日光街道21次 No.02 北千住駅-(約16km)-越谷駅
2013年 9月27日(金)09:00 晴
北千住駅北口より西へ進む。北千住駅入口交差点を過ぎ、次の交差点を右折する。宿場町通りのアーケードを潜り、日光街道を北へ進む。すぐ左手に、ゴミ収集場所と化している千住宿本陣跡がある。
宿場町通りのアーケード 千住宿本陣跡
千住本氷川神社社殿 千住本氷川神社旧社殿 三精稲荷神社
すぐのコンビニ角を左折すると、突き当りに徳治2年(1307年)創建と云われる千住本氷川神社がある。社殿は昭和45年(1970年)建立されたもの。境内に旧社殿と三精稲荷神社がある。
千住ほんちょう公園 千住絵馬屋・吉田家 紙問屋松屋・横山家

日光街道に戻り、北に進む。すぐ右手の“千住ほんちょう公園”に高札場の案内板。すぐ左手に千住絵馬屋・吉田家 / 反対側に紙問屋松屋・横山家 がある。千住絵馬屋・吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ地口(じぐち)行灯や凧などを描いてきた際物(きわもの)問屋。縁取りした経木(きょうぎ)に、胡紛(ごふん)と色どりの泥絵具で描く小絵馬が千住絵馬である。紙問屋松屋・横山家は、宿場町の名残として伝馬屋敷の面影を伝える商家。

紙問屋松屋・横山家の手前を右折すると、突き当りに寛永4年(1627年)創建の長園寺 / 山門左手に目やみ地蔵 がある。境内には数多くの石仏 / 石塔がある。
長園寺本堂 目やみ地蔵
日光街道に戻り、北に進む。すぐの交差点右手に道標がある。右折して細い道を東へ進むのが水戸街道。ここにあった水戸海道と彫られた古い道標は、足立区立郷土博物館に保管されている。
千住宿タイル 道標
交差点からすぐに左折すると、突き当りに安養院がある。鎌倉時代北条時頼が創建したと云われている。慶長3年(1598年)兵火に遇い、当地へ移転する。
安養院本堂 安養院観音堂
道標 荒川 真福寺
善立寺 石不動堂 道標
日光街道に戻り、北に進む。すぐのT字路に道標があり、左へ北西に進む。直進して土手にぶつかる道は、日光街道よりも古い下妻街道。日光街道の東方を北上して、喜連川で奥州街道と交わる。荒川以北の街道は、千住で江戸に向かって一本に束ねられた。4号線ガードを潜り、左手にある歩道橋で土手に登る。千住新橋南詰交差点を直進、荒川に架かる4号線の千住新橋を渡る。渡り終えると、歩道橋で降りて西へ進む。すぐ右手に真福寺がある。5分ほどの川田橋交差点を右折すると、すぐ右手に善立寺がある。5分ほどすると、左手に石不動堂がある。堂の手前左手に「子育 八彦尊道 是より二丁行く」道標 / 手前左手に地蔵 がある。地蔵は荒川の土手下にあったもので、荒川へ向けられている。
地蔵
[寄り道]西新井大師
石不動堂から20分ほどすると、島根交差点がある。島根交差点を左折して環状七号線を西へ進む。15分ほどすると、右手に總持寺の末寺だった満願寺がある。満願寺前交差点の北東側に地蔵がある。
満願寺 地蔵
總持寺山門
總持寺不動堂 總持寺本堂
 總持寺三匝堂 加持水の井戸 總持寺塩地蔵
満願寺前交差点から5分ほどすると、右手に總持寺(そうじじ)の参道がある。天長3年(826年)空海(弘法大師)によって創建されたと云われ、西新井大師の通称で知られている。江戸時代中期に建立された本堂は昭和41年(1966年)に焼失、昭和46年(1971年)に再建された。境内に、不動堂 / 三匝堂(さんそうどう) / 加持水の井戸 / 塩地蔵 などがある。三匝堂は栄螺堂(さざえどう)とも呼ばれ、江戸時代後期に東北から関東地方に見られた仏堂。堂内は回廊となっており、堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造となっている。加持水の井戸は、弘法大師によってもたらされたと云われている。この井戸が本堂の西側にあることから、西新井の地名由来になったと云われている。
題目塔(左) 題目塔(右) 将軍家御成橋 御成道松並木跡
安穏寺仁王門 安穏寺本堂 徳川家光御手植之松

日光街道を北に進む。島根交差点から5分ほどすると、左手に安穏寺入口がある。左側に安穏寺の南無妙法蓮華経題目塔 / 右側に安穏寺の南無妙法蓮華経題目塔と「将軍家御成橋 御成道松並木跡」標柱 がある。左折して5分ほどすると、右手に応永17年(1410年)創建と云われる安穏寺がある。将軍徳川秀忠・家光が当所巡遊の御善所で、徳川家祈願所位牌安置所となったと云われている。境内に徳川家光御手植之松がある。

日光街道を北に進む。安穏寺入口から5分ほどすると左手に標識があり、左折すると鷲(わし)神社がある。日光街道を北に進むと、すぐ左手に社がある。
鷲神社
浅間神社 浅間神社手洗石 小御嶽神社
社から15分ほどすると、右手に“生鮮市場さんよう”がある。次の交差点を右へ進む。弧を描く様に道なりに5分ほど進むと、先程分岐した103号線に合流する。すぐの4号線との毛長川橋前交差点を直進する。すぐに49号線に合流、左折して北へ進む。すぐに東京都と埼玉県の境、毛長川に架かる水神橋を渡る。10分ほどすると、谷塚駅入口交差点手前右手に明暦年間(1655〜1657年)に移転してきた浅間神社がある。本殿は天保13年(1842年)に再建されたもの。慶応元年(1865年)銘のある手洗石には、明治9年(1876年)から1年間掛けて東京・塩釜間の水準測量を実施した際の水準点が刻まれている。境内の東側に、浅間庭園や溶岩を積み上げた富士塚に小御嶽神社がある。
谷塚駅入口交差点を越えると、すぐ右手に寛永4年(1627年)創建の善福寺がある。5分ほどの吉町5丁目交差点南東側に、火あぶり地蔵堂がある。奉公に出ていた娘に、母危篤の知らせが届く。主人に暇を願い出るが、許されなかった。主人の家が焼けてしまえば母に会えると火を付けた。娘は捕縛され火あぶりの刑となった。村人は娘を哀れに思い地蔵を建立した。
善福寺 火あぶり地蔵堂
日光街道21次 2番 草加(そうか)宿
埼玉県草加市
天保14年(1843年)宿村大概帳
人口:3619人 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:67
日光街道の北千住・越谷間は沼地が多く、荒川沿いに迂回していた。慶長11年(1606年)沼沢地を埋め立て短絡される。沼沢地の造成に沢山の草が用いられたことから、草加と呼ばれる様になったと云われている。寛永7年(1630年)北千住宿・越谷宿間に、草加宿が設けられた。草加市役所前の地蔵堂付近から北の神明宮までの約1.5kmが草加宿であった。
火あぶり地蔵堂から5分ほどすると、分岐があり左へ進む。すぐ左手の草加市役所に地蔵堂がある。すぐ右手に回向院がある。追加された草加七福神の布袋尊になっている。
地蔵堂 回向院
草加神社石標 草加神社拝殿 絵馬のトンネル
回向院からすぐの草加市役所(北)交差点南西側に、草加神社石標がある。左折して5分ほどすると、右手に草加神社鳥居がある。天正年間(1573年〜1592年)大宮氷川神社を勧請、氷川社として創建される。明治42年(1909年)付近の11社を合祀、草加神社と改称する。本殿は、天保年間(1830年〜1844年)建立と云われている。鳥居から参道を北へ進んだ右手の公園に、C56 110が保存されている。
C56 110
[寄り道]三峰神社 / 東町天神社
草加市役所(北)交差点から北へ進む。次のT字路を右折する。すぐの49号線の高砂2丁目交差点を左折して北へ進むと、すぐ左手に三峰神社がある。草加七福神の寿老人 / 布袋尊 になっている。49号線を北へ進む。すぐの駅入口交差点を右折する。5分ほどすると、右手に東町天神社がある。慶長年間(1596年〜1615年)に開拓された立野堀村の鎮守社であったと云われている。
三峰神社 東町天神社
日光街道に戻り、北へ進む。草加駅前通り(402号線)の交差点を越えると、すぐ右手に享保年間(1716年〜1736年)稲荷神社として創建された八幡神社がある。草加七福神の恵比寿になっている。すぐの3丁目の十字路西南角に、三丁目橋親柱と道標がある。草加宿の日光街道には3つの橋が架かっていた。三丁目橋は撤去され、親柱だけが残っている。
八幡神社 三丁目橋親柱 / 道標
三丁目橋親柱から5分ほどすると、氷川神社がある。草加七福神の大黒天 / 毘沙門天 になっている。すぐ右手のおせん茶屋前に日光街道道標 / 左手に慶長11年(1606年)創建と云われる東福寺 と続く。東福寺には、四脚門切妻造りの山門や不動堂がある。追加された草加七福神の毘沙門天になっている。草加宿を開宿した大川図書が創建、大川家代々の墓がある。
氷川神社 日光街道道標
東福寺山門 東福寺本堂 東福寺不動堂
[寄り道]谷古宇稲荷神社
神明1丁目交差点を右折、49号線の神明交差点を越える。すぐに綾瀬川の手前を流れる川手前を右折して南へ進むと、すぐ右手に谷古宇稲荷神社がある。草加七福神の福禄寿になっている。
谷古宇稲荷神社
休憩所・神明庵 神明宮 おせん公園

神明1丁目交差点から北へ進むと、すぐ左手に古民家を利用した休憩所・神明庵がある。すぐに日光街道が右に曲がるところに、正徳3年(1713年)創建の神明宮がある。すぐ左手の49号線沿いに、おせん公園がある。おせん公園には、巨大な草加せんべい発祥の地碑がある。比較する物がないと、大きさが解りづらい。草加宿の茶屋で旅人相手に団子を売っていた“おせん”は、売れ残りの団子の処分に困っていた。茶屋で休んでいた旅人に、団子を薄く伸ばして焼くことを勧められた。勧められた通りに焼いたところ、美味しく出来あがった。おせんの「堅餅」は人気商品となり、草加せん餅という名物になる。

おせん公園・草加せんべい発祥の地
芭蕉旅立の像 札場河岸公園望楼 常夜燈
復元された船着場からの矢立橋

おせん公園前の49号線を横断すると、札場河岸公園に芭蕉旅立の像 / 五角形の望楼 / 常夜燈 がある。綾瀬川が舟運に利用されていたころの舟着き場の石段が復元されている。

札場河岸公園の綾瀬川の対岸に、出世弁財天がある。草加七福神の弁財天になっている。
出世弁財天
矢立橋
百代橋 綾瀬川対岸からの草加松原
札場河岸公園から約1.5km、綾瀬川に沿って整備された松並木の遊歩道が続く。草加宿が日光街道の宿場になったときに街道沿いに松が植えられ、草加松原 / 千本松原 として知られていた。60数本まで減少したと云われるが、現在約600本にまで復活している。遊歩道には道路をまたぐ、矢立橋と百代橋が架けられいる。対をなす和風の太鼓橋で、いずれも奥の細道から命名された。
日本の道百選 日光街道 碑
日本の道百せん 日光街道草加松原 標柱 綾瀬川沿いに咲く彼岸花
せせらぎゾーン 草加松原・北端

矢立橋手前左手に、埼玉県の地図に模られた“日本の道百選 日光街道 碑”がある。矢立橋と百代橋の間に、綾瀬川対岸に架かるハーブ橋がある。この橋の綾瀬川沿いに、彼岸花が咲いている。百代橋が架かる松原団地入口交差点北西側に“日本の道百せん 日光街道草加松原”標柱がある。草加松原・北端が近付くと、左手にせせらぎゾーンが続く。草加松原・北端で、札場河岸公園から1.5km続く松並木が終わる。

神号碑 / 馬頭観音 / 庚申塔 愛宕神社
愛宕神社
蒲生一里塚 石塔 / 地蔵

松並木の遊歩道は、突き当りの東京外環自動車道で終わる。日光街道はトンネルを潜り、綾瀬川沿いの桜道を進む。5分ほどすると、左手に神号碑(水神) / 馬頭観音 / 庚申塔 がある。さらに5分ほどすると、左手に愛宕神社 / 不明の神号碑 がある。すぐに右折して蒲生大橋を渡る。昔は大橋土橋で綾瀬川を跨いで、日光街道を足立郡(草加側)と埼玉郡(越谷側)に繋いでいた。右手のケヤキが蒲生一里塚で、埼玉県内の日光街道に唯一現存する一里塚。ケヤキの下に愛宕神社 / 右手に石塔と地蔵 がある。

不動明王 / 馬頭観音 清蔵院山門
清蔵院本堂 久伊豆神社 青面金剛
蒲生の一里塚から綾瀬川東岸沿いに北へ、5分ほどのY字路を右へ進む。さらに5分ほどすると、右手の祠に台座が道標になっている不動明王と馬頭観音 / 左手に草鞋の架かる祠 / 右手に清蔵院 と続く。清蔵院山門は寛永15年(1638年)建立されたもの。清蔵院の境内に沿って進むと、すぐの蒲生本町交差点で49号線と合流する。一里塚からここまでの道を「蒲生茶屋通り」と言った。綾瀬川を高瀬舟が忙しく行き来していた時代、藤助河岸に集まる農民 / 商人 / 旅人などをもてなす茶屋が並んで賑わっていた。蒲生本町交差点から49号線を南へ進むと、すぐ左手に久伊豆神社 / 境内に青面金剛(しょうめんこんごう)がある。青面金剛は青面金剛明王とも呼ばれ、庚申講の本尊で三尸を押さえる神。
庚申塔 照蓮院
49号線を北へ進む。蒲生本町交差点から25分ほどすると、コンビニの手前右手に庚申塔がある。前方にJR武蔵野線高架が見える。20分ほどすると、右手に社 / 瓦曽根ロータリー交差点の右手に照蓮院 と続く。天正10年(1582年)甲斐武田家が滅亡する。家臣・秋山信藤と次男・長慶は武田勝頼の遺児・千徳丸を伴い、瓦曽根まで逃れて匿った。千徳丸は天正18年(1590年)15歳で亡くなる。秋山長慶が照蓮院の住職となり、菩提を弔ったと云われている。墓地には、千徳丸の供養のために建てられた五輪塔がある。
日光街道21次 3番 越ヶ谷(こしがや)宿
埼玉県越谷市
天保14年(1843年)宿村大概帳
人口:4603人 本陣:1 脇本陣:2 旅籠:40

鎌倉時代には六斎市の立つ町として栄え、猿島街道 / 赤山街道が東西南北に貫通する交通の要衝であった。江戸幕府の成立後、日光街道の宿場になった。 戦国期の越ヶ谷側は武蔵国埼玉郡、大沢側は下総国葛飾郡下河辺荘であった。元荒川は国境であったが、江戸期に入り大沢側も武蔵国に編入された。元荒川の対岸にも大沢宿が設けられたが、合わせた範囲が越ヶ谷宿となった。古くから栄えていた越ヶ谷側は旅籠よりも商家が多く、大沢側は宿場の形態を持っていた。本陣・脇本陣は大沢側に置かれていた。

瓦曽根ロータリーを左へ進むと越谷宿に入り、52号線を進む。5分ほどの交差点を左折すると、突き当りに東武鉄道・越谷駅がある。