日光街道21次 No.08 小山駅-(約10km)-自治医大駅
2014年 1月22日(水)09:00 霧のち晴

JR東北本線・小山駅から西へ進む。すぐに旧日光街道(265号線)と交差する。

[寄り道]小山城 / 天翁院
 
城山公園入口
空堀跡 深い堀に架かる祇園橋
曲輪を囲む土塁跡 銀杏の古木 小山城からの思川眺望
旧日光街道(265号線)との交差点を西へ、道なりに進む。10分ほどすると、思川に架かる観晃橋手前の北側に城山公園がある。
藤原秀郷の後裔を称した武蔵国・太田郷の太田政光が、下野国小山に移り小山氏を名乗った。政光の後妻・寒河尼が頼朝の乳母となり、政光 / 嫡子・朝政 / 三男・朝光(結城家祖)らは頼朝の挙兵に応じている。鎌倉幕府成立後は重用され、下野国守護を務めた。三男・朝光の母は、寒河尼。小山城は中久喜城や鷲城とともに、小山氏の主要な居城であった。小山郷の総鎮守・須賀神社(祇園社)を城の守り神としてため、祇園城とも呼ばれていた。
天授6年/康暦2年(1380年)〜弘和2年/永徳2年(1383年)下野国守護・小山義政が鎌倉公方・足利氏満に対して起こした反乱で、鎌倉府により追討されて嫡流は断絶する。同族の結城直光の次男・泰朝を養子として迎え再興した。
天正4年(1576年)小山秀綱が北条氏照に降伏して開城、北条氏照が北関東攻略の拠点として改修した。天正18年(1590年)北条氏滅亡後、慶長12年(1602年)本多正純が入封する。元和5年(1619年)宇都宮へ移封となり、小山城は廃城となった。
古河市三国橋の上流で渡良瀬川に合流する思川に沿って、南北に曲輪がある。本丸と二の丸との間には思川へ一直線に伸びる深い堀があり、赤い祇園橋が架けられている。二の丸に、享和3年(1803年)の書物に古木と記されている銀杏がある。
城山公園の北側に、久寿2年(1155年)小山政光によって創建された天翁(てんのう)院がある。城山公園の東側を通る4号線を北へ進むと、左手に山門がある。北山(小山市中久喜地内)にあったが、文明4年(1472年)現在地に移転した。小山氏の菩提寺になっている。
天翁院
旧日光街道(265号線)まで戻り、北へ進む。すぐの交差点を左折してすぐの小路を左折すると、すぐ右手に元須賀神社がある。
元須賀神社
旧日光街道(265号線)まで戻り、北へ進む。すぐの264号線との交差点を越え、次のT字路交差点を左折する。すぐ右手に寶性院がある。早朝のためか、山門は閉ざされている。開いている山門と本堂の画像は、2010年5月に撮影したときのもの。
寶性院山門 寶性院本堂
寶性院側の門 興法寺山門 興法寺本堂
旧日光街道(265号線)まで戻り、北へ進む。すぐ左手に嘉祥2年(849年)創建の興法寺がある。寶性院山門右手からも行ける。寶性院側の門は、あいにくの霧でけぶっている。山門と本堂の画像は、2010年5月に撮影したときのもの。慈恵大師が室(むろ)の八島へ向かう途中、小山荘に妙楽院を創建したのが始まり。天慶3年(940年)藤原秀郷が小山城内に移し、徳王山妙楽院興法寺と称したと云われている。興法寺と旧日光街道を挟んだ反対側に、貞応2年(1223年)創建の愛宕神社がある。小山城主・小山朝政が鬼門守護のため、京都の愛宕神社より勧請した。
愛宕神社
愛宕神社から15分ほどのJR両毛線の踏切を渡る。さらに15分ほどすると、左手に日枝神社の参道がある。社殿は4号線を越えたところにある。すぐの五差路の喜沢(きざわ)東交差点は、喜沢の追分とよばれたところ。旧日光街道は直進、すぐに右方向の小路を進む。壬生(みぶ)宿 / 鹿沼宿 を経由して日光街道・今市宿へ至る壬生道(18号線)は北西へ進む。芭蕉は壬生道を室(むろ)の八島(大神神社)を経て日光へ向かった。日光への近道でもあった。北側の三角地帯に、供養塔を兼ねた「左壬生道 右宇都宮道」道標 / 明治27年(1894年)造立の馬頭観音 / 出征馬碑 が並んでいる。
霧にけぶる日枝神社参道
供養塔を兼ねた道標 馬頭観音 出征馬碑
旧日光街道を10分ほど進むと、東北新幹線高架に沿って進む。さらに5分ほどすると、33号線を陸橋で越える。すぐのY字路を左へ進むと、すぐに4号線に合流する。
日光街道21次 13番 新田(しんでん)宿
栃木県小山市羽川
天保14年(1843年)宿村大概帳
人口:244 家数:59 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:11

芋柄新田(いもがらしんでん) / 大町新田(おおまちしんでん) とも呼ばれ、宿駅の管理は、当初は小山藩 / 元和5年(1619年)以降は宇都宮藩 / 元和8年1622年以降は古河藩 / 貞享2年(1685年)以降は幕府が担った。南端は小山羽川郵便局付近、北端は銅市金属工業付近であった。

4号線を進むと、すぐ左手に小山羽川郵便局がある。この辺りから新田宿に入る。

小山羽川郵便局から5分ほどすると、左手に新田宿本陣門がある。新田宿本陣門からすぐのT字路を左折すると、羽川薬師堂がある。
新田宿本陣門 羽川薬師堂
西側からの一里塚
一里塚碑 東側からの一里塚
旧日光街道(4号線)まで戻り、北へ進む。すぐに新田宿北端付近の銅市金属工業の角を左折、すぐに右折する。旧日光街道は5分ほどで途切れる。4号線に出るには少し戻らなくてはならない。4号線を北へ進むと、和風レストラン和楽のある交差点を左折する。すぐの十字路で、途切れた旧日光街道と交差する。右折して4号線に平行する旧日光街道を進む。10分ほどすると、突き当りの畑の先に小金井一里塚が見える。小金井一里塚前後の道は消滅しており、取り残された形で残っている。突き当りを左折、すぐに右折して行ける。4号線側に出ることも出来る。明治期の国道整備の際、新田宿と小金井宿の間は、旧街道の東側に新たに道路を開通させたため、東西の塚がほぼ原形のまま残された。日光街道の一里塚では唯一、国の史跡に指定されている。経年変化で円形になっているが、本来は方形の塚である。東西の塚にはそれぞれ榎が植えられており、東塚には椚(くぬぎ)もある。
日光街道21次 14番 小金井(こがねい)宿
栃木県下野市小金井
天保14年(1843年)宿村大概帳
人口:767 家数:165 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:43

江戸時代以前からの古い宿場で、鎌倉街道中道(なかつみち)の金井宿と呼ばれていた。近くにある旱魃(かんばつ)のときにも枯れることがなかった湧水の池から、黄金が出てきたと云う伝承に由来する。宿駅の管理は、当初は壬生藩 / 元禄9年(1696年)以降は幕府 / 宝暦13年(1763年)以降は下総佐倉藩 / 天明7年(1787年)以降は幕府 / 寛政11年(1799年)以降は再び佐倉藩 が担った。

慈眼寺本堂 慈眼寺観音堂 金井神社
小金井一里塚から4号線を北へ進む。すぐの交差点辺りから旧日光街道になり、小金井宿に入る。小金井一里塚から5分ほどの左手に、建久7年(1196年)新田義兼により創建された慈眼寺がある。江戸時代の日光社参では、境内に将軍の休息所が設けられた。天和2年(1682年)に解体された小山宿・小山御殿の代替施設だった。明治元年(1868年)の火災で建物のほとんどは消失したが、江戸時代の観音堂や鐘楼が現存している。隣接して、金井神社がある。
金井神社からすぐの左手に、小金井宿本陣門がある。ここには明治22年(1889年)国分寺村が発足したとき、村役場が置かれた。
古民家 小金井宿本陣門
金井神社からすぐに、小金井北交差点がある。右折して東へ進むと、すぐの突き当りに正平15年(1360年)創建の蓮行寺がある。江戸時代は将軍の日光社参の際に、宇都宮藩主が蓮行寺で出迎えていた。
蓮行寺
[寄り道]山の神大山神社 / 権現稲荷神社 / 河越大越神社

小金井北交差点を左折して西へ進む。すぐのT字路交差点を右折して北へ進む。すぐ左手に山の神大山神社がある。すぐ右手にある保育園角の十字路を左折すると、右手に権現稲荷神社がある。

山の神大山神社 権現稲荷神社
河越大越神社 石標

保育園角の十字路を右折すると、すぐ左手に河越大越神社がある。鳥居右手に「文治元年 きつねのほら穴亦 小太郎重房 かくれ穴あと 文治元年12月 川越城主平重頼ノ長男七百九二年前 三九代大越衛建立」と彫られた石標がある。どの様な由来なのか、よく解らない。平重頼(河越重頼)は、平安時代末期の武蔵国入間郡河越館の武将。桓武平氏の流れを汲む秩父氏の嫡流。妻は源頼朝の乳母・比企尼の次女(河越尼)で、源頼家の乳母。河越重房は嫡男 / 源義経の正室である京御前は妹。治承4年(1180年)源頼朝の挙兵に対し、重頼は平家方に付き衣笠城を攻めて三浦義明を討ち取っている。勢力を回復して再挙兵した頼朝が武蔵国に入ると傘下に入り、以降は御家人として重く用いられている。頼朝の命令で義経に娘(京御前)を嫁がせた事から対立に巻き込まれ、重頼 / 重房は文治元年(1185年)所領を没収され2年後には誅殺される。重頼/ 重房を誅殺した後に関わりがなかったことが解り、河越氏は再興される。

小金井北交差点まで戻り、旧日光街道(4号線)を北東へ進む。10分ほどすると、右手に薬師堂がある。
薬師堂
旧日光街道分岐
薬師堂から10分ほどすると、旧日光街道は看板手前を左へ進みすぐに右折していた。この右折する道は跡かたもない。
4号線を5分程進み、T字路交差点を右折すると、すぐの突き当りにJR東北本線・自治医大駅がある。