中山道69次 No.12 横川駅-(約13km)-軽井沢駅
2007年 8月 5日(日) 晴のち雨 横川駅→軽井沢駅
2011年10月23日(日) 晴    軽井沢駅→横川駅
横川駅 横川茶屋本陣跡 碓氷関所跡 薬師坂 坂本八幡宮 旧中山道 熊野神社 軽井沢駅
おぎのや 庚申塔 不明の石塔
馬頭観音 六三郎三百五十一回塔 二十三夜塔
JR横川駅から北へ、左手におぎのや本店がある。旧中山道を左折して西へ進む。矢野沢橋の手前右手に、庚申塔 / 不明の石塔 / 馬頭観音 / 六三郎三百五十一回塔 /  二十三夜塔 / 不明の石塔 / 庚申塔 が並んでんいる。
不明の石塔 庚申塔
横川茶屋本陣跡 諏訪神社 碓井関所東門跡
碓氷関所スタンプ
通行手形 碓氷関所東門
矢野沢橋を渡ると、すぐ右手に横川茶屋本陣跡 / 右手に諏訪神社 / 右手に碓井関所東門跡 / 右手に碓氷関所跡と続く。碓氷関所は、昌泰2年(899年)碓氷峠の刎石山に、群盗取締のため設置されたのが始まり。元和年間(1615年〜1623年)“入り鉄砲に出女”の取締のためこの地に移される。 明治2年(1869年)に廃止されるまで、 中山道の要所であった。碓氷関所には関門が東西にあり、西門は江戸幕府 / 東門は安中藩の管轄であった。番所跡にある門は復元された東門で、門柱 / 門扉などは当時のものを使用している。ボランティアの方の説明があり、実際に使用された通行手形(コピー)が貰える。
薬師坂石柱 薬師堂
古民家 水神宮 中山道坂本宿標柱
碓氷関所跡から坂道を下ると、廃線となった信越本線ガードを潜る。18号線と合流、大きく左に曲がるところに、薬師坂石柱がある。薬師坂を進むと、すぐ左手に薬師堂 / 薬師の湧水に祠と続く。すぐに18号線と合流する。5分ほどすると、上信越自動車道高架手前の左手に水神宮がある。上信越自動車道高架下を過ぎると、すぐ左手に中山道坂本宿標柱がある。下木戸があったところである。
中山道69次 17番 坂本宿
所在地:群馬県安中市
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳
人口:732人 家数:732 本陣:2 脇本陣:2 旅籠:
40
坂本宿は寛永2年(1625年)碓氷山麓に付近の住民を移住させ、新規に設置された。道幅14.8mの中央に巾1.3mの用水が流れ、道の両側には160軒の家々が立ち並んでいた。難所の碓氷峠と厳しい碓氷関所を通り抜ける旅人で、宿場は賑わったと云う。

古民家 佐藤本陣跡 坂本小学校発祥の地
永井脇本陣跡 旅籠かぎや 橋供養塔
石柱 中山道坂本宿標柱 芭蕉句碑
中山道坂本宿標柱から5分ほどすると、左手に佐藤本陣跡 / 坂本小学校発祥の地がある。すぐ右手に永井脇本陣跡 / 旅籠かぎやがある。宿場通りはずれの上木戸跡に、中山道坂本宿標柱があある。手前右手に、文政5年(1822年)造立の橋供養塔と“常夜”と彫られた常夜灯の残骸らしき石柱がある。すぐ右手に、刎石山頂から移設された芭蕉句碑 / 坂本八幡宮と続く。 
坂本八幡宮
18号線は右に曲がる。旧中山道はここから浄水場脇の細い道を直進、道なりに浄水場脇道を進む。 18号線の法面を道なりに左へ進む。階段を登りが、18号線を渡ると登り口がある。実際には見逃して、18号線を進んでいる。レンガ造りの眼鏡橋への標識を過ぎると、右手に旧中山道の登り口がある。旧中山道標柱と案内看板がある。坂本八幡宮から15分ほど掛る。
旧中山道標柱
旧中山道標柱から約5分 峰番所案内板辺り 柱状節理岩
南無阿弥陀仏 大日 馬頭観音
不明の石塔 刎石坂 上り地蔵下り地蔵案内板辺り
旧中山道の登り口から、碓氷峠・熊野神社まで8km余の行程となる。街道と言うよりは登山道である。10分ほどすると、堂峰番所案内板がある。さらに25分ほどすると、“柱状節理岩”の塊りがある。火成岩が冷却・固結するとき、亀裂を生じ四角または六角に割れたものである。すぐに南無阿弥陀仏 / 大日 / 馬頭観音 / 不明の石塔が並んでいる。石だらけの刎石坂を進むと、“上り地蔵下り地蔵”の案内板がある。地蔵がどこにあるのか解らない。
馬頭観音
覗からの坂本宿 風穴
風穴の案内板辺り 弘法の井戸 刎石茶屋跡
碓井坂の関所跡 熊野神社6.4km道標辺り 堀切
“上り地蔵下り地蔵”の案内板からすぐに、覗がある。視界が少し開けており、坂本宿を見下ろせる。さらに、馬頭観音や風穴がある。風穴とは、溶岩の裂け目から水蒸気で湿った風が吹く出している穴。5分ほどすると右手に、冷たく気持ち良い弘法の井戸がある。5分ほどすると刎石(はねいし)茶屋跡がある。刎石茶屋跡と四軒茶屋跡の案内板が並んで立っている。刎石山の頂上(800m)で、四軒の茶屋があったところ。すぐに昌泰2年(899年)群盗取締のため設置された碓井坂の関所跡と、東屋がある。5分ほどすると、道の両側がが狭く掘り切られて狭くなっている堀切がある。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めで、北陸・信州軍を松井田城主・大導寺政繁が防戦防戦した古戦場跡。
南向き馬頭観音 北向き馬頭観音 座頭ころがしの坂
廃車体 栗が原から15分辺り 馬頭観音
掘切からすぐに南向き馬頭観音案内板がある。山賊も出たと云われている険しい切通の両端に、南向馬頭観音と文化15年(1818年)造立の北向馬頭観音がある。すぐに一里塚案内板がある。慶長以前の旧道(東山道)があり、一里塚が造られていると云う。10分ほどすると座頭ころがし案内板がある。岩や小石がごろごろしている急な坂道になる。続いて湿った赤土となり、滑りやすいところである。5分ほどすると、道端に乗用車が捨てられており、栗が原案内板がある。明治天皇巡幸道路との分岐点だったところで、明治8年群馬県最初の“見回り方屯所”があった。これが交番の始まりと云われている。30分ほどすると、右手に馬頭観音がある。
山中茶屋跡辺り 廃車体 道標
仁王門跡 思婦石 道標
馬頭観音から5分ほどすると、山中茶屋跡がある。寛文2年(1662年)には13軒の立場茶屋や寺があったところである。道端に乗用車が捨てられている。山中茶屋から子持山(1107m)の山麓を通り、陣馬が原までの坂が山中坂である。急な坂ではないが、いつまでも続く長い坂で疲れる。坂本宿から登ってきた旅人は、山中茶屋で腹ごなしをしてから登った。山中茶屋の繁栄はこの坂にあったと云える。30分ほどすると、古戦場と云われている陣馬が原に着く。陣馬カ原から下りとなり、30分ほどすると霧積温泉の分岐がある。「熊野神社1.2km 坂本宿7.6km 霧積温泉6.0km」の道標がある。15分ほどすると、左手に碓氷貞光の父を祀った碓氷貞兼霊社案内板 / 右手に仁王門跡 / 安政4年(1857年)造立の思婦石 / 賑やかな道標と続く。仁王門は寛文2年(1662年)旧軽井沢に移転した神宮寺仁王門で、明治維新のときに廃棄される。
   
熊野皇大神社絵馬
熊野神社鳥居 熊野神社拝殿
左折して舗装された道を進むと、右手に景行天皇40年(110年)創建と云われている熊野神社の鳥居がある。参道石段に県境がある。拝殿は左側が長野県側の熊野皇大神社、右側が群馬県側の熊野神社になっている。第二次世界大戦後に宗教法人法が制定され、都道府県ごとに宗教法人の登記がされることになった。ひとつの神社でありながら、別々の宗教法人となった。宮司 / 社務所 / 賽銭箱 / お守り / 祈祷も別々になっている。古代の東山道は南方の入山峠を通っており、碓氷峠経由の旧中山道が開通した時に、現在地に遷座したとも云われている。江戸時代は中山道の要所にあることから賑わった。
群馬県側からの旧中山道は、安政遠足(あんせいとおあし)で整備され残されている。安政遠足は安政2年(1855年)安中藩が藩士の鍛錬のために、安中城から碓氷峠・熊野権現まで7里余り(約29km)の旧中山道を徒歩競走させた。現在も安政遠足侍マラソンとして、毎年5月第2日曜日に開催されている。日本のマラソンの発祥の地と云われている。長野県側の旧中山道は、ほとんど消滅している。碓氷遊覧歩道か、明治天皇巡行道で明治11年(1878年)に改修された133号線を下ることになる。熊野神社から南西へ見晴台方面に進むと、左手にフェンスに囲まれた“旧中山道碓氷峠道跡”がある。
旧中山道碓氷峠道跡
見晴台の門 碓氷遊覧歩道入口 見晴台眺望
見晴台の門から坂を登ると、すぐ右手に碓氷遊覧歩道入口がある。見晴台からの眺望は素晴らしい。広場に長野県と群馬県の県境がある。古代の東山道は南方の入山峠を通っており、万葉歌碑にある“宇須井の坂”は入山峠になる。
県境 万葉歌碑
碓氷遊覧歩道を進む。道標がところどころにあり、迷うことはない。途中でほとんど撮影することもなく、熊出没注意看板がある山道をひたすら鈴を鳴らして下る。吊り橋を渡り軽井沢別荘地を抜けた頃に、雲行きが怪しくなり雷も鳴り始める。133号線と合流、10分ほどすると二手橋がある。
軽井沢別荘地手前の吊り橋 133号線と合流
レトロなバス  二手橋 芭蕉句碑
133号線には、見晴台行きのレトロなバスが走っている。矢ヶ崎川に架かる二手橋を渡る手前から平坦な道になる。左手に天保14年(1843年)造立の芭蕉句碑があり、軽井沢宿に入る。
中山道69次 18番 軽井沢宿
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳
人口:451人 家数:119 本陣:1 脇本陣:4 旅籠:21
中山道有数の難所であった碓氷峠の西の入口にあたる宿場。旅籠は最盛期に100軒もあり、数百人の飯盛女が働いていたと云われている。宿場の東にある矢ヶ崎川にかかる二手橋は、旅人と飯盛女が別れを惜しんだ場所。明治時代後半に欧米人宣教師により避暑地として紹介され、別荘地や観光地に変貌する。
神宮寺 軽井沢観光会館 諏訪神社
芭蕉句碑から10分ほどすると、右手に寛文2年(1662年)碓氷峠から移転した神宮寺がある。すぐ左手に軽井沢観光会館、その先の十字路に諏訪神社の案内看板があり左折する。突き当りを右に、すぐに左折すると左手に諏訪神社がある。
旧中山道に戻り、南西へ進む。旧中山道は変則十字路を直進する。昭和37年(1962年)に廃止された草軽電気鉄道の軽井沢駅は、銀座通りの入口辺りにあった。線路は三笠通りを北上して三笠駅へと向かっていた。三笠通りの上下線に段差があり、下り車線は線路があったところ。

駅舎旧軽井沢売店

電話ボックス
変則十字路を南へ進むと、突き当りに軽井沢駅がある。横川駅へのバスは渋滞で遅れ、さらに雷雨となる。
旧軽井沢駅舎記念館 10000形(EC40) EF63 2
軽井沢駅北口の西側に、旧軽井沢駅舎記念館(有料施設)がある。新幹線開業まで使用された明治43年(1910年)に改築された駅舎。 旧1番ホームに、明治26年(1893年)に開通した横川駅・軽井沢駅間で活躍した、10000形(EC40)とEF63 2が展示されている。横川駅・軽井沢駅間の碓氷峠は当時の国鉄線最急勾配で、アプト式蒸気機関車が使用されていた。26ヶ所のトンネルがあり運転速度も遅かったため、乗務員や乗客は煤煙に苦しめられた。この状況を改善するために電化されることになり、明治45年(1912年)10000形電気機関車がドイツから輸入される。老朽化と後後機の投入により、昭和11年(1936年)に全車が廃車される。EF63はアブト式から通常の粘着運転をするために開発された碓氷峠専用の補助電気機関車で、“峠のシェルパ”の愛称がある。昭和38年(1963年)新線に切り換えから、新幹線開業による横川駅・軽井沢駅間廃止まで活躍する。横川駅で高崎駅側に機関車を2両連結、客車や電車の双方に対応できる様に軽井沢側には双頭型両用連結器を装備する。
旧軽井沢駅舎記念館の野外に、大正4年(1915年)〜昭和37年(1962年)軽井沢と草津温泉を結んでいた軽便鉄道・草軽電気鉄道の機関車デキ13が展示されている。
草軽電気鉄道デキ13
寄り道:遊歩道アプトの道
碓井湖
碓井第3橋梁 碓井第3橋梁
旧中山道の登り口からさらに18号線を進むと、左手に坂本ダムで塞き止められた碓井湖が見えてくる。25分ほどすると、右手にレンガ造りの碓井第3橋梁(眼鏡橋)がある。晴天の青空にアーチが映える。橋まで登ると右手に6号トンネルがあるが、通行はできない。碓井第3橋梁(眼鏡橋)を渡り、信越本線のアプト式旧線跡を横川駅方面に進む。
アプト式はラック式鉄道の1つで、碓氷峠では3組のラックピニオンを120度ずらして使用していた。明治26年(1893年)に開通、昭和38年(1963年)に新線に切り換えられるまで使用された区間である。画像は碓井峠鉄道文化村に保存されているもの。
アプト式
新線橋梁跡 第5号トンネル 4号トンネルから3号トンネル
碓井湖 旧丸山変電所 碓井峠鉄道文化村

左手に平成9年(1997年)長野新幹線の開業により廃線になった、新線橋梁跡が望める。第5号トンネルはオレンジ色の照明で幻想的である。4号トンネルから3号トンネルと進むと、右手に往路にも見た碓井湖が望める。2号トンネル〜第2橋梁〜1号トンネルと進むと、廃止された信越本線新線の下り線を利用した、碓井峠トロッコ列車線・とうげのゆ駅がある。軽井沢方面は、線路が草に覆われている。ここから横川駅方面へは、新線の上り線が線路を撤去されずに舗装されている。まるやま駅には、レンガ造りの旧丸山変電所(重文)がある。碓井峠鉄道文化村脇を通り横川駅に至る。