中山道69次 No.34 岐阜駅-(約11km)-美江寺駅
2012年11月23日(金)08:00 雨のち曇り
岐阜駅駅 阿賀多神社 多羅野八幡神社 河渡橋 本田地蔵堂 美江寺駅
中山道標識 秋葉神社 馬頭観音堂
秋葉神社 秋葉神社 加納宿西番所跡
JR岐阜駅から加納栄町通りを南へ進む。中山道標識のあるところを右折、旧中山道を西へ進む。すぐ右手に秋葉神社 / 右手に馬頭観音堂と秋葉神社 と続く。5分ほどすると、左手に秋葉神社がある。境内左手に、通行手形など見せて宿に入る加納宿西番所跡がある。江戸方面に背を向けており、見逃し易い。
地蔵 阿賀多神社 秋葉神社
町並み
加納宿西番所跡から5分ほどすると、左手に阿賀多神社がある。境内入口右手に地蔵の祠がある。5分ほどすると、右手に社 / すぐの左手路地右手に社 と続く。
10分ほど道なりに進むと、清水町2交差点の手前右手に案内地図がある。右折してJR東海道本線高架を潜ると、左手にも案内地図がある。すぐに左折して、さらに斜め方向へ進む。六差路の清本10交差点の南側に出て、六差路の清本10交差点から北西方向へ進む。
案内地図
町並み 秋葉神社 / 多羅野八幡神社 / 天満神社
 
乙津寺石柱 古民家
六差路の清本10交差点から道なりに進む。突き当りを左折、六差路の清本10交差点から10分ほどすると鹿島町8西交差点がある。横断すると右手角に秋葉神社(左) / 多羅野八幡神社(中央) / 天満神社(右)が並んでいる。10分ほどすると鏡島前川南交差点を横断、論田川沿いに進む。さらに5分ほどの突当りを左折する。ここは岐阜道追分で、右手から合流するのが岐阜道。すぐ右手に「右は神社です」の立て看板がある社 / すぐ右手に乙津寺石柱 と続く。10分ほどすると、神明社鳥居手前の右手に社 / 神明社 と続く。
神明社
神明社から5分ほどすると、右手に北野神社がある。さらに5分ほどすると、右手に地蔵堂がある。
北野神社 地蔵堂
河渡の渡し場は終戦まであったが、河渡橋ができて廃止になった。旧中山道は直進して河渡の渡し場へと通じていたが、道は途切れている。
地蔵堂 馬頭観音堂

地蔵堂から右方向へ進み、長良川の土手に登る。長良川沿いの道を南西へ進み、すぐの河渡橋東交差点を横断する。長良川に架かる河渡橋を渡る。対岸の左手にある階段を下り、長良川方向にUターンする。土手に突き当り右折、長良川沿いの道を進む。ここから宿場通りまで、幾度も迷っている。右へ分岐する細い道を進むと、すぐに左手の土手に社が見えてくる。社を左に見てその先を右折して坂道を下ると、地蔵堂と馬頭観音堂がある。

天保13年(1842年)荷駄役人足が銭100文づつを出し合い、道中家内安全 / 五穀豊穣を祈願して愛染明王を祀るため六間四面の愛染堂を建立した。明治24年(1891年)濃尾地震で倒壊、また大洪水で流失したりしている。現在の堂は、昭和59年(1984年)に再建されたもの。縁起では愛染明王になっているが、どの様な経緯で馬頭観音になったか不思議である。

中山道69次 54番 河渡(ごうど)宿
所在地:岐阜県岐阜市
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳
人口:272人 家数:64 本陣:1 脇本陣:0 旅籠:24

加納宿から河渡宿へは、長良川を渡る河渡りの渡しがあった。河渡橋が架けられるまで利用されていた。文化12年(1815年)長良川の大洪水では、宿場全体を土盛りして嵩上げした。長良川右岸堤下から東町 / 中町 / 西町の三町で構成されるが、330mという短い宿場であった。戦災で宿場は全て焼失している。
河渡宿一里塚跡
地蔵堂と馬頭観音堂の反対側、左手角に道標があり左折する。道なりに長良川沿いの道を進むと、すぐ右手に河渡宿道標と社があり右折する。宿場通りを進むと、すぐ右手に河渡宿一里塚跡がある。中山道河渡宿石柱の左側面に、一里塚跡と彫られている。河渡宿案内板 / 戦災で欠け落ちた松下神社由来碑 / 社 などがある。河渡宿は、東の長良川 / 西南の糸貫川 / 北の根尾川 に囲まれた低地で水害を受けていた。文化12年(1815年)長良川の大洪水では、宿場が絶える危機にさらされた。時の代官・松下内匠は宿場全体を土盛りして嵩上げした。此の功績に村人は感謝、松下神社を創建した。
地蔵堂 本田地蔵堂 秋葉神社
町並み 本田代官所跡
河渡宿一里塚跡から5分ほどすると、天王川に架かる慶応橋を渡る。25分ほどすると、右手に地蔵堂がある。すぐの糸貫川に架かる糸貫橋を渡ると、左手に文化6年(1809年)造立の地蔵がある本田(ほんでん)地蔵堂 / 右手に秋葉神社 / 右手に社 / 右手に寛文10年(1670年)〜明和7年(1770年)に置かれた本田代官所跡 / 右手に高札場跡と続く。
高札場跡
中山道69次 55番 美江寺(みえじ)宿
所在地:岐阜県瑞穂市美江寺
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳
人口:582人 家数:136 本陣:1 脇本陣:0 旅籠:11
美江寺の地名は、「美しき長江のごとくあれ」と養老3年(719年)美江寺が創建された事に始まる。天文8年(1549年)斎藤道三による稲葉山城の築城時に、城の裏鬼門を守護するために移転する。東の長良川・河渡の渡しと、西の揖斐川・呂久の渡しの中間にある宿場。徳川幕府により中山道が整備される前から、天正17年(1589年)豊臣秀吉の命で問屋場が設けられていた。脇街道や往還の荷駄中継ぎの場所になっていた。江戸時代になって中山道が整備され、寛永14年(1637年)公式に宿場となった。本陣は寛文9年(1669年)に開設されたが、脇本陣は置かれることはなかった。明治24年(1891年)濃尾大地震で、宿場は全壊している。
高札場跡から5分ほどすると、五六川に架かる五六橋を渡る。美江寺宿の入り口にあたり、江戸日本橋から56番目の宿であるため五六川と名付けられた。10分ほどの美江寺宮前町交差点の先に、樽見鉄道の踏切がある。踏切を渡り線路沿いに北へ進むと、すぐに樽見鉄道・美江寺駅がある。美江寺駅から大垣駅へ向かう。