日光街道21次 No.13 今市駅-(約8km)-神橋
2014年 1月 6日(月)09:00 晴
JR日光線・今市駅より北東へ進む。5分ほどの小倉町交差点を左折して、日光街道(119号線)を北西へ進む。
報徳二宮神社鳥居
報徳二宮神社社殿 二宮尊徳の墓
小倉町交差点からすぐの右手に「栃木県史跡 二宮尊徳翁之墓」標識がある。右折すると突き当りに、明治26年(1893年)創建の報徳二宮神社がある。社殿の北側に、二宮尊徳の墓がある。二宮尊徳は天明7年(1787年)相模国足柄上郡栢山村に農民の子として生まれる。報徳社を設立して農村の救済を行い、天保8年(1837年)小田原藩の荒廃した領地を再興したことで知られている。日光神領の荒廃した農村の復興に尽力したが、安政3年(1856年)今市報徳役所で70歳の生涯を閉じた。「分を越えた墓石を建てるなどの葬儀をしてはならない」との遺言であったが、二宮尊徳を慕う門人や妻・歌子の意志により如来寺で葬儀が行われた。報徳二宮神社は、地元をはじめとする全国の崇敬者によって終焉の地に創建された。
如来寺本堂 如来寺地蔵堂 如来寺観音堂

報徳二宮神社から北西へ進むと、すぐ右手に室町時代中期に創建された如来寺がある。地蔵堂に江戸時代初期造立の木造地蔵(車止め地蔵)がある。下野観音4番札所 / 今市七福神(弁財天)になっている。徳川三代将軍家光は境内に御成御殿を造営、日光社参詣のとき休息や宿泊をしていた。安政3年(1856年)二宮尊徳死去の際、葬儀が行われた寺でもある。

如来寺弁財天
日光街道アーケード 古民家
浄泉寺本堂(薬師堂) 浄泉寺聖徳太子堂 浄泉寺弁天社

如来寺山門から南へ進むと、日光街道(119号線)に出る。5分ほどすると右手に、元亀3年(1572年)日光上和泉村に創建された上泉寺が始まりの浄泉寺がある。慶長年間(1596年〜1615年)に移転、如来寺の末寺として浄泉寺に改称したと云われている。慶安4年(1651年)徳川家光の棺が日光山に向かう途中、小休止した寺と云われている。明治15年(1882年)本堂は焼失している。境内に、小児の夜泣き止めで知られる沢蔵司稲荷神社 / 聖徳太子堂 / 弁天社 がある。

浄泉寺からすぐの歩道橋のある交差点の左手に、滝尾神社がある。天応2年(782年)勝道上人が日光二荒山上男体山に二荒山大神を祀ると同時に、当社にもこれを祀るに始まると云われる古社。引仁11年(820年)弘法大師が創建したと云われる日光山の滝尾神社より古い。今市七福神(大黒天)になっている。今市宿の西の入口にあたり、かつてはここに木戸があった。
 滝尾神社
石祠
杉並木道

歩道橋のある交差点から右へ、杉並木道を進む。杉並木道入口左手に、石祠がある。5分ほどすると、右手に社がある。注意不足から、日光街道の一里塚は最期も見落としている。

歩道橋のある交差点から杉並木道に入って15分ほどのところ、左手に瀬川大日堂がある。瀬川大日堂から10分ほどすると、左手にベンチ / 右手に“砲弾打込み杉”がある。戊辰戦争のとき、日光・会津への交通の要衝今市宿をめぐる官幕両軍の激しい攻防戦が展開された。瀬川十文字で戦ったとき、官軍が撃った砲弾が杉に命中した傷痕が残っている。
瀬川大日堂 砲弾打込み杉

“砲弾打込み杉”から15分ほどすると、右手に野口薬師堂 / 石の釣鐘 がある。薬師如来を本尊とした龍蔵寺があったところ。石の釣鐘は明和5年(1768年)奉納しようとしたが、竜頭が壊れ放置されてきたもの。

野口薬師堂 石の釣鐘
Y字路 薪小屋 不明の石塔
野口薬師堂からすぐにY字路がある。どちらを進んでも、すぐに合流する。10分ほどすると119号線と合流する。歩道の無い杉並木道を進むと、すぐ左手に不明の石塔 / 左手に常夜燈 / しめ縄が架かる参道 がある。踏切のないJR日光線の線路前に、判読不明の立て看板がある。JR日光線や日光宇都宮道路を越えたところにある日枝神社への参道と思われる。
常夜燈 参道
題目塔「生岡大日」 村社生岡神社石標 並木太郎
しめ縄が架かる参道から5分ほどすると、左手に題目塔「生岡大日」 / 左手に「村社生岡神社」石標 がある。生岡神社は大日如来を祀る大日堂だったが、神仏分離により神社となった。生岡神社前バス停があるが、社殿はJR日光線や日光宇都宮道路を越えたところにある。すぐの右手に“並木太郎”がある。杉並木道にある街道隋一の美しい大杉で、周囲6.36m / 樹高38m もある。画像は2枚を継ぎ合わせたもの。
古民家 麻疹地蔵  

並木太郎から15分ほどの宝殿交差点を過ぎ、すぐに杉並木道に入る。すぐに志渡淵川に架かる筋違橋の手前左手の祠に、麻疹(はしか)地蔵がある。筋違橋は、日光街道と筋違いに流れる川に架かる橋に由来している。麻疹地蔵にお参りすると、麻疹が治るとされる。筋違橋を渡ると、すぐ右手に社がある。

分岐 119号線合流点 / JR日光線ガード 杉並木道

筋違橋からすぐに分岐があり、左へ杉並木道を進む。すぐに119号線と合流、JR日光線のガードを潜る。すぐに右へ杉並木道を進む。すぐに119号線と合流する手前左手に、石仏・石塔群がある。

石仏・石塔群
日光街道21次 21番 鉢石(はついし)宿
栃木県日光市鉢石界隈
天保14年(1843年)宿村大概帳
人口:985 家数:223 本陣:2 旅籠:19
もともと鉢石村という村落があった。元和3年(1617年)に日光東照宮が造営され日光参詣が盛んとなると、日光東照宮の門前町として賑わった。現在のJR日光駅の辺りに、鉢石宿の木戸があった。街道沿いにある“鉢石”は、鉢を伏せた様な形状の直径2mほどの石。地名の由来になっている。
杉並木道
史蹟 日光並木街道 並木寄進碑 JR日光駅
119号線に合流、歩道のない杉並木道を進む。5分ほどすると、左手に「史蹟 日光並木街道 並木寄進碑」がある。すぐの相生町交差点を右折すると、すぐの突き当りに明治23年(1890年)開業のJR日光駅がある。駅舎は大正元年(1912年)落成の2代目で、ネオルネサンス様式の2階建木造洋風建築物。
東武日光駅 石屋町街区公園

相生町交差点からすぐの東武日光駅前交差点右手に、昭和4年(1929年) 開業の東武日光駅がある。土産店が並ぶ日光街道を進むと、5分ほどの右手に石屋町街区公園がある。

[寄り道]十王堂
最勝寺 十王堂からの眺望
十王堂 閻魔法王庁石像 稲荷川大洪水の水難供養塔
石屋町街区公園のところにある交差点を左折して南西へ進むと、川の手前右手方向に最勝寺がある。川に向かって直進して志渡渕橋を渡ると、龍蔵寺宇津野墓地がある。寛文2年(1662年)稲荷川大洪水の水難供養塔 / 十王堂 / 閻魔法王庁石像 がある。笠塔姿の2基は寛文3年(1663年)造立 / 右端の1基は昭和6年(1931年)に造立.されたもの。閻魔法王庁石像は、閻魔大王を中心として閻魔十王などの石仏が並んでいるもの。
石屋町街区公園のところにある交差点まで戻る。
[寄り道]西行戻り石
稲荷神社 西行戻り石
石屋町街区公園のところにある交差点から北東へ進み、すぐの交差点を左折する。すぐ右手の稲荷神社に“西行戻り石”がある。西行は東大寺再建の基金集めのため奥州平泉に勧進の途上、日光に立ち寄った。大石の上にいた村の子供にどこへ行くのかと尋ねると、「冬萌(ほ)きて夏枯れ草を刈りに行く(麦刈り)」と歌で答えた。驚いた西行がこの場で男体山を遥拝、引き返した時の「ながむながむ 散りなむことを きみも思へ くろ髪山に 花さきにけり」西行歌碑がある。
交差点まで戻り、さらに北東へ進む。すぐの十字路を左折すると、右手の稲荷町防災公園に社がある。稲荷神社に行くとき、道を間違えて辿り着く。
龍蔵寺本堂 龍蔵寺不動堂 龍蔵寺観音堂
石屋町街区公園のところにある交差点まで戻り、日光街道を北西へ進む。すぐ右手に龍蔵寺がある。境内に、不動堂 / 観音堂 / 地蔵堂 / 社 がある。稲荷神社や稲荷町防災公園は、龍蔵寺の北側に位置している。
龍蔵寺地蔵堂 龍蔵寺 社
休憩所 古民家 観音寺山門
観音寺本堂 観音寺観音堂

草木塚供養塔

山門手前の石段
観音寺千手観音堂 鉢石宿町並み
八坂神社 神号碑 題目塔

龍蔵寺からすぐの左手に休憩所がある。10分ほどすると左手に、弘仁11年(820年)空海が景勝の地に千手観音堂を創建したのが始まりと云われる観音寺がある。永承6年(1509年)には栄蔵坊と称して六支坊を擁していたが、天正年間(1573年〜1593年)末期に衰退した。元和3年(1617年)日光東照宮造営後の寛永4年(1627年)天海から「鉢石山無量壽院観音寺」の山号を与えられ、鉢石宿住民の香華院(菩提寺)となった。坂を登ると、左右に六地蔵が別れて並ぶ山門がある。境台に観音堂 / 享和3年(1803年)造立の草木塚供養塔 などがある。山門手前右手の石段を登ると、千手観音堂がある。ここからは鉢石宿町並みが一望できる。さらに登ると頂上に、八坂神社 / 神号碑(天照皇大神) / 梵字が彫られている不明の題目塔 がある。

電話ボックス 神橋
観音寺からすぐ左手の蕎麦屋店頭に、ロープウェイのゴンドラを利用した電話ボックスがある。すぐ左手に、大谷川(だいやがわ)に架かる二荒山(ふたらさん)神社の神橋(しんきょう)がある。奈良時代末に架けられ、寛永13年(1636年)現在の様な朱塗りの橋になった。神事 / 将軍社参 / 勅使 / 幣帛供進使 などに使用され、一般は下流の日光橋を通行した。現在は往復することが出来る(有料)。明治35年(1902年)に洪水で流され、明治37年(1904年)に再架橋された。長さ28m / 巾7.4m / 高さ10.6m の木造朱塗りの橋で、本来は橋脚のない構造であったが石の橋脚で補強されている。天平神護2年(766年)勝道上人は日光山の麓に辿り着いたが、大谷川の激流に阻まれ対岸に渡ることができなかった。首から髑髏(どくろ)を下げた異様な姿の深沙大王が現われ、2匹の大蛇で橋を架けた。この神橋橋渡し伝説から、山菅蛇橋(やますげのじゃばし)とも呼ばれた。錦帯橋(岩国市・錦川)や 猿橋(大月市・桂川)とともに日本三奇橋に数えられている。日本橋からスタートした日光街道はここで終わる。