日光街道21次 No.04 東武動物公園駅-(約14km)-栗橋駅入口交差点
2013年10月23日(水)09:00 曇り
本陣跡 道標 愛宕神社
東武動物公園駅から北東へ進む。5分ほどの本陣跡地前交差点を左折、日光街道を北西へ進む。すぐ右手の奥まったところに、本陣跡がある。すぐの愛宕神社前交差点の東側に「粕壁方面」だけ読み取れる道標がある。愛宕神社前交差点を左折すると、突き当りに愛宕神社がある。
日光街道に戻り北西へ進む。愛宕神社前交差点からすぐに街道は突き当たる様に右に曲るところに、古民家と土蔵がある。
古民家 / 土蔵
     
 宝性院 不動堂 馬頭観音
右に曲がると、すぐ左手に宝性院がある。杉戸の寺子屋があった場所で、明治の学制で学校となった時期がある。不動堂は弘化3年(1846年)の再建。境内にある文化7年(1810年)造立の馬頭観音は、右側面に「日光道中」と彫られている。日光街道沿いの道標になっていた様である。
山門右手に、形状が異なる庚申塔が3基並んでいる。
左…文化11年(1814年)造立 / 角柱 / 文字 庚申塔
中央…造立年不明 / 舟型 / 青面金剛 / 三猿 庚申塔
右…享保10年(1725年)造立 / 笠塔姿 / 青面金剛 / 三猿 庚申塔
庚申塔
地蔵 厳島神社
宝性院から5分ほどすると、4号線と合流する。10分ほどすると、左手に地蔵がある。さらに10分ほどすると、左手の道路下に社 / 左手に厳島神社 と続く。厳島神社社殿左手に、文政5年(1811年)造立の庚申塔がある。
厳島神社から20分ほどの上高野小入口交差点から、4号線と別れ左へ進む。道なりに5分ほどの東武鉄道の踏切を渡る。すぐ右手の幸手南公民館前に、上高野村道路原標がある。
上高野村道路原標
石塔・石仏群 不動堂

10分ほどすると、左からの御成街道と合流する。道路原標はこの追分辺りにあったもの。日光御成街道は、将軍が日光東照宮に社参する際に利用された。中山道・本郷追分(東京都文京区)から分岐している。旧日光街道は突き当たる様に右折、北東へ進む。すぐの小路を右折すると、左手の墓地のブロック塀前に石塔・石仏群 / 左手に廃墟の様になっている不動堂 がある。

太子堂 神宮寺本堂 神宮寺薬師堂
旧日光街道に戻り、北東へ進む。すぐ右手に太子堂 / 左手に神宮寺 / 左手に神宮寺薬師堂 と続く。神宮寺は、源頼朝が奥州征伐の折に戦勝祈願した寺。神宮寺村全体が寺領だったこともあった。
日光街道21次 6番 幸手宿(さって)宿
埼玉県幸手市
天保14年(1843年)宿村大概帳
人口:3937 家数:962 本陣:1 脇本陣:1 旅籠27
古くから奥州に繋がる渡しがあったところで、日本武尊が東征の際に“薩手が島”に上陸したと云われている。 鎌倉時代には鎌倉街道が通り、軍事 / 交易上でも交通の要衝だった。室町時代以降は一色氏の領地となり、東武鉄道・幸手駅付近に館を構えていた。江戸時代になると幕府直轄の天領となり、日光御成道が合流 / 筑波道が分岐する宿場町として賑わった。利根川の付け替え工事が行われ、権現堂川と江戸川が整備される。新田開発による米作の増もあり、川を利用した江戸との間を結ぶ舟運が発展した。権現堂河岸には回船問屋が軒を連ねていた。南の杉戸宿や北の栗橋宿と比較すると、2倍以上の宿場規模があった。
神明神社社殿 水神宮 / 聖徳太子堂 / 稲荷大明神
菅谷不動堂 成田不動堂 今宮大杉神社

神宮寺薬師堂からすぐの東武鉄道の踏み切りを渡る。すぐの倉松川に架かる志手橋を渡ると、右手に宝暦5年(1755年)創建の神明神社がある。この場所には高札場があった。鳥居を潜ると、右手に「水神宮 聖徳太子堂 稲荷大明神」の額が架かる堂 / 左手に菅谷不動(たにし不動)堂 / 左手に成田不動堂 / 奥に神明神社社殿 / 神明神社社殿右手に今宮大杉神社 がある。菅谷不動は眼病の人が“たにし”を描いた絵馬を奉納して祈願すると、ご利益があると云われている。

神明神社からすぐの幸手駅入口交差点を左折すると、左手に一色稲荷神社がある。陣屋稲荷神社とも称されている。東武鉄道・幸手駅付近には、古河公方・足利氏の家臣である一色氏が館を構えていた。江戸時代に一色義直は5160石の旗本となり、陣屋が構えられた。城山や陣屋の地名が残る。一色稲荷神社は、館跡と推定されるところから巽(南東)方向に一色氏の守り神として創建されたと云われている。
一色稲荷神社
幸手は権現堂桜堤で知られている。宿場通りには、街路灯 / 標識 / マンホール などに桜の絵柄が多く見られる。
街路灯 日光街道標識(中1丁目交差点付近)
商店 芭蕉と曽良の旅姿 問屋場跡
幸手宿本陣跡 満福寺 幸手観音

幸手駅入口交差点まで戻り、旧日光街道を北へ進む。商店の北側の外壁に、芭蕉と曽良の旅姿が描かれている。すぐの中1丁目(南)交差点北東側にある公園は、問屋場跡。すぐの中1丁目交差点南西側に幸手宿本陣跡がある。旧日光街道は中1丁目交差点を直進する。中1丁目交差点を左折すると、左に曲がるところの右手に満福寺 / 境内に幸手観音 がある。

中1丁目交差点まで戻り、旧日光街道を北へ進む。5分ほどの荒宿交差点を過ぎると、左手に門が閉ざされている聖福寺がある。日光参詣に将軍や勅使が休息した将軍の間や勅使の間がある。
聖福寺
正福寺常夜燈 正福寺石灯籠 正福寺
すぐに街道が右に曲がる正面に、大きな正福寺の常夜燈がある。参道を進むと、山門手前右手に大きな石灯籠がある。山門を入った右手に、義賑飢餓(ぎしんきゅうが)之碑がある。天明3年(1783年)浅間山の大噴火により大飢饉が発生した。名主・知久文左衛門は幸手宿の豪商20人と金銭・穀物を出し合い難民を救済した。境内にある寛政12年(1800年)造立の馬頭観音供養塔には、左側面に「日光道中」 / 右側面に「ごんげんどうがし」 と彫られている。日光街道沿いの道標になっていた様である。
馬頭観音供養塔
幸手の一里塚跡 内国府間八幡神社石柱
旧日光街道に戻り、右に曲がるところの右手に幸手の一里塚跡がある。すぐの交差点を左へ北に進む。10分ほどすると内国府間(うちごうま)交差点で4号線に合流する。すぐ左手に内国府間八幡神社石柱、5分ほどすると右手に社がある。
社からすぐの内国府間(北)交差点を過ぎると、右手に桜で知られる権現堂堤が見えて来る。権現堂堤の北側に、行幸堤之碑 / 明治天皇権現堂堤御野立所石柱 / 堤防造成者の名標 がある。権現堂堤は、暴れ川として恐れられた権現堂川の水防のために築かれた堤。江戸時代前から河川流路の締め切りなどに伴う築堤により、部分的に造られていた。天正4年(1576年)頃に繋がったと云われている。江戸時代には幾度も決壊している。明治8年(1875年)栗橋町小右衛門まで、旧日光街道に並行する新権現堂堤(御幸堤)が完成する。現在は4号線となっている。
権現堂桜堤
御幸橋からの中川 道標 雷電神社
真光寺
弁天堂 / 小右衛門一里塚跡 八幡神社
中川に架かる御幸橋を渡り、すぐに左折して道なりに4号線と並行する道を進む。10分ほどすると、右手に安永4年(1775年)造立の「右つくば道 左日光道」道標がある。旧日光街道は直進する。10分ほどの突き当りに雷電神社がある。道なりに右へ、小路と合流する。4号線が通る行幸堤下の道を15分ほど進むと、左手に真光寺 / 小右衛門一里塚跡 と続く。小右衛門一里塚跡にある弁天堂は、4号線工事のため昭和初期に移築されたもの。真光寺西側の道に八幡神社が見える。
小右衛門一里塚からすぐ右手の堤に、4号線の工業団地入口交差点が見える。新権現堂堤は小右衛門まで旧日光街道に平行して造られた。現在は4号線となっている。小右衛門から北は旧日光街道と重複しているところがあるが、歩行できないところがある。また途切れているところがあるらしい。上川通神社から逆コースでも歩いたが、よく解らない。
町並み 不明の石塔(左側) 不明の石塔(右側)
工業団地入口交差点で交差する道の高架下を潜る。高架沿いに左折して、 すぐに右折する。この道は八幡神社と真光寺の間を通る道。町並みを5分ほど進んだところに十字路がある。旧日光街道はこの十字路辺りから4号線に登り、ライブシアター栗橋まで4号線を進んでいた。十字路を左折すると、すぐ左手に小右衛門中央集会所がある。すぐの十字路を右折して北西へ進む。すぐの十字路の南西側に、不明の石塔が2基並んでいる。左側は文政元年(1818年) / 右側は文化6年(1809年) に造立されたもの。5分ほどすると、前方に見えていた新幹線高架下を潜る。道なりに5分ほ進むと、4号線のライブシアター栗橋から分岐する道と合流する。すぐ右手に上川通神社がある。
石塔から5分ほどすると、前方に見えていた新幹線高架下を潜る。道なりに5分ほ進むと、4号線のライブシアター栗橋から分岐する道と合流する。すぐ右手に上川通神社がある。
上川通神社
道なりに15分ほど進むと、125号線の堤に突き当る。右手に125号線が合流する4号線の栗橋交差点がある。道なりに左折して、すぐに右折して125号線のトンネルを潜る。すぐの十字路を右折、125号線沿いから4号線沿いと道なりに進む。すぐに枡形になる。栗橋交差点手前から4号線に登る道がある。横断歩道がない栗橋交差点の横断は、無謀な行為だった。
日光街道21次 7番 栗橋(くりはし)宿
埼玉県久喜市栗橋
天保14年(1843年)宿村大概帳
人口:1741 家数:404 本陣:1 脇本陣:1 旅籠25
利根川渡河の房川渡(ぼうせんのわたし)があり、日光街道唯一の関所・栗橋関所が置かれた。日光街道が整備される以前に町は無く、手前の幸手宿から北東の栗橋村(現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に渡船場があった。慶長年間(1596年〜1615年)現在の栗橋地区となる上河辺新田が開墾される。元和2年(1616年)街道筋が付け替えられ、栗橋宿が成立した。対岸の中田宿を合わせて、栗橋・中田宿と呼ばれ、1つの宿駅とされた。栗橋関所は正式には房川渡中田御関所で、当初は対岸の中田宿側に関所が置かれていた。.後に栗橋宿側に移され、栗橋関所が通称となった。明治2年(1869年)栗橋関所は廃止されるが、房川渡は大正13年(1924年)の利根川橋完成まで存続した。
炮烙地蔵 古民家 顕正寺
浄信寺
枡形を抜けて北西へ進む。125号線のトンネルから5分ほどのところ、右手に宝永7年(1710年)造立の炮烙(ほうろく)地蔵がある。この場所は関所破りの重罪人を火あぶりの刑にした処刑場で、処刑者を憐れみ供養のため地蔵を造立した。5分ほどすると、右手に顕正寺 / 左手に浄信寺 がある。顕正寺には栗橋宿を開いた名主、池田鴨之助の墓がある。すぐ右手に社 / 左手にいわくのありそうな門 と続く。
旧日光街道は、浄信寺から10分ほどの栗橋駅入口交差点を直進する。
町並み
[寄り道]静御前の墓
福寿院
静御前墳塋参道道標 静御前の墓
栗橋駅入口交差点を左折すると、すぐ左手に福寿院がある。元和2年(1616年)栗橋宿の成立したときに創建されたと云われている。栗橋八福神の福禄寿になっている。10分ほどすると、左手に静御前墳塋参道道標がある。左折すると、すぐ左手の高柳寺旧蹟に静御前の墓がある。文治5年(1189年)静御前は侍女の琴柱とともに、奥州平泉に逃れた源義経の後を追った。古河・下辺見村まで来たところで、義経の死を知る。京に戻ることとなるが、旅の疲れから伊坂(現久喜市栗橋)で病に伏し高柳寺で22歳の生涯を終える。琴柱は静御前を葬り、墓の印として一本の杉を植えたと云う。静女之墳と彫られた墓石は、享和3年(1803年)関東郡代中川飛騨守忠英によって造立されたもの。毎年,命日である9月15日の静御前墓前祭では追善供養が営まれている。10月第3土曜日には、静御前まつりが開催されている。墓前に咲く桜は、静桜(しずかざくら)という品種。
高柳寺旧蹟から左折して南へ進むと、すぐ右手にJR東北本線 / 東武鉄道日光線・栗橋駅がある。