京街道4次 守口市駅-(約10km)-高麗橋
2010年10月24日(日)09:00 曇り
常夜燈 義天寺 京街道説明板

京阪電鉄・守口市駅から南西へ、交差点を右折して守居橋への階段を登る。登り切った左手に常夜燈がある。左折して文禄堤を南西に進むと、すぐ右手に明治23年(1890年)創建の義天寺がある。山門左手に見える髭題目石は、野江の刑場にあったものを明治になって移したもの。大阪城落城後に、豊臣残党の処刑したところである。ここから本来の大坂道は、直進して日吉公園南の角をかすめる様に進み1号線に至っていた。文禄堤が終わり、道は右に曲がる。十字路を左折して、さらに日吉公園角を右折する。1号線と交差、左折して南西へ進む。旭通商店街あたりで、大坂道が復活する。

地蔵の祠 円満地蔵 地蔵の祠
清現寺 地蔵の祠 関目神社
京阪本通1交差点で494号線と交差、今市交差点の細い道を左へ進む。道が南へ進路を変えると、左手に地蔵の祠がある。5分ほどすると千林駅からの商店街と交差する。すぐ左手に、商店の隙間に埋め込まれた様に円満地蔵がある。10分ほどすると城北公園や地蔵の祠がある。阪神高速12号守口線高架を潜り、古市橋を渡る。右手に清現寺がある。2つ目の道を右折すると高殿7交差点で、左折して1号線を南へ進む。五差路の関目5交叉点を直進する。大坂道はこの付近から複雑に曲がりくねっており、関目の七曲りと云われていた。関目5南交差点を右折する。道なりに進み三差路を右折すると、左手に地蔵の祠がある。すぐ右手に関目神社、境内に毘沙門堂がある。都島通りと交差、横断して道なりに進むと都島通りに合流する。城北貨物線高架を潜ると、すぐ先に右に入る狭い道があり城北筋に突き当る。
榎並地蔵 道祖神 のだ橋跡
城北筋を左折して南へ進み、野江4交差点を右折する。野江3西交差点の手前を左へ進む。高殿7丁目から始まった関目の七曲りが終了する。細江3西交差点からの道と合流、南へ進む。桝形の左に曲がるところで、右側の細い方の道を進む。すぐ右手に榎並地蔵、堂の右手に台座が道標になっている道祖神がある。堂の左手には京街道・高麗橋〜野江の案内板がある。京橋中央商店街から新京橋商店街を進むと、1号線と交差する。正面に京阪電鉄・京橋駅があるが、大坂道はこのあたりで途切れている。京阪モールに沿って西へ進み、片町交番前交差点を左折して京阪電鉄高架を潜る。すぐに右折して京阪電鉄高架沿いに進むと、左手に“のだ橋跡”石柱がある。
北側の石垣
南側の石垣 旧造幣局と大阪城天守
交差点を左折、すぐに片町交差点を右折して土佐堀通りを西へ進む。大坂道はこの辺りで復活する。寝屋川東詰交差点を左折して、寝屋川を京橋で渡る。京橋は、大阪から京に通じる橋として命名された。京橋を渡りすぐに右折する。北側と少し先の南側に、移築復元された石垣がある。慶長19年(1614年)大坂冬の陣講和時、破壊された三の丸石垣である。北側の石垣は昭和50年(1975年)、南側の石垣は平成元年(1989年)に建築工事の際に発見された。京橋から南に直進すると、左手に旧造幣局と大阪城天守が見える。
地蔵の祠 八軒家船着場跡 八軒家船着場案内板

上町筋を斜めに横断して道なりに進む。土佐堀通りを左折して西へ進むと、すぐ左手の小道に地蔵の祠がある。天満橋交差点の北西側に京阪電鉄・天満橋駅がある。西へ進むと、すぐ左手に八軒家船着場跡の石柱がある。その先の交差点を右折して淀川に突き当たると、八軒家船着場案内板がある。淀川を上下した三十石船の発着場だったところで、八軒の船宿があったことから八軒家と呼ばれていた。

高麗橋  高麗橋 里程元標跡
天神橋交差点を左折、松屋町筋を南へ進む。次の交差点を右折すると、阪神高速環状線高架下に高麗橋がある。京街道4次が終わる。大坂城築城の際、東横堀川は外堀として改修され高麗橋が架けられた。明治3年(1870年)に鉄橋、昭和4年(1929年)に現在の鉄筋コンクリート橋に架け替えられた。明治時代には高麗橋東詰に里程元標がおかれ、西日本主要道路の距離はここを起点としていた。現在は梅田新道交差点に、大阪市道路元標が置かれている。
[寄り道松尾芭蕉終焉の地 / 枯野の句碑
松尾芭蕉終焉の地 南御堂 枯野の句碑
高麗橋から西へ、御堂筋を左折して南へ進む。中央大通りを越えると、東側の植樹帯に松尾芭蕉終焉の地石柱がある。松尾芭蕉は正保元年(1644年)松尾与左衛門と妻・梅の次男として、伊賀国(伊賀市上野赤坂町)で生まれる。元禄7年(1694年)大坂・花屋仁右衛門方離れ座敷に病臥、51歳で亡くなる。西側の難波別院(南御堂)には、芭蕉が病床で詠んだ枯野の句碑「旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる」がある。
坐摩神社 難波神社 博労稲荷神社 
 

難波別院(南御堂)の西側には神功皇后時代(201年〜269年)創建の坐摩(いかすり)神社、境内には陶器神社がある。御堂筋を南へ進むと西側に反正天皇時代(336年〜410年)創建と云われる難波神社、境内に博労稲荷神社がある。博労稲荷神社は、船場の商家を中心に信仰されている。大阪市内の中心を南北に走る御堂筋は、津村別院〈北御堂〉と難波別院(南御堂)を繋ぐ道であったことに由来する。