甲州街道 No.01 日本橋-(約8.5km)-新宿駅
2014年 4月 9日(水)10:30 晴
元標の広場 日本国道路元標の複製 日本橋由来碑
日本橋北西側の“元標(げんぴょう)の広場”から出発する。基点となる“日本国道路元標”は、日本橋の車道中央に埋め込まれている。“元標の広場”には“日本国道路元標”の複製と、移設された“東京市道路元標”がある。1号線(中央通り)を南へ、日本橋川に架かる日本橋を渡ると、すぐ右手に昭和11年(1936年)造立の日本橋由来碑がある。「慶長8年(1603年)に橋が架けられ、通称で日本橋と呼ばれていたのが遂に正式名となった。翌年諸街道に一里塚を築いたとき日本橋を起点とした。」などの由来が記されている。現在の橋は、明治44年(1911年)に東京市により石造二連アーチの道路橋として架けられたもの。
日本橋橋洗い
日本橋銘板洗い
日本橋橋洗い 日本国道路元標
日本橋橋洗いは、日本橋の美化保存を目的に行われている。近隣の小学生 / 日本橋地区の町内会 / 地元企業 などの方々が、デッキブラシなどで日本橋を手洗いする。水洗いには再生水が利用されている。首都高に架かる「日本橋」の銘板は、消防のはしご車の放水で洗い流す。普段は近寄れない本物の“道路元標”を見ることができる。日本橋の北側の交差点から南側の交差点間、通行止めになる。20016年は、7月24日(土)に行われた。
江戸城和田倉門跡 堀沿いの内堀通り 日比谷見付跡
心字池 旧日比谷公園事務所 アークライト灯

すぐの日本橋交差点を右折して、1号線(永代通り)を西へ進む。5分ほどすると、JR線ガードを潜る。さらに5分ほどの大手町交差点を左折して、1号線(日比谷通り)を南に進む。江戸城の堀沿いを進むと、右手に江戸城和田倉門跡がある。江戸城は長禄元年(1457年)太田道潅により築城された。天正18年(1590年)徳川家康が入封、居城と定めた。明治維新になり、皇居となった。江戸城和田倉門跡から堀沿いに15分ほど進むと、堀の南端の日比谷交差点を右折する。ここから1号線は内堀通りを進む。すぐ左手に明治36年(1903年)に開園された日比谷公園がある。江戸時代には大藩の上屋敷が置かれていた。明治になると大名屋敷が廃されて更地となり、日比谷ヶ原と呼ばれた。明治4年(1871年)陸軍操練所が設置され、明治18年(1885年)日比谷練兵場と改称された。明治26年(1893年)東京市が軍から払下げを受ける。有楽門から日比谷公園に入り20号線沿いに進むと、左手に日比谷見付跡 / 心字池 がある。濠の一部を利用して作った池で、心の字の形をしていると云う。明治43年(1916年)築の旧日比谷公園事務所から祝田門へ進むと、開園当時に10基あったアークライト灯が保存されている。

法務省旧本館
堀 / 土塁 江戸城桜田門

日比谷交差点から5分ほどすると桜田門交差点、ここから20号線(内堀通り)となる。桜田門交差点手前左手に、明治28年(1895年)に竣工した法務省旧本館(重文)がある。桜田門交差点の右手に、江戸城桜田門(重文)がある。この門の近くで安政7年(1860年)大老・井伊直弼が上屋敷から登城途中、水戸藩浪士たちの襲撃を受け暗殺された。

桜田門交差点からすぐの国会前交差点を過ぎると、すぐ左手に“桜の井戸”と「井伊掃部頭邸跡(前 加藤清正邸)」標柱がある。江戸名所図会に絵入りで紹介されている“桜の井戸”は、江戸の名水として知られていた。 歌川広重の東都名所にも描かれている。昭和43年(1968年)道路工事のため、10m離れた現在地に移設された。ここは肥後熊本藩主・加藤清正の上屋敷であったところで、寛永年間(1624年〜1645年)に近江彦根藩主・井伊家の上屋敷となった。
桜の井戸 / 井伊掃部頭邸跡標柱
“桜の井戸”から5分ほどの三宅坂交差点を渡った北西側に、三宅坂小公園がある。江戸時代には三河田原藩の藩邸があったところで、田原藩の家老 / 画家 / 蘭学者 だった渡辺崋山は寛政5年(1793年)ここで生まれた。蛮社の獄により、天保12年(1841年)謹慎生活を送っていた田原の池ノ原屋敷の納屋で切腹した。
三宅坂小公園 渡辺崋山誕生地
江戸城半蔵門 四ツ谷駅側の石垣 四谷見附跡

濠沿いの三宅坂を進む。左手に、最高裁判所 / 国立劇場 と続く。三宅坂交差点から5分ほどの半蔵門交差点右手に、江戸城半蔵門がある。半蔵門交差点を左折する。麹町を過ぎると紀尾井町となる。この辺りに紀伊徳川家 / 尾張徳川家 / 井伊家の大名屋敷があり、紀尾井の町名となった。半蔵門交差点から15分ほどすると、右手にJR中央本線・四ツ谷駅がある。手前を右折するとすぐの丁字路は、旧甲州街道の要所であった四谷見附跡。江戸城の見附は城の周囲に36箇所あった。

T字路を左折して、JR中央本線を陸橋で越える。すぐに405号線(外堀通り)に突き当り左折する。すぐの四谷見附交差点を右折して、20号線を北西へ進む。5分ほどのところに津之守坂入口交差点がある。
[寄り道]円通寺坂
円通寺 法蔵寺 真英寺
日宗寺 東福院 愛染院
妙行寺 須賀神社 天白稲荷神社

津之守坂入口交差点を左折して、円通寺坂を下る。右手に円通寺 / 左手に法蔵寺 と続く。道なりに南西へ進むと、すぐ左手の高台に真英寺 / 右手に日宗寺 と続く。すぐの十字路を左折して北へ、東福院坂を登ると左手に天正3年(1575年)創建の東福院 / 右手に愛染院 と続く。十字路まで戻り、南へ進むと寛永11年(1634年)創建の稲荷神社が始まりの須賀神社への石段がある。手前を右折すると、突き当りに妙行寺がある。妙行寺からも須賀神社への石段がある。須賀神社は寛永14年(1637年)神田明神摂社に祀られていた牛頭天王を合祀、江戸時代には「稲荷天王」「四谷牛頭天王社」と称されていた。明治の神仏分離により須賀神社に改称した。境内に天白稲荷神社がある。

四谷消防署 馬牽き蒸気ポンプ スタッツ消防ポンプ自動車
津之守坂入口交差点まで戻り、旧甲州街道を西へ進む。すぐの四谷3丁目交差点の北西側に、四谷消防署がある。1階と地下1階が消防博物館(無料施設)になっている。
マキシム消防ポンプ自動車
四谷消防署から次の小路を右折して北へ進むと、すぐ左手に境内立ち入り禁止の正應寺 / 左手に法雲寺 と続く。法雲寺の梵鐘は享保8年(1723年)鋳物師・河合兵部藤原周徳によるもの。
正應寺 法雲寺
旧甲州街道に戻り西へ進むと、すぐ左手に笹寺長善寺がある。天正3年(1575年)甲陽軍艦の著者として知られる甲斐国武田氏の臣・高坂弾正昌信の居所に結ばれた草庵が始まり。徳川二代将軍秀忠が立ち寄った際に笹が繁ったいたことから、笹寺と呼ばれるようになったと云われている。宝物の“めのう観音”は徳川秀忠の念持仏で、死後に夫人・崇源院が寄贈したと云われている。寛永元年(1624年)力士・明石志賀之助が境内で6日間の相撲興行をしたのを、江戸の勧進相撲の初めとしている。
笹寺長善寺
笹寺からすぐに、五差路の四谷四交差点がある。右折して北へ進むと、大木戸坂下交差点の北側に文禄3年(1594年)創建の東長寺がある。
四谷四交差点北東側 東長寺

甲州街道の江戸日本橋から最初の宿場は、慶長7年(1602年)に設けらた高井戸宿であった。江戸日本橋から約4里(約16km)と遠く、不便であった。元禄12年(1699年)内藤新宿(ないとうしんじゅく)が設けられた。宿場予定地には信濃国高遠藩・内藤家中屋敷や旗本の屋敷などが存在していたが、これらの土地を幕府に返上させて宿場用地とした。享保3年(1718年)内藤新宿は幕府によって廃止された。高井戸宿が再び甲州街道最初の宿場となったが、遠すぎて問題が多かった。明和9年(1772年)内藤新宿が、50数年ぶりに再開される。宿場の再開により、江戸四宿の中で,品川宿に次ぐ賑わいとなる。火災による焼失や宿場の廃止などにより、宿場の本陣や脇本陣は存在しない時期もありよく解っていない。旅籠や茶屋が増え、岡場所(色町)としても賑わっていった。宿場に遊女を置くことは認められていなかったが、客に給仕をするという名目で飯盛女 / 茶屋女として置かれていた。旅籠は、享保3年(1718年)52軒 / 文化5年(1808年)旅籠50軒 の記録が残る。玉川上水の水番所があった四谷大木戸から、新宿追分(現新宿三丁目交差点)までの東西約1kmに広がっていた。追分から青梅街道が分岐していた。

四谷四交差点まで戻る。西方向はY字路になっている。左への道は新宿御苑トンネルに入る車専用道路の20号線、旧甲州街道は右へ430号線(新宿通り)を進む。すぐ左手に、四谷大木戸跡碑と玉川上水記念碑がある。玉川記念碑は、昭和34年(1959年)地下鉄工事で発見された玉川上水の石樋を使って作られている。
四谷大木戸跡 玉川記念碑
すぐの新宿1丁目交差点から左手に、昭和2年(1927年)築の新宿御苑・旧大木戸門衛所が見える。新宿御苑は江戸時代に信州高遠藩主内藤家の屋敷があったところで、明治39年(1906年)開園された。
新宿御苑旧大木戸門衛所
旧甲州街道を西へ進むと、すぐ右手に秋葉神社がある。
秋葉神社
大宗寺本堂
大宗寺閻魔堂 江戸六地蔵
大宗寺三日月不動堂 大宗寺稲荷社 切支丹灯籠
塩かけ地蔵 内藤家墓所
秋葉神社からすぐ右手に新宿交番がある。次の小路を右折すると、突き当りに慶長元年(1596年)創建の太宗寺がある。信州高遠藩主・内藤家の菩提寺。境内に、正徳2年(1712年)造立の銅造地蔵 / 三日月不動堂 / 閻魔堂 / 稲荷社 / 明治3年(1870年)造立の奪衣婆(だつえば) / 塩を被った塩かけ地蔵 などがある。銅造地蔵は江戸六地蔵で、甲州街道沿いに造立された。閻魔堂の閻魔は江戸三大閻魔で、嘉永3年(1850年)に奉納されたもの。奪衣婆は、内藤新宿の妓楼に信仰されたと云われている。切支丹灯籠は江戸時代中期の造立と推定されている。新宿山手七福神(布袋尊)になっている。
430号線(新宿通り)に戻り、西へ進む。すぐの新宿3丁目交差点手前を右折すると、すぐ左手に明治30年(1897年)創業の新宿末廣亭がある。都内に4軒存在する落語定席の一つで、落語を中心に漫才 / 俗曲などの色物芸が演じられている。
新宿末廣亭
430号線(新宿通り)に戻り、西へ進む。すぐの新宿3丁目交差点は、旧甲州街道と旧青梅街道の追分。直進するのが旧青梅街道、旧甲州街道(20号線)は左折する。新宿3丁目交差点手前左手に、追分だんご店がある。
追分だんご店
[寄り道]花園神社
花園神社 威徳稲荷神社 芸能浅間神社
新宿3丁目交差点を右折する。すぐの新宿5丁目交差点の北西側に花園神社がある。創建年は不明であるが、徳川家康が江戸に入った天正18年(1590年)にはすで存在していた。内藤新宿が開かれると、鎮守とされた。元は現在地よりも約250m南にあったが、寛政年間(1789年〜1801年)朝倉筑後守の下屋敷の敷地内となって参拝ができなくなった。氏子が幕府に訴えて、尾張藩下屋敷の庭の一部を拝領、現在地に移転した。多くの花が咲き乱れていた花園の跡であったことから、花園稲荷神社と呼ばれるようになったと云われている。境内に昭和3年(1928年)創建と云われる威徳稲荷神社 / 芸能浅間神社 がある。江戸時代から芝居や舞踊の興行に縁が深かったため、芸能浅間神社には演劇や歌曲など芸能関係の奉納が多い。また酉の市で知られている。
新宿3丁目交差点まで戻り、旧甲州街道を進む。すぐの新宿4丁目交差点の南東側に、雷電稲荷神社がある。昭和3年(1928年)花園神社に合祀されるが、後に旧跡地に再興される。
雷電稲荷神社
新宿4丁目交差点を右折する。新宿4丁目交差点で右折して跨線橋を登ると、右手にJR / 小田急・新宿駅がある。