日光街道21次 No.01 日本橋-(約9km)-北千住駅
2010年 5月15日(水)09:00 晴
日本橋北西側の“元標(げんぴょう)の広場”から出発する。基点となる“日本国道路元標”は、日本橋の車道中央に埋め込まれている。“元標の広場”には“日本国道路元標”の複製と、移設された“東京市道路元標”がある。
元標の広場 日本国道路元標の複製
日本橋橋洗い
日本橋銘板洗い
日本橋橋洗い 日本国道路元標
日本橋橋洗いは、日本橋の美化保存を目的に行われている。近隣の小学生 / 日本橋地区の町内会 / 地元企業 などの方々が、デッキブラシなどで日本橋を手洗いする。水洗いには再生水が利用されている。首都高に架かる「日本橋」の銘板は、消防のはしご車の放水で洗い流す。普段は近寄れない本物の“道路元標”を見ることができる。日本橋の北側の交差点から南側の交差点間、通行止めになる。20016年は、7月24日(土)に行われた。
旧日光街道は、17号線(中央通り)を進む。5分ほどの室町三丁目南交差点を右折すると、すぐに首都高速上野線が架かる昭和通りと交差する。通路に段ボールハウスが並んでいる地下道で、昭和通りを越える。
[寄り道]寶田恵比寿神社
昭和通りを越え北東へ進む。すぐの小路を左折、さらに右折すると左手に慶長11年(1606年)創建の寶田恵比寿神社がある。
寶田恵比寿神社
旧日光街道に戻り、北東へ進む。
[寄り道]伝馬町牢屋跡
江戸伝馬町処刑場跡 大安楽寺 江戸傳馬町牢御椽場跡
江戸伝馬町牢石垣之一部 / 井戸跡 十思公園 石町時鐘
吉田松陰終焉之地 身延別院 大黒天神

次の交差点を左折、すぐの6号線の小伝馬町交差点を越える。すぐに左折すると、時の鐘通りレリーフが埋め込まれている道の左手に大安楽寺 / 右手に十思公園 / 直進して南西へ進むとすぐ左手に身延別院 がある。この辺りは明治8年(1875年)に廃止されるまで、約270年続いた江戸時代最大(2,618坪)の伝馬町牢屋があった所。大安楽寺の境内が処刑場跡。十思公園に江戸時代最初の時の鐘、宝永8年(1711年) 鋳造の石町時鐘がある。処刑の時には鐘が鳴らされたと云われている。安政6年(1859年)長州藩士・吉田松陰はここで処刑された。十思公園の右手奥に、吉田松陰終焉之地がある。身延別院にある油かけ大黒天神は、油をかけると商売繁盛すると云われている。

旧日光街道に戻り、北東へ進む。5分ほどすると清澄通りと交差、横山町問屋街が5分ほど続く。横山町問屋街はほとんどが繊維・呉服関係の問屋。横山町問屋街を抜けると、14号線(靖国通り)と浅草橋交差点で交差する。
横山町問屋街
[寄り道]回向院 / 吉良家上屋敷跡  
浅草橋交差点を右折して、14号線(靖国通り)を東へ進む。すぐ左手に昭和44年(1969年)造立の「旧跡 両国広小路」碑がある。明暦3年(1657年)の大火は江戸の市街の大半を焼失、10万人を越える死者を出した。この辺りでは、逃げ場を失って焼死する者が多数出た。このため対岸への避難の便を図るため、万治2年(1659年)または寛文元年(1661年)に両国橋が架けられた。また延焼防止のため、橋に向かう沿道一帯を火除け地に指定して空き地とした。やがてこれが広小路となり、上野 / 浅草と並ぶ盛り場に発展した。5分ほどすると 隅田川を両国橋で渡る。両国橋は千住大橋に続いて、隅田川に2番目に架けられた橋。
旧跡 両国広小路碑
両国橋 両国橋から神田川に架かる柳橋
両国回向院正門 石塔・石仏群
鼠小僧次郎吉墓 塩地蔵 力塚

両国橋を渡ると、すぐの両国2丁目交差点の南側に明暦3年(1657年)江戸幕府によって創建された回向院(えこういん)がある。本所(ほんじょ)回向院とも呼ばれる。明暦3年(1657年)振袖火事(ふりそでかじ)と呼ばれる明暦の大火の焼死者10万8千人を幕命によって葬った万人塚が始まり。のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬する。著名人の墓として、山東京伝 / 竹本義太夫 / 鼠小僧次郎吉などがある。江戸三十三観音の第4番札所になっている。塩地蔵は宝暦7年(1757年)造立。天明元年(1781年)以降、境内では勧進相撲が興行された。これが大相撲の起源となり、明治42年(1909年)旧両国国技館が建てられるに至った。国技館建設までの相撲を「回向院相撲」とも呼ばれる。昭和11年(1936年)大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を造立した。

吉良上野介義央座像
吉良家上屋敷跡 みしるし洗い井戸
両国2丁目交差点から東へ進む。最初の道を右折して南へ進む。変則十字路の次の十字路を左折して東へ進むと、左手に吉良家上屋敷跡がある。元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜、赤穂浪士による討ち入りがあったところ。当時は2.550坪もあり、回向院とも接していた。1/86の規模、29.5坪の本所松坂町公園として残されている。松坂稲荷は上野稲荷と兼春稲荷を合祀、昭和10年(1935年)この地に建立されたもの。
松坂稲荷
吉良家上屋敷跡の道路を挟んだ南側に、飯澄(いいずみ)稲荷神社 / 鏡師・中島伊勢住居跡案内板がある。中島伊勢は葛飾北斎の養父だった人物。北斎は伊勢の妾腹の子であったとも云われている。北斎の母は、吉良家家臣・小林平八郎の娘と云われている。
飯澄稲荷神社
 郡代屋敷跡 浅草橋から柳橋方向 浅草見附跡
浅草橋交差点まで戻り、旧日光街道を北へ進む。すぐに6号線(江戸通り)と合流する。浅草橋を渡る手前左手に、郡代屋敷跡がある。浅草橋から東の柳橋まで、神田川に数多くの屋形船が係留されている。柳橋は神田川が隅田川に注ぐところに架かる橋。浅草橋を渡った左手の浅草橋公園に浅草見附跡がある。江戸幕府は江戸城の外堀や内堀に、36の門を設け番人を常駐させて監視していた。浅草橋には奥州・日光街道への出口として、浅草御門・浅草見附が置かれた。
篠塚稲荷神社 浅草橋駅 銀杏岡八幡神社

浅草見附からすぐの浅草橋1交差点を右折すると、すぐ左手に商売繁盛と火防神の篠塚稲荷神社がある。旧日光街道に戻り、すぐのJR総武線高架を潜ると左手に浅草橋駅がある。浅草橋〜蔵前橋間は、人形 / 花火 / 玩具 の店が多い。最初の小路を左折すると、突き当りに銀杏岡八幡神社がある。

須賀神社 加賀美・久米森稲荷神社 第六天榊神社
旧日光街道に戻り、北東へ進む。すぐ左手に推古天皇9年(600年)創建の須賀神社がある。すぐに須賀橋交番前交差点があり、左折するとすぐ左手に加賀美・久米森稲荷神社がある。須賀橋交番前交差点を右折すると、すぐ左手に第六天榊神社 / 境内に浅草文庫跡碑がある。浅草文庫は明治7年(1874年)に開設された図書館で、明治14年(1881年)に閉鎖された。昭和3年(1928年)に第六天榊神社が移転して来ている。
浅草文庫跡
[寄り道]鳥越神社
須賀橋交番前交差点まで戻り、旧日光街道を北東へ進む。すぐの蔵前1丁目交差点を左折して315号線(蔵前橋通り)を西へ進むと、すぐ右手に白雉2年(651年)創建と云われる鳥越神社がある。
鳥越神社 鳥越神社絵馬
正覚寺(榧寺) 葛飾北斎「榧寺の高灯籠」 厩橋
蔵前1丁目交差点まで戻り、旧日光街道を北へ進む。10分ほどの春日通りとの厩橋(うまやばし)交差点を左折すると、すぐ左手に慶長4年(1599年)創建の正覚寺がある。境内に榧の大木が繁っていたことから、榧寺(かやでら)と呼ばれていた。由来となった榧は現存していない。厩橋交差点の東に隅田川に架かる厩橋がある。江戸時代には橋はなく、御厩河岸の渡しがあった。葛飾北斎の浮世絵「榧寺の高灯籠」や古典落語の「蔵前駕籠」に榧寺の名が登場している。
厩橋交差点まで戻り、旧日光街道(6号線)を北東へ進む。すぐ左手に諏訪神社 / 享和元年(1801年)創業の駒形どぜう と続く。駒形どぜうは、池波正太郎著「むかしの味」に登場する店。
諏訪神社 駒形どぜう
浅草観音戒殺碑
駒形堂 駒形堂と浅草観音戒殺碑の由来碑

駒形どぜうからすぐの駒形橋西詰交差点の北東側に、駒形堂がある。推古天皇36年(628年)檜前浜成(ひのくまはまなり)・ 武成(たけなり)兄弟が漁をしていたところ、聖観音が魚網に掛かった。兄弟が相談した土師真中知(はじのまなかち)は後に僧となり、自宅を寺とした。これが浅草(せんそう)寺の始まりとされる。駒形堂は雷門から250mほど離れた場所にあるが、浅草寺の寺領である。駒形堂は浅草寺の本尊・聖観音の陸揚げされた聖地に建立された。境内に、浅草観音戒殺(かいさつ)碑 / 駒形堂と浅草観音戒殺碑の由来碑 がある。浅草観音戒殺碑は元禄6年(1693年)に造立され、宝暦9年(1759年)に再建された。長く土中に埋もれていたが、昭和2年(1927年)に発見された。元禄6年(1693年)のものか、宝暦9年(1759年)のものかは判っていない。昭和8年(1933年)駒形堂再建のときに、補修された。浅草寺の霊地につき、周辺の魚の捕獲・殺生を禁ずる旨が彫られているとのこと。

公衆トイレ 駒形橋 前川
駒形橋西詰交差点から東に進むと、すぐ右手におしゃれな公衆トイレがある。駒形橋西詰から隅田川沿いに南へ進むと、左手に文化・文政期(1804年〜1830年)創業の前川がある。池波正太郎著「むかしの味」に登場する鰻店。
道標 やぶそば 雷門
五差路の駒形橋西詰交差点に戻る。旧日光街道は6号線(江戸通り)から別れ、並木通りを北へ進む。並木通りの左右に、常夜燈を模した道標がある。すぐ左手に“やぶそば”がある。池波正太郎著「むかしの味」に登場する店。すぐに浅草寺の雷門に突き当る。初代の雷門は、天慶5年(942年)平公雅が建立したと云われている。しばしば火災により焼失、慶応元年(1866年)焼失後は再建されなかった。現在の雷門は、昭和35年(1960年)松下幸之助が寄進したもの。
[寄り道]浅草寺 / 鷲神社
仲見世 宝蔵門 本堂
五重塔 淡島堂 六角堂
影向(ようごう)堂 橋本薬師堂 二天門
浅草寺・雷門を潜ると、賑やかな仲見世通りが続く。元和4年(1618年)築の六角堂は、二天門(重文)とともに浅草寺に残る最古の建築物。第二次世界大戦にも焼け残った。本堂の東側にある元和4年(1618年)築の二天門は、浅草寺境内にあった東照宮の随身門。東照宮は寛永8年(1631年)と寛永19年(1642年)の火災によって消失している。明治元年(1868年)二天門と改称される。

浅草寺本堂の東側に、浅草(あさくさ)神社がある。平安時代の末期から鎌倉時代に、土師真中知 / 檜前浜成 / 檜前武成 の子孫が祖先を神として創建したと云われている。明治の神仏分離により浅草寺と別れ、明治元年(1868年)三社権現から三社明神社に改称される。明治6年(1873年)に浅草神社に改称する。慶安2年(1649年)築の拝殿 / 幣殿 / 本殿は、重文。

浅草神社
浅草寺・宝蔵門を潜ると、左手に大行院の荒神堂と浅草不動堂がある。浅草寺とは別の寺。
荒神堂 浅草不動堂
  浅草寺の北西側に、摂津国有馬にある銭塚地蔵を勧請(かんじょう)した銭塚地蔵がある。地蔵が乗る四角い石塔の下に、寛永通宝が埋められていると云われている。これが銭塚の由来で、商売繁昌にご利益があると云われている。
銭塚地蔵 
鷲神社渡殿
屋台 鷲神社参道入口

浅草寺から西へ、462号線を北へ進む。鷲神社前交差点の右手に鷲神社がある。浅草寺から15分ほどである。酉の市のときは周辺に数多くの屋台が出る。鷲神社参道入口から社殿まで、長い行列ができる。

神谷バー デンキブラン 吾妻橋
雷門通りを右折して、東へ進む。すぐの吾妻橋交差点北西側に、デンキブランで知られる明治13年(1880年)創業の神谷バーがある。吾妻橋交差点をを直進すると、隅田川に架かる吾妻橋がある。吾妻橋交差点を左折、6号線(江戸通り)を北東へ進む。左手にある昭和6年(1931年)竣工の浅草駅ビルは、関東では初となる本格的な百貨店併設のターミナルビルとして開業した。地上7階・地下1階の建物は、東武鉄道のホームがある2階以外は松屋浅草店となっている。
浅草駅ビル
姥ケ池跡 常夜燈 / 姥ヶ池之旧跡碑

吾妻橋交差点から5分ほどの東参道交差点を左折すると、すぐ右手に花川戸公園がある。この辺りには“姥ケ池”と呼ばれる大きな池があり、隅田川に通じていた。明治24年(1891年)に埋め立てられる。花川戸公園入口に常夜燈と姥ヶ池之旧跡碑 / 右手に助六歌碑 / 池の島に福寿稲荷と姥宮沙竭羅龍王の祠 などがある。

東参道交差点まで戻り、6号線を北東へ進む。すぐに五差路の言問橋西交差点がある。6号線は右に曲がり、言問橋を渡る。左は言問通り(319号線) / 北東は314号線 / 旧日光街は北へ464号線(吉野通り)を進む。文禄3年(1594年)隅田川に千住大橋が架けられてから、南千住に至る現在の吉野通りが開かれ、言問橋西詰め交差点は浅草追分とよばれるようになった。それまでは、言問橋辺りから白髭橋辺りにかけてあった渡しを利用して隅田川を越えていた。よく利用されていたのが竹屋の渡しで、山谷堀が隅田川に合流するところにあった。対岸には三囲(みめぐり)神社があり、対岸の堤から望む待乳山は絶景であったと云われている。
[寄り道]牛嶋神社 / 三囲神社
言問橋 牛嶋神社
言問橋西交差点を左折して、隅田川に架かる言問橋を渡る。すぐ右手に貞観2年(860年)創建云われる牛嶋神社がある。社殿は6号線に背を向けて鎮座している。明治維新前は本所表町(現・墨田区東駒形)の最勝寺が別当寺であった。明治の神仏分離後、牛嶋神社に改称された。 本所区向島須崎町の広福寺西側の川沿いにあったが、関東大震災後に隅田公園の設計の都合上、昭和7年(1932年)水戸藩の屋敷跡だった現在地に移転する。本殿前の鳥居は、三輪鳥居(三つ鳥居)。
三囲神社 石垣の歌碑 三越池袋店のライオン像
6号線は言問橋東交差点から北東に曲がる。6号線にほぼ並行する北側の道を進むと、すぐ左手に三囲神社がある。隅田川対岸から堤と鳥居が見え、歌川国貞の浮世絵などに描かれている。墨田七福神の恵比寿と大黒天になっている。三越と縁の深い神社で、境内右手に元三越会長・日比翁助の“石垣の歌碑”/ 社殿手前左手に平成21年(2009年)に閉店した三越池袋店のライオン像がある。
言問橋西交差点まで戻り、464号線(吉野通り)を北へ進む。すぐ右手に推古天皇3年(595年)創建と云われる侍乳山聖天(まっちやましょうでん)がある。手前左手の待乳山公園に、池波正太郎生誕地碑がある。池波正太郎は、大正12年(1923年)待乳山聖天の南側辺りで生まれている。
池波正太郎生誕地碑
聖天宮 巾着提灯 / 二股大根提灯 地蔵堂 / 歓喜地蔵
銅造宝篋印塔 築地塀 / 石仏群 山門
待乳山は小高い丘で、低地の浅草では見渡しの良い名所として知られていた。山谷堀を埋めるために丘が削られ、標高10mの東京都最低山になっている。石段を登ると、左手の地蔵堂の周りに歓喜地蔵が並んでいる。頂上に、銀杏に囲まれた聖天宮がある。ご利益はお金と夫婦和合、巾着と二股大根が描かれた提灯が吊るされている。浅草名所七福神の毘沙門天になっている。聖天宮の裏手に、天明元年(1781年)造立の銅造宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。東側の階段を下ると、左手の築地塀(ついじべい)前に石仏群がある。築地塀は防火壁の役目をしていた。降り切ると、左手に閉ざされた山門がある。
[寄り道]今戸橋跡 / 今戸神社
今戸橋跡 慶養寺 本龍寺
待乳山聖天の山門から左折して北へ進むと、すぐの山谷堀跡に今戸橋跡がある。今戸橋は山谷堀が隅田川に合流する手前に架かっていた橋。Y字路交差点を左へ進むと,、左手に池波正太郎の「剣客商売」に登場する寛永2年(1623年)創建の慶養寺 / 左手に元和2年(1616年)創建の本龍寺 と続く。
今戸神社 招き猫絵馬 今戸焼発祥之地
本龍寺からすぐの左手に、康平6年(1063年)創建と云われる今戸神社がある。昭和12年(1937年)隣接していた白山神社を合祀、今戸八幡神社から今戸神社に改称する。浅草七福神の福禄寿になっている。境内には招き猫絵馬が数多く吊るされている。この辺りの粘土が良質だったため今戸焼が栄えた時期があり、今戸焼発祥之地碑がある。新撰組・沖田総司終焉の地とも云われている。沖田総司は幕府の医師・松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われ、慶応4年(1868年)に亡くなっている。結核を患っていた沖田総司を診ていた松本良順が、今戸神社を仮の住まいとしていた。
沖田総司終焉之地
遍照院 吉野橋跡 山谷堀公園
日光街道に戻り、北へ進む。すぐの浅草7丁目交差点を左折すると、すぐ右手に遍照院がある。浅草7丁目交差点から北へ進むと、すぐの山谷堀(さんやぼり)跡に山谷堀公園がある。ここには吉野橋が架かっていた。山谷堀は江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため、箕輪(三ノ輪)から隅田川への出入口である今戸まで造られた水路。昭和50年(1975年)までにすべて埋め立てられ、日本堤から隅田川入口までの約700mが山谷堀公園となっている。埋め立てられる前の山谷堀には、今戸橋 / 聖天橋 / 吉野橋 / 正法寺橋 / 山谷堀橋 / 紙洗橋 / 地方新橋 / 地方橋 / 日本堤橋の九つの橋があった。山谷堀は新吉原遊郭への水上路としても利用され、隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟が行き来していた。
正法寺 瑞泉寺 熱田神社
吉野橋からすぐの左手に、天正10年(1582年)創建の正法寺がある。すぐの東浅草1交差点を越え、次の交差点を右折すると左手に瑞泉寺がある。角の十字路を右折すると、すぐ右手に熱田神社がある。熱田神社は江戸初期に元鳥越町に創建され、正保2年(1645年)新鳥越町に移転。さらに関東大震災で昭和2年(1927年)現地に移転する。工事中の社殿右手に、豊川稲荷神社がある。
豊川稲荷神社
旧日光街道に戻り、北へ進む。東浅草交番前交差点を越え、次の十字路を左折すると、右手に山門が閉じられている天文21年(1552年)創建と云われる廣徳寺 / 右手に二代目高尾太夫の墓がある寛永5年(1628年)創建の春慶院 と続く。高尾太夫は吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は11人いたと云われている。
廣徳寺 春慶院
江戸六地蔵第4番 東禅寺
春慶院の角を右折して北へ進み、すぐの十字路を左折する。すぐの突き当りに、寛永3年(1626年)創建と云われる東禅寺がある。宝永7年(1710年)造立の江戸六地蔵4番がある。旧奥州街道の入口にあったが、昭和3年(1928年)現在地に移転する。
江戸六地蔵は六街道の江戸御府入口に、宝永5年(1708年)から道中安全を願って造立される。第1番:品川寺(東海道) / 第2番:太宗寺(甲州街道) / 第3番:真性寺(中山道) / 第4番:東禅寺(日光街道・奥州街道) / 第5番:霊厳寺(水戸街道) / 第6番:永代寺(千葉街道)に造立された。永代寺は廃寺になり地蔵は取り壊され、五地蔵が残る。
寶珠稲荷神社 口入稲荷社 玉姫稲荷神社
吉野通り(464号線)に戻り、北へ進む。東浅草交番前交差点から5分ほどの東浅草2丁目交差点を越える。この辺りには、簡易宿泊施設が軒を連ねている。次の十字路を右折すると、左手に寶珠稲荷神社がある。さらに進むと、左手に池波正太郎著「鬼平犯科帳」にも登場する玉姫稲荷神社 / 境内社に口入稲荷社がある。
吉野通り(464号線)に戻り、北西へ進む。5分ほどすると、明治通り(306号線)との泪橋(なみだばし)交差点がある。昔、明治通りに思川(おもいがわ)が流れていた。ここに架かっていた橋が泪橋。思川は、石神井用水の別名である音無川の分流。音無川は昭和9年(1934年)暗渠化されたが、思川はもっと前に埋め立てらている。江戸時代にあった小塚原(こづかっぱら)刑場は目の先にある。刑場に引き立てられる囚人や見送る人たちが、別れに涙したところから泪橋と云われる様になった。
日光街道21次 1番 千住(せんじゅ)宿
東京都足立区
天保14年(1843年)宿村大概帳
人口:9456 家数:2370 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:55

武蔵国足立郡・豊島郡の荒川(隅田川)曲流部にあり、文禄3年(1594年)千住大橋が架けられ急速に発展した。寛永2年(1625年)五街道の整備によって日光・奥州両街道の初宿になり、水戸街道が分岐していた。万治元年(1658年)に隣接する掃部宿 / 河原町 / 橋戸町、2年後には荒川対岸の小塚原町 / 中村町が加宿された。東海道の品川宿 / 中山道の板橋宿 / 甲州街道の新宿 と並び、江戸四宿に数えられた。江戸に物資を運び込むための中継地点としても賑わい、享保年間(1716年〜1735年)には野菜市場や米問屋街が形成された。宿場の外れに小塚原刑場が設けられた。

首切地蔵 題目塔
泪橋交差点から5分ほどすると、車庫への線路を歩道橋で越え東京メトロ・日比谷線を潜る。東京メトロ・日比谷線とJR常磐線に挟まれたところ、左手の延命寺に小塚原刑場跡と小塚原の首切地蔵案内板がある。境内に入ると、処刑者を弔う寛保元年(1741年)に造立された高さ3.6mの首切地蔵 / 手前左手に題目塔(南無妙法蓮華経)がある。
JR常磐線を潜ると、すぐ左手に寛文7年(1667年)常行堂を創建したことに始まる千住回向院(せんじゅえこういん)がある。慶安4年(1651年)に新設された小塚原刑場での刑死者を供養するため創建、小塚原回向院とも呼ばれている。両国・回向院の別院になる。江戸時代の小塚原刑場では、明治初めに廃止されるまでに20万人余の罪人が処刑されたと云われている。常磐線敷設の際に南北に分断され、分断された南側部分が独立して延命寺となる。
千住回向院
鼠小僧 / 片岡直二郎 / お伝 / 喜三郎 墓 幕末志士の墓 吉田松陰の墓
4基並んでいる墓は、義賊・鼠小僧次郎吉(源達信士) / 無頼漢(ぶらいかん)・片岡直二郎 / 明治の毒婦・高橋お伝(榮傅信女) / 江戸時代の侠客・腕の喜三郎。高橋お伝は明治12年(1879年)日本の女性で最後に斬首刑にされた人物。安政の大獄により刑死した幕末志士の墓の奥に、長州藩士・吉田松陰の墓がある。吉田松陰は安政6年(1859年)小伝馬町で処刑され、ここに葬られた。後に松陰神社に改葬されている。文久3年(1863年)若林に改葬され、明治15年(1882年)墓所に松陰神社が創建された。
小塚原回向院から5分ほどすると、左手からの4号線と合流する南千住交差点の三角地帯に萬冶2年(1659年)創建の真養寺がある。南千住交差点を越えてすぐに右折すると、左手に正和年間(1312年〜1317年)創建の日慶寺がある。
真養寺 日慶寺
浅間神社
素盞雄神社 富士塚
南千住交差点の西側に、延暦14年(795年)創建と云われる素盞雄(すさのお)神社がある。創建以来、祭神の牛頭天王と飛鳥権現は別々の社殿であった。享保3年(1718年)に社殿が焼失、享保12年(1727年)瑞光殿を建立して合祀する。古くから疫病除けで知られ、地元では天王様と呼ばれている。明治の廃仏毀釈により、祭神を素盞雄大神と飛鳥大神へ改め素盞雄神社へ改称した。牛頭天王と飛鳥権現が降臨した瑞光石(ずいこうせき)の周囲に、嘉永4年(1851年)に玉垣を築き富士塚とした。元治元年(1860年)浅間神社を創建した。境内に芭蕉句碑「行春や鳥啼魚の目はなみた」がある。
誓願寺 八紘一宇 千住大橋
素盞雄神社からすぐ左手に、慶長元年(1598年)創建の誓願寺がある。すぐの隅田川に架かる千住大橋の手前左手に、八紘一宇(はっこういちう)と彫られた昭和15年(1940年)造立の石柱がある。八紘一宇とは、日本書紀にある掩八紘而爲宇の文言を縮約した語。「道義的に天下を一つの家のようにする」という意味があり、第二次大戦中にスローガンとして用いられた云う。千住大橋は文禄3年(1594年)徳川家康によって架けられた隅田川最初の橋である。現在の橋は、昭和2年(1927年)に竣工したもの。千住大橋を渡り終えた左手の大橋公園に、「奥の細道矢立初めの地」石標がある。奥の細道は千住から始まり、芭蕉はここで見送りの人と別れた。
奥の細道矢立初めの地
日光道中道標 芭蕉像 元やっちゃ場南詰
奥の細道矢立の碑からすぐに足立市場前交差点がある。旧日光街道は4号線と分かれ、市場前の旧道を進む。すぐ右手に「ひだり草加 日光道中千住宿 みぎ日本橋」道標 / 芭蕉像 / 案内板のある休憩所がある。すぐ左手に、元やっちゃ場南詰案内板がある。江戸時代この通りで毎朝、野菜・魚を売る市が開かれていた。店先で掛け合う「やっちゃ やっちゃ」から、やっちゃ場通りと呼ばれていた。元やっちゃ場北詰まで、民家の玄関先に昔の屋号を示す看板が数多く掲げられている。
案内板 千住宿歴史プチテラス 旧日光道中道標
元やっちゃ場南詰からすぐに、京成電鉄高架下を潜る。すぐ左手に「ひだり 大はし みぎ 掃部宿」案内板 / 左手の千住宿歴史プチテラス前に「鮎の子のしら魚送る別かな」芭蕉句碑 / 右手に町並み図 / 左手に旧日光道中道標 / 左手に元やっちゃ場北詰案内板 と続く。千住宿歴史プチテラスは江戸時代後期築の蔵を移築、区民ギャラリーとして利用されている。旧日光道中道標の右側面に「是より西へ大師道」と彫られている。
元やっちゃ場北詰
源長寺 地蔵の祠 千住高札場跡

元やっちゃ場北詰からすぐの交差点を渡ると、左手に慶長15年(1610年)創建の源長寺 / 山門手前右手に地蔵の祠がある。5分ほどの交差点の南西側に千住高札場跡がある。交差点を渡ると左手に、「千住宿 問屋場 / 貫目政所跡」石柱と案内板がある。5分ほどの駅前通りとの交差点を右折すると、JR / 東武鉄道 / 東京メトロ・北千住駅がある。

千住宿 問屋場 貫目政所 跡