中山道69次 No.35 美江寺駅-(約14km)-垂井駅
2012年12月12日(水)08:05 晴
美江寺駅 美江神社 千手観音堂 千躰寺 鷺田橋 小廉紅園 素戔嗚社 長徳寺 白山神社 赤坂港跡 妙法寺 如来寺 白髭神社 垂井追分 垂井駅
樽見鉄道 道標 美江寺宿名所・遺跡図
樽見鉄道・美江寺駅から南へ、すぐの旧中山道を右折して西へ進む。すぐ右手に道標 / 美江寺宿名所・遺跡図 と続く。道標の正面に「右 岐阜加納ニ至ル」 左側面に「左 北方谷汲ニ至ル」と彫られている。道標と美江寺宿名所・遺跡図案内板の間を右折して北への道は、西国三十三所観音満願札所の谷汲山・華厳寺への谷汲参道。岐阜から赤坂までの旧中山道には、谷汲への道が数多くある。
[参考]谷汲山華厳寺
     
仁王門 参道 おいずる堂の朱印
延暦17年(798年)創建の谷汲山華厳寺(たにぐみさんけごんじ)は、日本最古の観音霊場である西国三十三所観音の結願・満願の寺。本堂の裏手にある“おいずる堂”には、満願のときに笈摺(おいずる) / 朱印 / 千羽鶴 が奉納されている。笈摺は巡礼などが笈を負うとき、衣服の背が擦れるのを防ぐために着る袖なしの単(ひとえ)。最寄り駅は名鉄谷汲線・谷汲駅であったが、平成17年(2005年)に名鉄・谷汲線は廃止になる。現在は、樽見鉄道・谷汲口駅からバス利用となる。
美江寺宿名所・遺跡図からすぐに美江寺大門裏交差点がある。左折すると、右手にある中小学校敷地一帯が美江寺城跡。中小学校沿いに角を右折して進むと、右手の校庭西隅に石垣のモニュメントと松の木が見える。美濃国守護の土岐氏家臣・和田八郎が応仁・文明年間(1467年〜1486年)居館を構えたのが始まりと云われる。土岐頼芸は天文5年(1536年)勅許により正式に守護の座に就いた。天文11年(1542年)和田高行は土岐頼芸と共に斎藤道三と戦い、美江寺城は落城する。その後廃城となる。城跡を囲うように北西隅で鉤の手に中山道が折れている。
 石垣のモニュメント
美江寺一里塚跡 町並み 美江寺観音道道標
高札場跡 美江寺宿道標 美江神社
秋葉神社 高札場 美江寺観音
美江寺大門裏交差点まで戻り、旧中山道を西へ進む。すぐ右手に美江寺一里塚跡 / 右手に美江寺観音道道標 / 美江寺交差点右手に美江神社 と続く。旧中山道に面したところに、高札場跡 / 美江寺宿道標 がある。境内左手に社殿 / 秋葉神社、境内右手に美江寺宿跡案内板 / 復元された高札場がある。奥へ進むと左手に、永禄10年(1567年)織田信長により建立された美江寺観音がある。美江神社は、平安時代の美濃国神名帳によれば正六位上 美江明神となっている。美江寺の鎮守と推測されている。天文8年(1549年)斎藤道三による稲葉山城の築城時に、城の裏鬼門を守護するために移転する。美江明神はこの時に、一時廃れたと考えられている。永禄9年(1566年)美濃国本巣郡十四条村より熊野権現を分祀、熊野権現社となる。慶応4年(1868年)熊野神社に改称、明治14年(1881年)美江神社に改称する。大正3年(1914年)美江寺城址に鎮座していた八幡神社 / 神明神社を合祀する。
美江寺宿本陣跡 開蒙学校跡 古民家
道標 美江寺宿名所・遺跡図 美江寺千手観音堂

美江寺交差点を左折する。すぐ左手に美江寺宿本陣跡 / 通りの反対側に開蒙学校跡 と続く。すぐに右折すると、左手に大正10年造立の道標 / 左手の高札場跡に美江寺宿名所・遺跡図 / 右手に天保4年(1833年)創建の美江寺千手観音堂 と続く。道標の正面に「右 大垣赤坂ニ至ル」 左側面に「左 大垣墨俣ニ至ル」と彫られている。すぐに突き当りに千躰寺があり左折すると、すぐ右手に神明神社がある。

千躰寺  神明神社
長護寺川に架かる朱色の橋 旧中山道道標2基 156号線を潜るトンネル
神明神社から5分ほどすると長護寺川に突き当り、道なりに右へ進む。すぐに156号線と合流、長護寺川に架かる朱色の橋を渡る。すぐ右手のアクアパークすなみ公園に中山道跡地案内板があり、角を右折する。すぐ右手に旧中山道道標が2〜3mの間隔で2基続き、斜め左へ進む。10分ほどすると揖斐川の土手に突き当る。旧中山道は、大正14年(1925年)揖斐川の付替え工事で消滅している。突き当りを左折すると、156号線をトンネルで潜る。すぐに左折して156号線沿いに進む。鋭角に左折して156号線に登り、揖斐川に架かる鷺田(さぎた)橋を渡る。
12月12日は斜め左へ進まず、直進している。雪のためか、2基ある旧中山道道標の1基しか気付いていない。5分ほどすると右手に願照寺がある。すぐに揖斐川の土手に突き当り、左折して10分ほどする旧中山道と合流する。
旧中山道道標 願照寺
良縁寺 白鳥神社鳥居 白鳥神社
即心寺石柱 蓮生寺
鷺田橋を渡り終えると道なりに左へ、歩道橋から呂久町上交差点の南側に降りる。すぐ右手に良縁寺 / 良縁寺前のY字路を右へ進むと白鳥神社鳥居 と続く。鳥居から社殿までは少し距離がある。すぐの突当りを道なりに右へ進むと、左手に即心寺 / 右手に蓮生寺/ 右手に船頭寄・馬淵家 と続く。即心寺石柱の右手に堂がある。奥に本堂らしき民家風建築が見える。慶長15年(1610年)頃、呂久の渡しには13軒の船頭屋敷があった。馬淵家には船頭8人 / 助務7人が置かれていた。
船頭寄・馬淵家
地蔵の祠 / 地蔵堂 / 常夜燈 皇女和宮歌碑 和宮御遺跡
小廉紅園
小廉紅園の池 揖斐川呂久渡船場跡
船頭寄・馬淵家からすぐ左手に、小廉紅園(おずこうえん)がある。呂久川(揖斐川)の渡し場は、天正8年(1580年)織田信長の嫡男・信忠によって設けられた。これが江戸時代の中山道となり、交通の要衝となった。文久元年(1861年)皇女和宮が中山道で江戸に下ったとき、呂久の渡しを利用した。「落ちてゆく 身と知りながら もみじばの 人なつかしく こがれこそすれ」は、皇女和宮が御座船の玉簾の中から馬淵孫右衛門の庭の美しい紅葉を見て詠んだ歌。大正14年(1925年)たびたび氾濫を起こす呂久川を廃川、新たに東側に開削した現揖斐川に付け替えた。これにより、呂久川の渡し場は消滅した。小廉紅園は呂久渡船場跡と馬淵家の庭を利用して昭和4年(1929年)に開園した。皇女和宮歌碑を中心とした日本庭園で、紅葉の名所になっている。である。
神戸町道標 神明神社 下柳原夜警詰所
耕地整理竣工記念碑 地蔵 道標
小簾紅園からすぐ右手に、神戸町(ごうどちょう)道標と神明神社がある。5分ほどすると、右手に下柳原夜警詰所と耕地整理竣工記念碑 / 左手に地蔵 と続く。すぐに平野井川に架かる新橋を渡る。すぐの突き当りを右折、土手沿いの坂を進む。新橋から5分ほどのところの左手に、道標がある。正面に「左 木曽路」 右側面に「右 すのまた宿」と彫られている。

道標からすぐに分岐があり、右へ細い道を下る。すぐの平野井川に架かる柳瀬(やなせ)橋を渡り右折すると、すぐ左手に一里塚跡と神明宮がある。「左木曽路」「右すのまた宿」道標の位置が問題であるが、旧中山道は平野井川に架かる新橋の手前を右折、平野井川に沿って進み、右手にある神明宮と一里塚跡を過ぎ、平野井川に架かる柳瀬橋を渡るのが正しい感じがする。
一里塚跡 神明宮
中山道3回り半道標 素戔嗚社
秋葉神社 長徳寺 聖観音

平野井川に架かる柳瀬橋の南側に戻る。すぐの分岐を標識に従い左へ坂を下ると、左手下に社がある。すぐの分岐を標識に従い右へ進む。5分ほどの分岐を標識に従い右へ進みトンネルを潜ると、すぐ右手に中山道3回り半道標がある。この辺りの道はくねくねと3度も回り西へ進む。中山道標識があり左へ進むと、右へカーブする左手に素戔嗚社がある。5分ほどの三津屋3交差点を過ぎると、左手に秋葉神社 / すぐ右手に長徳寺 / すぐ右手に聖観音 と続く。

中仙道七回り半道標 地蔵 地蔵

聖観音から5分ほどすると、左手に中仙道七回り半道標がある。この辺りの旧中山道は、くねくね何度も曲がりくねっていた。5分ほどすると標識があり右へ進むと、すぐに230号線と合流する。すぐの右にカーブするところを直進、細い道を進む。すぐに「この先行き止まり」標識の十字路がある。左折すると、左手に地蔵がある。十字路に戻り直進すると、すぐに230号線に突き当る。突き当りの右手に地蔵がある。左折して230号線を進む。すぐに養老鉄道養老線の踏切を渡り、菅野川に架かる菅野橋を渡る。5分ほどの分岐は中山道標識があり左へ進む。5分ほどすると左手に白山神社があり、昼食を摂る。

白山神社
一里塚跡 多賀神社 常夜燈道標

白山神社からすぐ左手に一里塚跡がある。すぐの変則交差点を直進すると、すぐ左手に多賀神社 / 合流する三角地帯に道標を兼ねた常夜燈 と続く。

中山道69次 56番 赤坂(あかさか)宿
所在地:岐阜県大垣市
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳
人口:1129人 家数:292 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:17
平安時代から旧杭瀬川は、物資輸送が行われていた。江戸時代に赤坂港が設けられ、盛んに行われた物資輸送は明治時代まで続いた。赤坂港が盛んになると旅人の利便性を考えられ、赤坂宿が設けられた。西国三十三番の満願札所・谷汲山華厳寺の巡礼でも賑わった。
道標を兼ねた常夜燈からすぐに、杭瀬川に架かる赤坂大橋を渡る。宿場通りを進むと前方に火の見櫓が見えてくる。元杭瀬川に架かる橋の手前左手に、赤坂宿御使者場跡がある。赤坂宿御使者場は他の宿の番所や木戸に当たる施設で、宿場の西口にもあった。大名や公家などが通るとき、宿役人や名主たちが見送りや出迎えに来ていた。
火の見櫓 赤坂宿御使者場跡
常夜燈
赤坂港跡 赤坂宿道標
赤坂港跡 浅間神社

元杭瀬川に架かる橋を渡ると、左手に火の見櫓がある。通りの反対側に赤坂港跡がある。平安時代から旧杭瀬川は、物資輸送が行われていた。江戸時代に赤坂港が設けられ、盛んに行われた物資輸送は明治時代まで続いた。明治末期の頃までは、1日数百艘の船が上下していたと云われている。すぐ右手に浅間神社がある。

町並み 赤坂宿道標 本陣跡
町並み 脇本陣跡 五七
赤坂港跡から5分ほどすると、 左手の公園に赤坂宿道標 / 本陣跡 がある。すぐの四ッ辻は、谷汲巡礼街道と伊勢へ通じる養老街道の起点となっている。直進すると、すぐ左手に脇本陣跡 / 左手に赤坂宿が江戸から57番目の宿だったことに因んだ五七 / 左手に妙法寺 / 右手に幕末勤王志士で長州藩遊撃隊参謀・所郁太郎生誕地 と続く。
妙法寺 所郁太郎生誕地
赤坂御使者場跡
兜塚 地蔵の祠
地蔵の祠 善光晝飯憩舊蹟 如来寺

所郁太郎生誕地碑からすぐに、廃線となった西濃鉄道貨物線を横断する。5分ほどすると左手に、関ヶ原決戦前日の杭瀬川の戦いで戦死した武将・野一色田頼母の鎧兜を埋めたと云われている兜塚がある。塚に登るところに赤坂御使者場跡がある。赤坂宿御使者場は他の宿の番所や木戸に当たる施設で、宿場の東口にもあった。すぐ右手に地蔵の祠がある。5分ほどすると、右手に地蔵の祠 / 善光晝飯憩舊蹟石柱 / 昼飯(ひるい)町由来案内看板 / 参道を進むと如来寺 がある。大阪の海で拾いあげられた善光寺如来を長野・善光寺へ運ぶ途中、この辺りで昼飯をとったことから昼飯(ひるめし)と呼ばれるようになった。その後「ひるめし」は下品ということで、「ひるい」と呼ばれる様になった。

町並み 白髭神社 照手姫水汲み井戸道標
照手姫水汲み井戸 円願寺芦竹庵跡

如来寺からすぐに東海道本線を潜る。5分ほどすると、右手に延長寺石柱 / 右手に円興寺石柱 / 右手に白髭神社 と続く。さらに5分ほどすると、左手に照手姫水汲み井戸道標がある。左折すると、すぐ右手に照手姫の水汲み井戸がある。武蔵国と相模国の郡代・横山将監の娘・照手姫と常陸国の国司・小栗判官正清にまつわる伝説で、各地に存在する。この井戸は、照手姫が籠で水を汲んだと云われている。旧中山道を進むと、すぐ右手に円願寺芦竹庵跡がある。円願寺は牛若丸が奥州に落ち延びる時、休憩したところ。旧境内左手に照手姫ものと云われている墓 / 奥に西町集会所 がある。

中山道青墓宿道標 地蔵の祠 常夜燈道標
教覚寺 地蔵の祠祠 一里塚跡

円願寺芦竹庵跡からすぐ右手に、中山道青墓宿道標がある。「青墓」は「大墓」が訛ったと云われている。東山道当時は宿場であったが、赤坂宿が出来ると青墓宿は寂れてしまった。すぐに標識があり、216号線を斜めに横断する。すぐの分岐は228号線と分かれ直進する。5分ほどすると右手に壱切生佛性と記された地蔵の祠がある。さらに5分ほどすると、右手に常夜灯を兼ねた国分寺道道標 / 右手に教覚寺 / 右手に地蔵の祠 / 右手の一里塚跡に常夜灯 と続く。

稲荷社 地蔵の祠 地蔵の祠
御坊道道標 喜久一丸稲荷神社 垂井追分道標

一里塚跡から10分ほどすると、右手に稲荷社 / 右手に地蔵の祠 / 右手の祠に地蔵2基 / 御坊道道標 と続く。15分ほどすると、右手に境内に砲弾が奉納されていると云う喜久一丸稲荷神社がある。すぐに美濃路と中山道の垂井追分がある。三角地地帯の手前に「← 中山道」「→ 美濃道」道標 / 奥に宝永6年(1709年)造立の「是より 右 東海道大垣みち 左 木曾街道たにぐみみち」道標 / がある。

垂井追分道標
垂井追分から右へ、すぐに梅谷川に架かる追分橋を渡る。さらに相川橋袂交差点を左折して、相川に架かる相川橋を渡る。渡り終えると、左手に相川の人足渡跡 / 東の見付跡 と続く。相川は昔から暴れ川で、時々氾濫を起こしていた。橋を架けることが難しく、人足渡しであった。東の見付は宿場の東入口で、西の見付までは766mあった。
相川の人足渡跡 東の見付跡
中山道69次 57番 垂井(たるい)宿
所在地:岐阜県不破郡垂井町
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳
人口:1179人 家数:315 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:27
古くからの主要道で、国府が置れていた。一の宮(南宮大社)の門前町として、美濃地方の中心地であった。江戸時代には美濃路と中山道の追分でますます栄えた。物資の流通が増えたことから、大八車が5街道で初めて使用許可された。参勤交代の大名 / 日光例幣使 / お茶壺 / 善光寺参り / 朝鮮通信使 / 琉球使節などの往来があった。西町 / 中町 / 東町の3町に分かれ、本陣は中町 / 問屋場は3ヶ所あった。毎月5と9の日に南宮神社鳥居付近で六斎市が開かれた。
Y字路を左方向に進むと、突き当りにJR東海道本線・垂井駅がある。