甲州街道 No.14 番外 甲府・府中五山
甲府・府中五山は京都や鎌倉の五山に倣い、甲斐武田19代・武田信玄が定めた寺院。いずれも武田氏とゆかりの深い寺院になっている。信玄は広く仏教を信仰し、寺院・僧侶を崇敬保護した。諸国から禅の高僧を招き、その教えを民政 / 軍政に反映させたとされる。
 
善光寺山門                        善光寺金堂
JR延線・善光寺駅から南へ進む。すぐの旧甲州街道(411号線)を左折して東へ進む。すぐのの善光寺入口交差点を左折して、善光寺通り(109号線)を北へ進む。10分ほどすると、永禄元年(1558年)創建の甲斐善光寺がある。武田信玄が上杉兼信との川中島の合戦で、信濃善光寺の焼失を恐れ本尊・善光寺如来像などを移したのが始まりと云われている。寛政8年(1796年)再建の金堂 / 山門 は重文。
東光寺本殿 東光寺仏殿
善光寺通り(109号線)は左に曲がり、善光寺境内の西側を通る。すぐのT字路を左折して道なりに進むと、5分たらずの右手に甲府・府中五山の東光寺(とうこうじ)がある。保安2年(1121年)武田氏の祖・源義光(新羅三郎)が国家鎮護と仏法繁盛の祈願所として再興、興国院とした。弘長2年(1262年)に東光寺、天文年間に武田信玄が東光興国禅寺 と改称する。天文11年(1543年)武田軍のよる諏訪侵攻で、諏訪領主・諏訪頼重は東光寺に幽閉され自害したと云われている。永禄8年(1565年)謀反の疑いをかけられた武田信玄の嫡男・義信が幽閉されて永禄10年(1567年)東光寺で死去した。天正10年(1582年)織田軍の侵攻で武田家が滅亡すると焼き討ちに遭っている。江戸幕府により寺領の安堵を受ける。昭和20年(1945年)甲府空襲で再建本堂は焼失する。延焼を免れた室町時代後期建立の仏殿(薬師堂)は重文。
東光寺から西へ進むと、道は左に曲がり南西へ進む。5分ほどの変則十字路を右へ、すぐのY字路を左へ進む。すぐ右手に甲府・府中五山の能成寺(のうじょうじ)がある。東光寺から20分ほど掛る。能成寺は15代・武田信守の菩提寺。創建時は八代郡(現:笛吹市)にあったが、武田信玄の時代に府中に移転する。さらに天正11年(1583年)甲府城築城のとき移転した。境内に芭蕉句碑 / 赤穂藩家老・大野九郎兵衛の墓 がある。
能成寺
誓願寺 来迎寺 八幡宮
能成寺から南へ進む。すぐの突き当りを右折すると、すぐ右手に誓願寺の参道がある。本堂へは北に戻る形になる。大永元年(1521年)三月古府中に創建、文禄4年(1595年)に移転する。誓願寺から南へ、すぐのJR中央本線踏み切り手前を右折すると、すぐ右手に来迎寺 / 右手に八幡宮 と続く。八幡宮は竜王町に創建、甲府八日市場を経て現在地に移転する。
長禅寺山門
長禅寺山門 長禅寺本堂
三重塔 鐘楼 大井夫人霊廟
八幡宮からJR中央本線沿いの道を北西へ進む。5分ほどの長禅寺(ちょうぜんじ)前交差点を右折して北へ進むと、甲府・府中五山の長禅寺がある。武田信玄の母・大井夫人の菩提寺で、府中五山の筆頭に挙げられる。本堂の南側に大井夫人霊廟 / 参詣道を進んだ奥に大井夫人の墓がある。正和5年(1316年)巨摩郡相沢(現:南アルプス市鮎沢)に大井氏によって創建、大井氏の菩提寺であった。大井信達と武田信虎は抗争を繰り広げていたが和睦、後に大井信達の娘(大井夫人)は武田信虎の正室となり武田晴信(信玄)を産んでいる。天文21年(1552年)大井夫人が死去した頃、武田晴信(信玄)は府中に長禅寺を移転する。残された寺は古長禅寺と称したが、境内には大井夫人の宝篋印塔がある。長禅寺住職・岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)は武田信玄の幼少期からの学問・政道の師で、人間形成に大きな影響を与えたといわれている。永禄2年(1559年)出家した際に「信玄」の法号を与えたことでも知られる高僧。境内に平成2年(1990年)建立五重塔 / 昭和53年(1978年)建立の 三重塔 がある。珍しい形の鐘楼に、縦長の釣鐘が吊るされている。
長禅寺から武田神社方向へは、標識が整備されている。迷うことはないが、途中に寺院が多い。長禅寺から甲府・府中五山の円光院まで、1時間30分程掛っている。途中で立ち寄った時間を差し引いても1時間程掛っている。
清泉寺 妙遠寺 白森稲荷神社
長禅寺から20分ほどのところに、清泉寺 / 文明年間(1469年〜1487年)創建の妙遠寺 / 行蔵院 / 宋信寺 と続く。妙遠寺境内に白森稲荷神社がある。
行蔵院 宋信寺
大泉寺総門 大泉寺 武田信虎の墓

宋信寺から10分ほどのところに、大泉寺がある。大永元年(1521年)武田信虎によって巨摩郡島上条に創建された大川寺が始まり。後に甲府へ移転する。武田信虎の墓がある。総門は、宝永7年(1710年)甲府藩主・柳沢吉保によって創建された永慶寺から移築されたと云われている。柳沢吉保は享保9年(1724年)大和郡山移封、永慶寺も移転した。仏殿も移築されたと云われているが、焼失している。

大泉寺から10分ほどのところに、瑞岩院がある。さらに10分足らずのところに、地蔵の祠がある。
瑞岩院 地蔵の祠
武田信玄公墓所

地蔵の祠から10分ほどのところに、武田信玄公墓所がある。天正元年(1573年)武田信玄は、信州伊那駒場で病没した。武田信玄の死は3年の間伏せられたが、土屋右衛門の邸内で密かに荼毘(だび)に付され埋葬された。安永8年(1779年)甲府代官・中井清太夫によって、武田信玄の法名「法性院機山信玄大居士」の石棺が発掘された。発掘されたこの場所に、現在の墓石が造立された。天正4年(1576年)恵林寺で葬儀が行われた。

[参考]恵林(えりん)
四脚門(重文) 山門 本堂

JR中央本線・塩山駅から北北西へ3kmほどのところに恵林寺がある。元徳2年(1330年)甲斐国守護職・二階堂貞藤が笛吹川上流の牧荘を寄進して創建した。応仁の乱で荒廃するが、甲斐武田氏の菩提寺となり復興する。天正4年(1576年)武田信玄の葬儀が行われた。天正10年(1582年)武田氏滅亡後に恵林寺に六角次郎が逃げ込むが、恵林寺の快川紹喜は織田軍への引渡しを拒否する。快川紹喜は武田信玄の葬儀を執り行った僧。織田信忠の命を受けた奉行により、恵林寺山門に僧ら150人余りを二階に閉じ込めて火を放った。山門は炎に包まれ苦しみ暴れるなか、快川紹喜だけは座ったまま身動きせず炎に包まれ亡ったと言われている。
仁治3年(1242年)佐々木信綱の死後、近江源氏・佐々木氏は四家(六角氏 / 大原氏 / 高島氏 / 京極氏)に分かれる。佐々木氏嫡流の六角義賢は、永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際に敵対するが敗北する。六角次郎は父・六角義賢と共に各地で反信長の活動を展開し、武田家に身を寄せていた。六角次郎は逃げ延び、織田信長死後に豊臣秀吉に仕えている。

武田信玄公墓所から10分足らずの東側に、甲府・府中五山の円光院(えんこういん)がある。石和に創建された清光寺が始まりで、武田信守により父・信重の菩提寺として再興され成就院と改称する。石和の地は室町期までの武田氏の本拠地だった。永禄3年(1560年)移転する。元亀元年(1570年)武田信玄の正室・三条夫人没し葬られ、法号に因んで改称した。三条夫人の墓所である宝篋印塔が造立されている。

円光院
円光院から10分ほどの北西側に、護国神社がある。明治12年(1879年)市内太田町に招魂社として創建されたのが始まり。昭和17年(1942年)に移転、昭和19年(1944年)護国神社に改称した。
護国神社
躑躅ヶ崎館跡 土塁
護国神社から北西に5分ほどのところに、大正8年(1919年)創建の武田神社がある。永正16年(1519年)武田信虎によって築城された躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)跡で、背後にある要害山城を詰城としていた。武田信虎 / 武田晴信(信玄) / 武田勝頼 の3代60年余りに渡り、府中として機能した。武田氏滅亡後、徳川家康によって館域は拡張され天守も築かれた。天正11年(1583年)甲府城が築城され、廃城となった。石垣 / 土塁 / 堀 が残る。
武田神社
法泉寺山門 法泉寺
武田神社から西へ、緑が丘スポーツ公園を目指す。緑が丘スポーツ公園の北側に位置している甲府・府中五山の法泉寺(ほうせんじ)まで、約60分ほど掛る。南北朝時代に甲斐守護・武田信武が創建した法泉寺は、10代・武田信武 / 20代・武田勝頼 の菩提寺。武田勝頼は天正10年(1582年)天目山の戦いで敗れ、織田信長により首級は京に晒らされた。葬儀は京都の妙心寺で行われ、葬儀に参列した法泉寺・快岳宗悦和尚がその歯髪の一部を貰い受け、法泉寺境内に埋葬したと云われている。歯髪塚の目印に桜が植えられたと云われ、墓地には桜の木がある。