日光街道21次 No.05 栗橋駅入口交差点-(約7km)-古河駅
2013年11月13日(水)09:30 晴

JR東北本線 / 東武鉄道日光線・栗橋駅東口から北へ進む。すぐ右手にある高柳寺旧蹟を右折する。すぐに右折して、147号線を東へ進む。栗橋駅東口から15分ほどの栗橋駅入口交差点を左折して、旧日光街道を北へ進む。

栗橋駅入口交差点から5分ほどすると、右手で広範囲に発掘調査が行われている。利根川強化堤防事業に伴う移転跡地の埋蔵文化財調査とのこと。
古民家 栗橋関所発掘現場
発掘調査が切れているところを右折する。4号線の土手堤に、栗橋関所案内板 / 栗橋関所跡碑 がある。栗橋関所案内板には、当時の地図や将軍が利根川に舟の橋を架かけて渡る錦絵が描かれている。幕府は下総国中田宿へ渡る渡船場を利用して取り締まった。以前は対岸側にあったため、房川渡中田関とも呼ばれていた。旧日光街道は、栗橋関所から利根川を房川渡(ぼうせんのわたし)で渡河していた。
栗橋関所案内板 栗橋関所跡
北へ進み、八坂神社前交差点から迂回する。八坂神社前交差点の左手に、慶長年間(1596年〜1615年)創建と云われる八坂神社がある。本殿は寛保2年(1742年)に再建されたもの。拝殿手前左手に、神号碑(秋葉神社) / 皇太神宮 / 八幡神社 がある。拝殿の右手に、稲荷社 / 稲荷神社 / 山王社・日吉(ひえ)神社 / 樹齢約三百年の神木のケヤキ / 神号碑(三笠山神社・御嶽山神社・八海山神社) / 神号碑(水神宮・大杉大明神) がある。南側の道路に面したところに、寛政12年(1800年)造立の庚申塔 / 地蔵堂 がある。西隅に番士屋敷跡がある。
八坂神社拝殿
神号碑(秋葉神社) 皇太神宮

八幡神社

稲荷社 稲荷神社 山王社・日吉神社
神木 神号碑(御嶽山神社 他) 神号碑(水神宮・大杉大明神)
地蔵堂 庚申塔 番士屋敷跡
八坂神社の西側、道を隔てた更地にも番士屋敷跡がある。番士屋敷は栗橋関所に勤務した番士の住居で、4ヶ所あった。関所が置かれた とされる寛永元年(1624年)から明治2年(1869年)に廃止されるまで、約240年余存続した。
番士屋敷跡
経蔵院 香取神社 神号碑(辨財天)

八坂神社鳥居前に道を西へ進む。すぐの突き当りを道なりに左折する。すぐに右折すると、右手に貞観年間(859年〜877年)創建と云われる経蔵院 / 香取神社 と続く。栗橋駅前の高柳寺旧蹟同様、静御前に纏わる云い伝えが残る。ここでは、経蔵院で亡くなったことになっている。琴柱が西向尼となり京都嵯峨野から持ち帰った静御前の持仏である地蔵が、経蔵院の本尊と云われている。地蔵は漆乾製(和紙と漆)で造られている。この辺りには、静御前マンホールが多い。香取神社の石段を登る手前右手に、神号碑(辨財天)がある。

利根川橋
対岸の河川敷 利根川橋からの利根川眺望

八坂神社前交差点を鋭角に右折して、利根川に架かる利根川橋を渡る。

日光街道21次 8番 中田(なかだ)宿
茨城県古河市中田地先の利根川河川敷
天保14年(1843年)宿村大概帳
人口:40 家数:69 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:6

利根川の河畔にあり、対岸の栗橋宿との間を渡船が結んでいた。房川渡中田関所が設けられたが、対岸の栗橋側に移された。宿場は栗橋宿と中田宿を合わせて栗橋・中田宿と呼ばれ、1つの宿駅とされた。古河藩が管理していた古河三宿(中田 / 古河 / 野木)の一つ。南から、下町(下宿) / 仲町(仲宿) / 上町(上宿) / 船戸町 から構成されていた。大正元年(1912年)利根川改修工事により宿場が河川敷になるため、町の大半が川から離れた日光街道・中田松原に移転を始めた。河川改修工事は昭和5年(1930年)に竣工したが、その後も洪水は頻発した。追加工事が行われることになり、昭和20年代に残された上町(上宿)もすべて移転した。江戸時代の中田宿は、利根川河川敷になっている。
中田宿案内板 古民家 鶴峯八幡神社
利根川橋を渡り、旧日光街道はすぐの交差点を左折する。坂を下り道なりに右折、北東へ進む。5分ほどすると、左手に中田宿案内板とスタンプが入った巣箱の様な箱がある。スタンプのインクは補充されており、しっかりと管理されている様子。スタンプは、街道沿いや神社などでも見かけた。5分ほどすると、左手に鶴峯八幡神社がある。養和元年(1181年)源頼朝が奥州合戦のため当地に立ち寄り、鎌倉・鶴岡八幡宮を勧請したことに始まると云われている。建仁2年(1202年)源頼家の創建とも云われている。新田義貞が北条追討の際に戦勝祈願した。
光了寺 円光寺 本願寺
鶴峯八幡神社からすぐの左手に、静御前ゆかりの光了寺がある。かつては武蔵国高柳村(現久喜市高柳)にあり、高柳寺と称した。建保年間(1213年〜1218年)光了寺に改称する。のちに高柳から栗橋に移転、さらに栗橋から中田に移ったと云われている。すぐ左手に円光寺 / 右手に本願寺 / 左手に顕正寺 と続く。
顕正寺
香取神社 古河一里塚
顕正寺から10分ほどすると、JR東北本線の踏切りを渡る。さらに5分ほどすると、右手の茶屋新田バス停横に、宝永元年(1704年)創建の香取神社がある。20分ほどすると、354号線と交差する。さらに5分ほどすると、右手にある県立古河第二高校のフェンス越しに古河一里塚が見える。
浄善寺 町並み 常夜燈

古河一里塚から5分ほどすると、左手に浄善寺がある。すぐに旧日光街道は左からの道と合流、北へ進む。交差点の東側に常夜燈がある。

[寄り道]古河公方(こがくぼう)館跡
星糊釣殿 御所沼
交差点から南へ進む。10分ほどの鴻巣交差点を越え、5分ほどの左手に古河総合公園入口がある。古河公方館跡地の大半は古河総合公園にある。右折して道なりに5分ほど進むと、星糊釣殿が見えてくる。
史跡 古河公方館趾

史跡 古河公方館址

旧中山家

古河公方館は、古河御所とも呼ばれる中世の城館。享徳4年(1455年)享徳の乱の際に、初代古河公方・足利成氏により築かれたと云われている。長禄元年(1457年)足利成氏は古河城へ本拠を移す。天正18年(1590年)最後の古河公方・足利義氏の娘である氏姫(氏女)の居館となった。天正19年(1591年)豊臣秀吉は氏姫に対して、小弓公方・足利頼純の子・国朝との縁組を指示した。天文7年(1538年)国府台合戦で小弓公方が滅びると、安房国・里見氏に庇護されていた。この婚姻の結果、鎌倉公方以来の関東公方家は統一され、下野国喜連川(きつれがわ)の喜連川氏として江戸時代へ継承される。寛永7年(1630年)氏姫の孫にあたる喜連川尊信が下野国喜連川に移った後、十念寺の寺域となる。御所沼に突き出た半島状の台地に築かれた。先端にあたる西側から、1曲輪(根城) / 2曲輪(中城) / 外郭(宿) から成り立っていた。1曲輪は本丸に相当、現在は公方様の森と呼ばれる一角。2曲輪には、昭和5年(1930年)まで十念寺があった。現在は民家園(旧中山家住宅 / 旧飛田家住宅 )がある。外郭には、城下集落である「宿」が形成されていた。旧中山家住宅は、延宝2年(1674年)頃の建築物。旧飛田家住宅(重文)は県内の曲り家農家で最も古いもので、18世紀前半の建築物。御所沼は第二次世界大戦後に干拓・埋立されて消滅したが、平成8年(1996年)に復現された。古河公方の時代と比較すると、大幅に縮小されている。

日光街道21次 9番 古河(こが)宿
茨城県古河市中央町・本町・横山町
天保14年(1843年)日光道中宿村大概帳
人口:3865 家数:1105 本陣:1  脇本陣:1  旅籠:31

古河の地には、石器時代から人が定住していた。室町時代には、足利・古河公方が5代に渡り統治していた。江戸時代には、日光・奥州街道の要として賑わった。宿場は日光街道沿いと、日光街道から河岸へ折れ曲がったところまで広がっていた。古河藩が管理していた古河三宿(中田 / 古河 / 野木)の一つ。将軍家による日光社参の際、古河城は将軍の宿城とされていた。本陣は時期により異なるが、最もよく知られているのは二丁目にあったもの。

交差点まで戻り、旧日光街道を北へ進む。古河宿に入り、すぐ左手に稲荷神社 / 境内入口左手に石仏3基 がある。
稲荷神社 石仏3基
観音道標
子ノ神社 長谷観音
稲荷神社からすぐの左手に観音道標がある。左折して5分ほどの右手に、明応2年(1493年)創建の長谷観音がある。古河歴史博物館の南西に位置している。初代古河公方・足利成氏が古河城の鬼門除けとして、鎌倉・長谷寺から勧請して堂宇を建立したのが始まり。江戸時代には、歴代古河城主の祈願所ともなっていた。文政13年(1830年)頃に書かれた古河誌には、大和(奈良県)および鎌倉・長谷観音と並び、「三長谷」と呼ばれているとある。明治元年(1868年)に廃寺となったが、大正3年(1914年)元の地に再興された。本尊の十一面観音は市内横山町の徳星寺に移されていた。観音道標から長谷観音への途中、左手に秩父・三峰神社から勧請した子ノ神社(ねのじんじゃ)がある。創建年は不明であるが、嘉永元年(1848年)造立の鳥居 / 元禄16年(1703年)造立の狛犬 がある。社務所や拝殿を兼ねている長谷町自治会館奥に本殿がある。
古河城御茶屋口門址 ぬた屋 古河城諏訪郭
観音道標まで戻り、旧日光街道を北へ進む。すぐの左手に古河城御茶屋口門址がある。江戸初期の僅かな期間、徳川将軍日光社参の休憩所として設けられた茶屋があったところ。御茶屋口門は、徳川将軍が古河入城の際に利用されたと云われている。左折して西へ、突き当りを右に道なりに進。すぐの右手に、宝暦12年(1762年)創業の鮒の甘露煮“ぬた屋”がある。すぐに突き当る古河城諏訪郭跡に、歴史博物館がある。
史蹟古河藩使者取次所址
蛭子神社 坂長本店店蔵(左)と袖蔵(右)
古河城御茶屋口門址まで戻り、旧日光街道を北へ進む。すぐの交差点を左折して、肴町通りを西へ進む。肴町通り周囲に江戸時代には、米 / 茶 / 酒などの食料品を供給する商店が建ち並んでいた。すぐ左手に史蹟古河藩使者取次所址 / 左手に坂長本店 / 左手に文化11年(1814年)創建の蛭子(ひるこ)神社 と続く。古河藩使者取次所址は、御馳走番所とも呼ばれる。参勤交代や日光参詣で通行する大名が、古河城主に敬意を表すための挨拶役の使者を接待する番所があったところ。坂長本店の店蔵は旧古河城文庫蔵 / 袖蔵は旧古河城乾蔵。明治6年(1874年)の廃城令によって解体・売却された古河城の文庫蔵と乾蔵を、移築したもの。蛭子神社は古河七福神(恵比寿)になっている。
福法寺山門 福法寺 了正寺

坂長本店と蛭子神社の間にある道を左折すると、すぐ右手に福法寺 / 右手に了正寺 と続く。福法寺山門は、二の丸御殿乾門が移築されたもの。

妙法寺 馬頭観音 宗願寺
蛭子神社まで戻り、肴町通りを西へ進む。5分ほどすると、右手に延暦年間(782年〜806年)創建の妙法寺 / 右手に建暦2年(1212年)創建の宗願寺 と続く。妙法寺山門の左手に、享保3年(1718年)造立の馬頭観音がある。宗願寺は武蔵国足立郡野田から康永元年(1242年)現在地に移転した。亨保5年(1720年)本願寺門跡兼帯所となり、古河御坊と称した。
高札場跡 本陣跡 大聖院

肴町通りを東へ進み、旧日光街道を北へ進む。すぐに本町2丁目交差点がある。交差点の北東側に高札場跡、次のT字路交差点の左手に本陣跡がある。 T字路交差点を右折する。すぐの十字路の南東側に大聖院 / 突き当りにJR古河駅がある。大聖院は大永3年(1523年)第二代古河公方・足利政氏が大永3年(1523年)創建した永昌寺が始まり。古河七福神(弁財天)になっている。

[寄り道]正定寺 / 隆岩寺 / 頼政神社 / 古河城本丸跡
正定寺山門 正定寺黒門 正定寺本堂
本町2丁目交差点を左折して西へ進む。5分ほどの歴史博物館入口交差点の手前を右折して北へ進むと、すぐ左手に寛永10年(1633年)土井利勝によって創建された正定寺がある。土井利勝は、寛永10年(1633年)下総佐倉城主から古河城主となった。寛永15年(1638年)〜正保元年(1644年)江戸幕府の大老職にあり、幕府の基礎を築いた幕閣の一人。古河七福神(辨財天)になっている。黒門は、旧古河藩主・土井家の江戸下屋敷表門を昭和8年(1933年)に移築したもの。江戸時代の大名屋敷に多く用いられた薬医門。両側に袖塀が付き、左側に潜戸がある。屋根瓦には、土井家の家紋である「水車」が見られる。
弁天堂
福寿稲荷神社 隆岩寺本堂 隆岩寺呑龍堂

正定寺と道路を隔てた反対側に、天正年間(1573年〜1579年)創建と云われる福寿稲荷神社 / 福寿稲荷神社の右隣に文禄4年(1595年)古河城主・小笠原秀政によって創建された隆岩寺 がある。福寿稲荷神社は、古河七福神(寿老人)になっている。市内にある稲荷神社では、最大の豪華な造りだった。.明治8年(1875年)頃まで隆岩寺の守護神とされていた。隆岩寺は、小笠原秀政正室の父・松平信康を弔うために創建された。松平信康は徳川家康の長男。武田勝頼との内通を疑われ、織田信長の命により自害・非業の死を遂げた。境内にある呑龍(どんりゅう)堂は、大正14年(1925年)群馬県太田市・大光院の呑龍堂を勧請したもの。慶長18年(1613年)徳川家康の命により上野国太田に大光院が創建され、呑竜はその開山となった。元和2年(1616年)孝心のため国禁を犯した子を匿い、幕府から譴責された。5年後の元和7年(1621年)に赦免される。このことから、子育て呑竜と呼ばれるようになった。

頼政神社 渡良瀬川河川敷
歴史博物館入口交差点から西へ、渡良瀬川方向へ進む。5分ほどすると、左手に頼政(よりまさ)神社石標があり左折する。すぐの右手に、延宝5年(1677年)創建の頼政神社がある。古河城南端の立崎曲輪(頼政曲輪)にあったが、渡良瀬川の河川改修工事のため大正元年(1912年)に古河城北端の観音寺曲輪土塁にあたる現在地に移転した。すぐの渡良瀬川の堤防に登り、南へ進む。15分ほどの三国橋と新三国橋の中間辺りに、古河城本丸跡標柱がある。明治6年(1873年)廃城令によって、建造物はすべて破却された。明治末から開始された渡良瀬川の改修工事により、残された城跡もほとんどが消滅した。
本丸後