中山道69次 No.13 軽井沢駅-(約15km)-御代田駅
2011年11月26日(土) 09:30 晴
軽井沢駅 長倉神社 秋葉神社 遠近宮 追分の一里塚 浅間神社 堀辰夫記念館 分去れ 温水池 山の神神社 御代田一里塚 御代田駅
電話ボックス 並木道 石仏群
軽井沢駅から北へ進む。25分ほどすると、変則十字路がある。電話ボックスを廻り込む様に鋭角に左折して、旧中山道を南西へ進む。変則十字路から15分ほどすると、6本の道路が交差している六本辻交差点に出る。25分ほどすると、右手に庚申塔や地蔵など大小7基の石仏がある。

石仏群から15分ほどすると、18号線と合流する。旧中山道は18号線を斜めに横断していたが、現在は道が消滅している。5分ほどすると右手に地蔵 / さらに10分ほどすると右手に馬頭観音がある。10分ほどすると左手に公園があり、早目の昼食を摂る。

地蔵 馬頭観音
昼食後に道を確認すると、間違いに気付く。旧中山道は軽井沢中前信号を左折する。しなの鉄道の踏切を渡ると十字路があり、消滅した旧中山道と交差する。右折して西へ進むと、18号線に至る様である。

中山道69次 19番 沓掛(くつかけ)宿
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳
人口:502人 家数:166 本陣:1 脇本陣:2 旅籠:17

古代の長倉牧の跡と云われ、草津温泉へ分岐路もあった。明治8年(1875年)借宿村との合併により長倉村、明治22年(1889年)軽井沢村・峠町などと合併して東長倉村となる。軽井沢が避暑地として著名となったために、大正12年(1923年)町制施行時に軽井沢町と改称する。中軽井沢駅前交差点を東西に5町(550m)で、賑わっていた宿場ではなかった。昭和26年(1951年)の大火で町の殆どを焼失、当時の面影はない。明治43年(1910年)開業した沓掛駅は、昭和31年(1956年)中軽井沢駅に改称される。地名も中軽井沢に改称され、沓掛の名前が消える。馬や牛のわらじを“沓”といい、坂道にさしかかるところで“沓”を取替えていた。旅の安全を祈って、その“沓”を木などに“掛けた”という由来からきている。

浅間山 長倉神社 沓掛宿石柱
道標を兼ねた石仏 18号線と分岐

昼食を摂った公園から5分ほどすると湯川を橋で渡る。右手に案内板があり、右折して川沿いに進むと右手に式内社の長倉神社鳥居がある。湯川に架かる朱色の橋から、浅間山が望まれる。旧中山道に戻ると右角に、中山道沓掛宿石柱 / 長倉公園案内図 / 社がある。中軽井沢交差点を左折すると中軽井沢駅がある。中山道沓掛宿石柱から10分ほどの右手に、寛政10年(1798年)造立の道標を兼ねた石仏がある。側面に“くさつへ”と彫られている。この辺りまでが宿場通りで、すぐに旧中山道は坂の左側の道を進む。

道祖神 双体道祖神 地蔵
馬頭観音 不明の石仏 / 馬頭観音 / 地蔵 二十三夜供養塔
浅間山 秋葉神社

分岐からすぐ右手に、道祖神と双体道祖神がある。旧道らしい雰囲気の道を10分ほど進むと、右手に地蔵 / 右手に馬頭観音 / 右手に3基の石仏(不明の石仏 / 馬頭観音 / 地蔵) / 右手に二十三夜供養塔 / 右手に秋葉神社と続く。この辺りは佐久地方最古の集落“古宿”と云われている。信州と上州を結ぶ物流中継基地として、多くの牛馬で運搬した。そのため多くの馬頭観音が造立されている。 

馬頭観音3基 馬頭観音 供養塔 / 地蔵 / 地蔵 / 庚申塔
秋葉神社から15分ほどすると、右手に馬頭観音3基 / 右手に馬頭観世音 / 右手に石仏4基(百八十八番巡礼供養塔 / 地蔵 / 地蔵 / 庚申塔)と続く。すぐに18号線と合流する。
分岐 馬頭観音 遠近宮
西長倉村道路元標 古民家 杉玉が下がる古民家

すぐに分岐があり、平坦な道の左側の歩道を直進する。ガードを潜ると左手からの道とXに交差、左へ進む。5分ほどすると、左手に馬頭観音がある。角を左折すると女街道で、油井釜ヶ淵橋〜風越山〜地蔵ヶ原〜和美峠または入山峠を往来していた。江戸時代の関所は“入り鉄砲”と“出女”の取締が厳しかった。女人は厳しく取り締まる関所を避け、女街道と云われる裏街道を通る様になった。この辺りから間の宿(あいのしゅく)・借宿へ入る。5分ほどすると右手に、遠近宮(をちこちのみや)がある。伊勢物語の在原業平の歌「信濃なる浅間の山に立つ煙 遠近人のみやはとがめん」に因んで名付けられたと云われている。すぐ右手に、西長倉村道路元標がある。

馬頭観音 馬頭観音3基 馬頭観音
道標 標高1003m標識 追分の一里塚跡(北側)
追分の一里塚跡(南側) 常夜灯 浅間神社

西長倉村道路元標から5分ほどすると、右手に馬頭観音がある。左奥にも馬頭観音が3基並んでいる。さらに5分ほどすると、右手に馬頭観音がある。すぐに18号線と合流、右手に道標がある。判読できないところもあるが“従是左上州 くさつ………道”と彫られており、草津など上州へ行く街道の道標。10分ほどすると、右手に“標高1003m”の標識がある。すぐに追分の一里塚跡が左右にある。旧中山道は18号線から別れ、右へ進む。追分の一里塚跡から5分ほどのところ、右手に常夜灯 / 右手に浅間神社と続く。浅間神社本殿は、軽井沢町最古の室町時代初期様式。

中山道69次 20番 追分(おいわけ)宿
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町追分
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳
人口:712人 家数:103 本陣:1 脇本陣:2 旅籠:35

古代より交通の要衝地であり、宿の西はずれにある北国街道との分岐点として賑わう。“追分”の地名は、この分岐点に由来する。元禄年間(1688年〜1703年)には、旅籠71 / 茶屋18 / 商店28を数え、飯盛り女が200人以上居たと云う。民謡に多く見られる、追分節の発祥の地。
堀辰夫文学記念館門 古民家 高札場
諏訪神社鳥居 中山道追分宿石柱 泉洞寺駐車場看板
追分升形の茶屋案内板 追分宿交差点 分去れ(左:旧中山道 / 右:北国街道)

浅間神社から5分ほどすると、左手に堀辰夫文学記念館がある。門は移築された追分宿本陣門(裏門)。堀辰夫は明治37年(1904年)東京に生まれ、昭和初期に活躍した作家。大正12年(1923年)19歳の時に軽井沢を訪れて以来、軽井沢を舞台とした数々の作品を残している。昭和19年(1944年)からは追分に定住、昭和28年(1953年)49歳で亡くなる。5分ほどすると、右手に復元された高札場 / 右手に諏訪神社鳥居 / 右手に中山道追分宿石柱 / 右手に慶長3年(1598年)創建の泉洞寺と続く。5分ほどすると右手に追分升形の茶屋案内板があり、すぐに追分宿交差点で18号線と合流する。すぐに追分宿の西はずれにあたる北国街道との分岐点“分去れ”がある。

浅間の焼石 道標 温水池

“分去れ”からすぐに旧中山道の標識があり、左へ進む。右手に約900年前の浅間大噴火の時の焼石や道標がある。30分ほどすると軽井沢町から御代田町に入り、左手に人工池の温水池と千ヶ滝湯川用水陽水路がある。温水池と千ヶ滝湯川用水陽水路は、慶安3年(1650年)開削された約16里(約65km)の御影用水が始まり。浅間山の山麓で火山の軽石などが多いために漏水がひどく、何度も改修をしている。現在のものは、戦後に約21kmに渡り改修されたもの。浅間山の雪解け水や湧水を水源としている。稲作には水温が低すぎるので、水温上昇のために幅20m・長さ934mの温水池が造られた。

山の神神社
御代田一里塚(東塚) 御代田一里塚(西塚)

温水池から30分ほどすると、右手に山の神神社がある。さらに5分ほどすると、右手に“御代田一里塚入口”の標識がある。右折して小路を進むと、右手に御代田一里塚がある。旧中山道は慶長7年(1602年)に整備され、さらに寛永12年(1635年)に改修される。改修前に造成された御代田一里塚は、改修後の旧中山道から離れてしまった。

坂を下ると、しなの鉄道の線路に突き当る。地下道を潜り、反対側に出る。旧中山道はすぐの栄町交差点を南西へ進む。右折して西へ進むと、右手にしなの鉄道・御代田駅がある。