甲州街道 No.02 新宿駅-(約20km)-仙川駅
2014年 4月11日(金)10:00 晴
諦聴寺  正春寺 西参道口交差点

JR / 小田急・新宿駅南口から甲州街道の陸橋を下り、20号線を南西へ進む。15分ほどの西参道口交差点の手前左手に、萬冶元年(1658年)四谷に創建されたのが始まりの諦聴寺 / 慶長19年(1614年)湯島南ヶ丘(現文京区湯島3丁目)に創建された専西寺が始まりの正春寺 と続く。専西寺は、関ヶ原の戦い後に出家した秀教坊正入(俗姓:土井甚三郎昌興)によって創建される。徳川2代将軍秀忠の乳母・初台局は祖母、3代将軍家光の乳母・梅園局(正春院)は母。天正19年(1591年)初台局が代々木村に乳母料として200石の知行を得たことが、初台の地名由来となっている。元和6年(1620年)代々木村に専西寺が創建される。天和3年(1683年)湯島専西寺は類焼のため廃寺となり、元禄5年(1692年)代々木専西寺は正春院に改称する。 すぐの西参道口交差点からは、首都高速4号新宿線が20号線に被さる。

西参道口交差点から15分ほどの幡ヶ谷駅駅前交差点の次の小路を右折すると、すぐ左手に武蔵御嶽神社がある。
武蔵御嶽神社
京王電鉄・京王線は、昭和38年(1963年)に初台駅や幡ヶ谷駅が地下化される。写真を始めた頃の画像で、地下化直前に初台駅・幡ヶ谷駅間で撮影したと思われる。車両は昭和28年(1953年)に登場した17m級車の2700系電車で、昭和56年(1981年)まで使用された。行先サボ「京王多摩川 新宿」が時代を感じさせる。
京王電鉄2700系
幡ヶ谷駅駅前交差点から5分ほどの笹塚交差点手前左手に、正徳元年(1711年)造立の牛窪地蔵がある。堂の手前右手に、不明の石塔 / 享保5年(1720年)造立の庚申塔 / 文化3年(1806年)造立の道供養塔 が並んでいる。道供養塔は、笹塚交差点から南に延びる鎌倉街道に面したところにあったもの。
牛窪地蔵 不明の石塔 / 庚申塔 / 道供養塔
[寄り道]正専寺 / 清岸寺
笹塚交差点を右折して中野通りを北へ進む。2本目の小路を右折して坂を登ると、すぐ左手に正専寺がある。
正専寺
庚申塔 / 地蔵 / 地蔵 清岸寺本堂 瘡守稲荷神社
酒呑地蔵 魚籃観音 板碑
中野通りまで戻り北へ進むと、すぐ右手に寛永17年(1640年)参宮橋の南側に創建されたのが始まりの清岸寺がある。明治42年(1909年)に荒廃した寛永元年(1624年)創建の法界寺と合併、法界寺のあった現地に移転する。移転したのは、敷地に代々木練兵場が設けられることになったため。参道入口左手に、庚申塔 / 地蔵 / 地蔵 が並んでいる。境内の瘡守稲荷神社は、腫物や治療法がなかった頃の梅毒に効き目があるとされた。宝永5年(1708年)造立の酒呑地蔵は、本町5丁目の地蔵橋の袂から移されたもの。幡ヶ谷聖観音像の右手に、室町時代初期造立の板碑がある。高さ43cmの板碑には、梵字で阿弥陀如来を表す種子(しゅじ)が彫られている。
笹塚交差点まで戻り、甲州街道を南西へ進む。5分ほどの京王線笹塚駅前辺りが、日本橋から3里(12km)になる。歩道橋先の小路を右折すると、すぐ左手に御嶽神社がある。
御嶽神社
甲州街道まで戻り、南西へ進む。15分ほどの井の頭通りとの松原交差点を過ぎると、右手の明治大学に隣接して築地本願寺和田廟所がある。築地本願寺が大正12年(1923年)の関東大震災で焼失したとき、別院として創建された。元首相・佐藤栄作夫婦 / 海音寺潮五郎 / 古賀政男 などの墓がある。
築地本願寺和田廟所

築地本願寺和田廟所の敷地が途切れたところを右折する。すぐのY字路を右に進むと、すぐ右手に文禄3年(1594年)筑前福岡藩初代藩主・黒田長政の子・真了法師によって創建された真教寺がある。江戸麻布村(現港区元麻布)に創建され、日本橋浜町の本願寺寺内へ移転する。明暦の大火により、本願寺と共に築地へ移転、関東大震災後の区画整理により現地に移転した。

真教寺
託法寺 善照寺 浄見寺
法照寺 栖岸院 永昌寺

Y字路まで戻り、20号線の北側を並行する道を進む。すぐ右手に、寛永11年(1634年)創建の託法寺 / 善照寺 / 慶長15年(1610年)創建の浄見寺 / 法照寺 / 栖岸院 / 寛永元年(1624年)創建と云われる永昌寺 と続く。託法寺は江戸四ッ谷永住町(現新宿区四ッ谷4丁目)に創建され、大正11年(1922年)環状4号線造成のため現地へ移転する。善照寺は相州小田原に創建されるが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原城攻撃時に罹災し江戸に移転する。幾度の移転を経て築地本願寺寺内となる。大正12年(1923年)関東大震災で全焼、昭和3年(1928年)現地へ移転した。浄見寺は現京都市伏見区深草に創建され、元和7年(1621年)日本橋浜町の本願寺寺内に移転する。昭和3年(1928年)現地へ移転した。法照寺は相州鎌倉に創建され、天正18年(1590年)湯島へ移転する。元和7年(1621年)日本橋浜町の本願寺寺内に移転する。関東大震災後の区画整理に伴い、昭和3年(1928年)現地へ移転した。栖岸院は三河国村高庄(現愛知県安城市)にあった長福寺が始まり。天正19年(1591年)麹町八丁目に移転、大正9年(1978年)現地へ移転した。江戸時代には住職が将軍に単独で拝謁できる“独礼の寺格”を許されていた。永昌寺は江戸四ツ谷塩町に創建され、明治43年(1910年)下高井戸2丁目にあった永泉寺を合併して現地へ移転した。

本應寺 龍泉寺 玉川上水第三公園
すぐの突き当りを右折して坂を下ると、すぐ右手に本應寺がある。道を戻り、20号線方向に進む。20号線の下高井戸駅入口交差点手前を右折すると、すぐ右手に慶長8年(1603年)江戸麹町に創建された龍泉寺がある。寛永年間(1624年〜1643年)に四ツ谷南寺町へ移転、区画整理に伴い明治42年(1909年)に当地へ移転する。江戸庶民の信仰厚かった高さ1mの北向き地蔵がある。20号線の下高井戸駅入口交差点の北側は、玉川上水第三公園になっている。
高井戸(たかいど)宿は、上高井戸宿と下高井戸宿の合宿。下高井戸宿は日本橋から4里 / 上高井戸宿は日本橋から4里12町40間の距離にあった。当初は甲州街道の一番目の宿場であったが、後に内藤新宿が設置されると次第に素通りされる様になった。通行する大名が少なく、脇本陣は置かれなかった。宗源寺に隣接して下高井戸宿の本陣があったと云われている。環八通りと交差する上高井戸一丁目交差点辺りに上高井戸宿本陣があった。
覚蔵寺 宗源寺 宗源寺高井堂

下高井戸駅入口交差点から20号線を西へ進む。20分ほどすると、右手に慶長年間(1596年〜1614年)に中興されたと云われる覚蔵寺 / 日蓮の直刻と云われる鬼子母神像がある。隣接して慶長年間(1596年〜1614年)創建と云われる宗源寺には、南北朝時代初期の板碑や滝沢求馬筆の釈迦涅槃図がある。境内にある不動堂は、明治5年(1872年)に廃寺となった修験道本覚院の不動堂を明治44年(1911年)に移築したもの。不動堂はかつて高台にあったため、高井堂と呼ばれていた。高井戸の地名由来になったと云われている。

宗源寺から5分ほどの上北沢駅入口交差点で、14号線が分岐する。西参道口交差点から20号線に被さっていた首都高速4号新宿線は14号線に進路を変える。直進して20号線を西へ進むと、並木道となる。

並木
上北沢駅入口交差点から10分ほどすると環八通りと交差する。すぐの分岐を旧甲州街道は左へ進む。すぐ左手に慶安元年(1648年)世田谷烏山お伊勢の森に創建された長泉寺がある。火災に遭い、明暦元年(1655年)現地へ移転する。
長泉寺本堂 長泉寺観音堂
武州烏山村大橋場の跡碑 石仏石塔群

長泉寺から5分ほどすると、左手に擬宝珠状の武州烏山村大橋場の跡碑 / 庚申塔 / 庚申塔 / 明和8年(1771年)造立の下山地蔵 / 元禄13年(1701年)造立の庚申塔 / 下山地蔵由来碑 が並んでいる。ここはかつては烏山川が流れていたところで、橋が架けられていた。烏山川は暗渠になり、橋は撤去された。石仏石塔群の並ぶ道は下道と呼ばれる古道で、烏山神社まで行くことができる。

武州烏山村大橋場の跡から20分ほどすると、仙川三差路交差点で20号線と合流する。すぐ右手に慶長年間(1596年〜1615年)仙川領主・飯高主水貞政によって創建された昌翁寺がある。調布七福神(寿老人)になっている。
昌翁寺
昌翁寺からすぐの仙川駅東交差点を左折すると、すぐ右手に京王電鉄・仙川駅がある。