甲州街道 No.04 矢川駅-(約20km)-高尾駅
2014年 4月17日(火)07:00 晴

JR南武線・矢川駅から南へ進む。矢川駅入口交差点を右折して、旧甲州街道を西へ進む。すぐ右手に五智如来(ごちにょらい)案内板と祠がある。祠に馬頭観音らしい石仏と五智如来と彫られた石塔がある。五智如来は、密教で5つの知恵(法界体性智 / 大円鏡智 / 平等性智 / 妙観察智 / 成所作智)を5体の如来に当てはめたもの。

五智如来
地蔵堂 青柳稲荷神社鳥居 常夜燈
五智如来から5分ほどの青柳福祉センター交差点左手に、地蔵堂 / 宝暦5年(1755年)創建の青柳稲荷神社鳥居 / 植え込みに寛政11年(1799年)造立の常夜燈 / 嘉永2年(1849年)造立の馬頭観音 がある。元青柳村の常夜燈には、榛名大権現 / 正1位稲荷大明神 / 秋葉大権現 と彫られている。
馬頭観音
青柳福祉センター交差点から10分ほどすると、五差路の日野橋交差点がある。旧甲州街道は直進方向の29号線(旧奥多摩街道)を進む。交差点を越えると、電柱に奥多摩街道の標識がある。すぐの十字路左手方向に旧甲州街道標識がある。
[寄り道]第六天神社
十字路を右折すると、すぐ左手の立川市錦公園に文禄2年(1593年)創建と云われる第六天神社がある。
第六天神社
十字路の旧甲州街道標識 旧甲州街道標識 交差点先の旧甲州街道標識
旧甲州街道標識がある十字路まで戻り、旧甲州街道を西へ進む。途中にも旧甲州街道標識がある。すぐにの錦町下水処理場前交差点を越えると、旧甲州街道標識 / 突き当りの下水処理場手前左手に日野の渡し碑 / 「多摩川の渡し 跡なるわが住まひ 河童ども招ひて 酒酌まむかな」歌碑 と続く。
日野の渡し碑
立日橋眺望
突き当りの下水処理場前を右折する。ここからは迂回路になる。すぐに多摩川の土手を登り、右折して多摩川沿いに北西へ進む。下水処理場前から5分ほどで、中央に多摩モノレールの架橋がある149号線と交差する。左折して立日橋を渡る。
立日橋を渡り終え、すぐに左折する。すぐ右手に日野渡船場跡案内板がある。日野の渡しは甲州街道の幕府公認渡し場で、貞享年間(1673年〜1687年)現在の場所になった。大正15年(1926年)日野橋の完成で、満願寺の渡しと共に廃止された。渡し賃は人と馬と別々に徴収され、武士 / 僧侶 / 宿の人たちは無料であった。
多摩モノレール 日野渡船場跡
石造り建物 高幡山不動尊道道標 日野宿本陣冠木門
149号線に戻り南西へ進む。すぐの立日橋南交差点から10分ほどすると、新多摩街道入口交差点で20号線に突き当り右折する。すぐ左手の石造り建物前に、明治36年大火前の写真が掲げられている。この辺りは江戸時代には蔵が連なっていたところ。すぐの川崎街道入口交差点の南西側に、「高幡山不動尊道」道標がある。川崎街道入口交差点を横断した辺りが日野宿の中心で、すぐ左手に日野宿本陣(有料施設)がある。元治元年(1864年)に再建された建物が残る。当時の当主・佐藤彦五郎の妻は土方歳三の姉で、道場には近藤勇や土方歳三が稽古に来ていたと云われている。道路の反対側に、甲州街道日野宿 問屋場 高札場跡がある。日野宿は、人口:1556人 家数:423 / 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:20 であった。
甲州街道日野宿 問屋場 高札場跡
[寄り道]大昌寺
日野宿本陣からすぐの日野市役所入口交差点を左折、すぐの交差点を左折する。水路のある通りの右手に、慶弔12年(1607年)創建の大昌寺がある。新選組副長・土方歳三の姉が嫁いだ佐藤家の墓がある。
大昌寺
日野市役所入口交差点まで戻り西へ進むと、すぐ左手に八坂神社 / 境台に享保18年(1733年)鶴岡八幡宮から勧請した八幡社 がある。
八坂神社 八幡社
旧甲州街道は、すぐの日野駅前交差点を左折する。すぐの日野駅東交差点を越えた右手に、元徳年間(1329年〜1331年)創建の宝泉寺がある。当初は姥久保(現:新町)にあったが、火災により現在地に再建された。
宝泉寺
飯綱権現 坂下地蔵堂 2基の地蔵と六地蔵
宝泉寺からゆるい坂道を進むと、すぐ右手に正治元年(1199年)創建の飯綱(いずな)権現社 / 正徳3年(1713年)造立の坂下地蔵 と続く。飯綱権現社は、鳥居から百数十段登った日野駅西側の小高い丘にあった。明治21年(1888年)甲武鉄道が敷設される際に、社殿が現在地に移築された。甲武鉄道を敷設する際に多くの煉瓦が使われたが、社殿が移築されたときの土台に煉瓦が使われている。伝承や棟札から、高尾山と関係が深いと云われている。坂下地蔵堂は昭和7年(1932年)に再建されたもの。地蔵堂右手に、元文2年(1737年)造立の2基の地蔵 / 六地蔵 が並んでいる。ここは日野宿の西端にあたり、西の地蔵とも呼ばれていた。
この先の旧甲州街道は、JR中央本線の金網塀で遮断されている。
日野駅東交差点まで戻り、迂回する。JR中央線ガードを潜り、すぐに左折して坂を登る。途中にY字路があり、右へ進む。ここから旧甲州街道となる。Y字路右手に「高幡山八十八箇所」石柱 / 庚申塔3基 / 馬頭観音 が並んでいる。
石仏石塔群
Y字路から10分ほどの日野大坂上交差点で256号線と合流する。20分ほどの高倉町交差点手前右手に、享保3年(1719年)創建の高倉稲荷神社がある。
高倉稲荷神社
高倉稲荷神社から5分ほどすると、20号線と合流する。さらに5分ほどすると、JR八高線を陸橋で越える。10分足らずの右手に、日枝神社の鳥居がある。急で長い石段を登ると、日枝神社拝殿がある。甲州街道に戻り日枝神社の角を右折すると、すぐ左手に東光寺がある。
日枝神社 東光寺
甲州街道に戻り西へ進むと、すぐの大和田町4丁目交差点で16号線の高架を潜る。旧甲州街道は、すぐに斜め左へ入る道を進む。すぐ左手に、馬頭観音や地蔵など7基の石塔石仏が並んでいる。
石塔石仏群
石塔石仏群からすぐに20号線と交差、大和田橋北詰交差点を左折して浅川に架かる大和田橋を渡る。大和田橋を渡る手前、橋の北詰東側に案内板がある。昭和20年(1945年)終戦直前の2週間前に米軍B29爆撃機169機が来襲、1600t(推定24万発)の焼夷弾が投下された。市街の80%が焼け野原になった。終戦後不要となる在庫処分のため爆弾を投下したとも云われている。このとき多くの市民が大和田橋の下に逃げ込み、焼夷弾の攻撃から命を守ることができた。大和田橋の舗道にはこのときの焼夷弾の弾痕17ヶ所を保存している。
一里塚跡 永福稲荷神社 梵字真言庚申塔
浅川に架かる大和田橋を渡り、すぐの大和田橋南詰交差点を右折する。5分ほどの交差点から左へ進む。すぐ右手の竹の花公園に、一里塚跡 / 永福稲荷神社 と続く。社殿右手に「蝶の飛ぶ ばかりの野中の 日影哉」芭蕉句碑 / 社殿裏に2基の庚申塔 がある。永福稲荷神社は勝利の神様としてのご利益があるとされる。庚申塔の1基は享保8年(1723年)造立の梵字真言庚申塔で、“青面金剛心呪”が梵字で彫られている。
庚申塔
小田原北条氏が豊臣秀吉と敵対、八王子城は猛攻を受けて落城した。小田原北条氏の降伏により、旧領全域は徳川家康の領土となった。武田家旧臣・大久保長安は代官頭として、八王子の開発を担当した。甲州街道を整備し、旧八王子城城下の住民を街道沿いに移住させた。八王子十五宿は甲州街道最大の宿で、絹の集積地として賑わった。陣馬街道や日光脇往還が分岐する。 八王子十五宿の中心は横山宿と八日市宿で、本陣や脇本陣は両宿に置かれていた。昭和20年(1945年)の空襲で、歴史的な建築物のほとんどが焼失している。八王子宿は、家数:1548 本陣:2 脇本陣:4 だった。
永福稲荷神社からすぐの突き当りを左折する。5分足らずで20号線と交差、右折する。すぐ右手に市守神社がある。すぐの八王子駅入口交差点を左折して南へ進むと、5分ほどでJR八王子駅がある。。
市守神社
甲州街道(20号線)をさらに西へ進むと、横山町交差点に出る。この辺りが横山宿の中心となる。横山町郵便局前交差点南西側にある横山町郵便局は。本陣跡と云われている。
[寄り道]八幡八雲神社
横山町郵便局前交差点を右折、次の交差点を越えた左手に八幡八雲神社がある。延長2年(924年)創建の八幡神社に、延喜16年(916年)八王子城山に創建された八雲神社を合祀した。
八幡八雲神社
古民家 八王子千人同心屋敷跡

横山町郵便局前交差点まで戻り、甲州街道(20号線)を西へ進む。5分ほどすると八日町交差点があり、八日町宿通りとなる。すぐ右手にある三菱東京UFJ銀行は、昭和20年(1945年)終戦2週間前の空襲で残った建物。八日町交差点から10分ほどすると、陣馬街道と旧甲州街道が分岐する追分町交差点がある。直進して陣馬街道を進むと、すぐ左手の小路との三角地帯に八王子千人同心屋敷跡記念碑と案内板がある。大久保長安は徳川家康に武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘、旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心が誕生した。慶長4年(1599年)に増員され、八王子千人同心となった。千人町は、1組100人から構成される組頭の住居があったところ。同心たちの多くは村に住んで、農業をして生活をしていた。

追分町交差点まで戻り甲州街道を進むと、交番の先すぐの左手に文化8年(1811年)造立の追分道標がある。正面に「左 甲州道 中高尾道」 / 右側面に「右 あんげ道」と彫られている。“あんげ道”は、陣馬(じんば)街道のこと。かつて武州案下(現:八王子市内)を通っていたことから、案下(あんげ)道と呼ばれていた。昭和20年(1945年)の八王子空襲で壊れたのを修復したもので、以前は両街道に架かる横断歩道橋の階段下にあった。
追分道標
追分道標からすぐ右手に、延徳元年(1489年)創建の了法寺がある。天正18年(1590年)元八王子から移転する。八王子七福神(弁財天)になっている。
了法寺
了法寺からすぐの交差点を左折すると、左手に文禄元年(1592年)武田家家臣・石坂勘兵衛が創建した興岳寺がある。慶応4年(1868年)戊辰戦争のとき、日光東照宮を護る日光勤番だった八王子千人頭・石坂義礼の墓がある。大鳥圭介率いる幕府軍の伝習隊が日光山に立て篭もり、板垣退助率いる官軍と対峙していた。義礼は伝習隊を日光山から下山させ、戦いを未然に防いで焼失の危機から救ったと云われている。八王子に帰還した義礼は、官軍と一戦もせずに日光東照宮を明け渡したことの非を問われ、責任を取り切腹した。この縁で八王子市と姉妹都市になっている。
興岳寺
甲州街道に戻り15分ほどの長尾団地入口交差点を旧甲州街道は右折する。すぐの交差点手前左手に、「左 真学寺 右 高尾山  道標」道標 / 自然石に線刻された地図 がある。地図は昭和2年(1927年)に新道が開通した時に造立され、昭和56年(1981年)に再建されたもの。
道標 地図
道標から十字路を左折する。すぐに並木町東交差点の先で20号線と合流する。すぐ左手に正保年間(1645年〜1648年)以前に創建されたと云われる長安寺がある。
長安寺
長安寺からすぐの並木町交差点の南西側の交番前に、「万葉歌碑入口」道標 / 「正中山別院妙経寺入口」道標 が並んでいる。万葉歌碑は、JR中央本線を越えた散田の万葉公園にある。妙経寺は文和年間(1352年〜1356年)下総国香取郡飯高村に創建され、昭和10年(1935年)南多摩郡散田村に移転した。昭和20年(1945年)戦災で焼失、昭和25年(1950年)八王子市寺町に移転する。道標は南多摩郡散田村にあった頃のもの。
道標
並木町交差点を右折すると、すぐ右手に応永5年(1398年)出羽三山の稲荷大明神を勧請したと云われる稲荷森神社がある。社殿は明治10年(1877年)に再建されたもの。かつて周辺は鬱蒼とした森林で、稲荷森と云われた。昭和52年(1977年)現:横山出張所にあった浅間神社が合祀された。
稲荷森神社
並木町交差点まで戻り、甲州街道(20号線)を南西へ進む。5分ほどすると、右手の祠に馬頭観音がある。
馬頭観音
旧甲州街道家並み 小公園 熊野神社社殿
馬頭観音からすぐの高尾警察署前交差点から10ほどすると、多摩御陵入口交差点の北東側に「武蔵陵墓地参道」石柱 / 北西側に「多摩御陵参道」石柱 がある。すぐに右に入る細い道があり、旧甲州街道は右に進む。5分ほどすると、46号線に遮られる。左折して、すぐの町田街道入口交差点から迂回する。旧甲州街道 / 20号線 / 46号線 に挟まれたところは、ベンチが置かれた小公園になっている。すぐに20号線と合流、すぐ左手に熊野神社 / 境内にカシとケヤキが根元で一緒になって成長した縁結びの木がある。
熊野神社縁結びの木
熊野神社から5分ほどの高尾駅前交差点を左折すると、JR中央本線・高尾駅がある。