日光街道21次 No.07 間々田駅-(約6km)-小山駅
2013年12月25日(水)09:30 晴
JR東北本線・間々田駅から北西へ進む。
[寄り道]乙女不動原瓦窯跡 / 泉龍寺
すぐの間々田駅入口交差点を西へ進む。すぐの突き当りを右折、歩道橋の手前を左折する。左手に乙女かわらの里公園 / 右手に泉龍寺 がある。乙女かわらの里公園には、奈良時代の乙女不動原瓦窯跡がある。4基の窯跡 / 工房跡 / 粘土採掘坑跡 / 瓦集積場跡などが発掘されており、復元されている。ここで焼かれた瓦は、下野国分寺や下野薬師寺などに供給していた。泉龍寺境内に乙女不動堂がある。
乙女不動原瓦窯跡
山門 本堂 乙女不動堂
泉龍寺の北側、道を挟んたところに地蔵堂がある。
地蔵堂
車屋美術館
間の榎碑 間の榎

間々田駅入口交差点まで戻り、旧日光街道(4号線)を北東へ進む。すぐ右手に車屋美術館がある。国の登録有形文化財に登録された小川家住宅の米蔵を、美術展示室として改装するとともに主屋 / 庭園などが公開されている(有料施設)。すぐ右手にある消防署先の交差点を越えると、右手に“逢の榎”がある。街道を通る例幣使が江戸と日光の中間地点の目印に、“間(あい)の榎”を植えた。いつしか“逢の榎”と呼ばれる様になり、縁結びの木として信仰される様になった。

琴平神社 龍昌寺本堂 寝起不動堂
すぐの歩道橋手前右手に琴平神社 / すぐ左手に龍昌寺 がある。龍昌寺は、慶安4年(1651年)徳川家光の遺骸を日光廟に移送する際に安置された寺。境内に延享2年(1745年)建立の寝起不動堂がある。水戸城内の龍江院にあったが、元亀年間(1570年〜1572年)模庵和尚が背負い杖に縋って当地に辿り着いた由来がある。5分ほどの間々田交差点を越えると、左手にいわくの有りそうな門 / 問屋場跡案内板 / 本陣跡案内板 と続く。
いわくの有りそうな門
間々田八幡宮鳥居
厳島神社 間々田八幡宮社殿
5分ほどの間々田4丁目交差点の左手に、間々田八幡宮鳥居がある。左折して道なりに10分ほど進むと、突き当りに奈良時代創建の間々田八幡宮 / 境内の瓢箪池に厳島神社 がある。境内は約2万坪と近隣に類を見ない規模で、間々田八幡公園としても開放されている。間々田八幡宮には、古くは藤原秀郷や源頼朝、江戸時代には朝廷の日光例幣使も例年参拝した。5月5日に開催される国の選択無形民族文化財“間々田の蛇祭り”は、4月の花祭りの日に行われていた田植え前の雨乞い行事であった。藁で作った長さ20m近くの蛇体を、子供たちが「蛇がまいた(ジャガマイタ)、蛇が巻いた、4月8日の蛇が巻いた」と囃しながら練り歩く。各町内の蛇が間々田八幡宮に集合、神事や蛇の水のみ行事を行い各町内に散会する伝統行事。
浄光院山門 浄光院本堂 行泉寺
間々田4丁目交差点まで戻り、旧日光街道(4号線)を北東へ進む。すぐ左手に浄光院 / 右手に行泉寺 と続く。
すぐのT字路交差点から北西に5分ほど進むと、間々田八幡宮と間々田八幡公園の間に出ることができる。途中、十字路の北側に地蔵堂がある。
地蔵堂
T字路交差点から旧日光街道(4号線)を北東へ進む。10分ほどすると、左手に祠(地蔵 / 馬頭観音)と千駄塚古墳石標がある。左折するとすぐの突き当りに、千駄塚古墳がある。こんもりした森の千駄塚古墳入口に浅間神社鳥居 / 史跡千駄塚古墳石標、頂上に社殿がある。千駄塚古墳は、直径は約70m / 高さは約10mの大形円円墳。
祠(地蔵 / 馬頭観音) 千駄塚古墳石標
浅間神社鳥居 史跡千駄塚古墳石標 浅間神社社殿
稲荷社 西堀酒造 石塔3基

旧日光街道(4号線)まで戻り、北東へ進む。5分ほどすると左手に稲荷社が2社ある。すぐの粟宮南交差点を越えると、左手に明治5年(1872年)創業の西堀酒造がある。間々田は水源に恵まれ、普通の水に比べて硬度が8度と高く日本酒造りには最適とのこと。すぐ右手に石塔3基がある。

5分ほどの粟宮交差点手前左手に、安房神社 / 境内に水神社 がある。藤原秀郷が平将門討伐の戦勝を祈願したと云われている。
安房神社 水神社
粟宮交差点で4号線と分かれ、旧日光街道は直進265号線を進む。この近くには横断歩道がない。15分ほどすると、左手の柵に囲まれた巨木の下に祠がある。
日光街道21次 12番 小山(おやま)宿
栃木県小山市の中心部
天保14年(1843年)宿村大概帳
人口:1392 家数:423 本陣:1 脇本陣:2 旅籠:74
元和3年(1617年)以降に宿駅に指定されたと云われている。宿駅の管理は、元和5年(1619年)古河藩 / 延宝3年(1675年)幕府 / 天和2年(1682年)古河藩 / 貞享2年(1685年)幕府 / 安永3年(1774年)宇都宮藩 が担った。小山城の城下町で、日光街道の中では比較的規模の大きな宿場であった。日光街道 / 壬生通り / 結城道 / 佐野道 / 栃木道が交差する交通の要所でもあった。街道沿いでは南から下町 / 中町 / 上町、他に横町 / 新町から構成されていた。本陣や脇本陣は中町にあった。宿内には将軍家による日光社参のため、小山御殿が元和8年(1622年)に設けられた。土塁と堀に囲まれた南北100m / 東西64mの敷地に、15ヶ所の御番所があり警固が厳重であった。寛文3年(1633年)以降は日光社参が中断され、天和2年(1682年)古河藩の財政難のため解体された。小山市役所付近にあったが、遺構はない。石田三成挙兵を知った徳川家康が、諸将を集めて軍議を開いた“小山評定”が行われた場所である。
祠からすぐに神鳥屋東交差点があり、小山宿に入る。すぐの左手に、天満宮 / 明和4年(1767年)創建の稲荷神社 / 雷電神社 が合祀された天満宮がある。5分ほどの交差点を左折すると、すぐ右手に宝亀3年(772年)創建と云われる持宝寺がある。享保13年(1728年)8代将軍徳川吉宗が日光社参をした際、小休止所とした。
天満宮 持宝寺
須加神社鳥居
神門 須加神社社殿

旧日光街道(265号線)まで戻り、北東へ進む。次の交差点の左手に須加神社の鳥居があり参道が続く。社殿まで5分ほどである。天慶3年(940年)藤原秀郷が現在の小山市中久喜に創建したのが始まりとされ、平治年間(1159年〜1160年)現在地に移転したと云われている。北側に建武元年(1334年)創建の妙建寺がある。現在の本堂は、享保2年(1717年)から16年かけて再建されたもの。

妙建寺
須加神社の鳥居から続く参道は、多くの道が交差している。2本目を右折すると、すぐ左手に天慶年間(938年〜947年)藤原秀郷によって創建された現聲(げんしょう)寺がある。
現聲寺
妙建寺から4号線を北東へ進む。すぐ左手の小山市役所駐車場に、小山評定跡がある。慶長5年(1600年)会津・上杉景勝を討つため小山まで来た徳川家康は、石田三成の挙兵を知り諸将を集め軍義が開かれた。これが小山評定。徳川家康はここで諸将の進言を基に関ヶ原の合戦に臨んだ。
小山評定跡
常光寺本堂 二十三夜堂 阿弥陀
旧日光街道(265号線)まで戻り、北東へ進む。すぐの交差点を右折すると、すぐの突き当りに延慶4年(1311年)創建と云われる常光寺がある。境内にある阿弥陀の台座には、慶応4年(1868年)戊辰の役・小山の戦いの時に当たった弾痕が残る。2013年12月25日には阿弥陀はなく、案内板のみであった。明治22年(1889年)小山町役場が一時期置かれていた。

旧日光街道(265号線)まで戻り北東へ進むと、すぐ左手に脇本陣の玄関が見える。
脇本陣玄関
光照寺 地蔵 千手観音堂
旧日光街道(265号線)を北東へ進む。すぐの263号線との交差点を右折してすぐの小路を左折すると、すぐ右手に光照寺 / 境内に布が巻かれたいわくありげな地蔵 がある。突き当りを右折して、すぐの十字路を左折する。2本目の小路を右折すると、千手観音堂がある。
263号線まで戻り東へ進むと、すぐの突き当りにJR東北本線・小山駅がある。