中山道69次 No.37 武佐駅-(約14km)-守山銀座西交差点-(約1km)-守山駅
2012年 2月27日(水)09:00 小雨のち晴
武佐駅 住蓮坊首洗池 横関橋 鏡神社 元服の池 桜生史跡公園 背くらべ地蔵 蓮照寺 慈眼寺 東門院 守山銀座西交差点 守山駅
武佐駅 古民家 楠木
若宮神社 長屋門 常夜燈 / 愛宕神号碑(鎮火霊璽)

近江鉄道八日市線・武佐駅から北西へ、左折して踏切を渡る。すぐ前方右手に楠木が見えてくる。楠木の手前右手に若宮神社 / 楠木のところに伊庭貞剛翁生誕の地案内板がある。伊庭貞剛翁は別子銅山を立て直し、住友財閥の中興の祖と云われる。5分ほどすると、右手に常夜燈と鎮火霊璽と彫られた愛宕神号碑がある。

愛宕神号碑からすぐの突当りを右折、西宿町交差点で8号線と合流する。10分ほどの六枚橋交差点を左折して14号線を進む。すぐ右手に題目塔(南無妙法蓮華経)があり、右折する。すぐ左手に「安楽坊 住蓮坊 御墓 是よ里三丁」道標がある。三丁は約327mとなる.。水路に橋があった形跡が残っている。
題目塔(南無妙法蓮華経) 安楽坊墓道標
住蓮坊首洗池

道標からすぐの右手に、住蓮坊首洗池がある。建仁4年(1204年)法然上人の念仏教団が既成教団から疎まれて弾圧を受け、後鳥羽上皇によって法然上人は流罪となる。承元元年(1207年)弟子・住蓮坊は故郷のこの地で処刑される。その首を洗ったと云われる池であるが、現在は干上がったている。池の左手に石碑 / 右手に社がある。

題目塔(南無妙法蓮華経) / 常夜燈 高札場跡 八幡社
分岐

住蓮坊首洗池からすぐ8号線に合流する。5分ほどの白鳥川に架かる千僧供橋を渡ると、左手に題目塔(南無妙法蓮華経)と常夜燈がある。すぐ右手に高札場跡 / 文禄5年(1596年)再建の本殿が重文の八幡社がある。すぐに分岐があり、8号線と分かれ右へ進む。すぐ左手に堂 / 左手に堂 と続く。

宝養寺 日野川舟渡し案内板 常夜灯
川沿いの道
横関橋から日野川舟渡し方向を望む 若宮神社
浄泉寺石柱 石塔・石仏群

8号線の分岐から15分ほどすると、左手に宝養寺がある。5分ほどすると日野川の土手に登り、左折する。平常時は舟渡し / 水量が少ないときは2艘の舟を繋いで渡っていたところで、日野川舟渡し案内板と常夜灯がある。川沿いに5分ほど南東へ進む。右折して横関橋を渡り、すぐに右折して川沿いに北西へ進む。横関の地名は、室町時代にこの辺りに関所があったことに由来する。川沿いを道なりに進む。横関橋から10分ほどのところ、右手に若宮神社 / 左手に浄泉寺石柱 と続く。5分ほどすると、橋の手前右手方向に石塔・石仏群がある。

道標 分岐 町並み

石塔・石仏群から5分ほどすると、西横関交差点で8号線に合流する。交差点の南側に道標がある。正面に「是よりいせみち」 / 右側面に「ミなくち道」と彫られている。以前この道は「水口道」と呼ばれていたと云う。5分ほどすると分岐があり、左へ進む。すぐに鏡の町並みとなる。鏡は鎌倉時代の大きな宿駅であった。江戸時代の中山道には武佐宿と守山宿が置かれ、重要性は薄れた。武佐宿と守山宿の距離が約16kmと長かったため,間の宿の役割を担った。

京屋跡 富田屋跡 石仏群
石塔 / 常夜燈 吉野屋跡 真照寺
枡屋跡 神号碑(愛宕大神) 大願寺
駐在所跡と本陣跡
加賀屋跡 鏡神社
  町並みを進むと、すぐ右手に京屋跡 / 右手に富田屋跡 / 右手に石仏群 / 右手に常夜燈と石塔 / 左手に旅籠吉野屋跡 / 右手に真照寺 / 右手に旅篭枡屋跡 / 右手に神号碑(愛宕大神) / 左手に大願寺 / 右手に駐在所跡と皇女和宮も休憩した本陣跡 / 右手に旅篭加賀屋跡 / 右手に鏡神社 と続く。鏡神社は日本書記に記されている朝鮮半島の新羅国から陶製技術を伝えた天日槍王子を祀った神社。 南北朝時代築の本殿は重文。承安4年(1174年)牛若丸は白木屋に宿泊して元服、源義経と名乗った。源義経が鏡神社に参拝したとき、烏帽子を掛けたと云われているのが烏帽子掛けの松。明治6年(1873年)台風で倒れるが、幹の部分を2.7m残し保存している。左手にある道の駅・竜王かがみの里で昼食を摂る。 
元服の池 石仏
愛宕神号碑(火迺要慎) 石仏 平家終焉の地案内板

道の駅・竜王かがみの里からすぐの右手に、元服の池がある。鏡池と呼ばれていた池で、源義経はこの池の水を用いて元服をしたと云われている。すぐに8号線から分かれ左へ進む。すぐ右手に石仏3基 / 左手に愛宕神号碑(火迺要慎) / 左手に石仏 / 左手に平家終焉の地案内板 と続く。左へ細い道を進むと、平宗盛・平清宗親子の塚がある。平家は壇ノ浦合戦で敗れ、建礼門院 / 平宗盛 / 平清宗 / 平時忠は捕えられる。宗盛・平清宗親子は源義経に連れられて鎌倉へ下ったが、頼朝に追い返される。義経は首を京へ持ち帰るためこの地で宗盛・平清宗親子を斬り、同じ穴に埋めて塚を建てた。

浄勝寺 分岐 古民家
道標 大篠原神社石柱 町並み

平家終焉の地案内板からすぐに8号線に合流する。10分ほどの浄勝寺前交差点の南西側に、浄勝寺がある。交差点右手のフエンス沿いに8号線と並行する道を進む。すぐ左手に大篠原神社への道標 / 左手に大篠原神社石柱 / 左手に堂と中山道案内板 と続く。

双体道祖神 常夜燈 / 愛宕山神号碑 / 常夜燈 篠原神社
地蔵 長屋門 子安地蔵堂
愛宕神号碑 桜生史跡公園 甲山古墳石柱

堂からすぐに8号線に合流する。10分ほどの小堤バス停のところに中山道標識があり、右へ進む。すぐ右手に双体道祖神 / 右手に常夜燈・愛宕山神号碑・常夜燈 / 家棟川に架かる家棟川新橋を渡ると。右手に篠原神社 / 右手に地蔵 / 中山道標識 / 右手に子安地蔵堂 / 左手に愛宕神号碑 / 左手に桜生史跡公園 / 左手に甲山古墳石柱 と続く。

中央池地蔵堂 / 供養塔 / 供養塔

中央池地蔵

稲荷神社 石仏
長屋門 小篠原村庄屋苗村邸跡 養専寺

甲山古墳石柱から10分ほどすると、右手に中央池地蔵堂 / 供養塔 / 供養塔 と並んでいる。すぐ左手にも中央池地蔵がある。5分ほどすると、左手に社殿が8号線を越えたところにある稲荷神社鳥居 / 右手に石仏3基 / 右手に小篠原村庄屋苗村邸跡 / 右手に養専寺 と続く。

養専寺からすぐに東海道新幹線ガードを潜る。すぐの分岐に中山道標識があり、左へ進む。5分ほどの五差路交差点を直進する。横断した右手の野洲小学校前に中山道道標がある。野洲小学校沿いに進むと、すぐの丁字路左手に朝鮮人街道標識がある。朝鮮通信使は中山道を通らせない様に、彦根城下経由で鳥居本宿に至る。この分岐にあった道標は、蓮照寺に保存されている。
中山道道標 朝鮮人街道標識
背くらべ地蔵 不動明王石柱 行事神社
旧中山道は丁字路を直進、すぐの交差点東側に鎌倉時代作の背くらべ地蔵 / 不動明王石柱 / 鳥居に勧請吊りの行事神社 がある。「わが子もこの背の低い地蔵さんくらいになれば一人前」と背比べさせたことから、背比べ地蔵と云われる様になった。
唯心寺 蓮照寺 朝鮮人街道道標
錦織寺道標 領界石
願了寺 十輪院 石塔・石仏群

交差点を横断すると、すぐ左手に唯心寺 / Y字路を右へ進むところに寛永元年(1624年)創建の蓮照寺がある。境内に、朝鮮人街道分岐点から移設された享保4年(1719年)造立の「右 中山道」「左 八まんみち」道標 / 「自是錦織寺迄四十五町」道標 / 「従是北淀領」領界石 がある。すぐ左手に堂 / 左手に願了寺 と続く。JR東海道本線ガードを潜ると、右手に右手に明暦3年(1657年)創建の十輪院がある。境内に「野洲川や 身ハ安からぬ さらしうす」芭蕉句碑があるが、閉ざされて入ることはできない。道を挟んだ左手に、石塔・石仏群がある。願了寺から十輪院まで5分ほどである。

馬路石邊神社参道 古民家 中山道案内板 / 高札場跡
古民家 慈眼寺 明覚寺

十輪院からすぐに野洲川橋北詰交差点で504号線と合流、野洲川に架かる野洲川橋を渡る。当時の野洲川は、舟渡しで渡っていた。野洲川橋を渡り5分ほどすると、右手に白鳳3年(675年)創建の馬路石邊神社参道がある。10分ほどすると、左手に中山道案内板 / 高札場跡 がある。この辺りは吉身といい、古くは吉水郷と称していた。豊かな森林ときれいな水に恵まれた天下の景勝地であった。江戸時代は守山宿の加宿(かしゅく)の役割を果たしていた。五街道や脇往還の宿場で人家が少なく人馬を出しにくい宿場は、隣接する村を加え人馬の用を行わせていた。この宿場に対して、隣接する村を加宿と言っていた。すぐに左手に、帆柱観音として知られる延暦23年(804年)創建の慈眼寺 / 右手に明覚寺 と続く。

中山道69次 67番 守山(もりやま)宿
滋賀県守山市
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳
人口:1700人 家数:415 本陣:2 脇本陣:1 旅籠:30

寛永19年(1642年)中山道67宿の最後の宿場として、制札が与えられた。守山の地名は、比叡山延暦寺の東鬼門を守るために東門院が創建されたことに由来する。比叡山を守る寺ということから、守山寺と名号された。京を出発すると最初の宿泊地で、「京立ち守山泊まり」と云われた。後に東の吉身と西の今宿が加宿となり、「京浪速、江戸の盛り場も物の数ならず」と云われるほどの自由市として繁栄した。
三戸津川(伊勢戸川) 石部道道標 うの家
古民家 天満宮 本陣推定地
井戸 中仙道街道文化交流館

道標

古民家
蛙のオブジェ 東門院

明覚寺からすぐに、吉身宿と守山宿との境界の三戸津川(伊勢戸川)を渡る。三戸津川(伊勢戸川)は冷たく清らかで旅人の飲料水になるとともに、ゲンジボタル発生の川にもなっていた。すぐ左手に石部道道標 / 左手にうの家 / 右手に天満宮 / 左手に本陣推定地と復元された井戸跡 / 中仙道街道文化交流館 / 突当りの変則4差路右角の高札場があったところに延亨元年(1744年)造立の「右 中山道 并 美濃路」「左 錦織寺 四十五町 こ乃者満ミち」道標 / 右手に東門院守山寺 と続く。延暦7年(788年)最澄が比叡山延暦寺を創建したとき、比叡山の東門として設けられたのが始まり。延暦13年(794年)比叡山の根本中堂開闢供養が行われたとき、桓武天皇が御行され「比叡山を守る寺であるから比叡山東門院守山寺と名号されたと云われている。不動堂に不動明王坐像(重文) / 境内に石造五重塔(重文)がある。

東門院からすぐの守山銀座西交差点を左折、146号線を南東に10分程進むと突き当りにJR東海道本線・守山駅がある。