甲州街道 No.08 笹子駅-(約12km)-大和橋西詰交差点-甲斐大和駅
2014年 5月10日(土)07:20 晴
分岐 本陣跡 秋葉山常夜燈
JR中央本線・笹子駅から20号線を西へ進む。すぐにJR中央本線を、右手にある歩行者トンネルで潜るのが旧甲州街道。すぐに20号線に合流する。10分足らずの左手に明治天皇行在所趾碑があるところが本陣跡。黒野田宿は白野宿 / 阿弥陀海道宿との合宿で、本陣:1 / 脇本陣:1 / 旅籠:14 があった。甲州道中最大の難所・笹子峠を控え、賑わったと云われている。本陣跡手前左手にある笠懸地蔵は、山に登る方と話しながら進み見落としている。すぐ左手に嘉永7年(1854年)造立の秋葉山常夜燈がある。
秋葉山常夜燈からすぐに笹子川に架かる旧黒野田橋を渡る。すぐ右手の天正11年(1583年)創建と云われる普明院山門脇に、「江戸日本橋ヨリ二十五里」と彫られた黒野田の一里塚跡碑がある。境内に「行くたびに いどころ変わる かたつむり」芭蕉句碑がある。
普明院 黒野田の一里塚跡
普明院から5分ほどすると、笹子川に架かる星影橋を渡る。すぐ右手に石仏石塔群がある。大正14年(1925年)造立の馬頭観音、高い位置に昭和15年(1940年)造立の馬頭観音 / 不明の石塔2基 / 題目塔「南無妙法蓮華経」 / 昭和期造立の馬頭観音 / 大正7年(1918年)造立の馬頭観音 がある。
石仏石塔群
常夜燈 / 馬頭観音 「笹子駅 笹子雁が腹摺山」道標 「矢立の杉 ここより4km先」標識
石仏石塔群から5分ほどすると、左手の公民館前バス停手前に安政3年(1856年)造立の愛宕山常夜燈 / 馬頭観音 がある。すぐ左手に「笹子駅 笹子雁が腹摺山」道標 / 矢立の杉案内看板 と続く。すぐの212号線が分岐する左手に「矢立の杉 ここより4km先」標識がある。20号線をそのまま進むと、昭和33年(1958年)竣工の新笹子トンネルに至る。当時は、関門トンネルに次ぐ日本第2位の長さだった。
「甲州街道 矢立の杉 笹子駅」標識 木立の道 新田沢の砂坊ダム
木立の道 「矢立の杉」の旗 笹子峠自然遊歩道地図
212号線を進むと、すぐに中橋を渡る。5分ほどの右折する角に「甲州街道 矢立の杉 笹子駅」標識があるが、電柱に隠れて見づらい。ここが甲州道中最大の難所・笹子峠の登り口となる。すぐに土道になり木立の中を進む。小さな木が倒れて道を塞いでいるところが何箇所かあり、歩きづらい。10分ほどすると新田沢の砂坊ダムに突き当たり、左側を迂回する。木立の道をを進むと、10分足らずで212号線に合流する。ここに「矢立の杉」の旗がある。212号線を進むと、5分足らずの左手に笹子峠自然遊歩道案内板と笹子峠自然遊歩道地図がある。旧甲州街道は左に進むが、紐が張られている。無視して進むか迷うが、途中2ヶ所に工事車両も見かけており自重して212号線を進む。
土砂崩れ痕 「矢立の杉 笹子隧道」距離標識 矢立の杉案内板

212号線を15分ほど進むと、「矢立の杉まで0.2km 笹子隧道まで2km」標識がある。ところどころに生々しい土砂崩れ痕や崩壊土砂流出危険地区案内板があり、工事関係車両が停まっている。標識からすぐの右にカーブするところに、矢立の杉案内板 / 手前左手に笹子峠自然遊歩道地図 がある。

矢立の杉へ下る道 木造展望デッキ 木造展望デッキからの矢立の杉
身代わり地蔵
甲州街道標識 矢立の杉

矢立の杉案内板手前を左折して坂を下ると、すぐ左手に木造展望デッキ / 右手に身代わり地蔵 / 突き当りに「甲州街道 ←笹子新田 笹子峠→」標識 がある。左折して坂を下ると、すぐ右手に根廻り14.8m / 樹高26.5m の矢立の杉がある。 武士が出陣のとき、矢をこの杉に射立てて武運を祈ったと云われている。

矢立の杉から笹子新田方面に下る。すぐに木に張られたロープで遮られ、「橋崩落のため 通行止め」と手書きで書かれた紙が吊るされている。
通行止め
笹子峠自然遊歩道地図(拡大) 土砂崩れ痕 道標
旧甲州街道は、矢立の杉から「甲州街道 ←笹子新田 笹子峠→」道標を直進する。細い道が続いているが、笹子峠自然遊歩道地図では212号線を進む様に案内されている。212号線を10分ほど進むと、「笹子トンネルまで1km」標識 / すぐ左手に「甲州街道 矢立の杉 笹子トンネル」道標 と続く。矢立の杉からの道で、急な斜面を登るが道筋がよく解らない。反対側から来られた方から、笹子峠が滑り易かったと聞かされる。
笹子隧道 笹子峠〜清八峠登山道案内 「笹子雁が腹摺山 笹子駅」標識
笹子峠 笹子峠標識

道標から10分足らずの正面に、昭和13年(1938年)に開通した洋風レンガ造りの笹子隧道が見える。笹子隧道右手にある笹子隧道説明板には、「昭和33年(1958年)20号線の新笹子トンネルの開通により、大役を終え静寂の中にある」などと記されている。右手にある「笹子峠〜清八峠登山道案内」「注意 この付近に クマ出没 注意必要」と「笹子雁が腹摺山 笹子駅」標識の間を進む。すぐに細かい砂の様な土で、滑り易く足を取られる急坂がある。反対側から来られた方の滑り易かったところと思う。分岐はすべて左へ進むのが正解。10分足らずで旧甲州街道の一番の難所と云われた標高1096mの笹子峠に着く。笹子隧道の真上が峠の頂上の様で、賑やかな標識がある。往時は広場になっていたと云われ、現在は大月市と甲州市の境になっている。笹子山は、北は大菩薩嶺より初鹿野(はじか)山 / 南は黒駒山や御坂嶺片山に連なっている。

笹子隧道 峠道 甘酒茶屋跡

笹子峠から「大和村日影 かいやまと駅」方向に進む。分岐はすべて左へ進むのが正解。5分ほどすると、212号線に合流する。道なりに左へ進むと、笹子隧道が見える。鋭角に右折すると、すぐ左手のガードレールの切れ目のところに「甲州街道峠道」標識がある。5分ほどすると、右手の212号線と接するところに甘酒茶屋跡がある。

212号線の山桜 甲州街道峠道標識 甲州街道峠道

旧甲州街道は道なりに左へ下るが、 甘酒茶屋跡標柱の正面を撮影するために212号線に出る。無意識に212号線を進んでしまう。旧道を注意深く探しながら下るが、ある筈もない。甘酒茶屋跡から30分ほどすると、左手に「甲州街道峠道」標識がある。「この先 ハチに注意」がロープに吊るされている。

桃の木茶屋跡 天狗橋 津島神社
甲州街道峠道との合流から5分ほどすると、右手に桃の木茶屋跡がある。ここには三軒の茶屋があったと云う。212号線を30分ほど下ると、笹子沢川に架かる天狗橋を渡る。天狗橋を渡る手前右手に、津島神社の祠がある。すぐに「←JR甲斐大和駅 国道20号線」標識 / 右手に芭蕉句碑「秣(まぐさ)負ふ 人を栞(しおり)の夏野哉」 / 句碑背後に不明の石塔 / 日影上バス停 と続く。
標識 不明の石塔
町並み 萬霊塔 石塔群
日影上バス停のすぐ右手に萬霊塔があり、右折すると突き当りに石塔群(三界萬霊塔 / 三界萬霊塔 / 大乗妙典六十六部開国供養塔) かある。右折すると養真寺本堂 / 右手の道を挟んで社がある。
養真寺
町並み 旧甲州街道標識 常夜燈
町並み 旧甲州街道標識

旧甲州街道に戻る。萬霊塔の道を挟んだ左手の駒飼宿案内板があるところが本陣跡になる。駒飼宿は次の鶴瀬宿と合宿で、甲斐源氏の牧場があったことが由来となっている。本陣:1 / 脇本陣:1 / 旅籠:6 と小さな宿場だったが、難所笹子峠を控え賑わったと云われている。雪解けの笹子峠を越えた甲陽鎮撫隊は、ここで甲府城が板垣退助率いる東山道先鋒隊によって奪取されたことを知る。隊員の脱走が相次いだとされる。本陣跡からすぐの日影バス停手前のY字路に「旧甲州街道」標識があり、212号線と別れ左へ進む。すぐ右手に常夜燈 / 形の良い松 / 「旧甲州街道」標識 と続く。ここが駒飼宿の北口で、「旧甲州街道」標識の後方に牛が見えるのどかな光景。

「旧甲州街道」標識からすぐの右手に、城址を思わせる石垣がある。5分ほどの中央自動車道を潜ると、すぐ左手に石仏石塔群がある。宝永5年(1708年)造立の首なし地蔵は、強盗に襲われ胴体だけ残った六部(廻国巡礼の行脚僧)を村人たちが供養した地蔵。
城址を思わせる石垣 石仏石塔群
石仏石塔群からすぐに突き当る212号線を左折、すぐに20号線の大和橋西詰交差点に突き当る。旧甲州街道は、左折して20号線を西へ進む。
諏訪神社 甲斐大和駅上りホーム

大和橋西詰交差点を右折して大和橋を渡る。Y字路を左へ進むと、諏訪神社を経てJR中央本線・甲斐大和駅がある。大和橋西詰交差点から5分ほどである。甲斐大和駅上りホームに、甲州市から産出される甲州鞍馬石(こうしゅうくらまいし)で造られた常夜燈がある。鞍馬石は独特の渋いサビ色の風合いから、庭石に重宝されている。茶庭などにも使われ、渋みのある玄人好みの石。京都の本鞍馬が知られているが、現在はほとんど出回っていない。

[寄り道]景徳院
武田勝頼像 石仏石塔群
JR中央本線・甲斐大和駅の北側にある駅北広場に、平成14年(2002年)造立の武田勝頼像がある。路傍の石仏石塔群を見ながら東に進むと、すぐに20号線と交差する。左折して20号線を北西へ道なりに進む。5分ほどの景徳院入口交差点を左折、道なりに東へ進む。15分ほどすると、景徳院バス停がある。甲斐大和駅からバスを利用することもできるが、便数は少ない。
景徳院総門
景徳院本堂 景徳院山門(本堂側からの撮影)

天正10年(1582年)武田勝頼は織田信長・徳川家康連合軍の侵攻により、天正9年(1581年)築城して間もない本拠の新府城を放棄する。岩殿城の小山田信茂を頼りに落ちのびるが、離反される。武田勝頼は武田氏ゆかりの地である天目山・棲雲寺を目指すが、天目山にほど近い田野の地で織田家・滝川一益隊に捕捉される。甲陽軍艦などでは武田勝頼は自刃したことになっているが、疲労困憊状態で討ち取られたと云われている。平安時代から続く甲斐武田氏は滅亡した。
本能寺の変後に甲斐国は徳川家康が領することになり、武田遺臣の一部は徳川家康に臣従することになる。武田勝頼と家臣の殉死者菩提を弔うため、天正10年(1582年)徳川家康により景徳院が創建された。創建時は田野寺と称していた。景徳院は、武田勝頼の戒名に由来する。
天保年間(1830年〜1844年) / 弘化年間(1844年〜1848年) / 明治時代に火災が発生、往時の建造物は山門だけとなっている。安永4年(1775年)造立の武田勝頼供養塔がある。