甲州街道 No.13 神戸八幡交差点-(約22km)-下諏訪・中山道合流点
2014年5月31日(土)06:30 晴れ
2015年3月31日茅野駅〜上諏訪〜温泉寺と巡っています。
JR中央本線・すずらんの里駅から南西へ進む。5分ほどの神戸八幡交差点を右折して、20号線を北西へ進む。神戸八幡交差点の西側に、八幡社がある。
八幡社
馬頭観音 石仏石塔群
神戸八幡交差点から5分ほどすると、分岐の三角地帯に馬頭観音があり左へ進む。すぐ右手に奉拝百番供養塔 / 道祖神 / 馬頭観音 など多数の石仏石塔群がある。すぐ右手に片瀬明神跡 / 御射山神戸一里塚 と続く。 西塚には、旧甲州街道で唯一の樹齢約400年のケヤキと塚が残る。東塚のエノキは明治初期に枯れてしまっている。一里塚碑脇に「917m」標識がある。
片瀬明神跡 一里塚碑
 
御射山神戸一里塚
御射山神戸一里塚から10分ほどすると、右手に欠けた馬頭観音がある。
馬頭観音

馬頭観音から5分足らずで20号線に合流、左折する。この辺りが金沢宿の東口になる。金沢宿は慶安4年(1651年)に開設された。当初は北西寄りに青柳宿があったが、度重なる宮川の氾濫や慶安3年(1650年)の大火で現在地に移転して金沢宿と改称した。大火の教訓から道幅は五間(約9m)と広く取られ、中央及び両側の家屋の裏に各三尺(約90cm)幅の用水が設けられた。宿場は江戸方より 上町 / 中町 / 下町 となっていた。本陣:1 / 旅籠:17 だった。寛文5年(1655年)の宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)によると、家数:122 / 人口:622 だった。高遠や飯田への分岐点として、交通や物資流通の要衝として賑わった。甲州街道を通行する参勤大名は、高島藩 / 飯田藩 / 高遠藩 に限定されていた。江戸後期になると、幕府の許可を得た大名が東海道や中山道を通らず甲州街道を通行する様になった。

町並み 地蔵 / 聖観音 / 萬霊等 三界萬霊等 / おてつき石

20号線に合流してから5分ほどすると、左手の泉長寺参道入口に地蔵 / 聖観音 / 萬霊等 が並んでいる。参道を進むと、山門の右手に三界萬霊等 / おてつき石 がある。参勤交代の大名や藩主が通る時に、宿役人がこの石に手を付いて口上を述べたと云われている。おてつき石は宿場の入口に置かれていて、このおてつき石は上町にあったもの。

泉長寺
馬繋ぎ石 道標 如意輪観音
馬頭観音 / 不明の石塔 石仏石塔群

泉長寺参道入口から5分ほどすると、右手の馬方宿跡に馬繋ぎ石がある。すぐに金沢下町バス停があり、すぐの小路を右折する。解りづらいところであるが、歩道がなくなる手前になる。すぐのY字路は高遠道追分で、左手に「左 たかとう道」と彫られた宝暦8年(1758年)造立の道標がある。すぐ左手に如意輪観音 / 馬頭観音 / 不明の石塔 がある。ここは延宝6年(1678年)本陣を勤めていた小松三郎左衛門が磔にされた刑場跡。諏訪藩の命令により、金沢宿の所有地や大沢山の入会権が隣の茅野に奪われてしまった。小松三郎佐衛門は諏訪藩に直訴するが、捕えられ妻子まで処刑された。寛延2年(1749年)町民は刑場跡に供養の地蔵を造立するが、宮川の氾濫で流失する。如意輪観音は寛政12年(1800年)造立されたもの。すぐに宮川に突き当り左折すると、右手に石仏石塔群がある。

石仏石塔群からすぐに宮川に架かる金沢橋を渡り、すぐに右折する。ここが金沢宿の西桝形になる。道なりに進むと、すぐに矢ノ口交差点で20号線と合流する。交差点右手の権現の森に、権現神社 / 数多くの石仏石塔 / 判読できない案内板 がある。金山権現の石祠は承応3年(1654年)の造立。

権現神社
矢ノ口交差点からすぐに矢の口バス停の先を左へ進む。青柳宿があった街道を道なりに進む。矢の口バス停から10分足らずで突き当たり、旧甲州街道は消滅する。旧甲州街道の延長に見える木立に一里塚跡がある。突き当りを右折して迂回する。すぐに20号線に突き当り、左折する。
青柳宿があった街道
[寄り道]一里塚跡
不明の石塔 不明の碑 一里塚跡

途切れている旧甲州街道の延長に見える木立に一里塚跡があり、突き当たりを左折する。すぐ左手に不明の石塔がある。すぐにホテルの敷地を右折すると、右手に不明の碑がある。すぐに右折して20号線方向に道なりに進むと、すぐ右手に一里塚跡がある。耕地整理により当初の位置とは異なっている旨が書かれた案内板がある。

道を戻り、左折した突き当りを直進する。すぐに20号線に突き当り、左折して北へ進む。5分ほどすると左手に石祠 / 天保4年(1833年)造立の常夜燈がある。途切れた旧甲州街道はここに通じていたと云われている。

石祠 / 常夜燈
町並み(木舟交差点) 不明の石塔 基盤整備記念碑

常夜燈から10分足らずに木舟入口バス停がある。すぐに鋭角に右折して坂を登る。道なりに進むと、すぐ右手に鳥居と不明の石塔が2基ある。すぐにJR中央本線を跨線橋で越え、左折する。5分ほどすると、左手に基盤整備記念碑がある。10分足らずの左手に題目塔「南無阿弥陀佛」 / 傍らに見落とすほどに小さい馬頭観音 がある。

題目塔 / 馬頭観音

JR中央本線E351系スーパーあずさ

常夜燈 / 石仏石塔群 3基の石仏 酒室神社

題目塔からすぐに早川に架かる早川橋を渡り、すぐの分岐を左へ進む。5分足らずでJR中央本線ガードを潜る。5分ほどの宮川坂室交差点で20号線に合流する。宮川坂室交差点の右手に 常夜燈 / 文化13年(1816年)造立の供養塔 / 三十三夜塔 / 馬頭観音 などの石仏石塔群がある。20号線を進むと、すぐ右手に草に埋もれている3基の石仏がある。すぐに弓張川を建倉橋で渡る。諏訪大社の神事である御射山(みさやま)で行われる狩りのとき、この川で弓を清めた。すぐの坂室交差点を右折すると、酒造りの守護神である酒室神社 / 境内の東隅に明治34年(1901年)に発掘された“雨降り塚古墳”がある。本殿は文政8年(1825年)築。諏訪大社の神事である御射山祭のときに、濁酒(どぶろく)を造り山の神に供える前夜祭が行われる。

町並み 鈿女神社 三輪神社
坂室交差点まで戻り、20号線を北西へ進む。10分足らずで中央高速高架を潜る。5分ほどの宮川交差点を直進、197号を進む。5分ほどすると、左手に鈿女(うずめ)神社 / 左手に久寿年間(1154年〜1155年)創建の三輪神社 / 左手に五味邸跡 と続く。三輪神社は、大和の国三輪村の三輪神社を勧進したと云われている。本殿は文化元年(1804年) / 拝殿は文政2年(1820年) の再建で、境内に双体道祖神がある。五味邸跡には街道沿いと広場に明治天皇茅野御小休跡碑がある。慶長年間(1596年〜1615年)に千野村が形成され、延宝6年(1678年)に茅野村となり“間の宿”となった。五味家は名主を勤め、明治13年(1880年)明治天皇巡幸のとき休息した。
双体道祖神
稲荷社 諏訪神社大鳥居 官幣諏訪神社参拝道石標

五味邸跡から5分足らずの右手に稲荷社がある。すぐに上川橋交差点がある。左折する道は西街道で、上川橋が流失したときの脇街道だった。上川を上川橋で渡る。稲荷社から10分ほどの茅野駅前交差点左手に諏訪神社大鳥居 / 官幣諏訪神社参拝道石標 がある。

[寄り道]諏訪大社上社本宮 / 諏訪大社上社前宮
諏訪大社は、上社前宮 / 上社本宮 / 下社春宮 / 下社秋宮 に鎮座する全国諏訪信仰の総本社。
旧杖突峠入口道標 阿弥陀堂跡 長沢の石幢
北斗神社の石段 双体道祖神 三の鳥居
入口御門 参拝所 神楽殿
入口御門からの長い廊下 / 勅使殿
諏訪神社大鳥居から進まずに、旧甲州街道を北へ進む。すぐの分岐を左へ進む。10分足らずの上原交差点で20号線に合流する。すぐに左折して小路を進む。階段を下り、152号線あけぼの隧道の西側に出る。152号線を西へ20分ほど進み、突き当りの高部東交差点を右折して北西へ進む。10分ほどすると、左手に「従是北 高島恵江 一里二十丁 東 金沢宿 二里二丁 南 御堂垣外宿 二里二十丁」旧杖突峠入口道標 / 右手の阿弥陀堂跡に石塔群 と続く。すぐの分岐に標識があり、左へ進むと左手に、慶安元年(1686年)造立の長沢の石幢(せきどう)と石塔群がある。すぐに双体道祖神がある分岐を左へ進むと、左手に気の遠くなりそうな北斗神社の石段 / 前方に諏訪大社上社本宮三の鳥居が見える。5分ほどの突き当りに諏訪大社上社本宮がある。橋を渡り、東参道の鳥居を潜ると文政12年(1829年)築の入口御門がある。北参道から入った場合も、順路は入口御門経由となっている。長い廊下を抜け、道なりに進む。入口門を潜ると、左手に拝殿(重文)があるが、平成26年12月25日迄は修理中で見ることはできない。参拝所に拝殿の写真が掲げられていた。北参道側から入口御門へ進むと、左手に文政10年(1827年)築の神楽殿に大太鼓 / 右手に勅使殿と安永2年(1773年)築の五間廊 がある。
鳥居 十間廊 拝殿
高部東交差点を左折、南東へ進む。すぐの前宮前交差点の西側に、諏訪大社上社前宮の鳥居がある。前宮は本宮以前にあった宮の意味とも云われている。鳥居を潜り坂を登る。さらに鳥居を潜り石段を登ると、左手に十間廊がある。古くは神原廊と呼ばれていた。諏訪祭政が行われた正庁の場で、すべての貢物はこの廊上で大祝の実見に供された。左右に人家のある坂の突き当りに、社殿がある。現在の拝殿は、昭和7年(1932年)伊勢神宮から下賜された材で造営されたもの。上社本宮 / 下社秋宮 / 下社春宮には本殿がないが、上社前宮は古くは上社摂社であった関係で本殿がある。本宮と前宮は、約2kmほど離れている。上社本宮 / 下社春宮 / 下社秋宮に比べると、質素な佇まいである。
上原八幡宮
諏訪神社大鳥居からすぐの分岐を左へ進む。10分足らずの上原交差点で20号線に合流する。5分ほどの上原八幡交差点左手に、諏訪守重が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請した上原八幡宮がある。高島藩主・諏訪家は参勤のとき藩主はここで下馬、駕籠に乗り換えて出発したと云われている。2014年5月31日に訪れた時は工事中であったが、工事が終了していても20号線側の鳥居はフェンスで通行できない。社殿右手奥に石塔群がある。すぐ右手に上原八幡宮の別当寺だった極楽寺がある。
極楽寺
古民家 供養塔 / 双体道祖神 塔所小路石標
片羽通り石標 上ノ御社宮神 天然記念物土橋祝殿大欅之跡碑
極楽寺から10分足らずの新井入口バス停右手の石垣の前に、供養塔 / 双体道祖神 がある。20号線に面して、 塔所小路石標がある。すぐの上原北交差点の左手に片羽通り石標 / 左手に上ノ御社宮神 と続く。上ノ御社宮神の20号線に面したところに、天然記念物土橋祝殿大欅之跡碑がある。
番匠川通り石標 頼岳寺石標 頼岳寺
上ノ御社宮神からすぐの上原頼岳寺交差点左手に、番匠川通り石標 / 右手に頼岳寺石標 がある。右折してすぐの中央本線を潜ると、突き当りに寛永8年(1631年)高島藩初代藩主・諏訪頼水によって創建された頼岳寺がある。上原頼岳寺交差点から5分も掛らない。
備前坂石標 「甲州街道 渋沢小路」石標 休石
大門追分 「甲州道中」石標 町並み
姫宮神社 不明の文字塔 常夜燈

上原頼岳寺交差点まで戻り、旧甲州街道(20号線)を北西へ進む。すぐの十字路左手に備前坂石標 / 右手に「〒→」標識と「甲州街道 渋沢小路」石標がある。旧甲州街道は右折して北東へ進む。すぐ左手に「休石」と彫られた石塔がある、すぐに中央本線を潜ると、すぐの三角地帯に「右東京迄 左大門道」と彫られている常夜燈 / 道標らしい石塔が2基 ある。ここは大門追分で、右へ大門道を進むと頼岳寺に至る。左へ旧甲州街道を進むと、すぐ右手に「甲州道中」石標 / 右手に姫宮神社の鳥居 / 右手に不明の文字塔と常夜燈 と続く。常夜燈の四面には、秋葉山 / 白雲山 / 象頭山 / 日本之総神 / 白雲山 と彫られている。

火燈公園 頼重院 神の木神社

常夜燈 からすぐ右手の火燈(ひとぼし)公園に謝恩碑 / 右手に頼重院 / 左手に神の木神社 / 左手に五十一里塚跡 と続く。頼重院は上原城主・諏訪頼重の菩提寺。天文11年(1542年)武田信玄の攻撃を受け捕らわれの身となり、甲府の地で自刃させられた。武田信玄の側室で武田勝頼の母の諏訪御料人は、頼重の娘。御柱年の盆に、頼重院の裏山にある前山の峰に近い火燈場で諏訪大社の神事が行われる。五十一里塚は四賀神戸一里塚で、江戸日本橋より五十一里目となる。

五十一里塚跡
不明の石塔 / 常夜燈 町並み
五十一里塚跡から5分足らずの左手の火の見やぐら下に、不明の石塔 / 常夜燈 がある。5分足らずの左手に祠 / 左手に秋葉山常夜燈と「左江戸みち 左大明神江」と彫られている道標 と続く
秋葉山常夜燈 / 道標 町並み
秋葉山常夜燈から5分ほどの霧ヶ峰入口交差点を右折すると、正面に桑原城跡の看板が見える。天文11年(1542年)武田晴信(信玄)は諏訪に侵攻、諏訪頼重の本拠・上原城を攻めた。頼重は上原城を支えきれず、桑原城に逃れ籠城した。しかし家臣の多くは逃亡したため降伏、頼重は弟の頼高とともに甲斐府中に連行された。頼重は頼高と共に東光寺で自刃させられる。桑原城は上原城とともに武田氏に接収された。
桑原城跡
不明の石塔 足長神社拝殿
菅沼先生記恩碑 足長神社参道 足長神社神楽殿
霧ヶ峰入口交差点まで戻り、旧甲州街道を北西へ進む。すぐ左手に不明の石塔 / 右手に足長(あしなが)神社参道 と続く。参道の左手に菅沼先生記恩碑がある。途中に鳥居がある長い石段を登ると、四賀桑原交差点からの424号線と交差する。さらに石段を登ると、左手に神楽殿 / 正面の二本の木に挟まれた石段上に拝殿がある。足長神社は諏訪大社上社の摂社で、古くは荻葺きの屋根であったため荻宮と呼ばれていた。大同年間(806年〜810年)諏訪神社・大祝有員が広大な社殿を建立、自らも近接地に居住したと云われている。当初はここに足長神と手長神が祀られていたが、手長神は下桑原へ移された。かつては草鞋を奉納して旅の安全を祈ったと云われている。御柱祭では参道石段を登りながら柱を引き上げることで知られている。
秋葉山石塔 / 石祠 不明の石塔 / 馬頭観音 双体道祖神 / 秋葉山石塔
足長神社からすぐ右手に、秋葉山石塔 / 石祠 がある。5分足らずの岩窪観音前バス停右手に、不明の石塔 / 馬頭観音 がある。さらに5分足らずの左手に林家記恩碑 / 右手の武津公民館敷地に双体道祖神と秋葉山石塔 と続く。5分ほどすると20号線に合流、旧甲州街道は、左へ下る。道幅は往時のままと云われている。
往時の旧甲州街道
旧甲州街道は、5分足らずで清水1・2丁目交差点で20号線に合流する。水陸両用車が通りかかる。
水陸両用車
清水1・2丁目交差点から5分ほどの元町交差点辺りが上諏訪宿の東口になる。上諏訪宿は諏訪大社上社の門前町 / 高島藩の城下町 として賑わった。商人町の清水町 / 角間町 / 上町 / 中町 と 武家町の本町 / 片羽 で構成されていた。天保14年(1843年)の記録によると、家数:232 / 人口:973 / 本陣:1 / 旅籠:14 だった。
町並み 宮坂酒造 十王堂跡
元町交差点の西側に、寛文2年(1662年)創業の宮坂酒造がある。高島藩の御用酒屋を勤めていた。銘酒真澄の名は、諏訪大社の宝物「真澄の鏡」を由来としている。元町交差点から二筋に分かれるが、どちらも上諏訪宿の宿場通りである。三角地帯に十王堂跡がある。諏訪頼水の娘・亀姫は嫁ぎ先で書状を下男に託したが、日頃から折り合いの悪かった下男は書状を川に捨ててしまう。諏訪頼水は逃げ込んだ永明寺に引渡しを要求するが、拒否される。永明寺は焼き払われ、下男は首を刎ねられてここに捨てられた。町人は祟りを恐れ、十王堂を建立したと云われている。
元町交差点から二筋に分かれる上諏訪宿の宿場通りを左へ、20号線を北西に進む。
教念寺 舞姫酒造 上諏訪町道路元標

元町交差点から5分足らずの鍵之手交差点を左折すると、すぐの突き当りに教念寺がある。鍵之手交差点まで戻り、20号線を北西に進む。すぐ左手に明治27年(1894年)創業の舞姫酒造がある。5分足らずの諏訪1・2丁目交差点の右手辺りが問屋場跡で、上諏訪町道路元標がある。

[寄り道]信濃国・諏訪高島城(諏訪の浮城 / 島崎城)
諏訪町1・2丁目交差点を左折して南西へ進む。JR中央本線を越え、県道衣の渡橋や中門橋を渡ると高島公園に至る。文禄元年(1592年)日根野高吉によって築城される。関ケ原の合戦の翌年に日野根氏は下野国壬生藩に転封となり、替わって諏訪頼水が入封する。以降明治に至るまでの270年間、諏訪氏の居城として続く。往時は諏訪湖に突き出た水城で、諏訪の浮城と呼ばれた。江戸時代初期の諏訪湖干拓により、湖は遠くなってしまった。昭和45年(1970年)天守が復興される。移築されていた三の丸家屋敷裏門が本丸に復元される。
復興天守
諏訪1・2丁目交差点からすぐの諏訪1丁目交差点を右折する。交差点の北東側に史跡虫湯跡石標がある。虫湯は蒸湯とも呼ばれ、武家専用であった。高島藩主はこの湯で入浴してから寺社に参詣したと云われている。すぐに元町交差点で別れたもう一筋の宿場通りに突き当り、左折する。
上諏訪宿標識 虫湯跡
元町交差点から二筋に分かれる上諏訪宿の宿場通りを右へ、北に進む。
元町交差点からすぐの右手に貞松院の塀が見える。右折して塀沿いに進むと、すぐ右手に 上原五山の法明寺と光明寺が合併した法光寺がある。手長神社の別当寺だった。
貞松院の塀 法光寺
正願寺山門 正願寺本堂 河合曾良の墓
法光寺からすぐの右手に、永禄5年(1562年)に再興されたと云われる正願寺がある。墓地に河合曾良(かわい そら)の墓がある。河合曾良は、信濃国・下桑原村の高野七兵衛の長男として生まれる。江戸時代中期の俳諧師で、元禄2年(1689年)松尾芭蕉の「奥の細道」の旅に同行した。行脚の史実を正確に伝える曾良旅日記は、重文になっている。宝永6年(1709年)幕府の巡見使随員となり、九州を廻る。翌年に壱岐国・可須村風本(現:壱岐市勝本浦)で病没、壱岐島の能満寺に墓がある。元文5年(1740年)没後30年を経て故郷・諏訪にも墓が建てられた。
[参考]壱岐島・河合曾良の墓
松平忠輝廟標石 貞松院 松平忠輝廟
旧甲州街道に戻ると、右手に文禄2年(1593年)創建の貞松院がある。創建時は慈雲院と称していたが、正保2年(1645年)高島藩初代・諏訪頼水の夫人(貞松院)の廟所が設けられ貞松院と改称された。山門左手に「松平忠輝廟」標石がある。松平忠輝は徳川家康の六男。慶長15年(1610年)越後高田藩主に任じられ、川中島12万石と合わせて75万石の大名となった。慶長19年(1614年)高田城を築城、居城を移した。元和2年(1616年)兄・徳川秀忠によって改易された。伊勢国朝熊〜元和4年(1618年)飛騨国高山〜寛永3年(1626年)信濃国諏訪 に流罪された。天和3年(1683年)諏訪高島城南の丸にて92歳で死去した。
貞松院の北側に隣接して、寛永元年(1624年)創建の高国寺がある、山門 / 本堂 ともに改修中だった。
高国寺

高国寺から5分ほどすると、右手に手長(てなが)神社参道がある。街道沿いの鳥居左手に賽銭箱がある。足長神社 / 手長神社 ともに,参道の石段は長い。すぐに元町で別れたもう一筋の宿場通りと合流する。

手長神社参道
二筋に分かれた上諏訪宿の宿場通りが合流してからすぐの左手に、由緒がありそうな門がある。5分ほどすると、左手に五十二里塚跡がある。片羽の一里塚で、江戸日本橋より五十二里目となる。
五十二里塚跡
[寄り道]温泉寺
五十二里塚跡から5分ほどのY字路を右へ進むと、すぐ右手に石仏石塔群がある。
石仏石塔群
西国三十三所観音 建立碑
石仏石塔群からすぐの右手に、西国三十三所観音がある。瓦屋根で白壁の細長い覆屋が、3棟重なるように配置されている。1段目覆屋は右から1番〜11番 / 2段目覆屋は左から12番〜22番 / 3段目覆屋は右から23番〜33番 と並び、参拝者が廻り易い様になっている。石工の職業病である目の病に侵された守屋貞次はついに失明、23基を彫った後は弟子に委ねたと云われている。覆屋の左手に「西国三十三観音 当山願王大和尚建立 信州高遠守屋貞治作 昭和四年六月 修繕 当山十三世 玄秀」建立碑がある。
西国三十三所観音からすぐの突き当りに、寛永17年(1640年)高島藩2代藩主・諏訪忠恒により諏訪家の菩提寺として創建された温泉寺がある。高島城より山門 / 文政10年(1827年)建立の能舞台 が移築されており、山門 / 本堂 となっている。
温泉寺山門 温泉寺本堂
児玉石神社 白山社石標 / 慰霊碑 先宮神社
Y字路まで戻り、左へ進む。すぐ右手に児玉石神社がある。境内にある五個の大石は諏訪七石の一つに数えられ、拝殿前にある二個の大石はいぼ石と呼ばれている。凹に溜った水でイボを洗うと治ると云われている。すぐ右手に白山社石標と慰霊碑 / 右手に先宮神社 と続く。参道の小川には橋が架けられていない。諏訪大社の神がこの地に鎮座したとき、先宮神社が抵抗したために境内から出ることを許されなかったと云われている。境内に樹齢690年以上のケヤキ / 境内の街道際に寛永5年(1628年)造立の双体道祖神と「大和の里 散さくの小径」地図 がある。
双体道祖神
町並み 寿量院 常夜燈
諏訪湖 茶屋橋本屋跡 双体道祖神

先宮神社から10分足らずの右手に寿量院 / 右手に北村中と彫られた天保10年(1839年)造立の常夜燈 と続く。眼下に諏訪湖が見える様になる。常夜燈から10分ほどすると、左手に茶屋橋本屋跡がある。諏訪湖で摂れた鯉の料理が名物で、桁には鯉の彫刻が施されている。高島藩主はここまで出向き、賞味したと云われている。門は高島城三の丸門を移築したもの。すぐ左手に双体道祖神はある。

町並み 南信八名所石投場 諏訪湖 / JR中央本線
一里塚跡 若宮神社石標 旧承知橋の橋石
双体道祖神から10分足らずの1314右手に南信八名所石投場がある。往時は諏訪湖が真下まで迫っており、湖面に石を投げて打ち興じたと云われている。5分ほどすると、一里塚跡がある。旧甲州街道最後の富部の一里塚があったところで、江戸日本橋より53里目になる。ここから11町(1100m)の下諏訪宿で旧中山道に合流する。すぐ右手に若宮神社石標がある。社殿は山中にある。承知川に架かる承知橋を渡る。若宮神社石標から5分足らずの右手に、「承知川橋の記」案内板 / 久保海道公会所の擁壁に旧承知橋の橋石 / 承知地蔵 がある。橋石の煉瓦模様は、防滑とも信玄の埋蔵金の隠し図とも云われている。承知地蔵は明治中頃の道普請のとき、承知橋付近から掘り出されたもの。
承知地蔵
 
神楽殿                          幣拝殿
承知地蔵からすぐの十字路を右折して道なりに進む。承知地蔵から5分足らずの右手に諏訪大社下社秋宮の鳥居がある。諏訪大社下社秋宮は、上社前宮 / 上社本宮 / 下社春宮 と並ぶ全国諏訪信仰の総本社。境内を進むと、天保6年(1835年)築の神楽殿(重文) / 安永10年(1781年)築の幣拝殿(重文)がある。幣拝殿は幣殿と拝殿が一体となった二重楼門造りで、春宮と同じ構造。境内に奉納された“さざれ石”が置かれている。「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
さざれ石
下諏訪宿甲州道中口番屋跡 天龍道人住居跡 甲州道中中山道合流之地
諏訪大社下社秋宮鳥居から北西へ進む。すぐ右手に下諏訪宿甲州道中口番屋跡 / すぐ右手の 明治6年(1873年)創業の羊羹の老舗新鶴前に天龍道人住居跡 / 右手の駐車場前に「下諏訪宿 甲州道中中山道合流之地」石標 と続く。天龍道人は肥前出身の幕末尊皇派 / 画家で、後半生をこの地で過ごした。「甲州道中終点 中山道下諏訪宿問屋場趾」石標には、「右江戸へ五十三里十一丁 左江戸より五十五里七丁 正面京都へ七十七里三丁」と彫られている。江戸・日本橋〜信濃国・下諏訪宿の距離は、旧中山道五十五里七丁 / 旧甲州街道五十三里十一丁 と旧甲州街道の方が7.5kmほど短い。甲州街道38次ぶらり旅が終わる。
錦の湯 / 宿場問屋場跡
甲州道中終点 中山道下諏訪宿問屋場趾 左方向:旧甲州街道 / 三角地帯:桔梗屋 / 右斜め方向と右方向:旧中山道
駐車場奥に「錦の湯」石標 / 宿場問屋場跡 / 錦の湯案内板 / 「甲州道中終点 中山道下諏訪宿問屋場跡」石標が並んでいる。「甲州道中終点 中山道下諏訪宿問屋場跡」石標には「甲州道中終点 右江戸へ五十三里十一丁 中山道下諏訪宿問屋場趾 左江戸より五十五里七丁 正面京都へ七十七里三丁」と彫られている。 合流点にある元禄3年(1689年)創業の桔梗屋は、広重も泊った旅館。

甲府までだった甲州街道は、慶長15年(1610年)下諏訪宿まで延長された。正しくは「下ノ諏訪」と呼ばれ、中山道に所属している。ていた。中山道69次の29番目の宿場で、長野県諏訪郡下諏訪町にある。天保14年(1843年)中山道宿村大概帳では、人口:1345人 / 家数:315 / 本陣:1 / 脇本陣:1 / 旅籠:40 だった。旧中山道最大の難所である標高1531mの和田峠の西口に位置している。全国に1万余社の分社をもつ諏訪大社の下社(しもしゃ)門前町 / 高島藩の城下町 で賑わった。諸大名の参勤交代 / 旅人にとって重要な宿場であった。鎌倉時代から続く温泉は、旧中山道で唯一の温泉がある宿場。下諏訪宿には、児湯 / 旦過の湯 / 綿の湯 の下諏訪三名泉があった。往時は各旅籠には風呂は無く、旅人は手拭いを引っ提げて温泉を利用していた。