甲州街道 No.12 牧原交差点-(約28km)-神戸八幡交差点 |
|
日野春駅-(約3km)-牧原交差点 / 神戸八幡交差点-(約0.5km)-すずらんの里駅 |
|
2014年5月30日(金)10:50 晴 |
|
2014年5月30日は、05:30頃に西八王子駅・高尾駅間で人身事故がありました。日野春駅08:15着予定が2時間余遅れました。この2時間が計画を大きく狂わせ、途中で間違いに気付いた旧道などは戻らずに進んでいます。2015年3月24日
/ 2015年4月7日 に分割して再訪しています。 |
|
 |
JR中央本線・日野春駅前を通る道を横断して、急な坂道を道なりに下る。すぐに612号線に突き当り、「生態園・長坂駅 9.8km 日野春駅 0.2km」道標がある。左折して道なりに坂を下って進む。釜無川橋を渡り、牧原交差点手前の十字路で旧甲州街道と交差する。 |
釜無川橋からの眺望 2015年3月 |
|
 |
日野春駅から30分ほどの十字路の右手に「武川駐在所→」の標識があり、右折して旧甲州街道を北西に進む。すぐ左手に武川駐在所があり、すぐに大武川(おむかわ)に突き当る。 |
大武川 |
|
突き当る手前の小路を左折して、迂回する。すぐに20号線に突き当り、右折して大武川に架かる大武橋を渡る。 |
|
 |
20号線を左折すると、すぐ左手に昭和44年(1969年)造立の治水興郷碑がある。 昭和34年(1959年)台風7号(伊勢湾台風)来襲の謂われが詳しく彫られている。旧武川村中心部は土石流に呑まれ、流失民家338戸 / 死者・行方不明23人 / 流失農地188町歩 / 堤防橋梁のほとんどが流出
という惨状であった。この災害復旧には、4年の歳月と35億円の巨費が投じられた。 |
治水興郷碑 |
|
 |
 |
大武川に架かる大武橋を渡る。すぐの下三吹バス停前を左折して道なりに進む。5分ほどすると火の見やぐらの左手に丸石道祖神 / 常夜燈 がある。 |
町並み |
丸石道祖神 |
|
 |
丸石道祖神から5分足らずの十字路を右折して、北西へ進む。十字路の左手のカーブミラー / 右手の消火栓 が目印になる。 |
町並み |
|
 |
 |
不明の石塔 / 題目塔 / 百番供養塔 / 庚申塔 |
不明の石塔 / 水難之碑 |
|
 |
十字路からすぐ左手に、不明の石塔 / 題目塔「南無阿弥陀仏」 / 百番供養塔 / 庚申塔 がある。ここを左折すると、万休院に至る。すぐ左手に不明の石塔
/ 水難之碑 がある。すぐ左手に不明の石塔 / 馬頭観音 / 不明の句碑 がある。 |
不明の石塔 / 馬頭観音 / 句碑 |
|
 |
 |
題目塔 / 甲子塔 など |
町並み |
|
石仏石塔群から5分ほどすると、万休院からの道と合流する。左手に、題目塔「南無阿弥陀仏」 / 甲子塔 の周りに六地蔵 / 地蔵 / 馬頭観音 などが数多く並んでいる。
|
|
 |
 |
 |
庚申塔 / 地蔵 / 題目塔 |
馬頭観音 |
水災紀念碑 |
|
 |
 |
石仏石塔群から5分ほどすると、上三吹交差点で20号線と交差する。5分ほどすると、右手に由緒不明の公園がある。地蔵 / 馬頭観音 / 庚申塔 /
丸石道祖神 / 小社 / 石祠 / 題目塔 / 神号碑 / 水災紀念碑 など多数がある。すぐ右手に一里塚跡がある。 |
神号碑 |
一里塚跡 |
|
 |
 |
 |
尾白川 |
甲州街道 古道入口石標 |
草道 |
|
 |
 |
 |
馬頭観音群 |
土道 |
「甲州街道 古道」標柱 |
|
一里塚跡からすぐに20号線に合流、右折する。すぐの尾白川を尾白川橋で渡ると、すぐ左手に「甲州街道 古道入口 はらぢみち」石標があり左折して草道を進む。ここから台ヶ原下交差点までの道は、旧甲州街道が開設される前からあった古い道。すぐ右手に、道標を兼ねた馬頭観音が3基ある。2基には「右かうふみち
左はらぢ通 安永5年」 / 1基には「左はらみち 寛政5年」と彫られている。すぐの分岐を右へ進むと、すぐ左手に「甲州街道 古道」標柱がある。 |
|
 |
 |
 |
「甲州街道 台ヶ原宿 古道」石標 |
石仏石塔群 |
石仏石塔群 / 案内板 |
|
 |
 |
「甲州街道 古道」標柱から5分ほどすると、右手に「甲州街道 台ヶ原宿 古道」石標がある。すぐ左手の岩の上に不明の石塔 / 不明の石仏 / 地蔵
/ 馬頭観音 がある。電柱を挟んだ街道沿いに、庚申塔などの石仏石塔群11基の石仏石塔群 / 案内板 がある。すぐ左手に不明の石塔がある。すぐの台ヶ原下交差点で20号線と交差する手前右手に、道祖神案内板
/ 「古道入口」石標 がある。 |
不明の石塔 |
古道入口石標 |
|
 |
 |
台ヶ原下交差点を斜めに進むと三角地帯に「日本の道百選 甲州街道 台ヶ原宿」標識がある。すぐ左手に山灯籠と石仏石塔群がある。「P道祖神」と石塔に白文字で書かれた石塔がある。 |
甲州街道 台ヶ原宿 標識 |
山灯籠 / 石仏石塔群 |
|
 |
 |
石仏石塔群から5分ほどの十字路を旧甲州街道は直進する。十字路を左折すると、すぐ左手に台ケ原宿案内板 / 「甲州街道 名水百選の里 水の飲み場」がある。 |
町並み |
甲州街道 名水百選の里 水の飲み場 |
|
 |
 |
 |
秋葉山常夜燈 |
台ケ原本陣跡 |
甲州街道 台ケ原宿 ふれあい休憩所 |
|
 |
十字路まで戻り、旧甲州街道を西に進む。すぐ右手に慶應3年(1867年)造立の秋葉山常夜燈と台ケ原本陣跡 / 右手に甲州街道 台ケ原宿 ふれあい休憩所に「甲州街道の宿場町
台ケ原宿」案内板 / 右手に生産物を備蓄していた郷倉跡と高札場跡の案内板 と続く。台ケ原宿は、元和4年(1618年)に宿駅となった江戸から40番目の宿場。甲州街道設立以前から交通集落の機能を果たしていた。天保14年(1843年)の宿村大概帳によると、人口670人
/ 家数:153 / 本陣:1 / 旅籠:14 だった。宿場は東西九町半(約1km)で、造り酒屋 / 旅籠 / 商家 などが残る。 |
台ケ原宿案内板 |
|
 |
ふれあい休憩所からすぐの右手に、寛延2年(1749年)創業の銘酒七賢の蔵元・山梨銘醸(北原家)がある。七賢とは三国志末期の頃、中国河内郡山陽の竹林で酒を飲みながら政談を行った七人の賢人のこと。北原家は脇本陣も兼ね、幕末には高遠藩の御用商人を勤めた。天保6年(1835年)建替えの際には、高遠城主より竹林七賢の欄間を拝領している。明治13年(1880年)明治天皇巡幸のとき、行在所になっている。 |
山梨銘醸(北原家) |
|
 |
七賢の向いに、明治35年(1902年)創業の金精軒がある。元祖信玄餅の老舗で、建物は宿場時代の旅籠。
|
金精軒 |
|
 |
 |
 |
町並み |
登記所跡 |
題目塔 |
|
山梨銘醸からすぐ右手の石垣上に、明治24年(1891年)開庁された登記所跡 / 右手の龍福寺入口標識のところに題目塔「南無阿弥陀仏 と続く。 |
|
 |
題目塔からすぐ右手に、お茶壷道中ゆかりの田中荒尾神社 / 境内に松尾大社 / 熊野大権現 / 数多くの石仏石塔 がある。お茶壺道中は寛永10年(1633年)から毎年四月中旬に、京都宇治新茶を茶壷に入れて江戸城へ運んだ行列。往路は東海道だったが、復路は中山道を経て下諏訪宿から甲州街道に入った。甲州街道に入ったお茶壺道中は、田中荒尾神社に宿泊した。谷村勝山城(山梨県都留市川棚)の茶壷蔵に収蔵して、熟成後の秋に江戸城に搬入された。この茶壷行列は、御三家の大名行列も道を譲らなければならないほど格式の高い行列だった。
|
田中荒尾神社 |
|
 |
 |
 |
松尾大社 |
石仏石塔群 / 熊野大権現 |
|
 |
 |
 |
一里塚跡 |
町並み |
秋葉山石塔 |
|
田中荒尾神社からすぐ右手に、明治4年(1871年)の神仏分離令により廃寺となった修験智挙寺跡の案内板 / 左手に一里塚跡 と続く、10分足らずの右手の火の見やぐら下に、文化9年(1812年)造立の秋葉山石塔がある。 |
|
 |
 |
 |
自元寺総門 |
六地蔵 |
自元寺本堂 |
|
火の見やぐらと白川町消防団との間を右折すると、すぐ右手に武田二十四将・馬場信房によって創建された白元禅寺標識がある。右折すると、左手に天文15年(1546年)建立と云わる総門が見える。馬場信房の屋敷から移築したもので、茅葺であったと云われている。総門左手に石仏石塔群があり、変わった姿の六地蔵が目を引く。白州小学校に沿って進むと、左手に自元寺本堂が見えて来る。馬場信房は武田信虎
/ 武田信玄 / 武田勝頼 の三代に仕え、長篠の合戦で殿軍を務め戦死している。
|
|
 |
 |
 |
町並み |
石祠 |
地蔵 |
|
 |
 |
 |
題目塔 |
七里岩 |
武田神社鳥居 |
|
 |
旧甲州街道に戻り、北西へ進む。5分足らずの右手に祠 / 右手に地蔵 / 右手に題目塔「南無妙法蓮華経」と続く。右手に七里岩が見える。題目塔から5分ほどすると、右手の網に覆われた果樹畑に武田神社鳥居がある。奥に5基の石祠が見える。すぐ左手に丸石道祖神がある。 |
丸石道祖神 |
|
 |
丸石道祖神から10分ほどすると、左手に「槍もちの おくれて通る 日長かな」玉齋吾七句碑がある。5分足らずの前沢上交差点手前右手に、題目塔「南無妙法蓮華経」がある。 |
題目塔 |
|
 |
前沢上交差点で20号線に合流、すぐに神宮川に架かる濁川橋を渡る。元は濁川と呼ばれていたが、大正9年(1920年)に創建された明治神宮の庭敷用として、この川で採集された玉砂利が献上されたところから神宮川と改名された。5分ほどすると県営白洲団地入口バス停があり。すぐの分岐を右へ進むと松並木道になる。 |
松並木 |
|
 |
 |
 |
題目塔 |
不明の文字塔 |
石尊大権現常夜燈 |
|
 |
 |
 |
般若堂 |
石尊神社鳥居 |
不明の石塔 / 不明の石仏 / 供養塔 |
|
 |
 |
 |
石尊大権現常夜燈 |
庚申塔 |
石祠 |
|
分岐から10分ほどすると、左手に題目塔「南無妙法蓮華経七面大明神」がある。七面(しちめん)大明神は七面天女とも呼ばれ、日蓮宗に於いては法華経を守護するとされる女神。すぐ左手に不明の文字塔石 / 石尊神社への南口に石尊大権現常夜燈 /
すぐ左手に「島原・荒田 松原 名所案内」 / すぐ右手に般若堂 と続く。この先辺りに鳥原の一里塚があったと云われている。すぐ左手に石尊神社鳥居がある。応永5年(1398年)創建の石尊神社は、ここから西に約2kmの所にある。すぐ左手に不明の石塔
/ 不明の石仏 / 供養塔 / 石尊神社への北口に石尊大権現常夜燈 がある。すぐ右手に庚申塔 / すぐの松山沢川を松山沢川橋で渡ると左手に石祠2基
と続く。
|
|
祠から5分足らずで、流川に架かる流川橋を渡る。さらに5分足らずの下教来石交差点で20号線と合流して右折する。
|
|
 |
 |
下教来石交差点から20号線を進み、すぐに左折する。すぐ右手に萬霊塔 / 教来石(きょうらいし) と続く。教来石には右手に剣を握っている地蔵が乗っている。この先にも教来石と呼ばれる石が2つある。
|
萬霊塔 |
教来石 |
|
 |
20号線に戻り北へ進む。すぐ左手の明治天皇御小休所址碑のあるところが、教来石宿河西本陣跡。明治天皇は明治13年(1880年)巡幸の際、本陣で休息した。教来石宿は甲州最後の宿で、下教来石が本宿
/ 上教来石が加宿 だった。 当初は幕府領(旗本・馬場氏の知行地)、後に甲府藩領〜享保9年(1724年)以降は幕府領(甲府代官所)となっている。口留番所・山口の関所が置かれ、信濃と甲州の国境としての役割を担った。人口:367人 家数:71 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:7 であった。日本武尊が酒折から信濃に向かうとき、この地に立ち寄り大きな石の上で休んだと云われている。酒折を経て来て休んだ石とのことから、村人は経来石(へてこいし)と呼んだ。後に経の字が教と誤記され教来石(きょうらいし)となり、これが地名の由来となったと云われている。 |
教来石宿河西本陣跡 |
|
 |
 |
 |
七里岩 |
諏訪神社 |
諏訪神社 不動明王 |
|
 |
教来石宿河西本陣跡からすぐの鳳来郵便局前を右折する。七里岩の上に、八ケ岳が遥かに望める。すぐ左手に元和元年(1617年)御朱印山より移転してきた諏訪神社がある。本殿は天保15年(1844年)の再建。境内に二童子を従えた不動明王
/ 石仏が並んでいる。すぐ左手に不明の石塔 / 明治天皇御田植御通覧之址 と続く。明治13年(1880年)巡幸の際、眼下の田植風景を望んだところ。 |
不明の石塔 |
|
 |
 |
 |
庚申塔 |
題目碑 |
不明の石仏 |
|
 |
 |
 |
教慶寺 |
石仏石塔群 |
順禮四國八拾八箇所供養塔 |
|
明治天皇御田植御通覧之址からすぐの 右手に埋もれた庚申塔 / すぐ右手に文化元年(1804年)造立の題目碑「南無妙法蓮華経」と不明の文字塔 と続く。すぐに加久保沢を加久保沢橋で渡る。ここから上教来石に入る。5分足らずの左手に御膳水跡案内板、傍らに不明の石仏がある。明治13年(1880年)巡幸の際、この細入沢の湧水を飲み誉めたと記されている。すぐに20号線に合流、左手に教慶寺があ。すぐ左手に、村人の難儀を取り除くために造立した教慶寺の地蔵
/ 庚申塔 / 甲子塔 / 馬頭観音 が並んでいる。すぐに右折すると、すぐ右手に「白洲町 観光名所マップ」 / 右手に順禮四國八拾八箇所供養塔
と続く。
|
|
 |
 |
 |
町並み |
田園の直線道 |
鳳来山口関跡 |
|
 |
順禮四國八拾八箇所供養塔から大目沢を大目沢橋で渡ると、のどかな田園の直線道になる。順禮四國八拾八箇所供養塔から5分ほどの右手に鳳来山口関跡 /
左手に西番所跡 がある。甲州24ヵ所口留番所の1つで、信州口を見張った国境の関所。天文10年(1546年)武田信玄の伊那進攻のときに設けられたと云われている。天保7年(1836年)百姓一揆のときに防御せずに開門した判断を咎められ、扶持召し上げの処分を受けたという記録がある。関所は明治4年(1871年)廃藩により廃止となる。 |
西番所跡 |
|
 |
 |
馬頭観音 |
国界橋 |
|
鳳来山口関の先に山口の一里塚があったと云われている。10分足らずで20号線に合流、左手にこの地の出身の山口素堂句碑「目に青葉 山ほととぎす 初かつお」がある。右手に七里岩の北端が見え、韮崎から続いた七里岩が終わる。すぐに釜無川に架かる新国界橋手前を左折して釜無川沿いに進む。5分足らずの左手に馬頭観音がある。道なりに進みすぐに国界橋を渡る。すぐに電流柵があり、通行できなくなっている。感電しない様に厚手の手袋で開けられる情報があったが、開ける要領がよく解らず諦める。
|
|
電流柵から20号線まで戻り、釜無川に架かる新国界橋を渡り迂回する。 |
|
 |
 |
題目塔 |
石仏石塔群 |
|
 |
新国界橋を渡り5分ほすると、下蔦木交差点で旧甲州街道からの道と合流する。すぐの分岐を右へ、堂坂を登る。すぐ右手に、題目塔「南無妙法蓮華経」など数多くの石仏石塔群がある。奥の石囲いの中に日蓮上人高座石
/ 句碑 がある。文永11年(1274年)流罪を赦免された日蓮は身延に草庵を結び、甲斐の村々を回り布教に務めた。日蓮上人高座石は、三日三晩立って説法したと云われる石。 |
日蓮上人高座石 |
|
 |
 |
 |
町並み |
道標 |
馬頭観音 |
|
 |
石仏石塔群の反対側に、「三つ辻由来」案内板がある。下蔦木小唄の一節「川路下りょか逸見路にしよか いっそ蔦屋に泊まろうか ここが思案の三つ辻柳」と唄われた「三つ辻柳」は、堂坂の登り口にあった。川路は甲州街道、逸見路は七里岩の上を通り韮崎に出る迂回絽。すぐ右手に判読はできない道標「へみみち
にらさきまで むしゅく」があり、馬頭観音から右折する草道が逸見路。
|
逸見路 |
|
 |
 |
 |
常夜燈 |
真幅寺 |
真幅寺七面宮 |
|
馬頭観音からすぐ左手の下蔦木集落センター前に常夜燈 / 731m標識 がある。すぐの分岐を左へ進むと、すぐ右手に真幅寺 / 境内に七面宮 がある。七面(しちめん)大明神は七面天女とも呼ばれ、日蓮宗に於いては法華経を守護するとされる女神。
|
|
 |
 |
石祠 / 不明の石塔 |
応安の古碑 / 子乃神 / 九四天 / 石祠 / 数多くの石仏 |
|
 |
 |
真幅寺からすぐの分岐を左へ進む。すぐ左手に石祠 / 不明の石塔 がある。すぐ左手に、応安の古碑 / 子乃神 / 九四天 / 石祠 / 数多くの石仏
がある。応安5年(1372年)造立の応安の古碑は、四角形の石造物。宝篋印塔の基礎石と云われている。すぐの突き当りを右へ進む。T字路の左手に、不明の石塔
/ 甲子塔 / 庚申塔 がある。T字路を右折すると、すぐ右手に不明の文字塔がある。 |
不明の石塔 / 甲子塔 / 庚申塔 |
不明の文字塔 |
|
 |
 |
 |
蔦木宿標識 |
常夜燈 |
甲子塔などの石仏石塔群 |
|
 |
 |
不明の文字塔から5分足らずの左手に蔦木宿標識 / すぐ左手に由緒不明の常夜燈 / すぐ左手に甲子塔などの石仏石塔群 / すぐ左手に双体道祖神
/ 右手に桝形道路碑 と続く。 蔦木宿は慶長16年(1611年)に新設された宿駅で、南北に桝形が配された。本来は桝形道路碑の所を左折していたが、道路改良工事によって北へ約10m先に変更した。 |
双体道祖神 |
桝形道路碑 |
|
蔦木宿は慶長16年(1611年)に新設された、江戸から43番目の信州最初の宿場。外から直接見通せない様に、南北に桝形が配された。侵入者が直進するのを妨げる防備にもなっている。天保14年(1843年)の記録によると、人口:508
/ 家数:105 / 本陣:1 / 脇本陣:1 / 問屋場:2 / 旅籠:15 / 宿並は四町半(約491m) だった。元禄15年(1702年)
/ 延享3年(1746年) / 明和8年(1771年) / 寛政6年(1794年) / 文化6年(1809年) / 元治元年(1864年)と6回の大火に見舞われている。 |
|
 |
 |
桝形道路碑から直進して北西へ進むと、すぐに右手に甲斐守護となった武田家11代・信重によって応永24年(1417年)創建された三光寺 / 嘉禎3年(1237年)の祝詞段(のりとだん)に記載がある十五社大明神 と続く。十五社大明神では諏訪神社と同様、7年毎に御柱祭が執り行われる。 |
三光寺 |
十五社大明神 |
|
 |
 |
 |
町並み |
本陣表門 |
明治大帝駐輦跡碑 / 蔦木宿本陣跡碑 |
|
旧甲州街道に戻る。桝形道路碑から桝形を左へ、すぐに20号線に突き当り右折する。すぐ右手に三光寺参道に石標 / 十五社大明神参道に鳥居と常夜燈
/ 上蔦木交差点を越えた右手に元治元年(1864年)大火後の再建と云われる本陣表門 / 明治大帝駐輦跡碑と蔦木宿本陣跡碑 と続く。明治13年(1880年)巡幸のとき、休息した。 |
|
|
|
 |
 |
この辺りはJR中央本線から離れたところにある。上蔦木交差点を右折して坂道を道なりに進む。40分ほど登ると、JR中央本線・信濃境駅がある。
|
朝靄にけぶる桜と山並み |
信濃境駅 |
|
|
|
 |
 |
 |
桝形道址碑 |
常夜燈 / 石祠 / 道祖神 / 石仏 |
二本杉 |
|
 |
 |
 |
馬頭観音 |
石祠 / 不明の文字塔 |
旧甲州街道 |
|
蔦木宿本陣跡からすぐの右手に「甲州街道 蔦木宿 家並みと屋号」案内板があり、枡形の位置が確認できる。5分ほどの枡形跡を左折すると、すぐ右手に桝形道址碑がある。道なりに右へ、Y字路を左へ進む。すぐ右手に常夜燈
/ 石祠 / 奥に数多くの道祖神や石仏 がある。桝形道址碑からここまで5分も掛らない。道なりに右へ進み、20号線に突き当たる手前を左折する。すぐ左手に二本杉があり、奥の杉左手に石仏が見える、草道を進むと、寛政13年(1801年)造立の馬頭観音
/ 馬頭観音 が並んでいる。旧甲州街道に戻ると、右手の20号線側に向いて石祠 / 明治16年(1883年)松尾芭蕉の回忌190年に因み造立された芭蕉合同句碑 がある。すぐに20号線に合流する。
|
|
 |
20号線と合流して5分ほどすると、旧甲州街道は採石場から左に下る。20号線に再び合流する道であるが、途中にネットが張られており通行できなくなっている。 |
旧甲州街道 |
|
 |
 |
分岐まで戻り、20号線を進む。5分ほどすると、旧甲州街道と合流する。すぐ左手の火の見やぐら下に、甲子塔 / 道祖神の石祠 / 庚申塔 が並んでいる。すぐ左手に常夜燈がある。 |
甲子塔 / 道祖神の石祠 / 庚申塔 |
常夜燈 |
|
 |
 |
平岡の一里塚 |
一里塚碑 |
|
常夜燈から5分ほどすると、左手に目印となる火の見やぐら / 左手に平岡の一里塚 と続く。西塚が残り、根元に一里塚碑がある。20号線から下ったところにあり、見逃し易い。 |
|
 |
 |
馬頭観音 |
甲子塔 / 石祠 / 石祠 / 不明の石塔 / 常夜燈 |
|
 |
平岡の一里塚からすぐに。右へ坂を登る。坂の途中左手に馬頭観音がある。道なりに進むと、すぐ左手の火の見やぐらの下に甲子塔 / 石祠 / 石祠 / 不明の石塔 / 常夜燈 が並んでいる。 すぐに20号線から分岐する道と合流すると、すぐ左手に諏訪百番順拝供養塔がある。 |
諏訪百番順拝供養塔 |
|
 |
 |
諏訪百番順拝供養塔から10分足らずの左手に、火の見やぐらがある。左折すると、すぐの突き当りに忠魂碑 / 愛馬出征記念碑 がある。火の見やぐらから5分ほどすると、左手に文政4年(1821年)造立の題目塔「大勢至菩薩」がある。前後に小さな石祠や石仏石塔が並んでいる。 |
町並み |
題目塔 |
|
 |
 |
 |
諏訪神社常夜燈 |
諏訪神社社殿 |
|
|
 |
 |
双体道祖神 |
諏訪神社石段 |
石塔群 |
|
題目塔からすぐの瀬沢大橋交差点で20号線に合流する。立場川を瀬沢大橋で渡り、すぐに左折して道なりに進む。瀬沢大橋を渡ってから5分ほどの突き当りを右折する。すぐ左手に天保13年(1842年)造立の諏訪神社常夜燈がある。参道を進むと、すぐ左手に双体道祖神
/ 狭く長い石段を登ると社殿 がある。社殿右手の広場に不明の文字塔 / 神号碑「天神宮」 / 神号碑「天神」 / 不明の石塔 / 師界塔 が並んでいる。 |
|
 |
 |
 |
西照寺 |
地蔵堂 |
石仏石塔群 |
|
広場の右手に、瀬沢合戦戦死者の供養がされた西照寺がある。天文11年(1542年)武田晴信(信玄)は、小笠原長時 / 諏訪頼重 / 村上義清 / 木曽義昌 の連合軍と現富士見町瀬沢で戦って勝利した。瀬沢合戦場は立場川の対岸にあたる。西照寺は無住の寺となり、寂れている。右手奥に無造作に置かれた石仏石塔群には、墓石も多く見られる。後方の少し高くなったところに、瀬沢合戦で討ち死にした武田方9人の遺族が造立した供養塔があると云う。
|
|
 |
 |
道標 |
石仏石塔群 |
|
 |
 |
 |
石仏石塔群 |
馬頭観音4基 / 観音 |
石仏石塔群 |
|
旧甲州街道に戻ると、すぐの分岐に道標がある。ここから3ヶ所続く分岐は、すべて左へ進む。分岐を道なりに直進して坂を登ると、すぐ左手に8基の石仏石塔群がある。中央にある道標には「左すワ 右山浦」と彫られている。ここを左折すると、すぐ右手に西照寺がある。5分ほどの左手に、甲子塔や馬頭観音など12基の石仏石塔群がある。さらに5分ほどすると、馬頭観音43基
/ 享和2年(1802年)造立の観音がある。すぐ右手に石仏石塔群がある。 |
|
 |
 |
尾片瀬神社 |
福昌院跡 |
|
 |
石仏石塔群から15分ほどすると、右手に尾片瀬神社がある。ここは福昌院跡で、石仏石塔群がある。 |
石仏石塔群 |
|
 |
 |
旧甲州街道に戻ると、すぐ右手に数多くの石祠と石塔 / 右手に地蔵と馬頭観音群 と続く。 |
石祠 / 石塔 |
地蔵 / 馬頭観音 |
|
 |
 |
重修一里塚碑 |
|
 |
重修一里塚 |
道祖神 |
|
地蔵と馬頭観音群からすぐ左手に甲州街道案内板 / すぐ右手に重修一里塚の北塚 と続く。塚平一里塚とも呼ばれている。重修一里塚碑 / 道祖神 /
傍らに標高950m標識 がある。 |
|
重修一里塚からすぐに突き当たり、旧甲州街道は途絶える。この先は企業の所有地になっている。 |
|
|
|
 |
 |
石仏石塔群 |
富士見駅 |
|
突き当たりを右折して北東へ、道なりに5分ほど進むと左手に石仏石塔群がある。すぐの富士見交差点を東へ進むと、5分ほどのところにJR中央本線・富士見駅がある。駅舎内に標高955mの標識がある。
|
|
|
|
 |
 |
 |
標識 |
透関の馬頭観音 |
馬頭観音 |
|
突き当りの手前左手に迂回路の標識がある。左折して迂回、一本目の舗装路を右折する。途中から砂利道に変わる。道なりに進むと、舗装路の旧甲州街道と合流する。合流するところに「原の茶屋」標識がある。T字路から「原の茶屋」標識まで、10分ほどの迂回路となる。「原の茶屋」標識から途切れている旧甲州街道を戻る。すぐの突き当りを道なりに左へ進むと、すぐ左手の民家の庭先に天明元年(1781年)造立の透関(とうかん)の馬頭観音 / 文化5年(1808年)造立の馬頭観音 がある。当時は原の茶屋付近の道路状況は悪く、ことに春先にはぬかるみとなって人馬の通行が難渋していた。地元の透関は藩から道路改修の許可を得て、安永9年(1780年)私財を投じて着手し、塚平(つかだいら)から原の茶屋間に新道を開削した。改修工事は翌天明元年(1781年)に完成、透関は道中の安全を祈願して馬頭観音を造立した。
|
|
 |
 |
 |
町並み |
金毘羅神社常夜燈 |
如意輪観世音菩薩石標 |
|
 |
原の茶屋標識から10分たらずの右手に、原の茶屋公民館がある。敷地に、961m標識 / 明治天皇駐驛之所碑 がある。すぐ右手に明治天皇御膳水碑
/ すぐ右手に文化8年(1811年)造立の金毘羅神社常夜燈 /すぐ右手に如意輪観世音菩薩石標 / すぐ右手に石仏石塔群 と続く。常夜燈手前の小路を右折するの金毘羅神社参道。如意輪観音は街道沿いにあったが、奥に移されている。石仏石塔群は左から、双体道祖神
/ 道祖神 / 不明の石塔 / 庚申塔 / 百番供養塔 / 常夜燈。 |
石仏石塔群 |
|
 |
森を抜けると左手には田園風景が広がる。右手にある工場の擁壁下を進む。石仏群から10分足らずの左手に、念仏供養塔がある。 |
念仏供養塔 |
|
 |
 |
石仏石塔群 |
庚申塔 / 千庚申塔 / 筆塚 |
|
 |
念仏供養塔から5分ほどの火の見やぐらのところのY字路を左へ進む。すぐ左手に石仏石塔群がある。奥は墓地になっている。すぐの洗坂左手に、庚申塔 /
千庚申塔 / 嘉永6年(1853年)造立の筆塚 がある。すぐ右手に、不明の石塔 / 明治15年(1882年)造立の富蔵山碑 がある。 |
不明の石塔 / 富蔵山碑 |
|
 |
富蔵山碑からすぐに20号線に合流する。ここが旧御射山神戸村の南枡形跡で、御射山神戸(みさやまごうど)は間の宿だった。鋭角に左折して、20号線を北西へ進む。10分足らずの神戸八幡交差点の左手に神戸八幡社がある。社殿は宝暦12年(1762年)の建立。 |
神戸八幡社 |
|
旧甲州街道は神戸八幡交差点を直進、北西へ進む。 |
|
 |
神戸八幡交差点右折すると、すぐ右手に筆塚がある。直進すると、右手にJR中央本線・すずらんの里駅がある。 |
筆塚 |
|
 |