甲州街道 No.09 大和橋西詰交差点-(約24km)-相生交差点
2014年 5月14日(水)07:30 晴
甲斐大和駅から西へ、20号線と合流して日川に架かる大和橋を渡る。駒飼宿から下って来た旧甲州街道は大和橋西詰交差点で20号線に突き当たり、20号線を西へ進む。
甲州鞍馬庭石店 旧甲州街道に架かる橋 鶴瀬関所跡
大和橋西詰交差点から5分ほどすると、道なりに左へ下る。右手に20号線の日川に架かる立会橋を見ながら旧甲州街道に架かる橋を渡る。すぐの鶴瀬交差点手前右手に、鶴瀬関所跡標柱 / 案内板 がある。甲州十二関の一つで、この関は鶴瀬の口留番所と云われ主に物資の流通の警戒と入鉄砲に出女を取り締まった。
鶴瀬地区碑 甲州道中鶴瀬宿標柱 町並み
すぐに旧甲州街道は20号線と斜めに交差する。20号線を西へ進んだすぐの右手に、鶴瀬地区碑 / 甲州道中鶴瀬宿標柱 / 案内板 が並んでいる。鶴瀬宿は、本陣:1 / 脇本陣:2 / 旅籠:4 で手前の駒飼宿と合宿。旧甲州街道を進むと、すぐ右手に享和3年(1803年)造立の石尊大権現常夜燈がある。石尊大権現は大山阿夫利神社の祭神。
石尊大権現常夜燈
古跡血洗沢跡 20号線のトンネル 観音2基
聖観音堂標柱 戦士合祀之墓 聖観音堂
道なりに進むと、すぐに20号線に突き当たり右折する。以降20号線は殆ど右側にしか歩道がない。10分ほどすると右手に古跡血洗沢跡がある。落ち延びる武田勝頼を裏切った跡部大炊助を家臣・土屋惣蔵が斬り、沢で刀の血を洗ったところ。5分ほどすると、20号線のトンネルが見える。旧甲州街道は、トンネル手前から右へ階段を登る。すぐ右手に観音が2基並んでいる。急坂になるがコンクリート舗装されており、滑ることはない。すぐ左手に「聖観音堂」標柱 / 右手に戦士合祀之墓 がある。Y字路を左へ進み、舗装された道から頂上が近くなると土道になる。頂上から聖観音堂へ下る坂は、急な小石混じりの土道で滑り易い。すぐに聖観音堂がある。聖観音は京都清水より移したものと云われている。トンネル手前の階段を登ってから10分も掛らない。
聖観音堂境内からの眺望 鉄柵のある崖道 車道に下る坂道
聖観音堂から灯籠の間を抜けると、眼下に20号線 / 遠くに甲府盆地が見える。広重はここからの景を古今絶景也と評している。坂を下るが、急な小石混じりの土道で滑り易い。足を滑らすと落ちそうで、要注意な場所である。崖道は鉄柵のスロープになり、車道に出る。鋭角に左折、すぐに20号線を潜る。左手に“古跡武田不動尊”標柱と燈籠がある。急な階段は武田不動に至る道。落延びて来た武田勝頼は、守り本尊の不動明王を里人に託したと云われている。
古跡武田不動尊標柱 / 燈籠
共和地区碑 旧甲州街道標柱 旧甲州街道標柱
「古跡武田不動尊」標柱からすぐの左手に共和地区碑 / 左手に旧甲州街道標柱 / 右手に旧甲州街道標柱 と続き、横吹(現在の共和)集落に入る。最初の旧甲州街道標柱の側面には「甲州街道鶴瀬宿と勝沼宿を結ぶ横吹の道中は往時の面影を今に伝えています」と記されている。横吹集落に入って5分ほどすると、20号線に合流する。10分足らずの左手に大和町と勝沼町の境モニュメントがある。
横吹集落 境モニュメント
柏尾坂公園 柏尾古戦場跡標柱 馬頭観音
大正柏尾橋跡 江戸時代の柏尾橋跡 柏尾坂
大和町と勝沼町の境モニュメントからすぐに深沢入口交差点がある。交差点を越えると、すぐ右手の柏尾坂公園に近藤勇像が見える。深沢川両岸は柏尾古戦場跡で、慶応4年(1868年)近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は板垣退助率いる東山道軍と激戦の末破れて江戸へ敗走した。旧甲州街道は柏尾坂公園手前の石畳が敷かれた柏尾坂を下る。 左手に「近藤勇 柏尾古戦場」碑と柏尾橋説明板 / 右手に天保7年(1836年)造立の馬頭観音 / 左手に明治末期から大正時代に架けられたと推定される大正柏尾橋跡 と続く。幅5.8m / 長さ18mの木造トラス橋で、昭和30年代に昭和柏尾橋が完成するまで使われていた。下り切った所が江戸時代の柏尾橋跡で、幅10尺(約3m) / 長さ12間(約22m) の板橋だった。およそ17年ごとに架け替えが行われ、管理維持は勝沼宿の役割であったと云われている。この付近の甲州街道は、元和4年(1618年)頃に整備された。それまでは昭和柏尾橋辺りのたもとからつづら折の坂を深沢川の河原まで下り、平成祇園橋辺りに上っていたと推定されている。
柏尾坂公園まで戻り、20号線を西へ進む。すぐに深沢川に架かる昭和柏尾橋を渡る。すぐ右手に大善寺(有料施設)がある。養老2年(718年)行基がこの地で修行中に葡萄(ぶどう)をさげた薬師如来が夢に現れ、この姿の薬師如来を作り安置したのが大善寺の始まりと云われている。甲州葡萄の始まりとも云われ、ぶどう寺とも呼ばれている。弘安9年(1286年)建立の本堂(薬師堂)は国宝。落ち延びてきた武田勝頼一行が大善寺で一夜を過ごしている。大善寺の手前左側に、20号線の敷設から取り残された旧道が残っている。
大善寺
国見坂標柱 題目塔「南妙法蓮華経」 馬頭観音
大善寺から5分ほどすると柏尾交差点から旧甲州街道は右へ、38号線を勝沼・山梨方面へ進む。かつては38号線沿いにぶどう園が軒を連ねていたが、勝沼バイパスや中央自動車道の開通により寂れてしまった。柏尾交差点から5分ほどすると、右手に元和7年(1621年)甲州街道往還筋地名として定められた「国見坂」標柱 / 右手に題目塔「南妙法蓮華経」 / 右手に馬頭観音 と続く。
馬頭観音から5分ほどすると、右手に金毘羅神社の標識がある。石段を登ると金比羅神社社殿手前右手に、「山さとは万歳遅し梅の花」金毘羅神社芭蕉句碑がある。金比羅神社社殿から石段を登ると、雀の宮神社がある。
金比羅神社 雀の宮神社
上行寺 勝沼脇本陣跡 勝沼本陣跡
金比羅神社から5分ほどの交差点手前右手に、上行寺 / 街道に面して日蓮聖人投宿之地碑 がある。直進して214号線を進む。右折する38号線はJR中央本線・勝沼ぶどう郷駅に至る。上行寺からすぐの上町交差点手前右手に脇本陣跡がある。上町交差点を越えるとすぐ右手に、“槍掛けの松”が残る勝沼本陣跡がある。大名や公家などが泊まると、その目印にこの老松に槍を立て掛けたと云われている。勝沼宿は元和4年(1618年)に新設され、家数:192 / 本陣:1 / 脇本陣:2 / 旅籠:23 / 問屋場:1 であった。甲府盆地の東端に位置していることから、峡東(きょうとう)地方の物資集積の場として賑わった。江戸時代からすぐれたぶどう産地として知られていた。
町並み 三階造りの蔵 旧田中銀行社屋

勝沼本陣跡から5分ほどの右手に、明治20年(1887年)の大火後に建てられた三階造りの蔵がある。地下1階 / 地上3階の土蔵。勝沼には土蔵が多く、火災時の延焼防止の機能を果たすために作られていると云う。すぐ右手に旧田中銀行社屋(国登録有形文化財 / 経済産業省近代化産業遺産)がある。明治30年代に勝沼郵便電信局舎として建てられ、大正9年(1978年)より昭和7年(1932年)頃まで山梨田中銀行の社屋として利用された。

旧田中銀行社屋からすぐの勝沼小学校前交差点手前右手に、ようあん坂標柱 / 海抜400米標柱 がある。ようあん坂は勝沼宿内で最も急な坂。用有と呼び止めたことからとも、天野養庵の家が近くにあったからとも 云われている。
ようあん坂標柱 海抜400米標柱
護念寺   古民家 諏訪神社
諏訪神社 町並み  常夜燈 / 丸石道祖神
浄蓮寺 地蔵堂 杉御坊石柱
ようあん坂標柱からすぐの勝沼小学校前交差点の右手に、明治13年(1880年)に開校した勝沼学校跡がある。木造2階建 / 1階に車寄 / 2階にベランダを備えたE字型校舎は、昭和30年(1955年)に取り壊された。5分ほどすると、左手に護念寺がある。10分足らずの右手に、等々力の産土神・諏訪神社がある。境内にある大ケヤキは、目通り4.8m / 樹高30m で樹齢三百年と推定されている。 すぐ右手に常夜燈と丸石道祖神 / 右手に浄蓮寺 と続く。5分ほどすると、右手に地蔵堂 / 文政13年(1830年)造立の常夜燈 / 丸石道祖神 がある。すぐ右手の萬福寺参道口に杉御坊石柱がある。推古天皇12年(604年)聖徳太子の命により創建されたと云われている。親鸞聖人が当寺に逗留した際、使用した杉箸を地面に刺したところ杉の大木になったと云われている。この大杉は寛延の火災で焼失している。
杉御坊石柱から5分ほどすると甲州市から山梨市に入り、すぐ左手に「旧甲州街道」標柱 / 右手に推古天皇7年(599年)創建と云われる建岡神社 と続く。白山権現 / 白山建岡神社とも称された。
旧甲州街道標柱 建岡神社
大法寺 丸石道祖神 天神社
旧甲州街道標柱 「大宮五所大神参道」石柱 大宮五所大神
建岡神社からすぐの上栗原交差点辺りから栗原宿に入る。栗原宿は、本陣:1 / 脇本陣:1 / 旅籠:20 だった。毎月四と九の付く日に市が立ち、この一帯の農産物や織物などの集積地として賑わった。上栗原交差点からすぐ右手に大法寺 / 右手に丸石道祖神 / 右手の満開の桜の下に天神社 と続く。すぐ右手に「旧甲州街道」標柱があり、旧甲州街道はすぐの分岐を右へ進む。すぐ左手に「大宮五所大神参道」石柱がある。右折して参道を進むと、旧栗原筋五十五ケ村の総鎮守・大宮五所大神がある。往時は歌舞伎興行の一座はここで芝居を打ち、評判を確認してから甲府に入ったと云われている。
旧甲州街道に戻り、西へ進む。すぐの突き当たりにある源屋園は、栗原宿の旧旅籠源屋。左折してすぐに411号を横断する。道なりに日川沿いの土手道を5分ほど進み、新日川橋の北詰を過ぎる。5分ほどすると右手に電波塔があり、手前を右折して土手を下る。すぐに411号線に突き当たり左折する。すぐ左手に「旧甲州街道」標柱がある。
電波塔 旧甲州街道標柱
古民家 称名院  町並み
「旧甲州街道」標柱から10分足らずの一町田中交差点を左折する。交差点の北西側に門が閉ざされている称名院がある。武田勝頼が岩殿城に落ち延びる際、父・信玄の水晶の数珠をここに託したと云われている。一町田中交差点からすぐに日川に突き当たり、旧甲州街道は途切れる。右折して迂回、土手道を進む。すぐに左折して日川を日川橋で渡る。日川は大菩薩嶺を源として、笛吹川に合流する。日川橋を渡りすぐに川沿いの道を左折すると、すぐ右手に節婦之碑がある。旧一町田中村の百姓・安兵衛の妻は、寝たきりの夫と老婆を抱えてけな気に働いていた。享保13年(1728年)豪雨で日川が氾濫する。妻は老婆を避難させ、次いで夫を背負って家を出たが濁流にのまれてしまった。これを讃えた碑。
節婦之碑
日川沿いの土手道を進む。すぐに右折して石段を下り、側溝沿いに右折する。側溝脇の細い道が旧甲州街道で、道なりに進み411号線を横断する。411号線を横断する手前右手に、甲斐犬を扱う犬舎がある。細い道で「気性が荒く攻撃的」な甲斐犬に吠えられる情報があり、犬舎前を通り抜ける旧甲州街道を避ける。石段を下らずに、日川沿いの土手道を進む。合流する車道を鋭角に右折して、旧甲州街道の南側の道を進む。右手に馬頭観音がある。
馬頭観音
馬頭観音からすぐの日川橋南詰交差点を右折して、日川橋方面に進む。すぐに交差する旧甲州街道を左折する。411号線は日川橋から日川橋南詰交差点で進路を西に変え、笛吹橋に通じている。日川橋南詰交差点から笛吹橋南詰間には、甲州桃太郎街道の標識がある。吠える甲斐犬犬舎を背に旧甲州街道を進むと、すぐ右手に白山神社がある。この辺りで日川 / 重川 / 笛吹川 が合流、古来より河川の氾濫に悩まされたところ。白山神社は明治40年(1907年)の水害後に再建された。
白山神社
白山神社から5分ほどすると、笛吹川の土手に突き当る。道なりに土手沿いに進む。すぐの分岐は右へ、すぐ右手に宮下翁頌徳碑がある。すぐに笛吹川の土手道に合流する。リバーサイドホテル角の丁字路を左に進む。5分ほどすると、411号線に合流する。合流手前の411号線側に「甲州桃太郎街道標柱」がある。
町並み 甲州桃太郎街道標柱
「甲州桃太郎街道標柱」辺りから旧甲州街道は笛吹橋の対岸取付け部辺りまで、道が繋がっていた。往時の笛吹川は、第二平等川のところを流れていた。川を渡ることなく石和宿に入っていた。
笛吹川の対岸に石和温泉郷 笛吹橋からの笛吹川 松並木
歩道のない411号線を進むと、笛吹川の対岸に石和温泉郷が見える。昭和36年(1961年)畑から多量の温泉が湧出、高温で湯量が多いところから全国的に有名な温泉地となった。411号線に合流してから5分ほどで、右折して笛吹川に架かる笛吹橋を渡る。笛吹川は日本三大急流(最上川 / 富士川 / 球磨川)の富士川水系の一級河川。渡り終えた辺りに旧甲州街道が通じていた。笛吹橋北詰にある石和温泉郷東入口交差点を北側に横断、左折して411号線を南西へ進む。右側の松並木は、明治40年(1907年)笛吹川が氾濫した後に植えられたもの。
 
笛吹権三郎之像 / 神号碑「水天宮」 笛吹権三郎之像 丸石道祖神
松並木から右斜めに下り、411号線に平行する道を進む。5分ほどすると、左手に横笛を吹く笛吹権三郎之像 / 神号碑「水天宮」2基 / 丸石道祖神 がある。笛の名手であった権三郎は、母親と二人で暮らしていた。大洪水に遭い濁流に二人とも流されるが、権三郎は運良く助かった。権三郎は日夜母親の好きな曲を吹きながら川を探し回った。権三郎は川に落ち深みにはまり、亡くなってしまった。その後に川の流れる音が権三郎の吹く笛の音の様に聞こえることから、笛吹川と云うようになった。
旧甲州街道はこの辺りから消滅している。道なりに進むと、すぐ左手に標識がある。すぐ左手にある川中島郵便局の手前を左折する。すぐに右折する道が、復活した旧甲州街道。
標識
[寄り道]長昌院
町並み 長昌院 秋葉三尺坊
川中島郵便局の手前を左折せずに直進すると、すぐ右手に長昌院 / 境内に秋葉三尺坊 がある。天正10年(1582年)武田勝頼が西に向って落ちていく時に立ち寄り、腰掛けたと云う石がある。
復活した旧甲州街道を疑問を持ちながら進む。途中で地元の方に伺っても、解らないと言われる。川中島郵便局の手前を左折してから10分ほどすると、左手に標識がある。すぐに“食堂かどや”がある五差路を左折、旧甲州街道は南へ進む。
標識
[寄り道]旧石和陣屋門 / 八田家書院
旧石和陣屋門
五差路を右折して北へ進む。5分ほどの左手に旧石和陣屋門 / 右手に八田家の菩提寺・願念寺 と続く。石和陣屋は寛文元年(1661年)甲府藩主・徳川綱重(徳川家光の三男)によって設けられ、徳川綱重は江戸城桜田邸に居住したため代官所として使用された。宝永2年(1705年)柳沢吉保が入封、享保9年(1724年)柳沢吉里は大和郡山へ転封となる。再び幕府天領の代官所となった。旧石和陣屋門は寛文元年(1661年)代官所創設の際建立され、明治7年(1874年)に払い下げられ移築されたもの。
旧石和陣屋門を潜ると、慶長6年(1601年)築の八田家書院がある。八田家御朱印屋敷に付属する別棟書院で、茅葺き入母屋造りになっている。八田氏は武田家臣で、蔵前衆の要職を務めていた。天正10年(1582年)武田滅亡後、甲斐を領した徳川氏に臣従する。
八田家書院 願念寺
五差路まで戻り、旧甲州街道を南へ進む。すぐに411号線に突き当り右折する。411号線を西へ進むと、すぐ右手に遠妙寺(おんみょうじ) / 右手に享和3年(1803年)武田館跡地にあった古城稲荷を勧請したのが始まりと云われている普賢願生稲荷堂 と続く。
遠妙寺 普賢願生稲荷堂
遠妙寺辺りから石和宿場通りになる。石和宿は、本陣:1 / 脇本陣:1 / 旅籠:14 であった。武田氏は信虎の代に甲府・躑躅ケ崎に移るまで、石和を本拠地にしていた。
普賢願生稲荷堂からすぐの交差点手前を左折して南へ進むと、すぐの突き当りの石和陣屋跡に石和南小学校がある。
普賢願生稲荷堂からすぐ右手に石和八幡宮がある。物部神社の社地に、建久3年(1192年)鎌倉鶴岡八幡宮を勧請して創建された。武田氏の崇敬を受けていたが、天正10年(1582年)武田家滅亡の折、戦火により焼失する。天正11年(1583年)徳川家康の寄進によって社殿が再建される。
石和八幡宮
石和八幡宮からすぐに石和温泉駅入口交差点がある。右折して北へ進むと、JR中央本線・石和温泉駅がある。石和八幡宮から5分ほどのところに第二平等川がある。往時の笛吹川の流れで、明治40年(1907年)の大水害で現在の笛吹川の流れに変わった。この辺りまでが石和宿だった。第二平等川を甲運橋で渡ると、笛吹市から甲府市に入る。往時は川田の渡しで、夏場は舟渡し / 冬場は仮橋 だった。右手に万延元年(1860年)造立の川田道標がある。正面に「左 甲府 甲運橋 身延道」 / 左側面に「右 富士山 大山 東京道」 / 裏面に「左 三峰山 大嶽山」と刻まれている。左面の“東京道”は、“江戸道”と彫られていたものを彫り直したもの。
川田道標
川田道標からすぐのY字路の手前右手に、石塔群がある。Y字路を左へ進み、すぐに平等川に架かる平等橋を渡る。宇治平等院と同様に蛍が多かったところから、平等川と呼ばれるようになった。右手に平等川改修記念碑がある。
石塔群
町並み 和戸町由来標柱 石塔群 / 丸石道祖神
平等川改修記念碑から10分足らずの甲運小学校入口バス停右手に、和戸町由来標柱 / 石塔群 / 丸石道祖神 がある。和戸町由来標柱には「和戸町は平安期この付近を中心として栄えた表門郷(うわとのごう)の遺称である、郷とは奈良時代に五十戸をもって編成された行政村落のことであり、地名の由来から、古くから集落が発達していたことが知られる。地内には在原塚、琵琶塚、太神さん塚などの古墳が点在する。」と記されている。
町並み 二宮金次郎像
六地蔵
酒折ボランティア公園 山崎刑場跡
甲運小学校入口バス停から15分ほどすると、右手に二宮金次郎像 / 社 が並んでいる。5分ほどすると右手に六地蔵、さらに5分ほどすると、山崎三叉路交差点がある。内藤新宿を起点とする青梅街道の追分。すぐ右手に酒折ボランティア公園 / 右手に山崎刑場跡 と続く。山崎刑場跡には、題目塔「南無妙法蓮華経」 / 六地蔵 / 石仏 / 供養塔 / 墓石 がところ狭しと置かれている。
山崎刑場跡からすぐの右手の酒折(さかおり)宮旧参道口に、酒折宮石標がある。「日本武尊御舊蹟」も彫られている。10分足らの酒折宮入口交差点を右折して北へ進む。JR中央本線を越えると、突き当りに酒折宮がある。景行天皇40年に日本武尊(やまとたける)が東征、帰路に立ち寄って営んだ行宮に因むと云われている。
酒折宮石標 酒折宮
旧甲州街道に戻る。酒折宮入口交差点から5分ほどすると、善光寺入口交差点がある。この辺りに板垣一里塚があったと云われている。
町並み
[寄り道]甲斐善光寺 / 東光寺
 
善光寺山門                        善光寺金堂
善光寺入口交差点を右折して、善光寺通り(109号線)を北へ進む。10分ほどすると、永禄元年(1558年)創建の甲斐善光寺がある。武田信玄が上杉兼信との川中島の合戦で、信濃善光寺の焼失を恐れ本尊・善光寺如来像などを移したのが始まりと云われている。寛政8年(1796年)再建の金堂 / 山門は重文。
東光寺本殿 東光寺仏殿

善光寺通り(109号線)は左に曲がり、善光寺境内の西側を通る。すぐのT字路を左折して道なりに進むと、5分たらずの右手に甲府・府中五山の東光寺がある。保安2年(1121年)武田氏の祖・源義光(新羅三郎)が国家鎮護と仏法繁盛の祈願所として再興、興国院とした。弘長2年(1262年)に東光寺、天文年間に武田信玄が東光興国禅寺 と改称する。天文11年(1543年)武田軍のよる諏訪侵攻で、諏訪領主・諏訪頼重は東光寺に幽閉され自害したと云われている。永禄8年(1565年)謀反の疑いをかけられた武田信玄の嫡男・義信が幽閉されて永禄10年(1567年)東光寺で死去した。天正10年(1582年)織田軍の侵攻で武田家が滅亡すると焼き討ちに遭っている。江戸幕府により寺領の安堵を受ける。昭和20年(1945年)甲府空襲で再建本堂は焼失する。延焼を免れた室町時代後期建立の仏殿(薬師堂)は重文。

善光寺入口交差点まで戻り、旧甲州街道を西へ進む。すぐにJR東海・身延線ガードを潜る。右手方向にJR善光寺駅がある。JR身延線のガードからすぐに甲府城下八曲りが始まる。城下町を複雑に曲げるのは敵軍の侵攻を防衛する為で、城下町を長くすることによって商家の数を増やすことができる。甲府城下ではこの曲りを桝形とは言わず、金手(かねんて)と言う。これは大工道具の直角定規の金尺(かねじゃく)に由来している。
古民家 甲斐奈神社 瑞泉寺
JR身延線のガードからすぐの突き当りを左折(1つ目)する。すぐに右折(2つ目)する。10分ほどの突き当りを左折(3つ目)する。すぐに右折して西へ進むと、すぐ右手に甲斐奈(かいな)神社 / 右手に瑞泉寺 と続く。甲斐奈神社は甲斐奈山(現愛宕山)にあったが、武田信虎が甲府の守護神としてここに移した。

旧甲州街道に戻り、3つ目から南へ直進する。すぐに変則四差路があり、右折(4つ目)して西へ進む。変則四差路の東側に大永年間(1521年〜1528年)武田信虎によって創建された天尊躰寺がある。元柳町(現武田三丁目)にあったが、文禄年間(1592年〜1596年)に現在地に移転した。大久保長安 / 「目には青葉 山ほととぎす 初がつお」で知られる山口素堂 の墓がある。大久保長安は武田信玄の遺臣で、徳川家康に見出されて金山奉行等を勤めた。甲府の佐渡町は、佐渡守であった長安が屋敷を構えたところ。

天尊躰寺

変則四差路の南側、突き当たりの細い道を進むと右手に教安寺がある。徳川家康八男・仙千代の高岳院廟所がある。平岩親吉は幼少より同い歳の徳川家康に仕え、信頼が厚かったと云われている。甲府63000石の領主となった平岩親吉には子がなく、平岩家の断絶を惜しんで仙千代を養子とした。甲府初の芝居小屋がおかれた興行発祥の地。

教安寺
旧甲州街道は変則四差路から西へ進む。10分ほどすると、右手に身延山別院がある。
身延山別院
身延山別院からすぐのNTT甲府支店西交差点を左折(5つ目)する。この交差点辺りに本陣があった。城東通りから遊亀(ゆうき)通り(旧柳町通り)になる。宿場機能が柳町に集中しているところから、甲府柳町宿と呼ばれた。本陣:1 / 脇本陣:1 / 旅籠:21 の宿場町であり甲府城の城下町だった。甲府の地名は、甲斐國の府中であるところから命名されている。すぐ左手に柳町大神宮がある。
柳町大神宮
柳町大神宮からすぐの問屋街入口交差点を右折(6つ目)する。すぐの突き当りを左折(7つ目)、すぐの桜町南交差点を右折(8つ目)すると甲府城下八曲りが終わる。すぐに相生交差点がある。旧甲州街道は西へ進む。右折して52号線を北へ10分ほどすると、JR中央本線・甲府駅がある。