中山道69次 No.08 新町駅-(約15km)-高崎駅
2011年 6月26日(日)10:00 曇り
新町駅 弁財天 伊勢島神社 北向子育観音 閻魔堂 九品寺 倉賀野神社 安楽寺 高崎駅
旅篭高瀬屋跡 宝勝寺 弁財天
弁財天 芭蕉句碑 日本スリーデーマーチ発祥記念公園
JR高崎線・新町駅より北へ、17号線の新町駅前交差点を過ぎる。新町駅入口交差点左折して、旧中山道(178号線)を北西へ進む。すぐ左手に旅篭高瀬屋跡がある。旅篭高瀬屋は、小林一茶が文化7年(1810年)に宿泊した旅籠。川留で逗留していると,灯籠の建設費の寄進を強要される。幾度と断わったが根負けして,12文を寄付したと云われている。5分ほですると、左手に天文11年(1542)創建の宝勝寺がある。すぐに温井川に架かる弁天橋の手前左手に、天明3年(1783年)創建の弁財天がある。清水が湧き旅人の喉を潤したところで、芭蕉句碑「むすぶより はや歯にひびく いずみかな」は祠の手前左にある。祠の左右に、文字道祖神や庚申塔もある。橋の手前右手に、日本スリーデーマーチ発祥記念碑がある。
伊勢島神社 川端家住宅 信迎庵
弁天橋を渡り、すぐに右方向へ進む。5分ほどすると、右手に伊勢島神社がある。境内は庚申塔など石塔が多い。さらに5分ほどすると右手に、江戸後期の建物19棟が並ぶ川端家住宅がある。すぐ右手に、石塔が多い信迎庵がある。
旧中山道道標 旧中山道標識
信迎庵から5分ほどすると関越自動車道のトンネルを潜る。トンネルを出て、左方向へ道なりに進む。三菱鉛筆群馬工場付近で178号線と合流、右折する。すぐ右手に旧中山道道標がある。10分ほどすると、左手に堂がある。5分ほどすると旧中山道標識があるが、できれば間違い易いところに欲しい。
柳瀬橋からの烏川 烏川堤防(渡し場跡) 北向子育観音
  旧中山道を進み、中島バス停の先を右折する。突当りを左折、堤防沿いに進む。堤防に上がった右手辺りが、渡し場があったところ。西へ進み、烏川に架かる柳瀬橋を渡る。次の交差点を右折して坂を下ると、突当る道が旧中山道になる。右手の堤防辺りに渡し場があった。左折して復活した旧中山道を進む。突当りを左折する。坂を上る途中の左手に北向子育観音がある。坂を上り切ったところが岩鼻町信号交差点で、13号線と交差する。直進して次を右折すると、岩鼻公民館や観音寺がある。観音寺 には初代岩鼻代官・吉川栄左衛門の墓がある。
観音寺
中山道69次 12番 倉賀野宿
所在地:群馬県高崎市
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳
人口:2032人 本陣:1 脇本陣:2 旅籠:32
旧中山道を西へ進む。新柳瀬橋北交差点で17号線と交差する。直進して121号線の坂を上り、JR線高崎線の陸橋を越える。ここから倉賀野宿までは約1kmで、15分ほどすると右手に三叉路がある。日光例幣使(れいへいし)道の分岐点で、ここから倉賀野宿になる。日光例幣使道が分岐する地点であるとともに、烏川を利用した舟運搬の河岸で賑わった。宿は下町 / 中町 / 上町で成り立っていた。徳川家康の命日に行われる東照宮祭礼に、京都の朝廷から勅使が派遣されていた。正保4年(1647年)から慶応3年(1867年)までの221年間続けられていた。幣帛(神への供え物の総称)を運ぶことから例幣使、その通った道を例幣使道と呼んでいた。往路は中山道〜日光例幣道(倉賀野・楡木にれぎ)〜日光壬生道(楡木・今市)〜日光道、復路は日光道〜東海道を利用した。例幣使は禄高の低い公家でガラが悪く恐喝まがいの行為が目に余り、宿は相当迷惑したと云われている。籠を揺すって落ちては金銭を要求したために、“ゆする”の語源となったと云われている。
 閻魔堂 道標   常夜燈
  右手の三角地帯に、閻魔堂 / 道標 / 文化11年(1814年)造立の常夜燈がある。道標は正面に“是従 右 江戸道 左 日光道”裏面に“南無阿弥陀仏 亀湧水書”と彫られている。常夜燈は正面に“日光道” 右側面に“中山道” 左側面に“常夜燈”と彫られている。JR高崎線・倉賀野駅のスタンプは、この場所をイメージしたもの。昼食を摂る。
JR高崎線・倉賀野駅スタンプ
閻魔堂から旧中山道(121号線)を西へ進む。往時を偲ばせる家並みがところどころに残る。倉賀野駅交差点を右折して北へ進む。最初の道を右折すると、左手に宿場遊女の墓が残る九品寺がある。本堂は工事中であった。南北朝時代後期作と云われる善光寺三尊像がある。
古民家 九品寺
 
脇本陣跡 高札場
 
倉賀野神社 安楽寺 安楽寺古墳
中山道(121号線)に戻り西へ進むと、すぐ右手に脇本陣跡 / 復元された高札場と続く。5分ほどすると左手に倉賀野神社の石柱がある。左折して南へ進むと、右手に倉賀野神社がある。旧社名は飯玉(いいだま)神社で、明治43年(1910年)近隣の神社を合併して倉賀野神社に改称する。中山道に戻り西へ進むと、すぐ右手に天平3年(737年)創建の安楽寺がある。本尊は七仏薬師如来で、本堂裏にある古墳石室内の三方の壁面に貼られた七基の石仏。巳年に開帳される。古墳時代の末期に築造されたと云われている円墳は、破壊された状態となっている。 境内左手に、鎌倉時代末期〜南北時代前半の造立と云われる異形板碑が2基ある。将棋の駒形で厚みがある。
  安楽寺から旧中山道を渡り、南へ進む。案内看板を右折すると、突き当たりに馬頭観音 / 清水観音 / 宮原十一面観音が並んでいる。馬頭観音は、江戸初期に廃寺になった万福寺にあったと云われている。左手に永正13年(1516年)創建の林西寺山門がある。
馬頭観音 / 清水観音 / 宮原十一面観音  林西寺 
松並木 地蔵 旧中山道標識

上町西交差点辺りに木戸があったと云われ、倉賀野宿は終わる。 ここから高崎宿までの約4kmは、見所もない単調な道のりになる。旧中山道(121号線)の右側には、松が植えられている。松並木が終わると、右手に交通事故供養の地蔵がある。17号線を潜ると、和田多中交差点からは12号線となる。新後閑町交差点を直進して、134号線を進む。JR上越新幹線を潜り、上州電鉄の踏切を渡る。和田町交差点〜南町交差点と進む。道が北へ曲がる辺りから、高崎宿となる。

中山道69次 13番 高崎宿
所在地:群馬県高崎市
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳
人口:3235人 家数:837 本陣:0 脇本陣:0 旅籠:15

慶長2年(1597年)井伊直政が築城、町造りが行われた。城下町は、物資の集散地 / 商業の町として中山道随一の繁栄を誇った。参勤交代にも利用された三国(みくに)街道が分岐していた。宿場の機能としては貧弱で、城下町のため大名も宿泊を避けた。
中山道は、あら町交差点を直進する。左折するとすぐ右手に、慶応4年(1599年)創建の新町諏訪神社がある。右折すると、突き当たりにJR高崎駅がある。
諏訪神社
寄り道
興禅寺 向雲寺 龍廣寺

あら町交差点の手前、新田町交差点を左折して26号線を西へ進む。すぐ右手に治承元年(1177年)創建と云われている興禅寺の山門と地蔵堂がある。和田城主・和田信耀が再興、菩提寺とした寺。山門を潜ると、小さな公園があり道を渡ると興禅寺がある。興禅寺前を西へ進み、すぐに十字路を右折すると左手に向雲寺がある。改修工事中で、本堂はシートに覆われている。十字路に戻り、直進して南へ進む。26号線と交差、右折して南西へ進む。17号線の聖石橋交差点の手前右手に、慶長2年(1597年)創建の龍廣寺がある。明治37年(1905年)日露戦争のロシア軍捕虜10名が収容されていた。傷病兵3名の兵士が亡くなり、境内にあった陸軍墓地に埋葬された。

聖石橋交差点を右折して17号線を北西へ進むと、すぐ右手に元禄11年(1698年)創建の頼政神社がある。元禄8年(1695年)転封した松平(大河内)輝貞が、祖先・源頼政を祀って創建。宝永7年(1710年)輝貞は越後村上に転封、社も移される。享保2年(1717年)高崎に再転封され、社も現在地に移される。源頼政は、平安末期に摂津源家に生まれた武将・歌人。保元、平治の乱に功を立てる。以仁王を奉じて平氏の追討を図るが、治承4年(1180年)宇治平等院で自刃する。
頼政神社
高崎城乾櫓 高崎城東門 玉田寺
頼政神社の北側は高崎公園、高崎市役所の東側が城址公園になる。堀沿いに北へ進むと、左手に乾櫓や移築された東門がある。正長元年(1426年)和田義信が和田山城を築城する。天正18年(1590年)小田原合戦のとき落城、和田氏は滅亡する。慶長2年(1597年)井伊直政は和田城跡に築城する。碓井川と烏川の合流点の台地にあり、三の丸外郭の土塁と堀が残る。乾櫓から堀沿いに北へ5分ほど進むと、右手に永正元年(1504年)創建の玉田寺がある。