日光街道21次 No.14 日光山
2014年 1月 6日(月)09:00 晴
勝道(しょうどう)上人は、天平7年(735年)芳賀郡高岡の下野国府役人の家に生まれる。霊場としての日光の始まりは、勝道上人が大谷川(だいやがわ)北岸に天平神護2年(766年)紫雲立寺を創建したことに始まるとされる。天応2年(782年)勝道上人は神体山である男体山(2.486m)の登頂に成功した。観音菩薩の住処とされる補陀洛山(ふだらくさん)に因んで、この山を二荒山(ふたらさん)と名付けた。後に“二荒”を音読みして“にこう”とも呼ばれる様になったのが、“日光”の地名の由来であると云われている。
明治の神仏分離以前は、神社 / 寺院 / 霊廟 すべて含めて“日光山”または“日光三所権現”として神仏習合の信仰が行われていた。神仏分離後は、輪王寺(寺院) / 二荒山神社(神社) / 東照宮(神社) に分かれる。輪王寺は日光山にある寺院の総称でもあり、広範囲に散在している。承応2年(1653年)に造営された3代将軍・徳川家光の大猷院(たいゆういん)霊廟は、仏寺式の建築であるため輪王寺の所有となっている。
本ぐう瀧 本宮神社 笈掛石
大谷川を渡ると、T字路の神橋交差点の突き当りに“本ぐう瀧”がある。右折してすぐ左手の石段を登ると、神護景雲元年(767年)創建の本宮神社がある。男体山(二荒山)の神を祭る祠を建てたことに始まるとされる。新宮(二荒山神社)や滝尾神社 とともに日光三社と呼ばれたが、現在は滝尾神社とともに二荒山神社の別宮になっている。貞享元年(1684年)に再建された社殿(重文)は改修工事中であった。参道左手にある笈掛(おいかけ)石は、勝道上人が笈を立て掛けて休息したと云われている。
四本龍寺観音堂 四本龍寺三重塔 不動明王 / 石護摩壇
本宮神社の北側に、紫雲立寺(しうんりゅうじ)に始まるとされる四本龍寺(しほんりゅうじ)がある。霊場としての日光の始まりは、勝道上人が大谷川北岸に天平神護2年(766年)紫雲立寺を創建したことに始まるとされる。観音堂と貞享2年(1684年)に再建された三重塔は重文。境台にある不動明王と石護摩壇は、日光修験の峰修行の遺構。
四本龍寺から西へ進むと、右手に日増院がある。
日増院
神橋交差点から左へ120号線を進むと、すぐ右手に深沙(じんじゃ)大王堂がある。深沙大王は、唐の玄奘三蔵が仏法を求めて天竺(インド)を旅した際に危機を救った神であるとされる。天平神護2年(766年)勝道上人は日光山の麓に辿り着いたが、大谷川の激流に阻まれ対岸に渡ることができなかった。首から髑髏(どくろ)を下げた異様な姿の深沙大王が現われ、2匹の大蛇で橋を架けた。この神橋橋渡し伝説から、山菅蛇橋(やますげのじゃばし)とも呼ばれた。
深沙大王堂
浄土院 護光院 照尊院
安養院 醫王院 光樹院
120号線を進み、すぐ右手の急坂を登る。上り切ったT字路の右手に浄土院がある。T字路を左折して西へ進むと、社寺共同庁舎 / 護光院 / 照尊院 / 安養院 / 醫王院 / 光樹院 と並んでいる。
輪王寺黒門 輪王寺三仏堂 輪王寺護摩堂
突き当りを道なりに右へ、北に進む。右手の輪王寺黒門を潜ると、正保2年(1645年)再建された三仏堂(重文)がある。平成19年(2007年)〜平成30年(2018年)大規模修理が行われており、実物大の絵が架けられている。三仏堂は拝観料が必要である。輪王寺は天平神護2年(766年)に創建された紫雲立寺が始まるとされる。平安時代に嵯峨天皇から“満願寺”の称号が下賜された。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条氏側に加担したため寺領を没収され一時衰退した。江戸時代初期に天海大僧正(慈眼大師)が住職となってから復興する。明暦元年(1655年)後水尾上皇から“輪王寺”の称号が下賜された。戊辰戦争の後に明治政府によって輪王寺の称号を没収され、旧称の満願寺に戻される。明治15年(1883年)栃木県のとりなしによって輪王寺の称号が許された。
日光東照宮石鳥居 日光東照宮五重塔 日光東照宮表門

輪王寺黒門から北へ進むと、突き当りに元和3年(1617年)に造営された日光東照宮がある。江戸時代初期に輪王寺住職になった天海大僧正(慈眼大師)が、徳川家康を東照大権現として日光山に迎えた。元和4年(1618年)造立の石鳥居(重文)を潜ると、左手に文化16年(1818年)再建の五重塔(重文)がある。石鳥居は、鎌倉八幡宮 / 京都八坂神社 の鳥居とともに日本三大石鳥居に数えられている。突き当りにある寛永13年(1636年)建立の表門から先は拝観料が必要である。

日光二荒山神社神門 日光二荒山神社楼門 日光二荒山神社拝殿
日光東照宮の手前左手にある五重塔手前を左折すると、神護景雲元年(767年)創建の本宮神社が始まりの日光二荒山神社がある。正式名称は“二荒山神社”であるが、宇都宮の二荒山神社との区別のためにそれぞれ地名を冠している。日光二荒山神社 / 宇都宮二荒山神社 ともに延喜式神名帳に記載されており、それぞれ下野国一宮を称している。古くは、男体山(2.486m)=新宮権現 / 女峯山(2.464m)=滝尾権現 / 太郎山(2.368m)=本宮権現 を神体山とする“日光三社権現”と称された。元和3年(1617年)日光東照宮造営の際、現在地に移転した。正保年間(1644年〜1648年)再建と云われる拝殿 / 元和5年(1619年)再建の本殿 は重文。
大猷院仁王門 大猷院二天門 大猷院皇嘉門

日光二荒山神社の西側に、承応2年(1652年)に造営された徳川3代将軍家光の墓所・大猷院がある。仁王門(重文)から先は拝観料が必要である。二天門(重文)には、大猷院の額が架かる。皇嘉門(重文)は本殿の右手奥にある楼門で、奥に家光の墓所・奥の院がある。