1964年東京オリンピック
1964年10月10日〜24日、東京オリンピックが開催された。開会式がテレビ中継されており、ブルーインパレスが国立競技場上空で五輪を描いていた。中野の自宅から自転車で追いかけている。会期中は、サインを求めて選手村をたびたび訪れている。銅メダルを取った選手がいたが、残念ながらサイン帳は行方不明となっている。東京都中野区立第二中学校二年生のときで、学校によるオリンピック観戦があった。画像は最終日の馬術を見学に行ったときのもの。
画像は手札サイズのプリントをスキャンしたものである。ハーフサイズのキヤノンダイヤル35と思うが、ネガは残っておらず正確には判らない。
   
1985年台湾撮影ツアー(成田空港→福岡空港→羽田空港)
1985年3月22日(金)〜25日(月)3泊4日のオリンパスカメラクラブ台湾撮影ツアーが開催された。講師は故・松田二三男先生と児島昭雄先生で、オリンパスペンの開発で知られる故・桜井栄一さんも参加されていた。
成田空港に集合、機内へ乗り込む。機内は満席で3人分の座席は別れたところにあった。別れたところの窓側から勝又さん・小崎さん、通路側にでぶ猫が座る。勝又さんと小崎さんはオリンパスカメラクラブ東京支部会員である。以前から忘れ物が多い小崎さんが飛行機を降りる際、チェックするためでもあった。
出発前より小崎さんは上機嫌で、待ち時間にコークハイを数杯飲んでいた。成田空港を飛び立ち、機内食となる。かなりのボリュームがあった。
しばらくして右隣の小崎さんが「うっ…」と声を詰まらせる。見ると顔色が悪い。問いかけても反応しないので、スチュアーデスに知らせに行く。搭乗しているかも知れない医者に、機内アナウンスがされる。4人の医者が搭乗していた。処置をしてもらうが、既に死亡していた様である。
飛行機は奄美大島上空で、アジア航空機長の判断で福岡空港に緊急着陸することになる。誰かが遺体に付き添う必要があり、でぶ猫が降りることになる。旅行会社の添乗員が降りては、以降の行動ができなくなってしまう。
燃料の補給中に旅行会社の添乗員の方が福岡支店へ連絡する。でぶ猫は所属していた新宿オリンパスフォトプラザとオリンパス福岡支店に連絡を入れる。
飛行機は燃料を補給して、台湾へ飛び立って行った。でぶ猫は空港警察で遺体とともに待たされる。次に博多警察署に行くことになる。案内された場所の近くでは、拳銃の点検をしている方もいる。悪いことはしていないが緊張する。死亡原因や事件性がないかを、機内で処置にあたった医者のメモから確認している様である。
旅行会社の福岡支店の方がご遺族に連絡、福岡に親戚があることが判り遺体を安置することになる。オリンパス福岡支店の方、夕刻には新宿オリンパスフォトプラザから上司も駆けつける。遺体の安置が終わり一段落したら、上司とも宿や着替えがないことに気付く。でぶ猫の荷物は台湾に行ってしまっている。着替えを調達、ホテルを予約する。
翌日、福岡空港から遺体を乗せた飛行機で羽田空港へ向う。地元の新聞には、この事が小さく掲載されていた。羽田空港の貨物取り扱い場所から、遺体をご遺族の自宅まで搬送してもらう。
24日(日)通夜、25日(月)告別式であった。通夜には、オリンパスカメラクラブ東京支部会員の方々が撮影会後に来ていただいた。さすがに落ち込んでいたが、故・中村由信先生から「お前はB型だから、2週間もすれば大丈夫。」と言われた。B型の根拠はないと思ったが、その通りであった。
25日、オリンパスカメラクラブ台湾撮影ツアーの帰国を成田空港まで出迎えに行く。台湾の税関倉庫に保管されていた荷物を受け取る。お土産をいただき、お気遣いに感激する。
福岡空港から台湾へ飛び立った飛行機内では、遅れたことによる苦情が相次いだ様である。台北からの乗り継ぎができなかった方もいた様である。不慮の事故とは言え、勝又さんが代表して陳謝したと伺っている。
台湾撮影ツアー初日の夕食が湿っぽくなり。講師の故・松田二三男先生と児島昭雄先生が拭き晴らそうと苦労されたと伺っている。
でぶ猫は、成田空港→福岡空港→羽田空港の経路となった。成田空港から出国している。福岡空港での処理は、帰国ではなく出国取り消しであった。当時のパスポートには“VOID”の印が押されている。故・松田二三男先生のパスポートには溢れんばかりの記載があるが、さすがに“VOID”はない。妙に羨ましがっていた感じがした。しばらくは撮影会や写真教室のたびに、このときの処理をクイズにしていた。
2005年クリーニング店で台湾旅行が当たるが、用事で行けなくなる。台湾は鬼門なのかも知れない。