古代東海道
慶長6年(1601年)江戸・日本橋から京都・三条大橋に至る旧東海道が整備されるが、時代によって東海道の経路は変化している。相模国から下総国に至る経路だけでも、変化が見られる。宝亀2年(771年)年以前は、足柄峠〜坂本駅(南足柄市関本)〜小田原市高田〜小総駅(小田原市国府津)〜箕輪駅〜平塚市四之宮〜鎌倉郡衙〜横須賀市走水〜浦賀水道〜上総国〜下総国府(市川市) の経路であった。宝亀2年(771年)から平安時代中期は、足柄峠〜坂本駅(南足柄市関本)〜小田原市高田〜小総駅(小田原市国府津)〜箕輪駅〜平塚市四之宮〜浜田駅〜夷参(いさま)駅(座間市)〜武蔵国国府(府中市)〜下総国府(市川市)の経路であった。平安時代中期以降は、足柄峠〜坂本駅(南足柄市関本)〜小田原市高田〜小総駅(小田原市国府津)〜箕輪駅〜平塚市四之宮〜浜田駅〜店屋(まちや)駅〜都筑郡衙〜小高駅(川崎市末長町)〜大井〜豊島(港区丸の内)〜下総国(市川市)の経路であった。また相模国から武蔵国と相模国を結ぶ中原街道が、かなり古くからあった。後北条氏の時代に整備された。大磯宿外れの化粧坂から虎の門に至る経路で、天正18年(1950年)関東移封の際に徳川家康が利用したと云われている。
宝亀2年(771年)から平安時代中期の古代東海道、痕跡のある浅草〜下総国府(市川市)を巡る。

東京メトロ・浅草駅の吾妻橋出口から日光街道(6号線)を北東へ進む。言問橋西交差点で日光街道と別れ、直進して314号線を進む。右手の隅田公園に、昭和31年(1956年)造立の武島羽衣作詞 / 滝廉太郎作曲「花」歌碑がある。♪春のうららの隅田川 のぼりくだりの船人が櫂のしずくも花と散る ながめをなににたとうべき♪

花歌碑
山門 築地塀 / 石仏群 地蔵堂 / 歓喜地蔵
巾着提灯 / 二股大根提灯 聖天宮 銅造宝篋印塔
花歌碑からすぐ左手に、推古天皇3年(595年)創建と云われる侍乳山聖天(まっちやましょうでん) がある。待乳山は小高い丘で、低地の浅草では見渡しの良い名所として知られていた。山谷堀を埋めるために丘が削られ、標高10mの東京都最低山になっている。閉ざされた山門左手の階段を登ると、右手の築地塀(ついじべい)前に石仏群がある。築地塀は防火壁の役目をしていた。右折して階段を登ると、左手の地蔵堂の周りに歓喜地蔵が並んでいる。頂上に、銀杏に囲まれた聖天宮がある。ご利益はお金と夫婦和合、巾着と二股大根が描かれた提灯が吊るされている。浅草名所七福神の毘沙門天になっている。聖天宮の裏手に、天明元年(1781年)造立の銅造宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。
西側の待乳山公園に、池波正太郎生誕地碑がある。池波正太郎は、大正12年(1923年)待乳山聖天の南側辺りで生まれている。
池波正太郎生誕地碑
今戸橋跡 蓮窓寺 橋場不動

侍乳山聖天山門から北へ進む。すぐの山谷堀跡に今戸橋跡がある。今戸橋は山谷堀が隅田川に合流する手前に架かっていた橋。すぐのY字路交差点を右に進む。10分足らずの左手に、寛永3年(1626年)創建の蓮窓寺がある。さらに10分足らずの左手に、天平宝字4年(760年)創建の橋場不動がある。明治時代後半の大火 / 関東大震災 / 昭和20年3月の東京大空襲 のとき、不動院を中心とした橋場の一角だけは災禍を免れる。このことから現在でも広く庶民に信仰されている。現在の本堂は、弘化2年(1845年)建立のもの。浅草七福神の布袋尊になっている。

すぐの白鬚橋西詰交差点の北西側、白鬚橋の袂に「橋場の渡し」案内板がある。文禄3年(1594年)千住大橋が完成して主だった街道筋が変更されるまでは、隅田川を渡る主要ルートであった。大正3年(1914年)白鬚木橋が架けられまで、利用された。
白鬚橋
石浜神社鳥居 石浜神社社殿 境内社 / 富士塚
白鬚橋西詰交差点を直進して北へ進むと、すぐ左手に神亀元年(724年)創建と云われる石浜神社 / 境内に富士塚 がある。源頼朝が藤原泰衡討伐の折に当社に祈願、大勝したことから社殿を造営したと云われている。浅草七福神の寿老神になっている。かつては隅田川寄りにあったが、再開発で昭和63年(1988年)に現在地に移転した。安永9年(1780年)建立の鳥居は笠木(一番上の横棒)の断面がカマボコ型で、非常に珍しく石浜鳥居と俗称される。荒川区登録有形文化財になっている。
石浜神社から北に5分ほどの辺りが、古代の渡しがあったところ。宝亀2年(771年)〜平安時代中期の古代東海道は、ここから西へ武蔵国国府へ通じていたが痕跡は残っていない。渡しで古利根川(隅田川)を越えると、古代東海道は江戸川まで往時の道が続く。江戸川を越え、下総国〜上総国〜浦賀水道〜横須賀市走水の経路で京に通じていた。
白鬚橋西詰交差点まで戻り、昭和6年(1931年)竣工の白鬚橋を渡る。すぐ左手に東白鬚公園があり、公園内を北へ進む。5分ほどの左手に隅田川神社がある。源頼朝が創建したと云われている浮島神社が始まりで、水神社 / 水神宮 / 浮島宮などとも呼ばれていた。明治4年(1872年)隅田川神社に改称した。
東白鬚公園からのスカイツリー 隅田川神社
纏のオブジェと スカイツリー 木母寺 梅若塚

東白鬚公園を北へ進むと、すぐ左手に貞元元年(976年)創建の木母寺がある。公家・吉田少将惟房と花御膳の間に生まれた梅若丸は、比叡山月林寺で修行に励んでいた。同輩との諍いが原因で月林寺を下山、琵琶湖の畔・大津の浜で人買いの信夫藤太と出合う。信夫藤太は梅若丸を売り払うため、奥州へと旅立つ。武蔵国と下総国の間を流れる隅田川の東岸で梅若丸は長旅の疲れから重い病気に掛り、貞元元年(976年)12歳で亡くなる。木母寺は、梅若丸を供養するために建立された庵が始まりとされる。明治の神仏分離に伴う廃仏毀釈に廃寺となるが、明治21年(1888年)に再興された。旧地は団地住宅第9号棟の東側にあったが、白鬚防災団地が建設に伴い昭和51年(1976年)に移転した。

この辺りに古代東海道の渡し場があった。ここから古代東海道を東へ進むが、団地群で遮られ古代東海道は再び途絶える。北側の461号線を東へ進み、鐘ヶ淵陸橋交差点を右折して南西へ進む。すぐに左折して、復活した古代東海道を東へ進む。
すぐの墨田2丁目交差点を右折すると、すぐ右手に慶長7年(1602年)創建の正福寺がある。工事中で境内には入れないが、道沿いに首塚地蔵がある。天保4年(1833年)隅田川橋場附近の浚渫工事の際に、川床より数多くの頭骨が発掘された。これを供養したのが首塚地蔵。
首塚地蔵
墨田2丁目交差点まで戻り、古代東海道を東へ進む。すぐ左手に道路際が柵で閉ざれている成林庵がある。
成林庵

成林庵からすぐに東武鉄道・鐘ヶ淵駅南側の踏切を越え、すぐのY字路を左へ進む。すぐの十字路を左折して北へ進む。すぐ左手に墨田小学校がある。すぐに荒川の土手に突き当たる。荒川は昭和5年(1930年)に完成した人工河川で、往時は存在しない。

荒川の土手道からの対岸
古代東海道案内板の地図部分
荒川の土手道を南西へ進む。10分足らずの交差点を左折して、荒川に架かる四ツ木橋を渡る。階段を下り綾瀬川の土手方向に戻り、道なりに北へ進む。すぐに右折する道があり、復活した古代東海道を東へ進む。すぐに交差する6号線を渡ると、右手に、古代東海道案内板がある。前方に嘉禄元年(1225年)創建と云われる西光寺が見える。永禄7年(1564年)国府台の合戦で兵火に合い衰退、さらに幾度かの水害で無住となる。寛永年間(1634年 〜1643年)再興される。
西光寺
立石仲見世 立石駅通り商店街 本奥戸橋
古代東海道の案内板の先はY字路になっており、古代東海道は右方向へ進む。10分ほどすると京成押上線で古代東海道は遮られ、北東側の踏切を越える。踏切を越えたところの奥戸街道入口交差点から東へ進む。奥戸街道は、ここから蔵前橋通りに合流する西小岩の六軒島交差点までの愛称。奥戸街道入口交差点から10分足らずの左手に暗く人気がない立石仲見世 / 京成立石駅前交差点 / 左手に立石駅通り商店街 と続く。すぐに中川に架かる本奥戸橋が見えて来る。中川は江戸時代に川筋を変えた河川で、往時には存在しない。
立石母の愛碑 三山供養塔 / 子育地蔵 馬頭観音
本奥戸橋西詰交差点を左折する。左手に立石母の愛碑 / 子育地蔵 と続く。祠の手前左手に宝暦5年(1755年)造立の道標を兼ねた三山供養塔 / 祠に安政5年(1855年)造立の馬頭観音と貞享2年(1685年)造立の地蔵 がある。/
地蔵
すぐ左手の立石かんすけ児童公営前に、左手に不明の石仏 / 祠に地蔵 がある。すぐ左手に不明の大王 と続く。
不明の石仏 / 地蔵 不明の大王
立石 稲荷社

すぐ左手に階段があり、突き当りに児童公園がある。標識などはなく、階段近くで庭の手入れをされていた方に伺う。立石 / 稲荷社 / 不明の大権現 がある。地名の由来となった石で、江戸時代には高さ60cm以上あった。石を削って持つと病気に効くと云う信仰 / 石を削って日清・日露戦争時に弾よけのお守り / 地盤沈下 で、現在は地表より僅かな高さしかない。

不明の大権現
古代東海道に戻り東へ進むと、すぐ左手に長保年間(999年〜1004年)創建と云われる南蔵院がある。すぐのY字路にとげぬき地蔵の祠 / 施錠された中に2基の地蔵 がある。
南蔵院 とげぬき地蔵
Y字路を左へ進む。すぐの交差点手前を右折して、往時は存在しない中川に架かる奥戸橋を渡る。5分足らずで318号線(環状7号線)と交差する。すぐに往時は存在しない新中川に架かる三和橋を渡る。すぐにJR貨物線・新金貨物線の踏切を越える。大正15年(1926年)に開通、JR総武線・小岩駅と常磐線・金町駅を結ぶ総武本線の貨物支線。
JR貨物線・新金貨物線踏切
上小岩遺跡案内板 善慶寺 上小岩親水緑道

JR貨物線・新金貨物線踏切から15分ほどすると、右手に上小岩遺跡案内板がある。古墳時代前期(3世紀)の集落遺跡で、江戸川区内で最も古く大きな遺跡と云われている。すぐの京成電鉄踏切を越えると、すぐ左手に江戸時代初期創建の善慶寺がある。すぐに上小岩親水緑道と交差する。上小岩遺跡の土器がデザインされているマンホールがある。東京都内はお決まりのマンホールだらけで、新鮮な感じがする。

上小岩親水緑道マンホール
真光院 真光院大師供養塔 馬頭観音
10分足らずの突き当りに、慶長7年(1602年)創建と云われる真光院がある。門前の祠に真光院大師供養塔があり、囲む様に石仏が囲んでいる。祠左手に、馬頭観音2基 /. 青面金剛 がある。
馬頭観音 面金剛
古代東海道の痕跡は、真光院門前で途絶える。真光院の東側は江戸川の土手になる。対岸は下総国府があったところであるが、渡し場の位置などは解っていない。右折してすぐに左折して、階段から江戸川の土手道に登る。 対岸に国府台城跡である里見公園が見える。
江戸川の土手道からの対岸
江戸川の土手道を南へ進む。10分足らずの河川敷に小岩菖蒲園があり、すぐに京成電鉄鉄橋を潜る。5分足らずで江戸川に架かる市川橋を渡る。
小岩菖蒲園と京成電鉄3100形
すぐ左手に「市川関所跡」標識があり、左折して土手道を北へ進む。すぐ左手に江戸時代に設けられた市川関所跡がある。江戸時代の渡船場は、度重なる護岸工事で解らなくなっている。明治38年(1905年)江戸川橋が架けられるまで運行された。
市川関所跡
すぐに右へ下り、京成電鉄・国府台駅下を潜り、松戸街道に平行する道を進む。再度土手に登り、すぐに右へ 松戸街道に降りる。5分足らずの右手に寛治元年(1087年)創建の国府神社がある。
国府神社
国府神社から5分足らずの左手に国府台公園がある。国府があったところで、国衙は野球場付近にあったと云われている。
国府台公園
[寄り道]下総国分寺跡 / 下総国分尼寺跡
下総国分寺跡 / 下総国分尼寺跡 を巡るが、解りにくい。設置されている標識は、不親切と言うよりは紛らわしい。肝心なところに標識がない。国府台公園入口から北へ進みすぐに右折すると、すぐ左手に「下総総社跡270m」が記されている標識がある。ここに下総国分寺跡 / 下総国分尼寺跡 も欲しい。5分ほどすると「下総総社跡Uターン270m」 / 「下総国分寺745m」 が記されている標識がある。帰路にも確認したが、該当する距離の辺りは両側がフェンスになっている。この間に「下総総社跡」標識はなく、下総総社跡には辿り着いていない。
国府台公園入口から北へ進み、すぐに右折する。5分ほどの十字路手前左角に酒屋がある。十字路を越えた右手に、地蔵が3基並んでいる。
地蔵群
何故か、十字路を右折すると左手に「下総国分尼寺跡340m」 / 「下総総社跡380m」標識がある。この標識は十字路にないと意味がない。またここから下総国分尼寺跡へは、左折するところが解らなかった。
地蔵群から5分足らずのところに変則十字路があり、越えた左角に社がある。庚申講中と彫られた燈籠が並び、祠には邪鬼に乗った青面金剛がある。
庚申塔 邪鬼
変則十字路を左折すると、すぐのY字路三角地帯に庚申塔がある。「下総国分尼寺170m」と記された標識があり左へ進むと、すぐに国分尼寺跡公園がある。
庚申塔 国分尼寺跡公園
変則十字路から道なり進むと、右方向になる。5分ほどで明らかに道が違うので引き返す。変則十字路から右方向に進んだ左手の電柱に、「下総国分寺 左折」標識がある。Y字路三角地帯の「下総国分尼寺170m」と記された標識は、左折して偶然見つけている。「下総国分寺420m」も記されており、この標識は変則十字路にないと意味がない。
変則十字路まで戻り、左折して東へ進む。10分ほどすると、右手に国分寺墓地が見えてくる。突き当りを右折すると、すぐ左手に天満宮 / すぐ左手に宝珠院 と続く。
天満宮 宝珠院
国分寺東門 南大門 本堂
鐘楼 七重塔跡 七重塔礎石
宝珠院の道を挟んだ反対側に、閉ざされた国分寺東門がある。すぐ右手から下総(しもうさ)国分寺境内に入る。天平13年(741年)聖武天皇が日本の各国に建立を命じた下総国国分寺跡地にある。下総国国分寺を継承すると伝えられているが、戦国時代の国府台合戦や火災により変遷は解らなくなっている。金堂跡に本堂、講堂跡は本堂裏の墓地内に位置している。境内には創建時の礎石が多く残っている。本堂手前左手に、移動された七重塔跡と礎石がある、
往路を逆に進み、京成電鉄・国府台駅に戻る。