中山道69次 No.11 松井田駅-(約8km)-横川駅
2011年 9月 4日(日)09:45 曇り
松井田駅 崇徳寺 不動寺 本照寺 補陀寺 五料の茶屋本陣 碓氷神社 横川駅
JR信越本線・松井田駅より北西へ、道は途中で大きく曲がり南東方向に進む。左手に昭和25年(1950年)造立の供養塔と宝暦10年(1760年)造立の不明の石塔が並んでいる。不明の石塔には“禅定門”が読み取れる。弘治3年(1557年)からたびたび上州に侵攻した武田信玄を翻弄した箕輪城主・長野業政の法名が“普世眼禅定門”で、因果があるのかも知れない。松井田を領した安中氏は、箕輪城の長野業政に属していた。永禄4年(1561年)長野業政は71歳で没する。次の長野業盛のとき、永禄9年(1566年)武田信玄の攻撃を受けて落城、長野氏は滅亡する。下町南交差点を左折して北東へ進む。下町交差点を左折して旧中山道を西へ進む。
供養塔 / 不明の石塔

中山道69次 16番 松井田宿
所在地:群馬県安中市
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳
人口:1009人 家数:252 本陣:2 脇本陣:2 旅籠:14

井田は、江戸時代に宿場が成立する以前から松井田の庄として開けていたところ。戦国時代には関東の守りの最前線という役割を担っており、天文20年(1551年)松井田城が築城されている。旅籠は14軒と少ない。これは日があるうちに面倒な碓氷関所を越しておきたいと、松井田宿に泊まらず通過する旅人が多かったため。宿場は“米宿”とも呼ばれ、信州の米が集められ江戸へと運ばれていた。
町並み 崇徳寺
古民家 不動寺 不動寺石塔婆

下町交差点を越えた辺りが、下木戸があったところ。5分ほどすると、左手に崇徳寺がある。西上州観音14番札所になっている。本堂手前左手の観音堂に、“上野国14番”と書かれた古い額が掛っている。5分ほどすると仲町交差点があり、右折して北へ進む。5分ほどすると突き当りに不動寺への標識があり、左折する。右手に寛元元年(1243年)創建の不動寺が見えてくる。仁王門手前左手に、観応3年(1352年)造立の石塔婆が3基並んでいる。大きな自然石に、板碑様式の仏種子や文字を彫った珍しいもの。関東四国八十八ヶ所2番札所 / 北関東三十六不動4番札所 / 新上州三十三観音21番札所になっている。

まちなかにぎわい広場 古民家 本照寺
古民家 観音堂 安中市松井田商工会

不動寺から南へ進むと旧中山道に至るが、往路を仲町交差点まで戻る。旧中山道を西へ進むと、すぐ左手に“中山道松井田宿 まちなか にぎわい広場”があり、休憩できる様になっている。すぐ左手に、詳しい松井田宿の案内地図がある。10分ほどすると、右手に本照寺がある。すぐ左手に森先町住民センターの標識があり、左折すると突き当りに観音堂がある。この辺りが上木戸があったところ。

古民家 庚申塔 不明の石塔
補陀寺
道祖神 / 不明の石塔 妙義山

観音堂から10分ほどすると、右手に庚申塔と不明の石塔が並んでいる。西松井田駅前交差点を過ぎると、すぐ右手に応永年間(1394年〜1428年)創建の補陀寺がある。境内には天正10年(1582年)〜天正18年(1590年)松井田城主だった大導寺政繁の墓がある。すぐ右手に、松井田警察署が見えてくる。旧中山道は手前を左折して、細い道を進む。右手に道祖神と不明の石塔が並んでいる。正面に妙義山を見ながら、道なりに進む。旧中山道は、信越本線の踏切を渡る。道が途中で消滅しているので、踏切を渡らず線路沿いに進む。 道なりに第十中山道踏切を渡る。反対側の線路沿いを進み、さらに18号線沿いに進む。

不明の石塔 消滅した旧中山道から続く道 地蔵
 
不明の石塔 常夜燈 / 不明の石塔 二十三夜塔
第十中山道踏切から5分ほどすると、右手に18号線を潜る五料第一地下道がある。手前を左折すると、すぐ右手に不明の石塔がある。左手から消滅した旧中山道から続く道と合流、右折する。右手の大きな岩の上に、小さな地蔵がある。18号線と合流する手前右手に不明の石塔、少し離れたところに常夜燈と不明の石塔がある。18号線を進み上信越道高架下を潜り、すぐに右折する。上信越道沿いに進みさらに左折すると、右手のフェンス際に二十三夜塔と庚申塔が並ぶ。
庚申塔
二十三夜

18世紀後半から昭和初期に掛けて広まった、月を対象とした信仰。各地で講が組織され、月待ちの行事が行われた。月待ち供養のために造立されたのが、二十三夜塔。月は勢至菩薩の化身であると信じられていた。勢至菩薩は、阿弥陀三尊の右脇侍。智慧の光を持ってあらゆるものを照し、衆生に地獄・餓鬼界へ落ちない様に導く菩薩とされる。

高札場跡  五料の茶屋本陣お東 五料の茶屋本陣お東 
五料の茶屋本陣お西 五料の茶屋本陣お西 五料の茶屋本陣お西

旧中山道を進むと、すぐ右手に高札場跡がある。右折して信越本線“お東踏切”を渡ると、“五料の茶屋本陣お東”がある。左へ進むと、“五料の茶屋本陣お西”がある。“五料の茶屋本陣お西”の門から入館(有料施設)できる。茶屋本陣とは、江戸時代の大名や公家が休憩や昼食をした名主屋敷。本陣の様な宿泊施設ではない。五料の茶屋本陣は2軒あり、両家とも中島姓であったため“お西”“お東”と呼んだ。慶長6年(1601年)の記録によると、すでに両家とも五料村の代々名主役(二人名主制)を勤め、天保7年(1836年)以降は一年交代で名主役を勤めている。現在の建物は、両家とも文化3年(1806年)再建されたもの。昼食を摂る。 

入館券

湘南色115系

道祖神 アブト式ラックレール
 
道祖神
石塔群 / 青面金剛 馬頭観音 / 道祖神 / 地蔵 / 夜泣き地蔵
茶釜石 馬頭観音 碓氷神社
庚申塔 二十二夜塔 不明の石塔

五料の茶屋本陣前を湘南色115系が通過する。信越本線“お東踏切”を渡り、高札場跡まで戻る。旧中山道を西へ進むと、すぐ左手に道祖神がある。信越本線の榎踏切を渡り、坂道を上る。踏切の排水溝の蓋には、横川駅〜軽井沢駅間で使用されたアブト式ラックレールが転用されている。すぐ左手に道祖神 / 左手に石塔群と元文5年(1740年)造立の青面金剛と続く。さらに右手の妙義山をバックに、馬頭観音 / 道祖神 / 地蔵 / 夜泣き地蔵と並んでいる。馬方が荷物のバランスを取るために地蔵の首を馬の背に乗せ、深谷辺りで捨てると首が夜な夜な「五料恋しや」と泣いたと云う。首を五料まで届け地蔵の胴に乗せたところ泣き止んだという。それから夜泣き地蔵と云う様になった。手前の道端に茶釜石がある。叩くと空の茶釜のような音がすることから名付けられた。小石で叩くと、その様な感じの音がする。すぐ右手に馬頭観音がある。信越本線沿いの道を進むと、線路の反対側にJAの建物が見えてくる。旧中山道はJAの建物脇の小道に通じていたが、線路で分断されている。線路沿いに進むと、右手に碓氷神社の鳥居がある。社殿へは急な石段を登る。碓氷峠・熊野神社の分霊を勧請したのが始まりと云われている。慶安年間(1648年〜1652年)熊野神社の里宮となる。鳥居の左手に寛政12年(1800年)造立の庚申塔と文化5年(1808年)造立の二十二夜塔、右手に不明の石塔がある。

消滅した旧中山道から続く道 町並み 道祖神
石塔群 道祖神 石祠群

碓氷神社から線路沿いに進み、道なりに信越本線の高墓踏切を渡る。18号線を横断して、小道を進む。小学校の前で消滅した旧中山道から続く道に突当り、右折して旧中山道を進む。5分ほどすると、18号線と合流する手前右手に石塔群がある。正面に道祖神、 右手に庚申塔 / 庚申塔 / 馬頭観音 / 不明の石塔 / 少し離れて道祖神と並んでいる。18号線との合流点、18号線と信越本線と挟まれたところに石祠群がある。

道祖神 百合若大臣の足痕石 地蔵
不明の石塔 古民家 横川駅

左折して18号線を進む。小山沢橋を渡ると、左手に道祖神がある。小山沢交差点から左の小道を進む。すぐと右手に、百合若大臣の足痕石 / 地蔵 / 不明の石塔と続く。百合若大臣の足痕石は、川向うの山を射抜こうとして後足を踏ん張った時のへこみと云われている。18号線と合流する。下横川交差点を右折して 第十五中山道踏切を渡り、道なりに左へ信越本線沿いに進む。道が平坦になり、横川の町に入る。下横川交差点から15分ほどすると“釜めしの萩野屋”があり、左折するとJR横川駅がある。信越本線は、かつて高崎駅から直江津駅を経由して新潟駅までを結んでいた。長野新幹線が開業、高崎駅〜横川駅 / 横川駅〜軽井沢駅間は廃線 / 軽井沢駅〜篠ノ井駅はしなの鉄道 / 篠ノ井駅〜新潟駅 と分断される。2011年にリニューアルされた駅舎の前に、日本最大の難所の横川駅〜軽井沢間で使用された機関車EF63の動輪が展示されている。