中山道69次 No.01 日本橋-(約16km)-JR戸田公園駅
2010年11月21日(日)09:30 晴のち曇り
元標の広場 日本国道路元標の複製 店舗のシャッター
日本橋北西側の“元標(げんぴょう)の広場”から出発する。基点となる“日本国道路元標”は、日本橋の車道中央に埋め込まれている。“元標の広場”には“日本国道路元標”の複製と、移設された“東京市道路元標”がある。中山道は日本橋から国道17号線を進む。
日本橋橋洗い
日本橋銘板洗い
日本橋橋洗い 日本国道路元標
日本橋橋洗いは、日本橋の美化保存を目的に行われている。近隣の小学生 / 日本橋地区の町内会 / 地元企業 などの方々が、デッキブラシなどで日本橋を手洗いする。水洗いには再生水が利用されている。首都高に架かる「日本橋」の銘板は、消防のはしご車の放水で洗い流す。普段は近寄れない本物の“道路元標”を見ることができる。日本橋の北側の交差点から南側の交差点間、通行止めになる。20016年は、7月24日(土)に行われた。
十軒店跡の説明板 今川橋跡説明板 鍛冶参説明板
中央線ガード下 万世橋駅跡 中山道案内板

日本橋から10分ほどすると左手に十軒店跡説明板がある。本石町2・3丁目と本町2・3丁目に挟まれた両側町で、町名は江戸時代初期に商家が十軒あったことに由来するとされる。室町4丁目交差点を過ぎると、左手に昭和25年(1950年)に埋め立てられた龍閑川に掛っていた今川橋跡説明板がある。当時地元の名主・今川善右衛門から名付けられたと云われている。“今川焼”は、今川橋付近の店で売り出されたことに由来する。5分ほどするとJR神田駅があり、中央線のガード下を潜る。5分ほどすると左手に鍛冶参説明板がある。すぐに須田町交差点で靖国通りを交差する。万世橋を渡る手前左手に、万世橋駅跡がある。万世橋を渡ると、万世橋交差点の南西側に中山道案内板があり左折する。

湯島聖堂 孔子像 絵馬

昌平橋交差点を右折する。神田明神下交差点を左折して坂を登ると、左手に湯島聖堂がある。万世橋から10分ほどである。湯島聖堂は、元禄時代(1688年〜1703年)に5代将軍徳川綱吉によって建立された孔子廟である。大成殿と改称、付属する建物を含めて聖堂と呼ぶようになった。世界で一番大きい孔子像があり、大型の絵馬が重なりあっている。

神田神社楼門 神田神社拝殿 記念撮影用のボード

右手には天平2年(730年)創建の神田神社がある。神田明神として知られている。“銭形平次捕物控”の主人公・銭形平次が神田明神下の長屋に住居を構えていた設定から、境内には“銭形平次の碑”や“記念撮影用のボード”がある。銭形平次は架空の人物。

[寄り道]湯島天満宮
湯島聖堂前交差点を右折して10分ほどで、突き当たりに雄略天皇2年(458年)創建と云われる湯島天満宮がある。いつも学問成就を願う人で賑わっている。社殿の廻りには、絵馬が幾絵にも重なりあっている。
湯島天満宮 湯島天満宮絵馬
中山道を進む。湯島聖堂前交差点から15分ほどすると、254号線(春日通り)と本郷3丁目交差点で交差する。交差点を越えてすぐ左折すると、左手に寛文10年(1670年)建立と云われる本郷薬師堂がある。次を右折すると、右手の墓地入口に享保5年(1720年)造立の十一面観音がある。双方とも、世田谷に移転した真光寺の境内だったところである。道を戻り右折して西へ進むと、左手に櫻木神社がある。正面は春日通りになっている。
本郷薬師参道
本郷薬師 十一面観音 櫻木神社

中山道に戻り北に進む。すぐに左折して菊坂を北西に進む。5分足らずの変則十字路を右折して坂を登る。すぐ右手に“第四(本妙寺)校跡”“本妙寺跡と明暦の大火”案内板がある。
本妙寺は元亀2年(1572年)遠州曳馬(現:浜松市)に創建されたのが始まり。天正18年(1590年)徳川家康の関東移封のとき、江戸城清水御門内礫川町に移転した。以降3回の移転を経て寛永13年(1636年)、本郷丸山(東京都文京区本郷)に移転して約270年続いた。明治41年(1908年)から3年掛かりで豊島区巣鴨5丁目の地に移転した。

本妙寺跡

明暦3年(1657年)明暦の大火は、本郷 / 小石川 / 麹町 の3ヶ所から連続的に発生した。本郷・本妙寺の失火は、3人の娘の死去に関わる振袖を焼いて供養したことが原因とされる。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、風が吹き荒れて火のついた振袖は空に舞い上がった。大屋根を覆った炎は突風に煽られ燃え拡がり、江戸の町を焼き尽くす大火となった。この伝承が振袖火事の別名の由来にもなっている。

中山道を進むと、すぐ左手に“見送り坂・見返り坂”説明板がある。本郷3丁目交差点から東大の赤門までは、僅かな下りと上りになっている。加賀前田家上屋敷(現東大構内)から小川が流れ、橋が架けられていた。江戸を追放された者は、この橋で放たれたことから“別れの橋”と呼ばれていた。手前の坂で親類縁者が見送ったことから見送り坂、追放された者が振り返りながら去って行ったことから見返り坂と云われていた。

見送り坂・見返り坂説明板
東大赤門 東大正門 東大農正門
中山道の東側を進むと、東大赤門 / 東大正門 / 東大農正門 と続く。赤門は、加賀前田家上屋敷の御守殿門で重文。11代将軍徳川家斉の溶姫(やすひめ)が12代藩主前田斉泰に嫁入りした文政10年(1827年)に建立された。
法真寺 喜福寿寺 飲み屋に店先
“見送り坂・見返り坂”説明板から中山道の西側を進むと、寛永10年(1633年)創建の法真寺 / 喜福寿寺と続く。飲み屋に店先に、干乾びた魚が飾られている。
[寄り道]根津神社
正行寺 浩妙寺 浄心寺
根津神社が楼門 根津神社が唐門 根津神社が拝殿

言問通りと交差する本郷弥生交差点を過ぎ、中山道は次の交差点を左折して旧白山通りを進む。左折しないで直進すると、左手に正行寺 / 右手に浩妙寺がある。正行寺にあった元禄15年(1702年)造立のとうがらし地蔵は戦災で焼失、現在の地蔵は再建されたもの。向丘交差点を過ぎると右手に元和2年(1612年)創建の浄心寺がある。向丘交差点を右折すると、右手に根津神社がある。根津権現とも呼ばれ、日本武尊が1900年近く前に創建したと云われている。社殿は5代将軍徳川綱吉が宝永3年(1706年)建立したもで、楼門 / 西門 / 唐門 / 拝殿 / 幣殿 / 本殿 は重文。

言問通りと交差する本郷弥生交差点を過ぎ、中山道は次の交差点を左折して旧白山通りを進む。すぐ右手に追分一里塚跡説明板がある。日光御成街道(旧岩槻街道)との分岐点で、中山道最初の一里塚があったところ。日光御成街道は江戸時代に整備された日光街道の脇街道で、将軍が日光東照宮へ参内するときに利用された。幸手宿(埼玉県幸手市)で日光街道と合流する。岩槻藩の参勤交代に使われたことから、岩槻街道とも呼ばれていた。
追分一里塚跡
[寄り道]八百屋お七の墓
八百屋お七地蔵堂 八百屋お七の墓
追分一里塚跡から10分ほどすると、右手に大円寺石柱が見える。50mほど手前の交差点を左折して坂を下ると、右手に円乗寺がある。天正9年(1581年)本郷に密蔵院として創建され、元和6年(1620年)円乗寺と改称、寛永8年(1631年)現在地に移転した。 入口に八百屋お七地蔵堂 / 参道を進むと本堂手前左手に八百屋お七の墓 がある。3基あり、左側は近所の有志 / 中央は住職 / 右側は寛政年間(1789年〜1801年)岩井半四郎 が造立したもの。
本堂は令和元年(2019年)10月に近代的な建物になった。令和3年(2021年)12月に訪れたとき、入口にあった八百屋お七地蔵堂はなくなっていた。
円乗寺本堂
大円寺山門 焙烙地蔵
中山道に戻り北に進むと、すぐ右手に大円寺がある。慶長2年(1597年)神田柳原に創建、慶安2年(1649年)現在地に移転した。天和2年(1682年)天和の大火で火あぶりの刑となった八百屋お七の罪業を救うために、享保4年(1719年)造立の焙烙(ほうろく)地蔵がある。熱した焙烙を頭にかぶり、灼熱の苦しみを受けた地蔵とされている。頭痛 / 眼病 / 耳 / 鼻 など首から上の病気を治すと云われている。地蔵の左右に、庚申塔3基が並んでいる。
大円寺本堂

八百屋お七に関しては諸説がある。お七の生家は、駒込追分片町で有数の八百屋であった。元和2年(1682年)近くの大円寺塔頭・大竜庵から出火、隅田川を越え深川まで延焼した。お七の家も焼け、家族は菩提寺の円乗寺に避難した。円乗寺に仮寓していた小姓・小堀左門と恋仲なる。小堀左門は頭脳明晰、目を見張る美男子であったと云う。小姓・山田佐兵衛 / 吉三 / 葺二郎 などの説もある。やがて再建された家に戻ったが、小堀左門と会いたい一心で自宅に火をつけた。吉三郎にそそのかされて放火した説 / 小姓・山田佐兵衛と吉三郎は同人物との説 もある。幸い大火に至らなかったが、お七は放火の大罪で捕らえられた。天和3年(1683年)千住小塚原において、16歳で火あぶりの刑に処せられた。鈴ヶ森で処刑されたとも云われている。燃えさかる火の中で黒こげとなって焼死したお七の遺体は、見せしめのために3日3晩さらされていたと云う。

大円寺から10分ほどすると、白山上交差点の北西側に慶長5年(1600年)創建の妙清寺がある。
妙清寺
10分ほどすると白山通りと合流、すぐに千石1丁目交差点で不忍通りと交差する。戸田橋まで9kmの表示がある。
[寄り道]六義園
千石1丁目交差点を右折すると、左手に六義園がある。六義園は、5代将軍徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が下屋敷として造営した大名庭園である。都立庭園になっている。
六義園内庭大門 六義園
[参考]身代わり地蔵
江戸六地蔵 真性寺

千石1丁目交差点から20分ほどすると、右手にJR巣鴨駅がある。西側の商店街を進むと、左手に真性寺がある。本堂手前左手に正徳4年(1714年)造立の六地蔵の一つがあり、線香が絶えない。平成20年8月より平成22年5月まで修理に出されており、縮小した身代わり地蔵が置かれていた。六地蔵は五地蔵が残る。一番東海道・品川寺 / 二番甲州街道・太宗寺 / 三番中山道・真性寺 / 四番奥州街道・東禅寺 / 五番水戸街道・霊巌寺 / 六番千葉街道・永代寺(廃寺・現存せず)となっていた。

巣鴨地蔵通り商店街 車止め 商店
高岩寺山門 高岩寺本堂 高岩寺洗い観音

お年寄りの原宿で知られている巣鴨地蔵通り商店街を進むと、右手に慶長元年(1596年)創建の高岩寺がある。とげぬき地蔵の通称で知られている。境内左手に洗い観音があり、行列が絶えない。とげぬき地蔵と勘違いしている人も多い。とげぬき地蔵は秘仏で、見ることはできない。

庚申塚 猿田彦神社 石碑に彫られた江戸名所図会
地蔵通り商店街を進むと、王子道と庚申塚交差点で交差する。北東側角に庚申塚がある。文亀3年(1502年)造立の庚申塔があったところ。この塚に埋められたとも云われている。江戸時代は中山道の立場として栄え、旅人の休憩所として茶店もあったところ。天保年間(1830年〜1843年)刊行の“江戸名所図会”には、賑やかな様子が描かれている。現在は明治初期に千葉県銚子市の猿田神社から勧請した猿田彦を祀る神社になっている。すぐに都電荒川線庚申塚停留所と踏切がある。
[寄り道]染井霊園 / 本妙寺 / 西方寺 / 正法院
東側の17号線沿いの右手奥に、わが国初の公営の公共墓地として明治7年(1874年)に開設された染井霊園がある。園内には約100本のソメイヨシノがあり、発祥の地と云われている。岡倉天心 / 下岡蓮杖 / 高村光太郎 / 高村智恵子 / 二葉亭四迷 など、著名人の墓がある。下岡蓮杖(しもおか れんじょう)は、 文政6年(1823年)伊豆下田の回船判問屋・桜田家の三男として生まれる。安政3年(1856年)下田で、オランダ人通訳のヒュースケンから写真術を学ぶ。新撰組局長・近藤勇の写真は下岡蓮杖が撮影したと云われている。上野彦馬とともに日本における商業写真の開祖と云われている。蓮根の杖をいつも愛用していた事から、蓮杖と号する。大正3年(1914年)に92歳で亡くなる。
染井霊園・下岡蓮杖墓

染井霊園を東西に横切る道を西に進むと、右手に本妙寺がある。明治41年(1908年)から3年掛かりで本郷丸山(東京都文京区本郷)から移転した。本郷丸山にあった頃、明暦3年(1657年)明暦の大火(振袖火事)の火元の一つと云われている。

本妙寺
17号線を進み都電荒川線を越えると、右手に西方寺と天平2年(730年)創建の正法院がある。
西方寺 正法院
近藤勇・土方歳三供養塔 永倉新八墓 近藤勇墓石
左折してJR板橋駅へ進むと、左手に寿徳寺境外墓地がある。新撰組局長・近藤勇は流山で捕えられ、慶応4年(1868年)4月25日板橋刑場で処刑された。首は京都の三条河原で梟首されるが、胴体はこの地に埋葬される。後に近藤の家族が掘り起こし、近藤家の菩提寺に移している。近藤勇墓石は胴体が埋葬されたときのもの。新撰組隊士だった永倉新八により明治9年(1876年)建立された四角柱の供養塔には、正面に近藤勇と土方歳三 / 左右の面には新撰組隊士の名が刻まれている。永倉新八の墓には、遺髪などが埋葬されている。
[参考]新撰組流山陣屋跡
新選組は慶応4年(1868年)4月1日夜、200名余で流山へ移動した。流山では醸造家長岡屋を本陣として、光明院 / 流山寺 などに分宿していた。4月3日西軍の先鋒隊に包囲され、近藤勇は捕えられる。
新撰組流山陣屋跡
中山道69次 01番 板橋宿
所在地:東京都板橋区
家数:573 本陣:1 脇本陣:3 旅籠:54
板橋宿イラスト 観明寺 庚申塔
遍照寺 遍照寺石塔群 板橋
中山道板橋宿上宿石柱 榎大六天神社 縁切榎絵馬

JR埼京線の踏切を越える。17号線と首都高速中央環状線の高架下を斜めに横切ると、右手に暦応元年(1338年)創建と云われる観明寺がある。境内入口にある寛文元年(1661年)造立の庚申塔は、青面金剛像が彫られているものとしては都内最古とされる。5分ほどすると、右手に遍照寺、参道左手の石塔群に寛政10年(1798年)造立の馬頭観音がある。10分ほどすると石神井川に架かる板橋を渡る。すぐ右手に中山道板橋宿上宿石柱がある。板橋宿は中山道1番目の宿場で、平尾宿・中宿・上宿に分かれていた。天保14年(1843年)には、人口2448人 / 家数573軒となっていた。すぐ右手に縁切榎、奥に榎大六天神社がある。絵馬が奉納されているが、怖い内容が書かれている絵馬もある。

石像 氷川神社 南蔵院
志村一里塚

縁切榎から環状7号線を潜り、20分ほどすると右手に不気味な石像がある。右折するとすぐ左手に氷川神社 / 中山道を進むとすぐ右手に南蔵院と続く。南蔵院の境内には、不動堂や地蔵堂がある。10分ほどすると 両側に志村一里塚がある。都内で一里塚が完全な状態で残るのは、ここと北区の西ヶ原一里塚だけになっている。

志村坂上交差点先のに交番から、左へ進む。清水坂を進むと、左手に馬頭観音がある。坂を下り切る手前左手に清水坂道標がある。
馬頭観音 清水坂道標
右折して北へ進む。坂の下は、板橋宿・蕨宿間の“合の宿”があったところ。中山道は17号線と311号線を横切る様に通っていた。311号線との交差点北東側の道を進む。10分ほどすると、17号線と合流する。中山道は志村坂下交差点付近から17号線の東側を通っていたが、荒川まで途切れ途切れとなっている。17号線を進むと、30分ほどで荒川を渡る。川岸1丁目交差点の北西側に、案内板がある。川岸1丁目交差点を横断、右折して階段を降りる。信号のある交差点手前を左折する。ここから中山道が復活する。
すぐ右手に地蔵堂 / 左手に中山道案内板と続く。地蔵堂の軒に正徳3年(1713年)銘の半鐘、境内に享保16年(1731年)造立の庚申塔などがある。菖蒲川に突き当り、右折して川岸橋を渡る。68号線と交差、中山道は直進する。左折して西へ進むと、戸田公園駅に至る。
地蔵堂 庚申塔