甲州街道 No.03 仙川駅-(約15km)-矢川駅 |
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2014年 4月15日(火)07:30 晴 |
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仙川一里塚跡 |
龍坂旧道道標 |
不明の石仏 / 薬師如来 |
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京王電鉄・仙川駅から東へ、すぐに左折して北へ進む。すぐの仙川駅東交差点を左折して、甲州街道を西へ進む。仙川駅入口交差点の北東側に、仙川一里塚跡がある。5分ほどすると分岐があり、旧甲州街道は20号線から右へ進む。右手に「龍坂旧道」道標がある。旧甲州街道の坂道を下ると、すぐ左手に不明の石仏
/ 文政11年(1828年)造立の薬師如来 が並んでいる。薬師如来台座の中央に薬師如来、左右に戒名らしき文字が彫られている。 |
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金龍寺山門 |
金龍寺本堂 |
金龍寺十王石窟 |
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旧甲州街道はすぐに20号線と合流する。すぐのつつじヶ丘交番前交差点右手に、建永元年(1206年)創建された南光坊が始まりの金龍寺がある。赤い山門を潜ると、右手の十王石窟に閻魔像がある。 |
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甲州街道を西へ進む。15分ほどすると、野川に架かる馬橋を渡る。 |
街道の並木 |
野川 |
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常性寺不動堂 |
常性寺本堂 |
常性寺地蔵堂 |
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馬橋を渡るとすぐに旧甲州街道入口交差点があり、旧甲州街道は直進して119号線を進む。10分ほどの布田駅前交差点手前右手に、鎌倉時代創建の常性寺がある。多摩川沿いにあったが、慶長年間(1596年〜1615年)に旧甲州街道沿いの現在地に移転する。成田山新勝寺より成田不動を勧請した不動堂がある。地蔵堂手前右手に、文政7年(1824年)造立の馬頭観音がある。関東八十八ヶ所の六十九番札所
/ 多摩八十八ヶ所の第六番札所 / 調布七福神(布袋尊) になっている。
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馬頭観音 |
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常性寺から5分ほどすると、右手にナンバープレートが付いていないボンネットスクールバスが置かれている。 |
ボンネットスクールバス |
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鬼太郎 / 目玉おやじ |
ねずみ男 |
一反木綿 / 猫娘 |
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ボンネットスクールバスからすぐ右手に「布多天神社」石柱があり、右折して参道を北へ進む。参道のところどころに、ゲゲゲの鬼太郎の妖怪オブジェがある。かつて参道には梅の並木があり、江戸まで聞こえた名所であったと云われている。毎月25日に開かれている縁日は、江戸時代から200年ほど続いている。参道途中の十字路の南西側に社がある。 |
ぬりかべ |
社 |
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大正寺楼門 |
大正寺本堂 |
恵比寿 |
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20号線の布多天神前交差点を越えると、右手に大正寺の楼門がある。上布田・栄法寺(現在地) / 小島・不動院 / 下布田・宝性寺 が合併、大正4年(1915年)に創建された。境内左手の池に、調布七福神(恵比寿)がある。背中を向けて鎮座しており、版木を木槌で叩くいて参拝者が来ていることを知らせてから参拝する仕掛けになっている。本堂は文政10年(1827年)建立の旧栄法寺本堂。 |
版木 |
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大正寺からさらに参道を北へ進むと、突き当りに布多天神社がある。延喜式神名帳に記載がある式内社。社伝では、第11代垂仁天皇の御代創建と云われている。布田五宿の総鎮守。本殿は宝永3年(1706年)に再建されたものと云われている。手前の狛犬は寛政8年(1796年)に造立されたもの。
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布多天神社 |
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上石原宿 / 下石原宿 / 上布田宿 / 下布田宿 / 国領宿 は布田五宿と呼ばれ、甲州街道沿いに3km余の町並みが続いていた。日本橋から三番目の宿場で、布田五宿合わせて9軒の旅籠があった。参勤交代の大名が泊まる本陣や脇本陣はなかった。布田五宿は、明治22年(1889年)飛田給
/ 上ヶ給 と合併して調布町となった。
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旧甲州街道に戻り西へ進むと、すぐに調布駅北口交差点を越える。5分ほどすると下石原1丁目交差点があり、この辺りが下石原宿となる。すぐ左手に常演寺がある。多摩川三十三ヶ所観音17番札所になっている。 |
常演寺 |
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源正寺 |
六地蔵 / 石仏群 / 大乗妙典日本廻国供養塔 |
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常演寺から5分ほどすると、左手に天文6年(1537年)里正善右衛門の先祖・太田対馬守盛久が創建した源正寺がある。太田対馬守盛久は天正7年(1579年)に120歳で没したと云われている。多摩川三十三ヶ所観音32番札所になっている。入口右手の建屋に、六地蔵や石仏群がある。その右手にある大乗妙典日本廻国供養塔の側面には、多摩郡下石原宿と刻まれている。
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西光寺仁王門 |
西光寺本堂 |
西光寺観音堂 |
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源正寺から5分ほどの西調布駅入口交差点辺りが上石原宿となる。すぐ左手に応永年間(1394年〜1428年)創建の西光寺がある。宝永年間(1704年〜1710年)建立の仁王門(鐘楼門)は、市内に残る唯一の仁王門で、享保2年(1717年)鋳造の銅鐘が吊るされている。観音堂には、観音三十三身像
/ 大日如来像 などがある。調布七福神(大黒天)になっている。山門左手に、没後130年を記念して平成13年(2001年)に造立された近藤勇坐像がある。新撰組局長・近藤勇は、天保5年(1834年)武蔵国多摩郡上石原村の豪農・宮川久次郎の三男として生まれる。慶応4年(1868年)鳥羽伏見の戦いに破れたあと江戸に戻り、甲陽鎮撫隊を率いて甲府城を目指した。その際休息したと云われている。 |
近藤勇坐像 |
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源正寺からすぐに中央自動車道を潜る。10分ほどの飛田給駅入口交差点を過ぎると、すぐ左手に薬師堂がある。石薬師如来は、貞亨3年(1686年)に松前意仙が彫ったもの。松前意仙は元仙台藩医師で、出家して諸国を廻りこの地に庵を結んだ。境内右手にある行人塚は、松前意仙の入定(にゅうじょう)塚。昭和47年(1972年)塚の改修の際に遺骨が確認されている。 |
薬師堂 |
行人塚 |
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甲州古道 |
常久一里塚跡 |
品川街道標識 |
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甲州古道は、薬師堂沿いに左折してすぐに右折する。多摩川の洪水により、街道が付け替えられた。当時のままの道筋か解らないが、旧甲州街道と合流する東府中駅前まで道は続いている。15分ほどすると西武多摩川線に遮られ、道なりに線路沿いに南西へ進む。すぐに右折して西武多摩川線を潜る。十字路を左折して10分ほどすると、左手に江戸時代初期に設置された甲州古道・常久一里塚跡がある。5分ほどすると左手に東府中駅があり、旧甲州街道と合流する。東府中駅前に「品川街道」標識がある。 |
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薬師堂から旧甲州街道を西へ進む。5分ほどすると、右手に寛永年間(1624年〜1645年)造立の常夜燈がある。 |
常夜燈 |
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観音院 |
神明社 |
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常夜燈から5分ほどすると、車返団地入口交差点手前右手に寛永8年(1631年)創建の観音院(通称:染屋観音) / 隣接して神明社 がある。神明社灯篭は、嘉永6年(1853年)に造立されたもの。神明社参道右手に下染屋由来碑がある。下染屋は南北朝時代にも登場する古い地名で、調布(手づくり布)を染めた所とも云われている。 |
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5分ほどの西武多摩川線踏切を渡る手前右手に、庚申塔がある。 |
庚申塔 |
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西武多摩川線踏切から5分ほどの不動尊前交差点を越えた左手に、染屋不動 / 上染屋地名由来碑 がある。上下の染屋に分かれた時期は古く、寛永12年(1635年)の検地帖には既に上染屋と記入されていると云う。不動尊前交差点の反対側、北西側に観音の祠がある。 |
染屋不動 |
観音 |
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染屋不動から5分ほどすると白糸台一丁目交差点を過ぎる。5分ほどの交差点手前を左折する。すぐの突き当りを右折すると、すぐ左手に甲州古道・常久一里塚跡がある。 |
常久一里塚跡 |
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旧甲州街道に戻る。すぐ右手の公園に、常久の地名由来碑 / 若松町常久町会公会堂 / 常久八幡神社 がある。常久の地名は名主の名前から付けられたと云われている。 |
常久八幡神社 |
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常久八幡神社から10分足らずの東府中駅前で、古道甲州街道と合流する。東府中駅前に「品川街道」標識がある。 |
品川街道標識 |
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国府八幡神社参道 |
京王競馬場線踏切 |
国府八幡神社門 |
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東府中駅前からすぐに京王線踏切を横断する。5分足らずの左手の八幡町第2公園に、八幡宿由来碑がある。八幡宿は地名で宿場ではなく、国府八幡神社周囲にできた農業の集落と記されている。すぐ左手に、聖武天皇が一国一社の八幡宮として創建したと云われる国府八幡神社がある。現在は大國魂神社の境外末社となっている。神門は大国魂神社随身門を移築したもの。参道は長く、途中に京王競馬場線踏切がある。
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国府八幡神社社殿 |
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日本橋から約7里半に位置する府中宿は、番場 / 本町 / 新宿(しんしゅく) の府中三町によって構成されていた。かつては国府が置かれ、武蔵国の中心部であった。旧甲州街道と府中街道が交わる交通の要所で、賑わった宿場。12月晦日の市には、近隣の宿場からも人々が集まった。天保14年(1843年)の記録では、人口:約3000人
/ 本陣:1 / 脇本陣:2 / 旅籠:29 / 商店142 であった。 |
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大国魂神社大鳥居 |
大国魂神社随神門 |
大国魂神社中雀門 |
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国府八幡神社から旧甲州街道を西へ進む。10分ほどすると、左手に大国魂神社大鳥居がある。武蔵国の一の宮から六の宮まで祀られていた武蔵国総社で、六所神社とも呼ばれていた。六所とは、一の宮:小野神社(多摩市)
/ 二の宮:小河神社(あきる野市) / 三の宮:氷川神社(さいたま市) / 四の宮:秩父神社(秩父市) / 五の宮:金佐奈神社(埼玉県児玉郡)
/ 六の宮:杉山神社(横浜市)であった。氷川神社が武蔵国一の宮になったのは江戸時代になってからである。幕末には、近藤勇が江戸の試衛館道場の道場主の襲名披露試合が行われている。境内に、神戸稲荷神社
/ 宮之(みやのめ)神社 / 住吉神社・大鷲神社合同社 などがある。宮之盗_社は、源頼朝の妻・政子が安産を祈願したところと云われている。安産祈願の絵馬が奉納されている。
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大国魂神社拝殿 |
大国魂神社鼓楼 |
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大国魂神社絵馬 |
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神戸稲荷神社 |
宮之盗_社 |
住吉神社・大鷲神社合同社 |
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国府の国衙(こくが)は、大國魂神社境内から東側の区域にあったと云われている。国衙跡と云われる遺跡は、大國魂神社東側の小道にある。 |
武蔵国衙跡 |
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御旅所 / 高札場 |
中久本店 |
甲州街道府中宿標柱 |
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大国魂神社絵馬大鳥居から旧甲州街道を西へ進む。すぐの府中市役所前交差点で府中街道と交差する。交差点南西側の大國魂神社御旅所(おたびしょ)前に府中宿の高札場 / 甲州街道の説明碑 がある。御旅所とは、神社の祭礼のときに神輿巡幸中に休憩または宿泊させる場所のこと。府中高札場は旧甲州街道沿いの大国魂神社東側にあったが、旧甲州街道と府中街道が交叉する現在地に移設された。屋根を有する札懸けで、6枚くらいの高札を掛けることができた。交差点の北西側に、萬延2年(1861年)再建の中久本店 / 「甲州街道府中宿」標柱 がある。
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[寄り道]善明寺 |
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府中市役所前交差点から府中街道を南へ進む。5分ほどの大国魂神社西交差点右手に「清水下小路」標識がある。右折すると。すぐ右手に善明寺がある。建長5年(1253年)銘の阿弥陀如来坐像(大鉄仏
/ 重文)は、江戸時代に大国魂神社にあったもの。阿弥陀如来立像(小鉄仏 / 重文)は、大国魂神社近くの浄照寺にあったものと云われている。 |
善明寺 |
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府中市役所前交差点を過ぎると、江戸時代の府中宿番場に入る。すぐ左手に番場宿由緒碑 / 右手に番場公園 がある。番場の地名の由来は、馬場が訛ったとか番所があったからと云われている。番場公園からすぐ右手に「御本社
一之宮 番場町」標柱がある。 |
御本社 一之宮 番場町標柱 |
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高安寺仁王門 |
高安寺本堂 |
高安寺観音堂 |
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標柱からすぐ左手に高安(こうあん)寺がある。天慶3年(940年)藤原秀郷は平将門追討の功により下野国の国司である下野守 / 武蔵国の国司である武蔵守 に任じられた。藤原秀郷はこの辺りに館を構え、見性(けんしょう)寺を創建した。正慶2年(1333年)分倍河原合戦が起きる。新田義貞はここに本陣を構え、北条泰家率いる鎌倉幕府軍と戦ったと云われている。戦乱によって荒廃した見性寺は、暦応年間(北朝 / 1338年〜1342年)足利尊氏により再興され高安寺と改称された。室町幕府によって武蔵国安国寺として位置付けられ、塔頭10
/ 末寺75 の大寺院となった。高安寺は鎌倉公方足利氏の影響力を強く受ける事となり、軍事拠点としての色彩を帯びる事となった。たびたびの戦乱で衰退 / 荒廃、江戸時代初期には海禅寺(現:青梅市)の末寺になった。本堂は享和3年(1803年) / 仁王門は明治5年(1872年) / 鐘楼は安政3年(1856年) の建立。観音堂は高安寺西の観音橋付近にあったが、享保年間(1716年〜1736年)に移された。
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古蹟 弁慶硯の井戸 石柱 |
弁慶硯の井戸 |
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本堂の左手にある墓地に入ると案内板がある。突き当りの堂宇の右手に「古蹟 弁慶硯の井戸」石柱 / 坂を下ると弁慶硯の井戸 がある。平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経が立ち寄り、武蔵坊弁慶が大般若経を書き写したと云われている。弁慶硯の井戸は、この井戸の水を汲んで墨を磨ったと云われている。 |
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高安寺からすぐの左手に弁慶硯の井戸に由来する弁慶坂案内板 / 右手に明治40年(1907年)造立の石橋供養塔 と続く。 |
石橋供養塔 |
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石橋供養塔からすぐの右手に「棒屋の坂」説明板があり、すぐに京王電鉄の踏切を渡る。「棒屋の坂」は、坂を下りきった所の家が通称「棒屋」と呼ばれたためと云われている。10分足らずの本宿町交差点で20号線と合流する。5分ほどの本宿交番前交差点を渡ると、左手の交番脇に寛政4年(1792年)造立の常夜燈がある。度重なる火災に苦しんだ本宿村の人たちが造立したもので、太平洋戦争末期に灯火管制が厳しくなるまで火を灯していた。 |
常夜燈 |
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熊野神社 |
武蔵府中熊野神社古墳墳丘 |
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常夜燈からすぐの右手に熊野神社 / 本殿北側に武蔵府中熊野神社古墳墳丘がある。熊野神社は府中市内の別の場所から安永6年(1777年)に現在地に移転したと云われており、古墳と神社は直接的な関係はないと見られている。 |
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矢保天満宮参道 |
矢保天満宮社殿 |
矢保天満宮絵馬 |
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熊野神社から5分ほどすると、JR南武線を陸橋で越える。10分ほどするとT字路の矢保天満宮前交差点左手に、谷保天満宮がある。菅原道真の三男・道武が父の死を悼んで延喜3年(903年)に道真の木像を祀ったのが始まり。参道を進み石段を下り、右折すると谷保天満宮の社殿がある。南側を通っていた甲州古道からは、高台となっていた。街道が付け替えられ、旧甲州街道からは下る形になった。
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T字路の矢保天満宮前交差点を右折して146号線を北へ進むと、右手にJR南武線・谷保駅がある。谷保の読み方は“やぼ”であったが、JR南武線の谷保駅が開設された時に“やほ”とした。いつのまにか天満宮も“やほ”となってしまったと云う。 |
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谷保天満宮前交差点から10分足らずの右手に石仏群 / すぐ右手の民家垣根に「潤澤学舎跡」案内板 と続く。国立第一小学校の前身の潤澤学舎は明治6年(1873年)ここに開校、明治16年に移転する。5分ほどすると、右手に寛文年間(1661年〜1673年)創建の永福寺がある。 |
石仏群 |
永福寺 |
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常夜燈 |
南養寺本堂 |
南養寺大悲殿 |
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永福寺5分ほどの矢川駅入口交差点手前左手に、正平2年(1347年)創建と云われる南養寺がある。参道入口左手に、寛政6年(1798年)造立の常夜燈がある。上谷保村の油屋東隣にあったが、昭和6年(1931年)から行われた道路改修で移設されたもの。文化元年(1804年)再建の南養寺本堂は、昭和56年(1981年)に修理の際に茅葺から銅版葺に替えられた。享保3年(1718年)建立の大悲殿は、円成院の観音堂を寛政5年(1793年)に移築したもの。総門は安永9年(1780年)建立。 |
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矢川駅入口交差点を右折する。5分足らずの踏切左手に、JR南武線・矢川駅がある。
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