中山道69次 No.41 関ヶ原駅-(約14km)-醒井駅
2013年 4月 3日(水)08:30 曇りのち雨
関ケ原駅 八幡神社 西首塚 不破関跡 矢尻の池 鶯の滝 常盤御前の墓 今須一里塚 車返しの坂 市場橋 柏原歴史館 柏原一縷塚 醒井延命地蔵堂 西行水 醒井駅
[寄り道]東首塚
関ヶ原駅 関ヶ原古戦橋からの関ヶ原駅構内 地蔵堂
松平忠吉・井伊直政陣跡 旧山王権現社唐門 旧山王権現社社殿
東首塚 首洗いの古井戸
JR東海道本線・関ヶ原駅から線路沿いに西へ、坂を登る途中の左下に地蔵堂がある。右折して東海道本線を関ヶ原古戦橋で越えると、すぐ左手に松平忠吉・井伊直政陣跡 / 奥に東首塚がある。松平忠吉は徳川家康の四男で、井伊直政の娘婿。東首塚は関ヶ原戦い直後に、この地の領主・竹中重門が築いたもの。竹中重門は、軍師として知られる竹中半兵衛重治の息子。徳川家康によって実検された将士の首がここに葬られている。昭和17年(1942年)名古屋・山王権現社唐門や本殿が移築され、東西両軍の戦没者供養堂になっている。関ヶ原古戦橋から関ヶ原駅構内を見ると、3番線 / 4番線ホームが異常に長いことに気付く。
関ヶ原駅 相川脇本陣跡 高僧至道無難禅師生誕地石標
JR関ヶ原駅から南へ、すぐの関ヶ原駅前交差点を右折して旧中山道(21号線)を西へ進む。すぐ右手に門が残る相川脇本陣跡と江戸時代前期の高僧・至道無難禅師生誕地石標がある。
すぐに右折すると、突き当りに天正16年(1588年)創建と云われる八幡神社がある。旧中山道からこの辺りまでが本陣敷地だったところ。この道は北国脇往還で、八幡神社を廻り込む様に北に進む。東首塚〜小谷宿を経て木之本宿まで通じていた。
八幡神社鳥居 八幡神社

21号線に戻り西へ進むと、すぐの関ヶ原西町交差点手前右手に宗徳寺 / 右手に円龍寺 と続く。

宗徳寺 円龍寺
[寄り道]関ヶ原ウォーランド

関ヶ原西町交差点から365号線を北東へ進む。15分ほどの21号線関ヶ原バイパスと立体交差するところを左折して南へ進むと、すぐに関ヶ原ウォーランドがある。実物大の武将像 / 旗指物 / 陣幕などをを配し、関ケ原合戦を史実に基づいて再現している。

関ヶ原ウォーランド
町並み
両皇太神宮常夜燈 西首塚
千手観音堂 / 馬頭観音堂 「関ヶ原合戦戦死者胴塚」石標 供養塔
関ヶ原西町交差点から西へ5分ほどすると、左手に明治5年(1872年)造立の両皇太神宮常夜燈 / 右手に西首塚 と続く。関ヶ原合戦戦死者を葬った塚で、胴塚とも云われている。東首塚同様、西首塚も竹中重門が築いたもの。西首塚の北側を東海道本線が通り、 明治33年(1900年)敷設工事の際には相当数の白骨が出土された。東首塚と比較すると、かなりの規模だったと推察される。江戸時代中期に建立された千手観音堂と馬頭観音堂の間に、「柴ノ内 関ヶ原合戦戦死者胴塚」石標がある。「柴ノ内」は現在地「関ヶ原町字柴の内」のこと。
西首塚からすぐに、なだらかに左へ分岐する道がある。旧中山道は、@ここを左へ進む A直進して松尾交差点から斜め左へ進む の説がある。左へ進む方が旧中山道の雰囲気がある。5分ほどの「美濃不破関 東山道と東城門跡」案内板のところで合流する。
古民家 「松尾山・小早川陣跡」道標 「月見の宮 福島陣趾」道標
「不破関跡 西首塚 福島正則陣跡」道標 井上神社石標 「美濃不破関と東城門跡」案内板
@分岐を左へ進む。すぐ左手に「松尾山・小早川陣跡 2.4km 50分」道標 / 左手に「月見の宮 福島陣趾1丁」道標 / 「不破関跡100m4分 西首塚450m9分 福島正則陣跡100m2分」道標 / 左手に井上神社石標 / 右手から合流する三角地に「美濃不破関 東山道と東城門跡」案内板 と続く。井上神社は壬申の乱直後に創建された、天武天皇を祀った神社。
A分岐を直進する。西首塚から5分ほどの松尾交差点右手に祠がある。松尾交差点の「これより中山道」道標から左へ進む。すぐ左手に祠 / 右手に「美濃不破関 東山道と東城門跡」案内板 と続き、手前の分岐を左へ進んだ道と合流する。
長屋門 不破関跡
「美濃不破関 東山道と東城門跡」案内板から、左手に白壁が見える。門の前に、不破関跡案内板と不破関跡碑がある。藤古川を挟んで弘文天皇と叔父にあたる大海人皇子(後の天武天皇)が戦った壬申の乱(672年)後、天武天皇の命で東山道の不破関 / 東海道の鈴鹿関 / 北陸道の愛発関 の三関が設置される。「美濃不破関 東山道と東城門跡」案内板があるところが東端、藤古川が西端にあたると云われている。東端と西端には城門や楼が設置され、兵士が守りを固めていた。延暦8年(789年)三関が廃止された後の不破関には、関守が置かれた。東山道が中山道として整備された頃には、関所の機能はなくなっていた。
「旧中仙道 大谷義継墓」道標 不破関守址 大木戸唯道名址
不破関跡碑からすぐの分岐の三角地帯に、「左旧中仙道 右中仙道大谷義継墓十丁」道標がある。左へ坂を下ると、すぐ左手に不破関守址 / 左手に大木戸唯道名址と続く。
休憩所 地蔵の祠 不破関資料館
「左旧中仙道 右中仙道大谷義継墓十丁」道標を右へ進むと、すぐ左手に松尾周辺案内図 / 左手に休憩所 / 右手に地蔵の祠 / 右手奥に不破関資料館 がある。松尾周辺案内図では、松尾交差点手前の分岐を左へ進むのが「中仙道」と記載されている。不破関資料館も不破関敷地跡になる。
「不破関西城門と藤古川」案内板
戸佐々神社 藤古川に架かる藤下橋
大木戸唯道名址からすぐの左手に、「不破関西城門と藤古川」案内板 / 左手に戸佐々神社 と続き藤古(ふじこ)川に架かる藤下(とうげ)橋を渡る。戸佐々神社は不破関の守護神として創建された神社。不破関の西限は藤古川で、西城門があったところ。橋を渡ると、すぐ左手に元応11年(1320年)創建と云われる八幡神社石標 がある。若宮八幡神社のことで、弘文天皇を祀った神社。
古民家 八幡神社石標
十字路 「大谷義継墓七丁」道標 箭先地蔵堂
すぐに短い急坂を登った斜めの十字路左手に、「大谷義継墓七丁」道標 / 箭先(せんさき)地蔵堂 / 矢尻の池 がある。箭先地蔵堂には明治11年(1878年)に坂を開削した時に出土した地蔵と弘文天皇稜の傍にあった地蔵が納められている。矢尻の池は弘文天皇の軍兵士が水を求めて矢尻で掘った云われているが、現在は枯れている。
矢尻の池
「弘文天皇御稜候補地」道標 「従是西不破郡中山村地内」石標 「中山道 関ヶ原宿藤下」道標

矢尻の池からすぐに斜めの十字路を左に進んだ道と合流、すぐ左手に「弘文天皇御稜候補地150m5分 自害の峯の三本杉150m5分」道標 / 左手に「従是西不破郡中山村地内」石標 / 右手に「これより中山道 関ヶ原宿藤下 関ヶ原町」道標 と続き、21号線と斜めに交差する。弘文天皇は壬申の乱において敗北、自害する。首を葬ったところに、杉を植えたと云われている。「これより中山道 関ヶ原宿藤下 関ヶ原町」道標は、京方面からの道標。

若宮八幡神社 地蔵の祠 地蔵の祠
高札場跡
地蔵の祠 鶯の滝

歩道橋のある21号線を越えて5分ほどすると、右手に若宮八幡神社石標と奥に鳥居 / 右手に地蔵の祠 / 左手に地蔵の祠 / 左手の高札場跡に「ここは旧中山道 間の宿山中」道標 / 黒血川案内板 / 右手に地蔵の祠 / 左手に鶯の滝 と続く。壬申の乱ではこの山中の地で初めて両軍が衝突、激戦となった。右手の細い川が黒血川で、両軍の兵士の流血で川底の岩石が黒く染まったと云われている。祠は左から、黒血川地蔵 / 鶯龍地蔵 / 地蔵.。鶯の滝は水量も豊かで冷気が立ち込め、年中鶯が鳴いていたと云われている。今須峠を通る旅人を癒し、街道の名所となっていた。現在は東海道新幹線が頭上を通る。

地蔵の祠
芭蕉句碑 常盤御前の墓 / 乳母・千種の墓

鶯の滝からすぐの分岐に道標があり右へ、東海道新幹線のガードを潜る。続く分岐に標識があり左へ川沿いに進む。すぐ右手に地蔵の祠と標識があり右折すると、すぐ左手の公園に常盤御前の墓 / 乳母・千種の墓 / 「義朝の心に似たり秋の風」芭蕉句碑 などがある。左側が常盤御前の墓と云われている。源義朝の側室で都一の美女と云われた常盤御前は、今若(阿野全成) / 乙若(義円) / 牛若(源義経)の母。元暦2年(1185年)源頼朝と源義経が仲違いすると、文治2年(1186年)義経の妹と共に京都で鎌倉方に捕えられる。釈放されたと見られているが、史実はここで終わる。平治の乱で源氏が敗れた後に平清盛の愛妾となったことなど、俗説が多い。この墓は、東国へ走った牛若の後を追って来た常盤御前に纏わる話。常盤御前と乳母・千種はこの地で土賊に殺害された。哀れに思った山中の人たちが、ここに葬り塚を築いたと云われている。常盤御前の墓と伝えられるものは、群馬県前橋市 / 埼玉県飯能市 などにもある。鶯の滝から常盤御前の墓まで、5分ほどの距離である。

地蔵 常盤地蔵の祠 今須峠案内板
不明の石柱 「中山道 関ヶ原宿山中」道標 今須一里塚

旧中山道に戻り南へ進むと、すぐ左手に地蔵 / 右手に常盤地蔵の祠 と続く。右手の東海道本線沿いに進み、道なりに山中踏切を渡る。道なりにちょっと急な坂を上り今須峠に進む。山中踏切から5分ほどで峠の頂上となり、急坂を下る。今須峠越は、現在でも冬になると雪のために交通の難所となる。左手に今須峠案内板 / 反対側に道標らしい不明の石柱 / 下り切って21号線と合流するところに「これより中山道関ヶ原宿山中関ヶ原町」道標 / 21号線の左手に復元された今須一里塚 と続く。「これより中山道関ヶ原宿山中関ヶ原町」道標、京方面からの道標。

中山道69次 59番 今須(います)宿
岐阜県不破郡関ヶ原町
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳
人口:1784人 家数:464 本陣:1 脇本陣:2 旅籠:13

美濃国17宿の西端にあり、近江国(滋賀県)との国境に位置する。琵琶湖と養老を結ぶ九里半街道が通り、物流基地の要衝として繁栄し問屋は7軒もあった。垂井宿と共に、幕府から5街道の中で最初に車両使用許可が下りた宿場。
「中山道 今須宿関ヶ原町」道標 常夜燈 「中山道 今須宿」道標
妙応寺石標 問屋場跡 町並み
地蔵の祠 真宗寺

今須一里塚跡からすぐの左手に「これより中山道今須宿関ヶ原町」道標がある。すぐの分岐のガードレールに小さな中山道標識があり、道なりに直進する。すぐ左手に常夜燈 / 左手に「本陣跡 脇本陣跡」案内板と「中山道今須宿」道標 / 右手に正平15年(1360)創建の妙応寺石標 / 左手に今須小学校 / 右手に現存する問屋場跡 / 右手に地蔵の祠 / 左手に真宗寺 / 右手に祠 と続く。本陣1軒と脇本陣2軒は、今須小・中学校敷地にあった。河内家脇本陣母屋は、寛政年間(1789年〜1801年)に米原市伊吹町の玉泉寺に移築されている。

法善寺 八幡神社鳥居 常夜燈
「旧蹟 車返 美濃国不破郡今須村」石標 車返地蔵堂 地蔵堂

真宗寺から5分ほどすると、右手に法善寺 / 左手に八幡神社鳥居 / 左手に常夜燈 と続く。すぐの分岐に車返しの坂案内板と「旧蹟 車返 美濃国不破郡今須村」石標がある。左への坂道が車返しの坂と呼ばれていた旧中山道で、登り切った広場の正面に車返地蔵堂 / 右手にも地蔵堂がある。ここから先はJR東海道本線の敷設で、道は消滅している。南北朝時代(1336年〜1392年)京の公家・二条良基が、不破関屋が荒れはて板庇から漏れる月の光が風流と聞き牛車の乗って来た。この坂道を登る途中で屋根を直したと聞いて引き返してしまったことから、車返しの坂と呼ばれる様になつたと云われている。

地蔵堂
「おくのほそ道 芭蕉道」石標 芭蕉句碑 「寝物語 美濃国不破郡今須村」石標
「近江美濃両国境寝物語」石標 寝物語の里碑 春日神社鳥居

車返地蔵堂から車返しの坂を戻って下り、21号線の今須交差点を直進する。さらに東海道本線の車返踏切を横断して、道なりに左へ進む。すぐ右手に「おくのほそ道 芭蕉道」石標 / 右手に「正月も 美濃と近江や閨月」芭蕉句碑 / 右手に「旧蹟 寝物語 美濃国不破郡今須村」石標 / 右手に「近江美濃両国境寝物語」石標 / 右手に寝物語の里碑 / 右手に春日神社鳥居 と続く。近江国と美濃国の境は細い溝で、この溝を挟み領国の番所や旅籠があった。窓越しに「寝ながら他国の人と話会えた」ことから寝物語の名が生まれたと云われている。中山道の旧跡として知られていた。

「弘法大師………」石塔 長比城址登り口道標 神明神社鳥居
春日神社鳥居から5分ほどすると、右手に「弘法大師………」と彫られた石塔がある。さらに5分ほどすると右手に元亀元年(1570年)浅井長政によって築かれた長比城址登り口 / 右手に神明神社鳥居 / 中山道と東山道の分岐に「旧東山道」道標 と続く。
「旧東山道」道標
「旧東山道」道標から旧中山道はすぐの分岐を左折、東海道本線踏切を渡りすぐ右折する。東海道本線に沿うように1kmほど進むと、右手に八幡神社がある。
    分岐を直進すると、すぐ右手に古事記にも登場する白清水がある。玉の井とも呼ばれている。照手姫の白粉(おしろい)で清水が白く濁り、白清水と呼ばれる様になったと云われている。小さな清水であるが、現在も伊吹山からの冷たい水が湧き出ている。道なりに左へ進むと、白清水から10分ほどの左手に地蔵の祠 / すぐの突き当りを左折すると道標 と続く。すぐの東海道本線を潜ると、旧中山道と八幡神社前交差点で交差する。
白清水 地蔵の祠

中山道69次 60番 柏原(かしわばら)宿
滋賀県米原市
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳
人口:1468人 家数:344 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:22

太平記に記載されている中世以来の宿場。問屋6軒 / これを補佐した年寄8軒 / 荷蔵が2軒と、大規模な宿場町であった。伊吹艾(もぐさ)が特産品で、最盛時には10軒以上の艾屋があった。
八幡神社 薬師堂 町並み
問屋場跡
旅籠屋・白木屋 町並み 中山道柏原宿案内板

東海道本線踏切手前の分岐から、1kmほどの右手に八幡神社がある。この1kmのほぼ中間にの枝川を渡った辺りに柏原宿東見付跡があり、柏原宿に入る。八幡神社から八幡神社前交差点を西へ進むと、右手に薬師堂 / 右手に祠 / 右手に祠 / 左手に「問屋場跡」と「東の荷蔵跡」の案内板が並ぶ問屋場跡 / 左手に旅籠屋・白木屋 / 右手に柏原宿復元図が描かれている中山道柏原宿案内板 と続く。  

柏原宿本陣跡案内板 「皇女和宮宿泊 柏原宿本陣跡地」石標 神社

柏原宿案内板に隣接して、右手に「柏原宿本陣跡」案内板と「皇女和宮宿泊 柏原宿本陣跡地」石標 / 右手に神社 / 市場川に架かる市場橋手前右手の高札場(札の辻)跡に秋葉山常夜燈 と続く。市場橋は吉村公三郎監督の若き日の思い出の橋。

秋葉山常夜燈 市場橋
亀屋左京商店 町並み 旧柏原村役場跡
中山道六拾番柏原宿
中山道柏原宿火消御用処 柏原歴史館

市場橋橋を渡ると、左手に寛文元年(1661年)創業の伊吹艾(いぶきもぐさ)本舗・亀屋左京商店がある。伊吹山の薬草を原料とした伊吹艾は柏原宿の特産で、かつては九軒の艾店があった。すぐ右手に旧柏原村役場跡 / 右手に中山道柏原宿道標 / 右手に「中山道六拾番 柏原宿」看板と中山道柏原宿道標 / 左手に中山道柏原宿火消御用処 / 右手に柏原歴史館 と続く。柏原歴史館は、大正6年(1917年)築の旧松浦久一郎邸を改築したもの。平成12年(2000年)国の登録有形文化財に指定された。館内で昼食を摂る。

日枝神社 西の荷蔵跡 古民家
薬師道道標 柏原御茶屋御殿跡

柏原歴史館に隣接して右手に日枝神社 / 左手に西の荷蔵跡 / 左手に享保2年(1717年)造立の最澄が創建したと云われる明星輪寺への道標 / 十字路を越えた右手に柏原御茶屋御殿跡 と続く。道標の正面は漢文「従是明星山薬師道」、側面は平仮名と変体仮名の2つの和文体で彫られている。柏原御茶屋御殿は元和9年(1623年)に設けられ、将軍家が上洛時に利用されていた。徳川幕府の権力が強大になり上洛の回数が減少したため、元禄2年(1689年)に廃止された。

郷宿跡 柏原一縷塚 「柏原一縷塚跡」石標
柏原御茶屋御殿跡からすぐの左手に郷宿跡・加藤家 / 左手に復元された柏原一縷塚と「柏原一縷塚跡」石標 / 左手の西見附跡 と続き、宿場は終わる。郷宿とは脇本陣と旅旅籠の中間に位置し、武士や公用で旅する庄屋の休泊が利用していた。
西見附跡
中山道分間延絵図 白山神社鳥居 小川関石標 / 柏原宿枝郷道標

西見附跡から5分ほどすると、左手に「中山道分間延絵図」を埋め込んだ「中山道柏原宿」石標 / 左手に「東山道と九里半街道」案内板 / 右手に「北畠具行御墓」標識 と続く。北畠具行は鎌倉末期の後醍醐天皇の側近。元弘元年(1331年)倒幕計画に参画して挙兵したが、幕府軍に捕らえられる。鎌倉へ護送中、この地で京極佐々木道誉により処刑された。10分ほどすると、右手に白山神社鳥居 / 右手の長沢集会所を過ぎたところの分岐に「左中山道 右旧中山道」道標 / 「小川関」石標と「柏原宿枝郷」道標 と続く。

「旗本西郷氏領 梓河内村」石標

地蔵の祠 中山道道標
地蔵の祠 慈円寺 八王子神社石標
小川の関から薄暗い林の中を進む。小川の関から10分ほどのところに「旗本西郷氏領 梓河内村(東地先)」石標があり、長沢集会所を過ぎたところで分岐した中山道に合流する。すぐ右手に地蔵の祠 / 右手に中山道道標 / 右手に地蔵の祠 / 右手に慈円寺 / 右手に八王子神社石標 と続く。
八王子神社石標から5分ほどすると、右手に「推定 横川の駅家跡」案内板 / すぐに松並木の道を梓川沿いに進む。横川の駅家は東山道の駅家。古代律令国家は、畿内から全国に東海道 / 東山道 / 北陸道 / 山陰道 / 山陽道 / 南海道 / 西海道の七道と、30里(16km)ごとに駅家を設けた。
「推定 横川の駅家跡」案内板付近 松並木
左中山道道標 石仏群
八幡神社 八幡神社境内の三猿 地蔵の祠
一里塚跡 等倫寺

「推定 横川の駅家跡」案内板5分ほどすると、塀に囲まれた道を通り21号線と合流する。5分ほどすると左側の歩道に「左中山道道標」があり、分岐を左へ進む。すぐ左手に祠 / 右手に石仏群 / 右手に八幡神社 / 左手に地蔵の祠 / 右手に一里塚の跡 / 左手に一里塚跡 / 右手に等倫寺 / 左手に社 と続く。

中山道69次 61番 醒井(さめがい)宿
滋賀県米原市
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳
人口:539人 家数:138 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:11

古代から交通の要衝。古事記や日本書紀に登場する“居醒泉(いさめがい)”が醒井の地名の由来であると云われ、現在も湧水は地蔵川の流れとなつている。
佛心水 石仏群
 
中山道醒井宿石標
古民家 雨に濡れる桜
水飲み場 加茂神社鳥居 緑苔寺
等倫寺から5分ほどの坂の頂上右手に佛心水 / 左手に石仏群 / 枡形道の左手に「見附跡 枡形」案内板 / 左手に「中山道醒井宿」石標 と続く。5分ほどすると、左手に「別雷皇宮」の額が掛かる加茂神社鳥居 / 右手に緑苔寺 / 左手に醒井延命地蔵堂 がある。加茂神社石垣下から湧出ている清水は、地名の由来となった「居醒の清泉」。日本武尊が伊吹山の荒ぶる神を退治に行ったとき、強烈な反撃に合い正気を失って下山する。この泉の水を飲んで醒めたことから、「居醒の清泉」と呼ぶようになったと云われている。「居醒の清泉」は地蔵川の源泉となっていて、宿場通りの左側を流れている。
醒井延命地蔵堂

延命地蔵からすぐの左手に、「ハリヨ バイカモ」案内板と「地蔵川ハリヨ生息地保護区」標柱がある。ハリヨは岐阜県南西部と滋賀県東北部の水温20℃以下の湧水の清流にしか生息しない、体長4〜7cmの魚で絶滅種に近い。バイカモ (梅花藻)は清流に生育している水草で、初夏から初秋にかけてウメの花のような白い花を水中につける。冷水を好み、西日本では上流や湧き水のある地域に分布が限られている。

本陣跡 町並み 消防道具収納箱
問屋場跡 町並み 元旅籠・多々美屋
長屋門 法善寺 明治天皇御駐輦所
源海寺石標 「天然記念物 了徳寺 御葉附銀杏」石標 了徳寺

「地蔵川ハリヨ生息地保護区」標柱からすぐの左手に本陣跡 / 左手に消防道具収納箱 / 左手に現存する問屋場建物 / 右手に石灯籠のある元旅籠・多々美屋 / 右手の長屋門と明治天皇御駐輦所(ごちゅうれんしょ)の間を右折すると法善寺 / 右手に明治天皇御駐輦所 / 左手に源海寺石標 / 右手の「天然記念物 了徳寺 御葉附銀杏」石標を右折すると奥に文明年間(1469年〜1487年)創建と云われる了徳寺本堂がある。「御葉附銀杏」は他のイチョウに比べて葉が細長く、葉にギンナンを付けるのが特徴。

醒井大橋
地蔵川の石灯籠 居醒橋
「天然記念物 了徳寺 御葉附銀杏」石標からすぐ左手の地蔵川に、「十王」と彫られた石灯籠がある。平安時代中期に浄蔵法師が諸国遍歴の途中、この水源を開き仏縁を結んだと云われている。近くに十王堂があったことから、「十王水」と呼ばれるようになった。すぐに分岐があり、旧中山道は左へ地蔵川に架かる醒井大橋を渡る。右へ進むと、JR東海道本線・醒井駅に至る。さらに右手に居醒橋があり、分岐から醒井大橋を右へ進んだ道と合流する。ここは三角地帯になっている。
町並み
西行水

居醒橋を渡らずに直進すると、すぐ左手に西行水がある。左手に祠、奥の右手に西行水がある。背後の岩に数多くの小さな石仏がある。ここの茶店に立ち寄った西行法師が飲み残した茶の泡を、茶店の娘が飲んだところ懐妊し男子を出産した。帰路にこの話を聞いた西行は「もし我が子なら元の泡へ帰れ」と祈り、「水上は 清き流れの醒井に 浮世の垢をすすぎてやみん」と詠んだ。たちまち消えてもとの泡になったという伝説がある湧き水。

西行水からすぐの丁字路右角に「中山道醒井宿」道標があり、醒井宿が終わる。すぐ左手に「霊場松尾寺従是南廿町」道標 がある。旧中山道はすぐの十字路を直進する。

「中山道醒井宿」道標 松尾寺道標
松尾寺道標からすぐの十字路を右折すると、すぐ右手に祠 / 左手に地蔵の祠 と続く。すぐに地蔵川に架かる醒井大橋を渡らずに右へ進んだ道に合流、道なりに進むと突き当りの21号線沿いにJR東海道本線・醒井駅がある。十字路から駅まで5分も掛からない。
地蔵の祠
旧醒井郵便局 松尾寺政所 泡子堂

地蔵川に架かる醒井大橋を渡らずに右へ進むと、すぐ右手に旧醒井郵便局 / 左手に松尾寺政所 / T字路を左折するとすぐ右手に六方焼の泡子堂 と続く。 松尾寺政所は大正2年(1913年)築の料理旅館醒井楼を、昭和27年(1952年)に松尾寺政所としたもの。玄関は、明治36年(1903年)築の醒井尋常高等小学校の玄関を移築したもの。松尾寺は松尾山にあるが、山頂の本堂は昭和56年(1981年)の豪雪により倒壊している。泡子堂から通りに戻り西へ。道なりに北へ進むと突き当りの21号線沿いにJR東海道本線・醒井駅がある。

醒井宿は、晴れた翌日に撮影した画像があります。