。

庚申塔 庚申塔 / 子育て地蔵

10分ほどすると、17号線の高架下を潜る。5分ほどの小角田交差点手前から例幣使街道は北東方向に進んでいたが、道は途絶えている。すぐの小角田交差点を左折して69号線を北へ進むと、すぐに北東方向に進む道が日光例幣使街道になる。この道もすぐに354号線の土手に突き当たり、再び途絶える。69号線まで戻り北へ進むと、すぐに354号線に突き当たる。

69号線
矢抜神社鳥居 矢抜神社社殿 来迎寺

354号線の小角田北交差点を渡り右折、石田川を越えてすぐに左折する。さらに右折する道が、日光例幣使街道になる。すぐの新田(にった)中江町交差点手前右手に、錆びついて欠け落ちた「江田遺跡」案内板がある。旧石器時代後期から縄文時代初頭のものが出土したことなどが記載されている。新田中江町交差点を越えると、5分足らずの左手に木製銅葺屋根の矢抜神社鳥居がある。長い参道が道路になり、邪魔にならない様に寄せられている。また鳥居の道路側には、夜間にぶつからない様に反射板が取り付けられている。すぐ左手に来迎寺と続く。

10分ほどの右手に、旧日光例幣使道石柱 / 辻地蔵堂 がある。往時は利根川中瀬の渡しに通じる道があったが、明治の耕作整理で失われた。地蔵は住民の椎名長兵衛が西国 / 坂東 / 秩父 の百ヵ所観音札所を参詣した記念として、正徳5年(1715年)に造立したもの。
旧日光例幣使道石柱 辻地蔵堂
医王寺 瓦屋根の狛犬

5分ほどすると、左手に医王寺があり、この辺りから木崎宿に入る。境内に蝋燭のモニュメントがある。本堂の瓦屋根に狛犬が乗っている。

木崎宿
日光例幣使街道6番目の宿場。宿場になったのは明和3年(1766年)であるが、例幣使道が整備された頃には本格的な宿となっていた。貴先神社が宿名の由来と云われている。飯盛り女が沢山いたことで有名で大変賑わったが、度重なる火災で古い町並みは失われている。本陣:1 / 旅籠:34 があった。
医王寺から5分ほどの新田木崎町交差点を越える手前左手に「日光例幣使道 木崎宿」石標がある。
日光例幣使道 木崎宿
[寄り道]木崎郵便局
新田木崎町交差点を左折して311号線を北へ進む。すぐ右手に木崎宿案内板がある。5分ほどのところの交差点を右方向に進むと、すぐ右手に木崎郵便局がある。風景印は、赤城山 / 新田義貞ゆかりの生品寺 / 新田義貞 / 町の花・ツツジ の図柄になっている。
木崎郵便局風景印

新田木崎町交差点まで戻り、日光例幣使街道を東へ進む。5分ほどすると、左手に長命寺がある。境内手前左手に、萱葺きの色地蔵堂がある。木崎宿には多くの飯盛り女がおり、この地蔵に参詣していたと云われている。多くの色街の女が訪れたことから「色地蔵」と呼ばれる様になったと云われている。

色地蔵堂 長命寺本堂
長命寺からすぐ左手に木崎宿石碑があり、木崎宿が終わる。ここを左折して日光例幣使街道は北へ進む。
木崎宿石碑

道なりに10分ほど進むと、水がなく草で覆われた「弁天沼川 高寺川防災調整池」に突き当たる。右折するとすぐに312号線に突き当たり、左折して東へ進む。すぐ左手に詳細不明の「糸井義貴君碑」「糸井柳見斎碑」と彫られた石碑 / 常楽寺 と続く。

石碑 常楽寺本堂

常楽寺からすぐに日光例幣使街道は右方向に進む。すぐに312号線と交差する。細い道が続く。

312号線 / 日光例幣使街道 分岐 日光例幣使街道寸景
不明の石碑 酒蔵 造り酒屋

5分ほどの宝泉中学校の南西角を右折、312号線に突き当たる手前を左折する。すぐに312号線と合流、道なりに北東に進む。5分ほどすると、左手に不明の石碑 / すぐ右手に「此の地 史跡と名酒の郷」の標識 / 酒蔵や造り酒屋 が続く。

すぐに日光例幣使街道は右方向に進む。すぐ左手にある威光寺は新田義興菩提寺である。新田義興は新田義貞の次男で、鎌倉公方・足利基氏と関東管領・畠山国清により多摩川・矢口の渡しで謀殺された。

町並み 威光寺
威光寺から30分ほどすると2号線と合流する。5分足らずで東武桐生線の高架を潜る。さらに5分足らずの西本町交差点を越えた左手に道標がある。正面に「左 京」と彫られている。
町並み 道標
蔦で覆われ家屋 日光例幣使道碑 長念寺
蔦で覆われ家屋がある。道標から5分ほどの八瀬川を永盛橋で渡る。右手に日光例幣使道碑があり、この辺りに木戸があり太田宿の入口だった。道路を挟んだ反対側に、長念寺がある。幼稚園が併設されており、扉で閉じられている。応永元年(1394年)朽ち果てた地蔵堂を修繕、脇に草庵を構えたのが始まりと云われている。

太田宿
日光例幣使街道7番目の宿場。太田という地名は推古天皇の時拓かれた新田が非常に大きかったことから名付けられたと云われている。太田の地は新田一族の所領になっていた。新田義貞は後醍醐天皇の挙兵に応じて挙兵、鎌倉上道から鎌倉に突入して鎌倉幕府を滅ぼした。新田義重の子孫と称した徳川家康が大光院を建立、次第に発展した。生保2年(1645年)に宿場となった。宿内は拡幅工事が行われたため、昔の面影はあまり残っていない。本陣:2 / 旅籠:10 があった。

長念寺から5分足らずの交差点北西側の太田行政センターのところに本陣があった。すぐの東本町十字路交差点辺りに、高札場があったと云われている。すぐの太田駅入口交差点を右折すると、すぐの突き当りに東武伊勢崎線・太田駅がある。